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核廃絶賢人会議

 広島県選出の衆議院議員で外務大臣だった岸田文雄氏の肝入りで立ち上げられたという「核廃絶賢人会議」が開かれている。

 去年の四月に開催されたG7伊勢志摩サミットで、外相会議の出席者がそろって平和公園の被爆記念塔に献花し、そのあとオバマ前大統領が米国大統領として初めて広島を訪れ同様に献花し演説したことは記憶に新しい。

 オバマ前大統領は欧州訪問の途中、プラハで「核廃絶宣言」を出しているが、今回の核廃絶賢人会議はその趣旨に沿ったものだろうか?

 7月の国連で「核兵器禁止条約」の会議にも採択にもアメリカを忖度して参加しなかった日本が、今回は「核保有国と非核保有国との間の橋渡しをして、核の廃絶に向かう道筋をつけたい」との思惑で招集をかけたということだが、案内を受けた非核保有国の中には疑問を呈する向きもあったようだ。

 というのも日本の立場はダブルスタンダードだからだ。

 アメリカという核保有国の持つ「核抑止力」(核の傘の下)が日本の安全を保障しているからそのアメリカの核を禁止してしまう条約は結べない――という日米安全保障条約を結んでいることによる結論が一つのスタンダード。

 もう一つは「日本は世界で唯一の被爆国であり、その非人道的な悲惨さを味わったがゆえ、二度と核兵器が使用されてはならないので、核の廃絶を目指す」――との被爆国の立場からくるスタンダード。

 後者のスタンダードを導いたのは「唯一の被爆国」ということで、その原爆を落としたのはアメリカだ。戦時国際法違反の非戦闘員を狙った非人道兵器原子爆弾の投下を実行したのは二国間軍事同盟を結んでいる相手国アメリカなのだ。

 非核保有国の中にはこの不可解な二国間同盟にも首をかしげる人たちが多かろう。

 反米的なアラブ人の間では「日本はなぜ残忍な仕打ちをしたアメリカに復讐しないのか?」といぶかる向きもあくらい原爆を落として無辜の国民を数十万人も殺したアメリカと、逆にがっちり手を結び「アメリカの軍事力で守ってもらった方が安上がりだから日米安全保障は必要だ」とのたもう評論家には開いた口が塞がらないだろう。

 新大統領トランプはそのあたりの経緯を知ってか知らずか、「日本が攻撃された時にアメリカが軍隊を出して助けるが、逆に我が国が攻撃されても日本は助けに来ない。こんな片務的な同盟関係があるか!」と率直に言い、「日本が助けに来ないのなら、日本は自分で北朝鮮の脅威に対処しろ、そのためにはアメリカから兵器をもっと購入せよ!」とまで言っている。

 こんなダブルスタンダードはもう廃棄するに限る。日米同盟は解消しないと、いつまでたっても日本は独自の外交力を発揮できない。それどころか米軍および武器商人の「おらが勝手な世界戦略」に巻き込まれていくことになる。

 日米同盟を解消して、多くの国との緩い同盟関係(非軍事的ネットワーク)を構築しよう。その前提としての「専守防衛力を保持した(武装した)永世中立国」を宣言しよう。

 核廃絶も核兵器禁止も、そうした上でリードするのなら、日本の果たす役割が世界の多くの国から所望されるだろう。

 

 

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吾平四滝

 鹿屋市吾平町をながれる姶良川の上流部は浸食された花崗岩の山肌に4つの大きな滝がある。吾平町の山奥に位置する神野地区の最奥に大川内神社(祭神は吾平津比売・ヒコホホデミ命他)があるが、その神社の前を行く「大川林道」を上って約1.5キロで最初の滝(杖立ての滝)に達する。

 下から杖立ての滝、一本松の滝、特攻の滝、おしどりの滝と名付けられ、どれもが大隅半島の成因である「大隅花崗岩」を浸食し残した巨大な一枚岩を流れ下っており、涼味溢れる滝の連続である。ただし、落ちる滝ではない。

 一番下の標高の低い杖立ての滝の名の由来は「昔から山仕事の人々がここで杖を立てて休息の場としたから」のようで、たしかに林道からは30メートルも下ればよく、容易に乾いたのどを潤すことができる。
 二段に分かれ、第一段がツイストしているのが面白い。比高にして20mはあるだろう。

 二番目の一本松の滝は杖立ての滝から林道を800メートル上がった所にある。
 てっぺんに小さな島のように見える叢林があり、そこに一本の大きな黒松が生えていたので付けられた名のようであるが、今は黒松の巨木はない。
 その代り「巨岩」が途方もない。いくら水の勢いが強く浸食絶え間なしといえども、滝の水はただただその巨岩を洗ってあげているだけかのようである。

 三番目は特攻の滝で、戦時中に特攻機(説明版では飛行機とだけしてある)が上部に墜落したのでそう名付けられたらしい。この滝もべらぼうな花崗岩の巨石が見物だ。

 四番目は「おしどりの滝」で、「冬になるとオシドリが番いで飛来し、羽を休めるから」こう名付けられたという。羽を休めるだけならいいが、この滝つぼでは餌になる魚はまずいないだろうから住み着くのは無理だろう。
 この滝だけはきれいに三段に分かれており、第一段が最も高くて14~5m、二段目は3mほど、三段目は5m、総比高にして23~4mだろうか。
 一段目の滝と二段目の滝の間には確かにおしどりが住み着いてもおかしくない広さのプールがある(ホームページ『鴨着く島おおすみ』に写真あり)。

 面白いのは、二番目・三番目・四番目の三滝は実は連続しているといってもよく、もしドローンを飛ばして川筋を上から撮影してみたら、400メートル位にわたって連続した巨岩の間を縫って落ちる一本の滝に見えるだろう。総比高(標高差)はおそらく100mを超えるのではないか。

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初霜(2017.11.21)

 今朝の最低気温はマイナス1℃で、初めての霜が下りた。

 ほぼ無風で空は快晴、大陸からの冷気を伴った高気圧が県内を覆っていた。

 庭に出てみると、プランターに植え付けたばかりの葉ボタンや路地植えのイチゴの葉に真っ白な霜が載っていた(ホームページ『鴨着く島おおすみ』に写真あり)。

 去年よりは一週間ほど早く、晴天も去年より多い。

 こうなるとモミジの葉の色付きも鮮やかだろうと期待される。

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両陛下与論島などをご訪問

 天皇皇后両陛下が11月15日から2泊3日で屋久島・与論・沖永良部島へのご訪問をされた。

 特に与論島・沖永良部島へは初めてのご訪問で、島民の大歓迎を受けられた。

 与論島では郷土の伝統芸能である「与論十五夜踊り」をご覧になった(ホームページ『鴨着く島おおすみ』のトップページにその時の写真を載せた)。

 平成天皇は即位以来、植樹祭等の行事を含めて日本各地を訪問されているが、このご訪問で日本各地を二巡されたことになるという。

 平成天皇が「退位についてのお言葉」を公表された時に、こういった日本の隅々にまで足を延ばされてそれぞれの郷土で住民が絶え間なく、生活はもとより、伝統的な行事や災害復興に助け合いながら取り組む姿を陰に陽に励ましてきたと述べられた。

 与論島という鹿児島でも最南端の小さな島まで回られたのは、昔の言葉で言う「やすみしし大君」を髣髴とさせる。

 「やすみしし」は漢字で書けば「八隅知し」で、「国内の隅々まで知っている」という意味で、最高の施政者に与えられた一種の義務感である(客観的に言えば統治能力である。だが、朝鮮半島の王様(ロケットマン)が一見して各地を訪問して民に拍手で迎えられているが、その実は自分の領域であるピョンヤン宮殿にすべての良いもの(富・軍事力・科学技術)を一方的に蓄えているのとは天と地の開きがある)。

 「やすみしし」という言葉が使われた(文書化された)最初のものは、古事記のヤマトタケルの下り(景行天皇記)の中で、尾張のミヤズヒメがタケルに対して「たかひかる ひのみこ やすみしし わがおおきみ」と歌ったのがそれだろう。

 万葉集では「やすみしし」が多くの長歌で使われている。最高の宮廷歌人と言われた柿本人麻呂の長歌はとくに有名である。

 「すべてのどんなに小さなことでも知っている。心に留める」というのが、日の御子である天皇に課せられた使命(みこともち)なのだということを今回の天皇皇后両陛下で改めて思わされ、そのことは少なくとも万葉集の時代すなわち奈良時代から連綿と続いている天皇の理想の姿でもあったのだ。

 

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トランプ外遊と北朝鮮問題

 アメリカ大統領トランプの初のアジア外遊が終わり、安倍首相も帰国した。

 去年の今頃、大方の予想を覆してアメリカ大統領に決まったトランプの元へ真っ先にトランプタワーにはせ参じたのが安倍首相だったのは記憶に新しい。その際にトランプの長女イヴァンカ(現大統領補佐官)にいたく気に入られたとかで、今回の彼女の日本訪問では格別のおもてなしをした。

 それもそうだろう、行政経験の全くない初のアメリカ大統領として父親が当選し、成ったはいいが右も左もわからないトランプ一家にとって、最上の同盟国日本の代表が駆けつけて祝福してくれたわけだからうれしかったに違いないのだ。

 娘のお気に入りは父親にとっても喜ばしい相手で、トランプは安倍首相に非常に親近感を抱いていることは間違いない。

 しかしそのことと日米関係の本質とはまた別の話だ。

 トランプは日本では「武器を買え」「自動車を買え」、中国では「航空機を買え」というような商談を成約するのがメインだったようで、中国では28兆円という規模の話をまとめたようである。

 こっちへ来てからはむしろ北朝鮮への挑発的な言動は避けていたきらいがあるが、安倍首相は「虎の威を借りるキツネ」よろしく、どのスピーチでも「北朝鮮へ最大の圧力をかけよう」とがなり立てていた。

 トランプは拉致被害者の家族とも面談したが、トランプに拉致問題を解決してくれなどというのは無理な話で、面談後の記者会見で家族会の誰もが「圧力だ、制裁だと息巻いても、北朝鮮との間に入って拉致問題の解決を誰かがやってくれないと意味がない」というようなことを述べていたが、その役割こそが安倍首相の立ち位置ではないか。 

 かって小泉首相が北朝鮮を訪問し、金正日と歴史的な会見をして拉致問題を認めさせて被害者の一部を日本に戻したわけだが、そのおぜん立てをしたのが当時官房副長官だったいまの安倍首相である。

 西郷さんが頑なに開国(国交樹立)を拒む朝鮮に対して特使として説得にあたろうとしたことがあった(遣韓論)が、西郷さんは命を捨てる覚悟で行こうとした。安倍首相に同じことを望むのは無理な話だろうが、せめてそのくらいの根回しはしておいたほうが良かったと思う。

 例えば、中国に対して「自分が交渉にあたるからセッティングをして欲しい」というような申し入れをしておけば、仮に軍事的な解決がアメリカの既定路線だとしても、「日本は最後の最後まで平和裏の解決を望んでいた」と評価されるだろう。

 それが、まるで虎の威を借りるキツネよろしく、アメリカの軍事路線を追認するような「北朝鮮に最大限の圧力を、制裁を」の一点張りでは、「やはり日本はアメリカの言い成りなのだ」との国際的評価で終わってしまうだろう。

 

 

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宮下相撲大会(鹿屋市吾平町)

 先日(10月29日)の敬老会が108回目だった鹿屋市吾平町で、今度は119回目を数えるという「宮下相撲大会」が開催された。

 現在の鹿屋市吾平町は平成18年(2006年)の合併前は単独で肝属郡吾平町であったが、この町はいろいろな行事が昔のまま残されているという点では貴重な地域である。

 敬老会が明治42年に始められて戦前戦後を通じて今日まで継続しているし、10月8日に行われた「町民運動会」は全町を挙げての体育祭で、今日、「校区運動会」で各町内会が参加しているところはあっても全町という規模で催されている所は他聞しない。

 それだけまとまりの良い町なのだろう。その理由を考えてみると、この町はど真ん中を姶良川が流れてコメ作りに適した地域であることが何といっても大きい。コメ作りは共同作業の積み重ねで、一人だけ突出してというわけにはいかない。

 土地柄も大隅半島に特有のシラス台地を四周に抱えてはいるが、姶良川の浸食・堆積作用で火山灰の持つ酸性土壌が比較的改善されていて、大隅半島全体から見ればコメの単収も悪くはない方であろう。

 この地味を目指して、藩政時代には地味の悪い薩摩半島から政策的にこちらへの移住策がすすめられた。これを「人配」(じんぱい・にんべ)というが、吾平町全体で四軒に一軒はよそからの移住者だと聞いたことがある。

 こういう新住民は団結して耕地を拓き耕して今日があるわけで、そういう共同作業によってなお一層土地を絆とするまとまりが促進されたに違いない。

 
 さて、今日行われた「宮下相撲大会」は、明治31(1898)年に町場で大火があり、それの鎮火・防災を祈念して始まったそうである。

 「宮下」と冠せられたのは、もとは旧役場の隣りにある「鵜戸神社」の境内で行われたのでそう名付けられたわけだが、今日は吾平振興会館隣りの相撲場(屋根付き土俵)で行われ、同時に「農業祭」も開かれていてずいぶんにぎわっている。

 吾平町誌によると、旧暦10月15日には現在の鵜戸神社の場所にあった「姶良若宮八幡」の例祭日で、旧暦に直せば11月後半、当時は「ホゼ祭り」とも言われた秋の収穫祭でもあり、流鏑馬も催されたそうである。

 その際におそらく剣道や柔道、相撲なども奉納されたのではないかと思われ、明治になって姶良八幡宮が南へ3キロほどの中福良へ移転されて田中八幡神社となり、代わってそこへ吾平山陵近くに鎮座していた「鵜戸神社」が移設されると、それまで行われていた流鏑馬をはじめとする各奉納行事が廃れた。

 大火が発生したのは旧姶良八幡宮時代には行われていたそういった神事が廃されたのが原因ではないか、というような声が上がり、せめて相撲だけでも復活をということで再興された行事ではないかという気がする。これはあくまでも推論だが、そう考えておかしくはない。

 そもそも明治になって天孫三代目のウガヤフキアエズ命の御廟として吾平山陵が内務省によって確定されると、御廟の近くにあった「鵜戸神社」が参拝に遠すぎるということで市街地に移設されたのだが、そこは旧姶良若宮八幡が昔から祭られていた場所であった。

 この若宮八幡(現在の田中八幡社)は島津庄を拓いて摂関家に寄贈した平季基の弟の平良宗が自分の拓いた姶良庄を鹿児島正八幡宮へ寄進したがゆえに建立したもので、1046年ごろのことであるから、実に由緒のある古い神社である。

 隣り町の高山四十九所神社の流鏑馬行事は1100年頃から催されていたらしいが、ここでもその頃から行われていた可能性が考えられるのではないだろうか。

 ※ホームページ『鴨着く島おおすみ』のブログ入口に掲載したのは宮下相撲大会の「赤ちゃんの土俵入り」を写したものである。

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上野三碑

 上野三碑が世界記憶遺産に登録されたという。

 上野(こうずけ)とは群馬県のことで、三つとも高崎市にあり、古い順に「山上碑」「多胡碑」「金井沢碑」が見つかっている。(※以下の内容は高崎市の公式ホームページによる。)

 このうち「多胡碑(たごひ)」は歴史教科書には必ず記載されている。

 当地に新しく「多胡郡」が誕生したいきさつが端正な楷書漢文で刻まれた石碑で、刻字の中に「和銅4年」が出てくるため西暦711年頃の建立であろうとされる。

 奈良時代に入ったばかりの頃で、奈良の都周辺でもほとんど石碑のない時代であり、おそらく朝鮮半島からの渡来人がその知識と技術をもって刻んだであろうとされている。

 しかし、同じ上野三碑で最も古い681年建立の「山上碑(やまのうえひ)」(追善供養の碑)に刻まれた漢字は漢文ではなく、和漢文(漢字を借りた和文」である。

 681年と言えば白村江戦争で敗れた百済系の官民が大挙して列島に渡来し、近江を中心に関東まで流れて来たと考えられるが、もし百済人がこれを建立したのであれば純粋な漢文を使いそうなものであるが、どうして和漢文なのであろうか?

 このことから百済では(ほかの南部の伽耶・新羅も)和文(倭語)が普遍的に使われていたのではないかという推理が成り立つ。そうすると百済を含む半島南部では倭語(口語)が公用語であった、つまり倭人が支配層であった可能性を考えなくてはなるまい。

 681年からわずか20年後に「大宝律令」が完成し、それ以降は大陸(唐)の法治(律・令)を取り入れて口語から文語(要するに官僚による布告・通達文)が列島を席巻し始め、公文書はすべて漢文でなければならなくなったゆえに、「山上碑」に見られるような「和漢文」は影を潜めてしまったのであろう。

 これに似た運命をたどったのが『古事記』である。

 『古事記』の完成は712年なので、「多胡碑」の1年あとであり、「多胡碑」がもうすでに純粋の漢文で刻まれているように、当時は『古事記』のような和漢文的な用法は「時代遅れの古臭いもの」として避けられ、編纂された712年以降に読まれたり解釈されたりすることが極めて少なくなり、ようやく中世に復古神道が叫ばれるようになってからリバイバルされたのである。

 それでも、その内容から「偽書ではないか」という疑いがなかなか晴れることがなかったわけだが、昭和47年だったか、奈良市近郊の茶畑で編纂者の太安万侶の墓が墓誌とともに発見されて偽書の汚名は返上されたという経緯がある。

 三つ目の「金井沢碑」は726年(神亀6年)の建立で、仏教の普及の様子が書かれているそうである。

 これらの三つの碑は奈良時代の初期までに刻まれており、内容も当時の歴史的な流動がよくうかがい知れるということで今回の世界記憶遺産登録となった。

 因みに、現存する古代石碑は18例あり、もっとも古いのは京都府の「宇治橋碑」(646年)だが、この群馬県高崎市の三碑はすべて古例に属している。府県別では奈良県に五碑、熊本県に四碑、京都府・栃木県・滋賀県・徳島県・宮城県に各一碑、そして群馬県はもう一つが桐生市にあり、五碑で、都合18碑となっている。

 

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