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美作(津山市)と大隅

 岡山に住む息子の長女が小学校に、次女が幼稚園に入るというのでお祝い方々三泊四日で出かけた。

 息子の所の住所は浅口市でかっての備中国に属するが、もともとは吉備国から備前・備中・備後の三つに分かれたものである。

 ところが吉備国が三つに分かれるより遙かに昔の和銅6年(713年)に古吉備国から分立した国があった。それが「美作(みまさか)国」である。

 実はこの美作国が古吉備国から分割された同じ時に、鹿児島と宮崎を併せた広大な古日向国から独立したのが「大隅国」なのであった。(これともう一つの国「丹後国」も同時に丹波国から分立しているが、以上の三ヶ国建国のことは『続日本紀』の和銅6年4月3日の条に記されているので史実として100パーセント間違いないことである。)

 さて、岡山に出かける前に、向こうにいる間に序に見物しておきたい場所として「岡山城・後楽園」と「津山城」、それから行きか帰りかに「尾道」に立ち寄ることを計画し、調べていたら滅法面白い事実が浮かんできた。

 それは津山について調べている時の事、津山の秋の祭りを別名で「だんじり祭り」と呼ぶことがあるが、このだんじりは市内の三つの神社の境内から曳き出されるらしいが、神社名とそれぞれの神社の御祭神を見てびっくりしてしまった。

 三つの神社とは「徳守神社」「高野神社」「大隅神社」の三社であるが、まず大隅神社という社名に驚いたのである。

 大隅神社の御祭神は「オオナムチ・コトシロヌシ」で出雲系の神様だということが分かるが、何故に「大隅神社」と名が付いたものであろうか? 創建は和銅年間で、美作国建国時代と同じであるから、おそらくその時に出雲から勧請したのだろうが、それなら「出雲神社」とか「出雲明神」とするのが順当というものだ。

 津山市の城東地区に鎮座する大隅神社を訪れたが、境内に由緒書きされた立て看板の類は全くなく、残念ながら確かめようがなかった。創建はやはり和銅年間のことらしいのだが・・・。

 徳守神社は津山市の宗廟で、訪れてその社殿の大きさで納得するが、ご祭神は「オオヒルメムチ」である。伊勢神宮の地方版といった待遇の神社であり、この神社を中心にだんじり(秋)祭りが施行されている。

 最後の「高野神社」は「たかの神社」と呼ばれているが、本当は音読みで「こうや」「かうや」と言って来たらしい。ここの御祭神が「ウガヤフキアエズ」と知った時は、さきの「大隅神社」という社名に驚いた以上に驚いてしまった。吾平町の「鵜戸神社」そのものではないか!

 これは何か因縁があるに違いないと思う他なかった。

 この美作二宮と呼ばれる高野神社の創建は上記の二社よりもっと古く、安閑天皇の2年(西暦534年)だそうで、さらにその創建の前から「(神社発祥の地は)吉井川原のおのころ岩と伝えられます。遠い祖先はここを磐境として敬虔な祭祀を行っていたものと思われます。」というように、『高野神社略誌』には書かれている。

 おのころ岩は伊邪那岐・伊邪那美時代つまり神代の話なので話半分に受け取るしかないが、そのくらい古くから敬虔な祈りが捧げられてきたということを強調したかったのだろう。

 大隅神社といい、高野神社の祭神ウガヤフキアエズといい、同時期に行われた大隅国建国との関係を思わざるを得ないが、いったいどう理解して良いものやら。

 次のようなストーリーはどうか?

 まず、高野神社の創建の安閑天皇2年には、九州から中国・四国・近畿・関東の上毛国にまで26か所の屯倉(みやけ)が置かれたと日本書紀にあるが、美作国が属したと考えられる「吉備後国」では5つの屯倉が設置されている。

 津山市に該当する屯倉がどれかは分からないが、この時に朝鮮半島南部の「カヤ」から移住してきた人々(半島倭人)が、その屯倉に定着した。そこで彼らがわが祖先「ウガヤフキアエズ」を祭った。上で触れたように「高野」はもともと「こうや」あるいは「かうや」と呼ばれていたのであれば、「かや」の転訛と考えられなくもないではないか・・・。

 大隅神社の方は、和銅6年(713年)に大隅国が朝廷側の圧力のもとある種の強制力を伴って、つまり武力的な衝突が勃発した際に、敗れた大隅隼人の集団が逃げ延びて同じ頃に建国された美作国に入った。そしてそこで祭祀の場所として社を創建した。それが「大隅神社」なのかもしれない。

 古来、大隅や薩摩にはいわゆる「落人」が多い。物部守屋も落ちて来たという伝承があり、垂水には宇喜多秀家が来ている。また谷山には秀吉の子・秀頼の来住伝説が残る。

 最大の落人伝説は何といっても安徳天皇だが、このように都方面からの落人ばかりが取り上げられる一方で、、逆に南九州から北へ落ち延びたケースは無いのか。一つ疑問を呈しておこう。

 津山市は人口が10万余りで、吉井川という大きな川がその中心を流れている風光明媚な町である。かってはこの川を利用した水運が盛んだったそうで、瀬戸内からの物資の搬入、こちらからの米・木炭などの搬出に欠かせなかった。

 こうした水運を支える船頭(水手=かこ)衆の祖先に南九州から朝鮮半島を往来していた鴨族がいたのかもしれない。そう思うと親近感が湧いてくる。

 ※ホームページ『鴨着く島おおすみ』のトップページに「高野神社案内看板」の写真を掲載した。

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