日韓併合の一場面
残念なことに途中から見たので詳しいことは書けないが、NHKのファミリーヒストリー番組でフォークグループとして一時代を築いたチューリップの代表・財津和夫(昭和23年生まれ)の祖父の代からの歴史を紹介していた(画像は父母の苦労話に改めて涙する財津和夫)。
祖父は民平と言い、明治の初めに福岡県で生まれ、併合された朝鮮に渡り、息子の国平(財津和夫の父)は農業を手広く経営した。父・国平は熊本から同じように朝鮮に渡って農業に従事していた娘(母)と知り合い結婚し、和夫には兄が4人生まれたが、上の二人は幼いうちに亡くなっている。
終戦後は何もかも手放して福岡県福岡市に引き上げ、そのころ当たり前だった引揚者を対象とした開拓事業に入り、ほどなくして近くにあった米軍のキャンプ地から出る「残飯」を集めて養豚事業を始めて軌道に乗りかかった。
しかし開拓農場に博多競輪場が造られることになって土地を手放し、今度は食堂を始めることになったそうだ。(上の写真はその食堂でのもの。昭和31年。)
結構繁盛したようだが、財津和夫は地元でフォークグループを結成後の4,5年後には東京に出ることになった。そのことを父母には内緒にしていたようで、出て行く当日に東京行きを告げたという。
そんな昔を思い出して涙をこらえきれなかったのだろう。
しかしこのヒストリーの中で、朝鮮半島で農場経営をする際に、二人の朝鮮人(当時は日本人だった)を雇い、家族同様に毎日を暮らしたことや、終戦で本土に引き上げるときにはそのうちの一人にすべてを託して来たというのには驚く(金品は持ち出せたが、土地や家屋は無償で手放すほかなかったのだろう)。
その二人の朝鮮人の子供や孫も探し当てたが、財津家の農場と家屋を引き継いだ人には1男4女がおり、うち生存している4人姉妹は口々に「財津さんの残してくれた家と農地があったので生活に困らずに育った。ありがたいと思う。ぜひ財津さんの子供たちに会いたい」と言っていた。
極めつけは財津家で一緒に働いていた人の後を引き継いだ長男(故人)が、水墨画家に頼んで描いてもらったという当時の財津家の農場と家屋の絵であった。
それほどまでにして財津家との良き思い出を残しておこうとした故人にもだが、朝鮮の地で温かい交流を持った財津家の人々にエールを送りたい。
財津和夫の母は老人ホームで亡くなったようだが、死ぬまで朝鮮での良き思い出に浸っていたらしい。所望する歌はアリランだったそうだ。
台湾と朝鮮はかって日本の領土だったことがあるが、台湾人は今でも日本の統治を感謝している人が多い。
その一方で朝鮮人はどうも一筋縄ではいかない。朴槿恵大統領の妹のように「日本の統治は悪くなかった」という人も出てきているが、多くは「挺身隊=従軍慰安婦」というような間違った情報に振り回されている。
日本人の中には食い詰めて朝鮮に渡り、悪事に手を染める者もいたのだが、大方の日本人渡航者は多かれ少なかれ財津家のような交流を持っていた。そんなことが垣間見られたファミリーヒストリーであった。
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