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上野三碑

 上野三碑が世界記憶遺産に登録されたという。

 上野(こうずけ)とは群馬県のことで、三つとも高崎市にあり、古い順に「山上碑」「多胡碑」「金井沢碑」が見つかっている。(※以下の内容は高崎市の公式ホームページによる。)

 このうち「多胡碑(たごひ)」は歴史教科書には必ず記載されている。

 当地に新しく「多胡郡」が誕生したいきさつが端正な楷書漢文で刻まれた石碑で、刻字の中に「和銅4年」が出てくるため西暦711年頃の建立であろうとされる。

 奈良時代に入ったばかりの頃で、奈良の都周辺でもほとんど石碑のない時代であり、おそらく朝鮮半島からの渡来人がその知識と技術をもって刻んだであろうとされている。

 しかし、同じ上野三碑で最も古い681年建立の「山上碑(やまのうえひ)」(追善供養の碑)に刻まれた漢字は漢文ではなく、和漢文(漢字を借りた和文」である。

 681年と言えば白村江戦争で敗れた百済系の官民が大挙して列島に渡来し、近江を中心に関東まで流れて来たと考えられるが、もし百済人がこれを建立したのであれば純粋な漢文を使いそうなものであるが、どうして和漢文なのであろうか?

 このことから百済では(ほかの南部の伽耶・新羅も)和文(倭語)が普遍的に使われていたのではないかという推理が成り立つ。そうすると百済を含む半島南部では倭語(口語)が公用語であった、つまり倭人が支配層であった可能性を考えなくてはなるまい。

 681年からわずか20年後に「大宝律令」が完成し、それ以降は大陸(唐)の法治(律・令)を取り入れて口語から文語(要するに官僚による布告・通達文)が列島を席巻し始め、公文書はすべて漢文でなければならなくなったゆえに、「山上碑」に見られるような「和漢文」は影を潜めてしまったのであろう。

 これに似た運命をたどったのが『古事記』である。

 『古事記』の完成は712年なので、「多胡碑」の1年あとであり、「多胡碑」がもうすでに純粋の漢文で刻まれているように、当時は『古事記』のような和漢文的な用法は「時代遅れの古臭いもの」として避けられ、編纂された712年以降に読まれたり解釈されたりすることが極めて少なくなり、ようやく中世に復古神道が叫ばれるようになってからリバイバルされたのである。

 それでも、その内容から「偽書ではないか」という疑いがなかなか晴れることがなかったわけだが、昭和47年だったか、奈良市近郊の茶畑で編纂者の太安万侶の墓が墓誌とともに発見されて偽書の汚名は返上されたという経緯がある。

 三つ目の「金井沢碑」は726年(神亀6年)の建立で、仏教の普及の様子が書かれているそうである。

 これらの三つの碑は奈良時代の初期までに刻まれており、内容も当時の歴史的な流動がよくうかがい知れるということで今回の世界記憶遺産登録となった。

 因みに、現存する古代石碑は18例あり、もっとも古いのは京都府の「宇治橋碑」(646年)だが、この群馬県高崎市の三碑はすべて古例に属している。府県別では奈良県に五碑、熊本県に四碑、京都府・栃木県・滋賀県・徳島県・宮城県に各一碑、そして群馬県はもう一つが桐生市にあり、五碑で、都合18碑となっている。

 

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