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人吉紀行

 人吉という所はいつも九州高速道の通過点として道案内だけはよく見ているのだが、降り立って市内見物などしたことがなかった。

 そこでこの20日に「いさぶろう。しんぺい号」という特別列車に乗って初めて街の中に入ってみた。

 人吉というと鹿児島と並んでそれぞれの藩の同一支配者(武家)が長きにわたって変わることなく続いたことで有名で、人吉の相良氏は1198年から明治維新の1868年まで670年(およそ700年)で、これは鹿児島藩島津氏の下向統治期間(4代・5代目の頃のいわゆる元寇=文永・弘安の役から明治維新まで)の600年より長い。

 もっとも島津氏の方は初代の惟宗忠久が日向荘(宮崎県都城市)の総地頭に補任された1185年あたりで、最初の地頭館の置かれた地の地名から島津の姓を持つようになったから、姓の長さでは島津氏の方に軍配が上がる。

 しかし薩摩の野田郷へ下向して実質支配がはじまったのは5代目の貞久からなので支配期間の600年は動かせない。

 相良氏は出身地の遠州榛原郡の相良(現在の静岡県牧之原市)にちなんで人吉に入部してからすぐに相良姓を名のり、中世の一時期に上相良・下相良に分かれて抗争があったが、おおむね相良氏一族が他氏を圧倒して支配し続けた。

 島津氏はというと南北朝から室町期にかけては数々の抗争(お家騒動)や他氏との戦闘を繰り返し、ようやく三州統一がなされたのは1570年代であった。統一までの戦乱期間の長さを差し引けば、島津氏のみによる実質的な安定支配は300年である。

 その安定的な支配という点では相良氏の方がはるかに勝っている。

 しかし支配領域の圧倒的な広さの差を勘案すれば、島津氏の方に領国支配の巧みさが生まれるのは当然と言える。何しろ四周を海に囲まれ、交易の広がりや領土防衛、そして外様である故に徳川氏との付き合いにも智謀を尽くさねばならなかった。

 「島津にバカ殿なし」と言われるのは、そういう領国の置かれた「地政学的」な面に負うところが大きい。

 今でも(明治維新後150年だが、それはさておくにしても)、〇に十字の島津の紋章が焼酎にも菓子折りにも至るところでふんだんに使われているのは、島津氏支配の根っこの奥深さをよく表している。


 話は本題へ・・・。

 吉松駅から乗った「いさぶろう・しんぺい号」はまず真幸駅ホームの「幸福の鐘」で一時停車し、さらにスイッチバックの解説で長く停まり、肥薩線最高標高駅である矢岳駅(540m)でもホームの先にあるSL(D51)の展示を見るためにやや長く、そして極めつけはループ線路とスイッチバックの両方を持っている大畑(おこば)駅だ。

 大畑と書いて「おこば」と読ませるのは、山の畑のことを「こば」(たいていは木場と書く)ということから来ているそうで、かっての「焼き畑による耕作地」の大きい(広い)場所だったことを示しているのだそうだ。

 人吉は九州山地の真っただ中にある盆地で、標高は高いと思われがちだが、わずかに100m余り(人吉駅で107m)と低い。矢岳駅が540mだからその差は440m。手元に時刻表がないので分からないのだが、矢岳駅と人吉駅間の距離は10キロか15キロほどのものだろうから、確かにループとスイッチバックを併用しないと登り切れまい。

 熊本県境の矢岳を挟んで反対側の吉松駅は標高が213mあるそうで、そうなると矢岳駅との標高差は220m余り、これならスイッチバックだけで済む。


 1時過ぎに人吉駅に到着したが、改札を出てその暑さには驚いた。近くにいた売店の従業員らしき人に聞くと「人吉は暑いところです」という。盆地だから暑いのは覚悟していたが、周囲の山の高さから比べて相当な低地(標高100m)なので、まるで鍋の底なのだ。

 しかし、街のど真ん中に満々とした流れの球磨川があるせいで、鍋の底に溜まった暑い空気が若干は冷やされるのだろうか、コンクリートの歩道から離れて「青井阿蘇神社」の境内に入ったらかなり暑さが和らいだ。

 青井阿蘇神社は大同年間の806年に創建されたという阿蘇神社の勧請で、大神(おおが)氏が宮司を務めていたという由緒を持つ。

 拝殿・幣殿・楼門は重厚なかやぶきで、本殿と回廊を含めてすべてが国宝になった。慶長18年(1610年)に改修されて今見るようになった。


 青井阿蘇神社からは球磨川を渡り、道なりに行くと右手に「幽霊の絵」でゆうめいな「永国寺」がある。ここは薩南戦争の時に熊本城を攻めあぐねているうちに大軍送って来た官軍と田原坂で戦い、敗れた西郷軍が退却して本営を置いた寺である。約30日いたがここでも官軍に追い詰められ、日向方面に逃れることになった。


 永国寺からほんの2,3分の所に「旅愁」「故郷の廃家」を訳詞した犬童球渓(いんどう・きゅうけい)の生家がある。

 人吉に来た時に一番見たかったのが、犬童球渓のこの史跡だった。

 なぜ球渓なのか。

 それはひとえに「旅愁」という歌にかかっている。

 旅愁というタイトルもそうだが、訳詞の内容が原作者のアメリカ人作詞・作曲家J・P・オードウェイの原詩と大きく違っているからだ。

 原詩ではタイトルが「故郷と母を夢見て」で、内容は、故郷にいたころの母と自分(おそらく作詞者本人だろう)とがいかに濃密であったか、今でも母が自分の傍に来て自分をかわいがってくれる夢を見るんだ――というもので、マザコンここに極まれりといった内容なのだ。

 原詩にの興味ある人はインターネットで調べられるからここでは省略するが、一方で人吉生まれで東京音楽学校を出て各地の中学校や高等女学校などで教鞭をとっていた球渓はこれを

 「更け行く夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む 恋しやふるさと 懐かし父母 夢路にたどるは里の家路」

 と意訳した。

 まず原詩では「旅の空」(旅行中)での感慨ではなく、また、恋しいのは「故郷の家と、そこでむつまじく過ごした母」だけなのである。父などは一言も出てこないのである。つまり「母あればこその故郷の家(ホーム)」で、トーンからするとオードウェイという作者は「No mother, no life」(母がいなければ、生きていてもしょうがない。母こそ人生のすべて。)と謳っているのだ。すごい母親賛歌なのだ。

 今の世でも直訳したら「軟弱な奴だ。男のくせに」などと言われるのが落ちだろう。

 そこを球渓も分かっていて、唱歌に見るような訳詞にしたのだろうが、これには曰くがあって実は球渓も原詩通りに訳したかったのだが、当時(戦前)の文部省当局が「あまりにも軟弱な詞だ。戦争遂行の妨げになる」というような指導を受けて大きく原詩の解釈を変えてしまった(変えざるを得なくなった)――という経緯もあるらしいのだ。

 太平洋戦争の真っただ中の昭和18年に球渓は47歳で自ら命を絶つが、球渓の心の中にはこの訳詞(他にも「故郷の廃家」など)が原詩を大きく逸脱してしまったことへの苦しさ、そしてそうせざるを得なかった戦争というものへの憤りがあったのでは、とも思われる。


 この話は、原詩を引き合いに出してまた論じる機会もあろうからここまでにして先を急ぐ。


 さて球渓の生家を辞して、また酷暑の中を西へ歩くこと7分、人吉城の大手門口を抜けると「人吉歴史館」がある。ここは人吉市の教育委員会の歴史文化担当課に所属しており、外観はコンパクトながら外観内容のぎっしり詰まった展示施設である。

 十分に見ておきたかったが、なにしろ暑さのせいで頭の中身がうだっていて身に入らないので、種々のパンフレットを貰って家に帰ってから読むことにした。

 それによると、人吉城の原型は相良氏が当地に下向した初代長頼の頃に築造されているが、その後、秀吉の全国統一(九州征伐)の後に諸国で戦国大名による領国支配が完成し、相良氏もその例に洩れず、本格的に居城の築造に取り掛かっている。

 慶長年間に始まり寛永年間の1640年頃までに近世の人吉城が成ったようである。

 この城址の一角に相良護国神社があるが、入口は当時の掘割りに架けられた石橋で、堀はびっしりと蓮で埋め尽くされていた。

 この神社の筋向いに「元湯」という看板の銭湯があったのでこれ幸いと浸かることにした。指宿にも元湯があり、道路からやや低い所に湯舟があるが、ここのもその通りで、10畳くらいの広さの洗い場の真ん中に2坪くらいの湯舟が掘られていたのはひなびていて懐かしい感じがした。

 泉質は単純なアルカリ泉のようで、石鹸の泡立ちよく、ややぬるっとしていた。

 聞けば人吉にはあちこちに単独の温泉銭湯やホテル・旅館内の銭湯があり、その数は20以上あるという。


 人吉といえば歴史の相良氏・球磨川下り・球磨焼酎が有名だが、泉都でもあることをもっと宣伝してもいいのかもしれない。


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