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15年を経た我が家

 平成15年の4月に鹿屋市池園町に家を建ててから丸15年が経った。

 このあたり一帯に採卵用の鶏舎があり、そこが倒産したので差し押さえられて競売にかけられたのを、とある不動産会社が購入し、宅地として造成して売りに出したのを買ったのが、この土地である。

 前年の11月に契約し、家の方は12月中に設計を済ませて地鎮祭を行ってから基礎工事が始まり、翌1月から建築工事にかかり、3月20日ごろに完成した。

 その頃はまさに一大畑地帯の一軒家で風当たりが強く、3月末に引っ越してからはシラスを土地造成に使用してある我が家の庭から巻き上がるシラスホコリで難渋したものだ。

 何しろ大ぶりの窓ガラスにこびりつく砂ホコリのひどいこと、業を煮やして砂利会社に大型ダンプカー1台分の砂利を依頼し、庭のど真ん中にザ―ッと降ろしてもらった。

 それから建物以外の更地という更地に一輪車を使い、一日かけて厚さ5センチ程度に敷き詰めた。

 そうしたら効果覿面で、その後は窓の汚れが気になることはなくなった。


 あれからすでに15年、二人の子供は巣立ってそれぞれの家庭を営み始めている。

 夫婦二人になり、猫一匹、犬一匹を伴に過ごす日々。

 庭もようやく8年生、10年生の見ごたえのある樹木や草花、菜園が日常の中に溶け込むようになって来た。


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皇居への外国人ツアー

 朝早くのNHKニュースで、宮内庁によると最近多くなってきている外国人の皇居参観の便宜のために英語のガイドをつけたツアーを受け入れることと、来年1月からは皇居に外国語の音声案内を設置するようだ、と報じていた。

 外国人観光客の増加がここまで波及してきたかと感慨深いが、皇居は最寄りの東京駅から歩いて行ける距離であり、かつ都心の一等地にありながら広々とした緑の空間が何とも贅沢でもあるから、日本人ならずとも訪れてほっと一息つける場所である。

 ましてやここに日本のエンペラー一家がお住まいとあっては、外国人にとっては興味津々だろう。平成天皇は美智子皇后とともによく海外に行かれているので、国際的にも関心の的になっている。観光目的とは言え、自分の国には存在しないエンペラーへの関心は高いと思う。


 ここで気になるのが、英語ガイドが皇居をどう説明するかだ。

 というのは、おそらく、東京の皇居に天皇ご一家がお住まいなら、有名な「京都御所」には誰が住んでいるのか、とか、どうして皇居が二か所に分かれているのか、などという疑問が外国人からぶつけられてくるかもしれないからだ。

 日本人でも若い人は多分知らないだろうが、明治維新まで天皇のお住まいと言えば「京都御所」だったのだが、維新後に明治天皇が東行して江戸城に入られ、そのまま居住されて「皇居」となったのである(東京奠都)。

 最初に大久保利通が主張したのが「大坂奠都」であったが、前島密が反対して東京への御幸が実現し、それが結果として「東京奠都」になり、今日まで150年弱続いている。

 東京でも「江戸城」だったのは、間違いなく徳川政権への面当て、つまり江戸幕府のお取り潰しを誰の目にも分かるようにした「倒幕のフィナーレ」だった。別言すれば「江戸幕府を征服した証し」だったわけである。

 ここまでは外国人もなるほどと了解するだろうが、さて「京都御所」の方である。

 「天皇が居住しないままの御所をなぜそのままにしておくのか?」という疑問がわくに違いない。

 昭和天皇の即位の御大典(昭和3年)では京都御所が使われたが、現天皇は京都御所を使われなかったので、上の疑問はますます強くなる。


 私見では江戸城という旧幕政の心臓部だった所に天皇が居住する(王政復古)という役割はとっくに終わっているのだから、京都御所に再びお住まいになる(還都)というのが最も良い形、伝統だろうと思う。

 京都は世界遺産であり、「千年の都(平安京)」である。平らかで安らかな統治を願った世界でも稀な長期にわたる都であった。

 この伝統を引き継ぐ還都こそ日本に必要で、訪日外国人もそのことに安らぎを得るはずである。

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吾平神野の春

 鹿屋市吾平町の神野地区は5年前に神野小学校が閉校となり、鹿屋市内で過疎化が最も進んだ地域だ。

 現有の人口は160人くらいで、高齢化率も優に50パーセントは越えている。

 三昔前はこのような地域では「田園まさに蕪(あれ)なんとす」の危惧の対象であったが、今は「集落営農」という考え方と、機械化のおかげで、何とか集落の田がが荒れてしまうのは避けられている。

 集落営農と言っても明確に組合的な農業法人のようなものを設立して運営しているわけではなく、「困った時はお互いさま」というような伝統的な考え方に基づいているわけで、もうこれ以上の過疎化はないだろうという一種の諦観にも似た共通の思いが人々のモチベーションになっている。

 過疎化の行きつく先は「集落崩壊」などという空恐ろしい論調も見られる昨今だが、この神野地区はそんなつまらぬ知性をやんわりと跳ね返す力を秘めているように見受けられる。


 天気が二日続き、2月の10日前後から始まったスギ花粉の飛散と、それに引き続くヒノキ花粉の飛散もほぼ終息したので、久しぶりにマスクを外して吾平郊外の森林地帯を訪れてみた。

 吾平自然公園に行ってみると「土日祝日のみ営業」とあり、例の「ウォーターパール館」は見られなかったが、圧倒的な新緑の中を歩き、すぐ近くを流れる清流・姶良川のせせらぎを聞くことができた。

 公園の中には楠・椎・カエデなどの樹間にシャクナゲが植えられている。残念ながら花を5つ6つ付け残しただけで大方は盛りを過ぎていた。ただ一株の高さ1メートルにも満たない若いシャクナゲがまだ満開の余韻を残しており、そこに二匹のマルハナバチがせわしそうに花から花へ飛び回っていた。

 公園を出てほんの少し上流に走ると道路の左手は広い田んぼ地帯だ。

 まだ田植えして10日くらいしかたっていないような田がずうっと広がり、向こうに見える吾平富士こと中岳(677m)が田面に影を写していた。吹く風はじつに爽やかである。

 こんな風景は永遠に残してほしいものだ。(※ホームページ『鴨着く島おおすみ』のトップページに写真あり)

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葉桜の吉野山と大阪造幣局

 仲間8人と『吉野千本桜と大阪造幣局通り抜け』というツアーに参加した。

 志布志港発のフェリーさんふらわあに乗って行く船中二泊のいわゆる「弾丸ツアー」である。

 往路と復路に全く同じフェリーきりしまを使用するので、ツアー客のほかに一般客が乗らなければツアー客によるチャーター船だが、そういうわけにはいかない。

 一般乗客の中にはトラックの運転手や乗用車・バイクの人がいるが、たいていは前者のトラック便が多いようだ。

 鹿児島から大阪まで高速道路を利用したら15~6時間はかかるし、高速道料金もそれなりに高額だから、ほぼ同じ時間で大阪まで来ることのできるこのフェリーはまさに「寝ている間に大阪に着いてしまう」ので楽で重宝だ。

 往路も復路も天候に問題はなかったのに、どちらも30分から1時間の遅れが出た。往路の1時間遅れは痛かった。おかげで吉野山の滞在時間が1時間半になってしまった。

 そのうえ今年の桜は開花が例年より早く、吉野山でも下千本は完全に葉桜となっていた。中千本まで足を延ばすには1時間時間が足らない――ということで肝心の「花の吉野山」は見ることができなかった。

 国宝の蔵王堂と山門あたりまでで歩き終えたのはちょっと残念だったが、雰囲気は味わえたし、下千本駐車場からの遊歩道沿いからは下千本の桜が遠くの稜線まで連なっている様子がよくわかった。

 また、意外にも紅葉の古木が多く連なり、今年は紅葉の新緑も早いとのことで、諸処に見事な並木となって実に眼福、かつ、さわやかこの上なかった。

 西行がここに庵を結び3年ほどを過ごしたとされるが、その時の歌

  【吉野山 木末の花を見し日より 心は身にも添はずなりにき】

 というほどの桜の咲きそろった光景を想像しながら下山した。皆、お土産をたくさん手に持って。


 大阪造幣局の『通り抜け』は、今年は11日から17日の一週間だったので、12日はどんぴしゃり。こちらは満開だった。

 360本ほどある桜はすべて八重桜で、枝垂桜というのはここにはないが、ぼってりと豪華に花開いた八重の花びらの重さで、まるですべてが枝垂桜かと見まごうほどだ。

 造幣局の建つ土地は旧津藩(藤堂藩)の大阪屋敷跡で、母方の曽祖父の代まで藤堂藩の家老職にあった川喜田氏の家来だったと聞いているのでやや感慨はあった。

 藤堂藩大阪屋敷跡などという標柱か何かあるのかどうかは確認できなかったが、もう何もないのだろう。


 ここから大川を挟んで向こうにそびえる太閤秀吉創建の大坂城は徳川氏が勝利を収めたあとは取り壊され、石垣から何から何まで10年かけて造作し直したそうで、それも明治維新時の争乱の中で壊滅し、昭和天皇の御大典(即位式=昭和3年)を記念して府民の寄付によって三代目が造られた。

 いま見える城はその際に最初の城を模した日本で初の鉄筋コンクリート製なので、歴史的価値は著しく劣るが、大阪らしい進取の気性が思われる。

 それはそれで、都心のど真ん中にある「大阪城公園」は市民・府民にとって貴重な憩いの場所になっている。

 大阪城は上町台地の北の先端部で、ここには昔、仁徳天皇の「難波高津宮」があったと言われ、淀川に臨んだ要衝の地であった。また大化の改新(乙巳の変)の時の女帝・皇極天皇の弟の孝徳天皇の営んだ「難波長柄豊碕宮」は大阪城のすぐ南・法円坂町にあったとされる。

 その他にも天武天皇時代と聖武天皇時代にも難波に行宮が造られたが、いずれもこの辺りに建設されたとされる。とにかく難波というとこの辺り一帯がその中心だった。今は「森ノ宮」なる地名に面影を残している。

  
 天候には恵まれ、暑からず寒からずの旅行日和だった。船中二泊も夜はおいしいバイキング料理で酒も弾んで楽しかった。

 フェリーさんふらわあでは5月に一隻、夏にもう一隻の新造船が就航するという。皆は新造船にも乗ってみたいというので、秋になったらまた利用するという案も出ている。どうなることか。

 

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女人禁制

 京都府舞鶴市で大相撲の地方巡業が行われた際に、開会のあいさつに土俵上に上がって話をしていた舞鶴市長が突然倒れ(後で判明したが、くも膜下出血だった)、見兼ねた女性の看護師が土俵上に上がって心臓マッサージをしていたところ、主催者側の行司がマイクで、「女性は土俵から下りてください」を連呼して問題になった。

 「人命救助なんだから女性は上がるなというのがおかしい」「こういうことがあるから、今後は女人禁制の伝統も見直すべきだ」

 という意見が多いようである。

 軍配は「女性だから土俵に上がってはいけない」という相撲協会側よりも、「女人禁制は見直すべきだ」の意見の方に上がりそうだ。

 私も見直し派だが、そもそも男でも相撲を取らないのに土俵上に上がるのはおかしい――という考えなので、後者の考え方に似てはいるが、実は大きく違う。

 土俵でも特に俵の内側というのは「聖域」である。何のための聖域なのか。それは「相撲という神事」が行われる場所だからである。

 相撲が神事という一例は毎年9月9日に催される「上加茂神社の烏(からす)相撲」に見ることができる。そこで行われるのは子ども相撲で、神々と最も近いのが子どもだから神事に参加できるのは子どもと決まっている。

 また鹿児島県の知覧町で仲秋に行われる「ソラヨイ」という子ども相撲(相撲は取らないで、円陣を組んで「そらよい、そらよい」と言いながら緩やかに、回るだけの所作)が行われる。

 かって相撲は神々との饗宴(豊作祈願と豊作御礼)でもあった。その主役は汚れを知らず神々と親しい子どもたちだった。

 日本大相撲協会の目指す「大相撲」も「相撲の節会=神事としての相撲」という側面を濃厚に持っている。この面だけを強調すれば、女人禁制が伝統であろう。
 
 (※しかし、今や日本国籍を持たない諸外国からの力士が大活躍している時代なのだから、もはや「伝統を守ろう」もへったくれもない気がする。)

 土俵の中に、力士は多量の塩を撒いてから取り組みを行うが、それは土俵内は相撲という神事を行う場所であるから塩によって清めているのである。

 そうであるのならば、たとえ総理大臣でも、心身が清められていない限り土俵上に上がることは不可であろう。つまり「女性は不浄だから土俵という聖域に上がってはいけない」のなら、清められていない男も上がってはいけないことになる。

 その筋を通すのなら、今後は男女を問わず、たとえ「表彰式」でも力士及び行事等の相撲関係者以外の土俵上への入場を禁止すべきではないか。

 ある政治家が言うように、これからは女性の総理大臣が生まれる可能性もあるのだから、女性は土俵に上がれないでは困ることになろう。

 この矛盾を解決するには表彰式に総理や賞品を手渡すスポンサーなどの出番の時には、土俵と同じ高さの「朝礼台」のようなものを土俵の横に設置して力士を表彰するようにしたらよい

 また地方巡業でも同様に横付けに設置して、開催地の首長はその上に立って挨拶をすればよい。これなら女性の首長も納得できるだろう。

 

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鯉のぼり

 去年の4月末に生まれた初の男孫を祝って、今年は5月5日の一か月前に鯉のぼりを立てた。

 立てたはいいが、今日はあいにくの雨で、しかも西風がかなり強かったので上げることを見合わせていた。

 しかし夕方になって晴れ間が見えたので、吹き流しだけでもとポールに取り付けてしばらくしたら、夕日が赤々と照らし出したではないか。

 見ると吹き流しは強い西風に負けじと、千切れるばかりに美しい五色の流れるような姿を見せている。

 五色は魔よけの意味を持っているらしいから、おおいに風に順応して我家と孫たちの安寧をもたらして欲しいものだ。

 ※ホームページ『鴨着く島おおすみ』のトップページに写真あり。

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南北統一への期待

 朝鮮半島では北と南の融和的な交流が続いている。

 韓国から日本でも有名な歌手・チョー・ヨンピルを団長とする訪問団がピョンヤンを訪れ、2回の公演を行った。

 最初の公演では、終わった直後に金正恩が韓国からの出演者すべてと握手を交わすという光景がニュースで流されていた。

 これは北朝鮮国内向けの王様のパフォーマンスのようだったが、韓国からの文化使節の前に現れること自体が稀なため、いろいろな憶測が交わされているようだ。

 2回目は相当大きなホールが用意され、紹介によると12000人もの収容能力のある施設ということだったが、超満員の観客がかなり興奮した様子で手を振ったり、一緒に歌ったりしていた。こんな様子が映像で流されたのは初めてだろう。

 これを許した王様は去年までは欧米流の歌自体を歌ったり聴いたりすることを禁じていただけに、さまざまに忖度されている。

 北朝鮮と韓国との間にある38度線は朝鮮戦争の結果生まれた民族分断線だが、これを旧に復したい、同じ朝鮮民族として自主的に平和裏に統一したい、というモチベーションの発露である――こう素人目には見えるのだが、専門家はその少し前に中国を電撃訪問したことと併せると、アメリカ向けのパフォーマンスという側面を強調する。

 米朝トップ会談を控えて、少しでも「自由」を国内に浸透させる、あるいは浸透させていることを自由の本場アメリカにアピールする狙いがあったということか。

 2回目の公演の最後には出演者も観客も総立ちで、『われらの願いは統一』という1940年代に創られた歌が唄われたが、ここまで全世界に流されたのも珍しいことだ。

 分断の悲劇は朝鮮戦争の結果であったが、もう「休戦協定」から「平和協定」へ枠組みを変えるときだろう。社会主義を頑なに国是としている時代は終わっている。隣に中国という「社会主義的資本主義」という変則だが経済発展著しい中国という手本がある。

 韓国も、韓国に駐留する米軍も平和裏の統一なら大歓迎だろう。何しろ分断されて66年。あの東西ドイツもベルリンの壁が崩壊してすでに30年が経つ。その際もその後も、イデオロギーによる対立で軍事紛争があったとは聞かない。

 平和裏の統一が望まれる。ただ、ネックは王様の存在だ。中国かアメリカへ亡命してくれると事は簡単なのだが・・・。
 

 

 

 

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惻隠の心と日本人

 今朝の「新・報道2001」に登場したのは数学者の藤原正彦氏と三遊亭円楽。

 藤原氏は独自の日本人論を持っておられ、日本人の特質を一言で言えば「惻隠の心」だという。

 惻隠の心の出典は『孟子』で、儒教で最高の徳目とされる「仁」の拠って立つ心のことである。

 分かり易い日本語では「同情心」。他人のことを慮ること、つまり「思いやり」のこととも言い換えられる。

 長くアメリカで研究生活を続けて向こうの人間との付き合いの多い藤原氏が到達した「日本人論」、すなわち「日本人の属性」の最大の特長が「惻隠の心」で、今後のグローバリゼーションの中でこの特質は何があっても失ってはならない――というのが結論であった。

 そのためには小学校からの英語教育はやめて、すべからく日本語(国語)を徹底的に教えることが必要だともいう。

 かなり突飛なというか過激なというか、英語は絶対教えてはならないというのには賛成できかねる。ただ、英文法や英文解釈的なものは絶対にやる必要はなく、ただ日常的なオーラルイングリッシュに限定すべきだろう。

 要は、海外旅行の際や来日した外国人に対応できる日常会話がそこそこできるようになればいいのだ。小学校の段階では文字(英文)を教えてはかえって英語嫌いを増大させるに違いない。


 話変わって、ゲスト出演していた落語家の円楽が、藤原氏の「惻隠の心」に対して、「要するに思いやりですよ。江戸の昔に芭蕉が、〈秋深し 隣りは何を する人ぞ〉なんて句を詠みましたが、あれなんか隣人に対する思いやる心で、今はなくなってしまいましたね」――などと話していたが、

 あの有名な芭蕉の句は、〈秋深き隣りは何をする人ぞ〉が正しく、「秋深き」を「秋深し」と思い込んでいる人は多く、学識ある円楽もその一人だとは意外だった。

 〈秋深し〉では、解釈が二通りに分かれる。

 一つが俗に「隣同士でありながら何をしている人かが分からない。そういう都会の人間関係の薄いことを読んだ秀句である」というあまりに現代に引き当てた解釈。

 もう一つは、「秋が深まっていよいよ寒い冬支度だが、隣人はどうしているだろうか」という解釈になる。この場合、たしかに隣人への「思いやり」がうたわれてはいる。がしかし、どこもかしこも隣人同士がそういう風にいたわりあっている様子が冬間近の一般論的な風景として単に描かれているだけになってしまう。

 つまり「隣りは何をする人ぞ」が単に「秋深し」を引き出す12文字に過ぎなくなる。


 ところがこれが〈秋深き〉になると、「秋が深まり冬枯れ間近の隣家の様子が垣間見えるが、隣人はどういう暮らしの人であろうか。冬が越せるだろうか」と解釈され、一隣家の具体的な寂寥への哀惜の念が湧き上がってくる。

 俳句や短歌は決して、「隣人を愛(哀惜)せよ」という抽象文学であってはならず、具体に於いてその心を表現していくものなのである。

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