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惻隠の心と日本人

 今朝の「新・報道2001」に登場したのは数学者の藤原正彦氏と三遊亭円楽。

 藤原氏は独自の日本人論を持っておられ、日本人の特質を一言で言えば「惻隠の心」だという。

 惻隠の心の出典は『孟子』で、儒教で最高の徳目とされる「仁」の拠って立つ心のことである。

 分かり易い日本語では「同情心」。他人のことを慮ること、つまり「思いやり」のこととも言い換えられる。

 長くアメリカで研究生活を続けて向こうの人間との付き合いの多い藤原氏が到達した「日本人論」、すなわち「日本人の属性」の最大の特長が「惻隠の心」で、今後のグローバリゼーションの中でこの特質は何があっても失ってはならない――というのが結論であった。

 そのためには小学校からの英語教育はやめて、すべからく日本語(国語)を徹底的に教えることが必要だともいう。

 かなり突飛なというか過激なというか、英語は絶対教えてはならないというのには賛成できかねる。ただ、英文法や英文解釈的なものは絶対にやる必要はなく、ただ日常的なオーラルイングリッシュに限定すべきだろう。

 要は、海外旅行の際や来日した外国人に対応できる日常会話がそこそこできるようになればいいのだ。小学校の段階では文字(英文)を教えてはかえって英語嫌いを増大させるに違いない。


 話変わって、ゲスト出演していた落語家の円楽が、藤原氏の「惻隠の心」に対して、「要するに思いやりですよ。江戸の昔に芭蕉が、〈秋深し 隣りは何を する人ぞ〉なんて句を詠みましたが、あれなんか隣人に対する思いやる心で、今はなくなってしまいましたね」――などと話していたが、

 あの有名な芭蕉の句は、〈秋深き隣りは何をする人ぞ〉が正しく、「秋深き」を「秋深し」と思い込んでいる人は多く、学識ある円楽もその一人だとは意外だった。

 〈秋深し〉では、解釈が二通りに分かれる。

 一つが俗に「隣同士でありながら何をしている人かが分からない。そういう都会の人間関係の薄いことを読んだ秀句である」というあまりに現代に引き当てた解釈。

 もう一つは、「秋が深まっていよいよ寒い冬支度だが、隣人はどうしているだろうか」という解釈になる。この場合、たしかに隣人への「思いやり」がうたわれてはいる。がしかし、どこもかしこも隣人同士がそういう風にいたわりあっている様子が冬間近の一般論的な風景として単に描かれているだけになってしまう。

 つまり「隣りは何をする人ぞ」が単に「秋深し」を引き出す12文字に過ぎなくなる。


 ところがこれが〈秋深き〉になると、「秋が深まり冬枯れ間近の隣家の様子が垣間見えるが、隣人はどういう暮らしの人であろうか。冬が越せるだろうか」と解釈され、一隣家の具体的な寂寥への哀惜の念が湧き上がってくる。

 俳句や短歌は決して、「隣人を愛(哀惜)せよ」という抽象文学であってはならず、具体に於いてその心を表現していくものなのである。

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