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謹賀新年(2017)

 当ブログを見に来てくれるみなさん、明けましておめでとうございます。

 平成も29年目に入り天皇陛下の「生前退位」が日程に上りましたが、皇太子徳仁殿下がしかるべき時期に高御座に就かれ、無事に皇位を継がれることを日本国民として、また一世界市民として願いたいと思います。

 何といっても日本は少なくとも奈良時代の初めに天皇制の律令法治国家を形成してからかれこれ1300年余、全国津々浦々にわたる米作りとともに世界に名だたる文化国家としての歩みを続けてきました。


 幕末以降は欧米列強の世界分割競争の中に投げ入れられ維新運動を起こすことで世を一新し、不平等条約を結ばされたことに苦慮しながら「欧米何するものぞ」の気概を奮い立たせ、「敵を知らずんば始まらない」といわゆる脱亜入欧により欧米の文明文化をどん欲に取り入れて「富国強兵」に成功し、日清戦争勝利によって治外法権の撤廃を、日露戦争勝利によって関税自主権を勝ち取って、欧米列強と肩を並べるまでになったのです。

 しかしながら欧米の有色民族差別は根強く、日本が国際連盟設立前夜のヴェルサイユ条約制定に付随する会議において全権副使(大使は西園寺公望)の牧野伸顕が「人種差別撤廃案」を主張して会議場の採決で賛成多数であったにもかかわらずその会議の議長であったアメリカのウィルソンは「全会一致でなければ採択しない」と言い張って反故にしてしまいました。


 アメリカは当時、リンカーンの奴隷解放宣言によりアフリカ黒人の売買はしていなかったのですが、南部では特に黒人は農奴として基本的人権の枠外にあったので、すべての人種を平等にするなどもってのほかだったわけです。怒って帰ってしまったウィルソンもですが、アメリカ議会も「そんなことを主張する日本人が加盟する国際連盟には加盟しない」と、自分で立ち上げようとした国際連盟にそっぽを向いたのです。

 その後、アメリカは反日に大きく舵を切り始め、同じ年(1920年)の11月にはカリフォルニア州で「排日土地法」(カリフォルニアには日本人移民で農業者が多かった)を制定して日本人農業者への土地の売買斡旋を禁じ、実質的に日本人を締め出しました。


 国家間でもワシントン会議(1921年)では日本の軍艦の数を制限し、ロンドン軍縮会議(1930年)でも同様に日本の軍事力を規制しています。これらに通底するのは有色(黄色)人種へのあからさまな警戒感なのです。


 何しろ日本でいえば江戸時代末期頃にアジア各国には欧米列強が次々に進出して植民地とするか、または各国と不平等条約を結び、いわばやりたい放題をして来たわけですが、日本に来てそれにブレーキがかかった。日本では江戸幕府は鎖国政策と言いながらも長崎の出島で対オランダ交易をしており、欧米の文明については予備知識があったので、そう易々とは欧米に飲み込まれはしなかった。

 しかしそれでも不平等条約は結ばされてしまった。いわゆる黒船4隻による「脅し外交」の前に幕府は苦渋の選択をせざるを得なかったが、これを不満とする国論と幕府に抑圧されてきた外様大名の藩士が中心となって倒幕運動にまで発展し、ついに江戸幕府は幕を下ろしたわけです。

 明治維新とは何も幕府対志士による単なる国内的な革命劇ではなく、いかに素早く国家を衣替えさせアジアに進出してくる欧米列強に対抗できるか――が極めて大きな運動だったのです。

 そして富国強兵を維新後の30年ほどで成し遂げ、不平等条約締結後約40年で治外法権の撤廃と関税自主権の獲得に至ったことは上で述べたとおりです。

 このことから鑑みるに、戦後70年、いかに日本が敗れたからといっていまだに「日米安全保障条約」「日米地位協定」を結んで戦勝国アメリカの言いなりになっているのは全くおかしなことです。明治維新の元勲たちはじめ、多くの明治の人々は泉下で泣いているに違いありません。

 今年を日米安全保障条約を基軸とする日米同盟の撤廃元年としたいのは私だけだろうか?

 

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