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西郷どん(せごどん)終焉の地

 鹿児島市内に用事があったついでに、これまで行ったことのなかった「西郷隆盛終焉の地」を訪れた。

 西郷の生まれた場所は何回も行っており、また西南戦争最末期の明治10年9月に宮崎から郷里の城山に戻った際にしばらく過ごした「西郷洞窟」もかなり昔だが訪れている。
 
 だが、洞窟を出た直後に官軍側から発射された鉄砲の弾が太ももに当たり、動けなくなった西郷が行動を共にしていた別府晋介に介錯を頼んでこの世を離れた場所にはまだ行ったことがなかった。

 その場所は西郷洞窟から直線距離にして300メートルくらいな所で、城山行きのバスで「西郷洞窟前」で降りたらそのままバス道を戻り、最初の信号を突っ切って左手に高層マンション「anabuki](穴吹工務店の所有か)を2棟見送って数十メートル下った左側にある。

 すぐ下を日豊本線が走っており、線路を渡る踏切のたもとといった位置具合である。

 幅の広い石段が10段ほど、階段を上がったところに「西郷隆盛終焉の地」(昭和49年建立)の木柱が立つ。
約5メートル奥に御影石の碑が立ち、木柱とは違い「南洲翁終焉地」と親しみの込められた文字が刻まれている。

 西郷どんの終焉の日は明治10年(1877年)9月24日。死亡時刻は午前7時ころ。亮年、満49歳。(注)文政10(1827)年の12月7日生まれなので、単純に引き算して50歳としている本もあるが、文政10年12月7日は太陽暦で1828年1月23日なので、満年齢では49歳と8か月となる。

 同じ頃、官軍に突撃していった桐野利秋や村田新八も戦死。

 西郷どんの首級は下僕が隠したので見つからなかったという説もあったが、実際には見つかっている。

 波瀾に満ち満ちた西郷どんの生涯はこの洞窟近くの岩崎谷で終わるが、生まれも同じ鹿児島城下の加治屋町であるから、「人間、至るところ青山(せいざん=終焉地・墓所)あり」といえども死を郷里で迎えたのは幸いというべきか。

 翌年の5月14日朝、政府へ出仕の途中、維新時代の盟友大久保利通は紀尾井坂で斬られて絶命したが、大久保の墓は青山墓地にある。大久保はまさにこの格言を地で行ったわけである。

 大久保利通も維新から新政府で十分に活躍したのだが、西郷どんが鹿児島で今なお他を寄せ付けず圧倒的な存在感を得ているのは、天下無双の全国を股にかけて活躍した英雄なのに生地と終焉地が同じ場所であるという親近感が相乗しているに違いあるまい。

 

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