祓川の八月踊り(鹿屋市祓川町)

旧暦の八月は10月7日で終わっているのだが、鹿屋の祓川町では10月25日の日曜日に「八月踊り」が奉納された。1025haraigawahatigatuodori_015

 10時に祓川集落センターに着くと、すでに神事が始まっていた。1025haraigawahatigatuodori_007

八月踊りは、旧暦の八月に稲が実を付け始める頃に、水が枯れないことを願う水神祭が元になっている。

 いつもは集落センターの外で行う神事が、小雨のため中で催されることになったようだ。

 (集落の各分野の代表が玉串奉奠をしているところ)1025haraigawahatigatuodori_008

玉串奉奠がすみ、神主が最後の祝詞を上げたあと、拝礼をしつつ祭壇の中に置いてある五色の紙で巻いてある竹の束の所に行く。1025haraigawahatigatuodori_009

祓川町内会は13の班に分かれており、それぞれの班長さんが班毎にその竹串の束を持ち帰る。1025haraigawahatigatuodori_010

聞くところによると、竹串は水神様の依り代で、自宅の水回り(昔なら井戸)に向けて差したり、田んぼの取水口に差して水の豊かなることを願うそうだ。

 実に素朴にして簡素な風俗だ。1025haraigawahatigatuodori_011

椅子が片付けられると板の間には踊り連が、正面の舞台には唄い手や太鼓・三味線の使い手が勢揃いする。八月踊り保存会のメンバーだ。1025haraigawahatigatuodori_012  

踊り連が輪になり、いよいよ八月踊りが始まった。1025haraigawahatigatuodori_013

歌詞の大方はよく分からないが、「大阪土産」などという演目があり、

 大阪みやげに なにもろた・・・

から始まって、次々にいろいろな地方の風物が唄い込まれたようなものがあった。1025haraigawahatigatuodori_014

水神への祈りとは直接関係ないような唄の内容だが、江戸時代から続く祭りと思うと、当時の人々の興味がどの辺にあるかが垣間見えて面白い。

 今日は先月の「敬老の日」も兼ね合わせて開催されたそうで、ご馳走の出る昼食時までかかって踊り続けられるのだろう。

 11時半にセンターを後にした。

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田崎神社の夏越し祭(鹿屋市田崎町)

旧暦の6月末日(29日)は今年は新暦で8月19日だったが、田崎神社では旧暦通りの「夏越し祭(なごしまつり)」が行われた。

 花岡町の高千穂神社でもそうだったが、6月末日は年の前半の穢れを祓う「夏越大祓い」の日である。かってはどこの神社や集落などでも 「みそぎぞ 夏のしるしなりける」 という古歌にあるように、禊ぎ祓いで身を清めて無病息災を祈る行事があったらしい。

 今日は水行の禊ぎはお目にかからなくなったが、祓いの神事は各神社で行われている。田崎神社(正式名:七狩長田貫神社=ななかりおさ・たぬきじんじゃ)ではまず拝殿で氏子総代などを中心に祓いの神事を行ったあと、神社から高須の浜へ下り、そこで再び夏越祓い神事を行う。819tasakijinjnagosimaturi_003

10時半から神事が行われるが、その30分も前に法被を着た中学生が7人、談笑していた。聞くと田崎中の2年生だと言う。

 この子達は今日の行事の中で、「はなたかどん」と呼ばれる7つの「神能面」を掲げ、道中の行列に参加するそうだ。819tasakijinjnagosimaturi_004

10時過ぎに、神事が始まった。819tasakijinjnagosimaturi_005

神輿の扉を開け、入神のための祝詞をあげる。819tasakijinjnagosimaturi_006

町内会長ら氏子代表が玉串奉奠をする。819tasakijinjnagosimaturi_007

拝殿での神事が20分ほどで終わったあと、いよいよ巡行に出発。

 竹ほうきに似た物を持った「露払い」を先頭に、拝殿を後にする。

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中学生7人の掲げた「はなたかどん」は、田崎神社の正式名の「七狩長(ななかりおさ)」の象徴であるという。

 鼻が高いので「はなたかどん」だが、どうも天孫降臨の時にニニギ命一行の前に現れた「国津神・サルタヒコ」の故事に付会した面の造りのように思われる。

 「浜下り」は「天下り」ではないかと考えた果ての推論だが、いかに・・・。

 後ろに見える巨大な木の幹は大クスで、樹齢900年である。田崎神社本殿の由来は京都の加茂神社の分社というが(神社再建の棟札には鹿屋を支配した肝付支族・鹿屋兼明の永正元年=1504年=のがあったというので、再建後少なくとも500年は経っている)、この七狩長の時代から霊地として存在したのではないか、という思いも頭の中をよぎる。

 本殿の横に「西宮」(えびすさん)があるが、祭神コトシロヌシは天孫降臨より前に国譲りをしたオオクニヌシとは兄弟で、そうなるとサルタヒコ以前の話だ。819tasakijinjnagosimaturi_009

神輿が鳥居を出ると、昔ならそのまま担がれて行ったそうだが、今は軽トラックに載せられて「浜下り」に移る。819tasakijinjnagosimaturi_010

神社から車に揺られて到着した先は「高須三文字」という交差点の手前だった。

 ここから高須の旧国道220号線にそって、町の中を練り歩いていく。

 左手に見える岡には高須の総廟「波之上神社」がある。

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高須川に架かる「高須大橋」を渡る一行。819tasakijinjnagosimaturi_013

波之上神社前を通る。819tasakijinjnagosimaturi_014_2

高須三文字交差点から、ほぼ一直線に1キロばかり、国道が大きく左へカーブする所から海辺に向かう(白い建物は高須駐在所)。 819tasakijinjnagosimaturi_015

高須の浜はすぐ目の前だ。819tasakijinjnagosimaturi_016_2

海水浴場の砂浜を通って、右手に見える岡の麓まで行く。

 大潮でしかも干潮とあって、海水浴客はほとんどいない。819tasakijinjnagosimaturi_017

岡の麓とは言っても、岡とは独立した小さな岩礁(赤色凝灰岩)の手前で一行は止まった。819tasakijinjnagosimaturi_019

岩礁の手前の側面に神輿が置けるだけのスペースが設けてあり、うまく収まった。

 七面のはなたかどんもやれやれといった表情をしている(?)。819tasakijinjnagosimaturi_018

左に目をやると、いつもなら潮が洗っている「立神岩」も、歩いていけそうに見える。819tasakijinjnagosimaturi_023

11時半きっかりに、浜辺での神事が始まった。819tasakijinjnagosimaturi_024

隣りでかしこまる子どもたち。

 祓い清めの修祓や祝詞奏上、玉ぐし奉奠など20分ほどの神事のあいだ、チビちゃんたちがこのままの姿勢でいるのには感心させられた。819tasakijinjnagosimaturi_025

高須地区の氏子総代たちが玉串を奉奠する。819tasakijinjnagosimaturi_026_2

珍しいのは「遺族代表」の玉串奉奠だ。最初「遺族」と聞いたとき、終戦記念日も近いので「戦争遺族」のことかと思ったが、よく聞くと「初盆遺族」なのであった。

 要するに去年の盆以後に亡くなった人の遺族で、その代表者が玉串を捧げて、故人の冥福をいのるのだ。

 これは珍しい。よく祭事で一緒になる肝付町のKさんに話すと、旧暦6月末日がお盆の頃(旧盆)に重なり、それに故人や残された者の「大祓い」の意味が加味されたのだろう、とのことだが、同感である。819tasakijinjnagosimaturi_027

すべての神事が終了すると、参列者がビニール袋を持って神輿の横に集まっていった。お供え物をもらって帰るのかと思ったが、近寄ってみると三角すいに積み上げた砂を崩して袋に入れている。

 いったい何を? と近くの人に尋ねると、この砂を洗面器に入れ、それに水を満々と張って家の周囲に笹の葉で振り掛けて回ると言う。

 なるほど清めの意味だろうと合点する。『魏志倭人伝』に倭人の習俗として――死者を出した家では10日余りのモガリの後に死者を埋葬してから、一家揃って水辺で「操浴する」――とあるが、そんな遠い昔のことがかすかに思い出された。

 このあとそれら遺族を中心に故人をしのぶ「宴会」のような昼食となったようである(上のKさんの報告による)。

 仕事があったので最後までは見られなかったが、帰路はやはり車で戻り、田崎地区に入って一箇所の「御旅所」において神事を行い、その後は練り歩いて神社に戻ったそうだ。

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高千穂神社の夏越し祭り(鹿屋市花岡町)

7月31日は鹿屋市の花岡町に鎮座する「高千穂神社」の夏越(なごし)祭りが行われた。

高千穂神社は祭神「ニニギノミコト」で、花岡郷の旧郷社。731takachihojinjanagoshimaturi_019

花岡郷は享保9年(1724)に、花岡島津家が第20代藩主・綱貴の二男・忠英(久とも=人偏に寿の旧字)によって創設されてから生まれた新郷で、それまでは木谷村といった。

 明治維新までに7代続いたが、2代目久尚の正室・お岩(岩子夫人)が最も有名である。

 彼女はこの地方に水流が少なく、田が開かれないのを見かねて高須川上流から4キロの水路を造らせている。

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拝殿前の手水舎に「夏越大祓い」のノボリが立つ。731takachihojinjanagoshimaturi_013

本殿は1680年代に造られたといい、330年近く経つにしては優美なつくりだが、これまで何回も来ているのに屋根の突端に鬼の面(鬼瓦?)が据えられているのに今日はじめて気付いた。

 かなり大きな代物で、瓦葺時代の名残かもしれない。731takachihojinjanagoshimaturi_011

その鬼瓦の下、横壁の真っ赤に塗られた垂木を眺めて、またびっくり。

 垂木の下の桁に歯を食い込ませるかのように「小鬼面」が刻まれている。こんなのは見たことがない。

 よほど魔除けが必要だったのだろうか?それにしても造った宮大工の工夫は面白い。731takachihojinjanagoshimaturi_015

神事が始まったのは8時半だった。

 花岡地区の氏子・崇敬者が集まったところで、まずは一礼から。731takachihojinjanagoshimaturi_018

修祓のあと、大祓詞(おおはらいのことば)が神主から読み上げられた。大祓詞はゆっくりと全部唱えると15分から20分はかかる。

 今日は「夏越大祓(なごしのおおはらい)」の祭礼とあって、省略することなく読み上げられた。

 そのあと町内会長など氏子代表が数人、玉串を奉奠して直会となる。731takachihojinjanagoshimaturi_020

拝殿での神事が終わると、神輿の巡行だ。花岡の麓に当たる古江港まで「浜下り」に出ると言う。

 昔は(40年位前まで)、神輿は若者が担ぎ、町内を練り歩きながら古江の海岸まで下ったそうだ。

 この祭礼は曜日に関係なく「7月31日」と決まっているため、「若者が居ないわけではなく、勤めの関係で人が集まらない」ので、こういう形になった、という。731takachihojinjanagoshimaturi_025

スピーカーを取り付け、太鼓を載せた軽トラの前でそろいの法被を着る。731takachihojinjanagoshimaturi_026

3台の軽トラックにすべてを載せ込み、浜下りの準備が整ったのは10時。

 さあ、いよいよ出発だ。731takachihojinjanagoshimaturi_029

神楽の音を流しながら一行が集落の中を進んでいくと、人々が角々に待っていて、賽銭箱に何がしかのお金を投げ入れ、その代わりに御幣の付いた榊を一本もらう。731takachihojinjanagoshimaturi_030

花岡地区を10分ほど巡行した後、一行は急坂を下り、古江の西北部・小島地区のはずれの海岸に到着。

 向こうの小山は「弁天島(山)」だそうだ。準備の間に登ってみると、頂には小さな祠がぽつんと立っていた。

 かってここは島だったのではないかと思う。731takachihojinjanagoshimaturi_033

「古江西町」の崇敬者・集落代表者の人たちが、準備のできた祭壇の前に頭を垂れて神事が始まる。

 内容はさっき拝殿で行われたのと同じだ。731takachihojinjanagoshimaturi_036

出席者が次々に参拝(玉串奉奠)をして、神事は無事終了する。

 このあと直会(なおらい)で、しばし歓談の時を過ごし、再び巡行に移る。

 昔はここで神舞などがあったそうだが、若者が居なくなってからはやっていない、という。731takachihojinjanagoshimaturi_040

一行は海沿いに展開する小島地区を、次の目的地「御座所」に向かって進む。

 道々、神主は手にした水を笹の葉で撒きながら行く。

「露払い」だそうだ。731takachihojinjanagoshimaturi_041

古江の港を中心に、ゆるやかに町内をまわり、その途中にある「高千穂神社・御座所」で小休止。

 ここは御祭神「ニニギノミコト」が、霧島に降臨した後、この地まで巡行し、石に腰を掛けてから薩摩半島の阿多の笠沙に向かって出発した所だそうだ。

 かってはこのあたりまで海岸で、「石」はもう無くなりかけてはいるが、まだちょこんと顔を覗かせていた。(右手のお父さんの直下のコンクリートに小石が4つ置かれているのが見えるが、その4つの小石の真ん中に守られている。赤っぽい凝灰岩のようだ)731takachihojinjanagoshimaturi_043

現在の古江港。古江は大隅半島と薩摩半島を結ぶ拠点だった。(写真の岸壁から、かっては鹿児島への定期船が出ていた)

 ニニギノミコトがここから笠沙へ渡ったとすれば、2000年も前のことだが、神話の真偽は別として、その頃ここから薩摩半島への手漕ぎ舟の航路があったことを否定する理由はない。

 高千穂神社の浜下りは「ニニギノミコトの浜下り」と言ってよく、であれば「浜下り」は実は「天下り」のことなのかもしれない。

 一行は近くの「みなと公園」で昼食を兼ねた大休止をとったあと、花岡まで帰るという。途中の神事はもうないとのことなので、一足先に帰ることにした。

 

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女男河原祭り(垂水市高城)

「女男河原」という字を「おんだんこら」と読めるのは、垂水市民とそれ以外では余程の祭り好きな鹿児島県人だけだろう。

 後者に属する私も、印刷物などで目にするだけで実際にはどんな祭りなのかは知らなかった。行われるのは4月の第一日曜日で、いつもこの時期は集落の総会やら、花見やらで行事が多く、見たくとも見ることができなかった。

 最近になってフリーになったので、今回、行くことができたのである。

 午前10時に始まると聞いていたので、9時に家を出、祭典のおこなわれる場所「三和センター」という当地の中心的な公民館に到着したのが9時40分であった。405ondankoramaturi_007

あいにくの小雨だったが、すでに多くの車が入り込んでいる。

 この大きな建物は何です?――と駐車誘導係の人に聞くと、三和センターの体育館で、そこでは祭りのあとの「演芸大会」が行われ、祭典は体育館の裏手でやる、という。405ondankoramaturi_002

駐車場に車を入れて裏に回るとそこはかなり広い、運動会でもできそうな広場だった。

 その一角、なるほど体育館の裏側近くの桜の木の脇に、テントが三つ張られており、その中を覗くと桜の木の下に祭壇が設けられてあった。

 程なくして、神事の開始を告げるアナウンスがあり、テントの中の人たちも立ち上がった。405ondankoramaturi_001

テントでよく分からないが、祭壇の奥には20年生くらいの桜が生えている。そしてその手前には、竹の棒を支柱にし、麻(すがそ)を付けた御幣と榊の束が「ひもろぎ(霊降木)」として立てられてあった。405ondankoramaturi_004

祭式次第通りに「招神」「祝詞奏上」「玉ぐし奉奠」「昇神」とすすみ、最後に大太鼓がたたかれて祭事は無事終了。

 氏子代表らと神主はこのあと直会(なおらい)に移るというので、その前に神主さんをつかまえて祭りの由緒と風変わりな祭りの名の由来を伺った。

 宮司さんは林さんという地元の方だ。

 話によると・・・・・

「女男河原」とは「御田河原(おんだのかわら)」のことで鹿児島弁では河原は「こら」となり、「~の」は「ん」になるので「おんだんこら」。この祭りは白山神社の祭りで(神社は高隈山系の白山=830m=に本社がある)、白山神社の領有する御神田のことを「御田(おんだ)」というが、その御田は本城川の近くにあって、それを管理するお百姓たちが一年の耕作の初めに本城川の河原に集まり、お祭りをする。祭礼というのではなく、むしろ今でもやっている集落の「おでばい(お出張い)」つまり一種の花見に近いもので、そこには「男女の逢引」のような雰囲気もあったろう。それで「おんだん」に「女男」を当てたのではないか。「男も女も誰も彼もこぞって」という意味の当て字でしょう・・・・・。

 というようなお話であった。さらに・・・・・

 お祭りは550年ほどは続いており、そもそも白山神社をこの山に祭ったのは、島津氏以前に垂水を統治していた「伊地知氏」の出身が越前で(居城だった越前井筒城から、井筒を伊地知に変えたらしい)、ここに入部した時に、越前と加賀の境に祭られている「白山神社」(祭神は菊理媛=くくりひめ。白山姫=しらやまひめ、とも言う)の分霊を当地に祭ったのが縁起である。春の例祭は3月19日に済んでいて、その時は実際に白山に登り、榊に御祭神を移して麓に下りてくる。祭る集落は「段」「上馬込」「下馬込」の持ち回りになっている。この三つの集落の人たちが、先に述べた「御田」の管理をする人たちで、いわば今日の「おんだんこら祭り」の当事者である・・・・・。

 とも言われた。

 なるほど、鹿児島ではきわめて少ない「白山神社」のある由来がよく分かった。

 また、「河原で花見(おでばい)」的な楽しみ方は、実は白山神社の御神田かれこれ以前のごくごく古い習俗だったのではなかったかとも思い至る。そのような例で歴史的に見えるものでは筑波山や佐賀の杵島山の「かがひ」があり(いずれも風土記に記載)、東アジアの山岳少数民などでは今日でも行われているのである。

 

 祭典はあっけなく終わったので、広場の刃物や鉢物、植木などの露店をひやかしたあと、かっては「おんだんこら」が開かれていたであろう本城川の川べりを辿ってみた。405ondankoramaturi_008_2

祭りの会場「三和センター」から南へ150㍍ほどの本城川に架かる「高城橋」から上流を望む。

 山塊のほぼ真ん中の二こぶピークの高い方が「白山」。405ondankoramaturi_012

「高城橋」から上流約1.2キロに架かる「田畑橋」。この右手(左岸)の集落が白山神社の御神田を耕作・管理していた馬込集落。

 白山のピークがまだわずかに頭を出しているのが見える。405ondankoramaturi_013

さらに上流に行くと「的場橋」が見える。いよいよこのあたりから本城川は渓谷となる。橋の右手(左岸)が段集落である。

 その割には広い河原がひろがっている。女男の(おんだん)集会のできそうな河原だ。せせらぎの音を聞きながらの「おでばい」は楽しかったろう。

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田崎神社のお田植え祭(鹿屋市田崎町)

田崎神社のお田植え祭は2月22日と日が固定されている。今年は日曜日だったので見物することができた。222tasakijinjaotauesai_002

2月22日はこの地に賀茂大社の分霊(ワケイカヅチノミコト)を捧持してきた伊勢国住人「田丸玄蕃」の縁日でもあるらしい。

 本殿に向かって左にある「田丸玄蕃・神道碑」の前には、榊と餅、野菜などが供えられていた。

 後ろには寛永3(1626)年の宝鋏印塔なども見える。222tasakijinjaotauesai_005

祭典開始は午後1時。222tasakijinjaotauesai_007

今日の主役と言っていい「七人の侍(さむらい)」の一人が、玉ぐし奉奠をする。

 赤い袖なし着が一風変わっている。222tasakijinjaotauesai_014

神事が終わると、七人の侍たちは、手に手に鍬(柄振り)に模した物を持ち、田んぼに見立てた境内に登場する。222tasakijinjaotauesai_018

続いて大きな鏡餅を担いだ「神役」と、鋤を担いだ田吾作役も現れた(小雨が降っていたので、餅にはビニールが掛けられている)。222tasakijinjaotauesai_020

境内を観客を冷やかしながら何周か歩いたあと、七人は牛を曳き出してきた。222tasakijinjaotauesai_023

まずは「七人の侍」が気勢を上げながら、田んぼに見立てた境内を縦横に走り回る。222tasakijinjaotauesai_025

しばらくすると今度は「田吾作」が出てきて、牛に着けた鋤を押して行く。

 七人の侍は田吾作が登場した以上、単なる「農夫」ではない。田吾作の耕作を加勢しているのだ。

 思うに、七人の侍とは「七狩長」のことか。狩猟の神だから耕作はしないが、田吾作が耕作するのを助けることはできる。222tasakijinjaotauesai_031

皆の息が上がったころ、ようやく耕作が終り、七人は神官から炊いた米(ご飯)を一握りずつ貰って食べるのだが、その時にめいめいが立ち上がって、観衆に向かい「うんまか米じゃ。今年の豊作まちがいなし!皆さんも豊かになりますよう」などと口上を述べる。222tasakijinjaotauesai_032

いっとき休憩したあとの次の行動が面白い。

 立てかけてあったススキかカヤの束をめいめいが手に取り、袋状のちょうど藁苞納豆状の物を作り始めた。

 何のことはない、砂を詰め込んでいるのだ。222tasakijinjaotauesai_034_2

それを見物人目がけてばら撒く。見物人はヤッケなどを着込んでかけられた砂が体に入らないよう必死に避ける。

 氏子の人に聞くとあれは「肥料」なんだそうだ。よい収穫になるようにという「予祝」なのだろう。222tasakijinjaotauesai_036

最後に「苗」に見立てた物を皆に配る。222tasakijinjaotauesai_038

榊を手に持ったまま、参会者全員で踊りまわる。222tasakijinjaotauesai_039

笛・太鼓・唄などは無く、皆して粛々と舞い回る。222tasakijinjaotauesai_041

最後に「籾播き」の代わりだろうか「アメ播き」でお開きとなった。

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田崎神社のしか祭り(鹿屋市田崎町)

田崎神社は正式名「七狩長田貫神社(ななかりおさ・たぬき神社)」で、七人(七柱?)の狩の首領と「田貫(=田主=たぬし)」とが合体した世にも珍しい神社である。217shikamaturi_049

神社は浜田、大姶良方面から鹿屋中心部へ向かう県道が、田崎運動公園・グラウンドゴルフ場を左右に見て間もなくの、肝属川に向かってやや下り坂になりかかった所にある。

 T字路交差点の角にあり、何よりも巨大なクスが目印。217shikamaturi_005

神社前バス停の高さは1、8mくらいはあるから、その大きさが分かろう。高さは25メートルを下らず、広がった幅は30メートルほどになる。

 樹齢九百年とされるが、面白いのは、根は一つなのにすぐに二股に分かれていることだ。217shikamaturi_006

田崎神社拝殿。217shikamaturi_007

田崎神社本殿。

本殿に祭られているのは「別雷命(ワケイカヅチノミコト)」で、この神様は京都の上加茂神社の祭神と同じ。一説によると永徳3年(北朝年号=1383年)に分祀されたといい、また、別の説では永正年間(1504~1520)に伊勢国の田丸玄蕃という人が捧持してやって来たという。

ワケイカヅチは雷神で、雨をもたらす農業神――とされるが、実は下鴨神社の祭神カモタケツヌミの娘の子、つまり下鴨神社の祭神の孫にあたる。そして南九州と無関係でないのは、その下鴨神社の祭神カモタケツヌミは「襲の峰に天下って、大和から京都(山城)へ移り住んだ」(『山城国風土記』)人物(神)なのである。(このことについては別論が要るので、これ以上は触れないでおく。)217shikamaturi_008

本殿向かって左側には「西宮」が鎮座する。ここの神様こそが「七狩長(ななかりおさ)」なのだろう。それなりに立派なお宮である。

「狩長神社」と言えば、肝属郡錦江町池田の「旗山神社」にも本殿と並んで祭られていたのを思い出す。

 また、この神社には「鼻高どん」という「猿田彦(サルタヒコ)」とみなされる面の数々があったらしい。今度の祭りではその一つと思われる面が先導役となっていた。217shikamaturi_012

2月17日、午前10時に祭典が始まり、祓いと玉ぐし奉奠のあと、神輿に神を招じ入れた。217shikamaturi_016

いよいよ「しか祭り」に出発する。

「しか祭り」は旗山神社でいう「しば祭り」と内容は同じで、狩長(かりおさ)の狩猟の範囲を確認するために、その領域の要所要所を祓い鎮めて歩く祭り(神事)である。

 (旗山神社の祓い所が3箇所だったのに比べ、こちらは5箇所という違いはある。)217shikamaturi_018

氏子代表の面々に担がれた神輿は鳥居の外に出ると、そこに待機していた車(軽トラック)の荷台に載せられた。

例によって高齢化・人手不足の当節、10キロ余りの巡拝路を歩くわけには行かなくなっている。217shikamaturi_019

最初の御旅所は「打馬(うつま)の早馬(はやま)どん」だ。打馬と言えば、肝属川中流域の繁華な地域を指すが、こちらはシラス台地の上で、市立図書館や文化会館のあるゾーンから1キロ余り北に位置する所、畑の中にぽつんと森になっているのがそれである。217shikamaturi_023

神輿が据えられ、さらに早馬どんの森の中の一本の木の前に先導役の「サルタヒコ」の面が立てかけられて、神事が始まった。祠は三つあるが、今日まつられるのは向かって左の祠で、お神酒・米・塩が供えられ、さらにその前に竹にシデを挟んだ物(御幣)を立てる。

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お祓い・祝詞奏上・打馬地区代表と田崎地区代表の玉ぐし奉奠が粛々と行われた。217shikamaturi_025

神事が済むと、両地区氏子代表者たちは直会(なおらい)に入る。

かっては酒が欠かせなかったのだろうが、昨今は車の移動が当たり前になったので、茶の「飲ん方」だ。217shikamaturi_027

打馬が済むと次は「祓川の御旅所」だ。

 打馬・早馬どんからはちょうど2キロほどの林の中だった。入り口の杉が、今にも花粉を飛ばしそうに胞子袋を張り切らせている。217shikamaturi_029

マテバシイ、タブなど背の高い照葉樹の林に中に、御旅所が設えられていた。

まさしく「縄文の森」の中である。217shikamaturi_032

早馬どんの時と同じ手順で神事が進められ、最後に祓川地区の代表が玉ぐしをお供えして終了。

やがて昼食が始まった。有り難いことに祭事を撮りに来ていた自分を入れて三人が、弁当の恩恵に与かることになった(多謝)。217shikamaturi_037

昼食を済ませると、次なる御旅所「大浦」に向かう。祓川の御旅所から西に1.5キロほどの道路沿いにある。

 神輿を据えて神事が始まる。217shikamaturi_039

恒例ではこの大浦では、祭事のあと「味噌田楽」がふるまわれるのだが、ここ何年かは賄い主が高齢のためお供えされなくなったそうだ。

 その代わり、と言っては何だが、近所の老婆が参拝にやって来た。217shikamaturi_041

大浦の御旅所での神事が済むと、本来ならもっと西の「郷ノ原(ごうのはい)」の方へ行くのだが、今回は先に済ませてある、とのことで、5キロ近く神社の方向へ戻り、最後の御旅所「新栄」にやって来た。

 新栄公園の一角が御旅所であった。217shikamaturi_043

田崎神社氏子代表がうやうやしく参拝をし、御旅所巡りの最後を締めくくった。217shikamaturi_046

やれやれご苦労様。軽トラックから神輿を降ろし、再び鳥居をくぐって拝殿に向かう。

10時から始まって帰り着いたのは午後2時過ぎ。昔はすべて徒歩で(宮司たちは馬で)回ったそうだから、丸一日をかけての祭事だったようだ。217shikamaturi_010

ところで、各御旅所での神事のあと、参列の人たちにはこのような弓矢が配られる。

 田崎神社境内に自生している萩の幹から作られた弓(矢は榊の葉を羽に見立てて弓に捲かれている)で、皮をむくのになかなか手間がかかるそうだ。

 四つ貰って来たが、まさしく「破魔矢」の原型だと思われる。

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鹿児島神宮初午祭(霧島市隼人町)

旧暦1月18日に最も近い日曜日に催される鹿児島神宮の初午祭が、今年は2月15日(日)にあった。215hatuumasaitohikiyama_001

 朝9時半、加治木町木田の奉納馬が神宮の参道の入り口交差点に鎮座する「保食(うけもち)神社」の前にスタンバイした。

 腹には「奉納 木田郷」の垂れ幕、背には米俵とそれに刺した鮮やかな花飾り、さらによく見ると神社の御札や「合格祈願」「厄払い」「還暦祝い」などと書かれた旗のたぐい215hatuumasaitohikiyama_002が所狭しと飾り立ててある。

信号機のある交差点だが、通行止めにしてあり、この交差点でまず最初の馬の踊りが行われる。

 馬にかけられた沢山の鈴の首飾りが、掛け声、太鼓の音と共に独特のリズムを作り出す。

これが「馬のマンボ」と言われるゆえんだろう。215hatuumasaitohikiyama_005

加治木町木田の人々はそろいの法被を着て、神宮まで馬を連れて歩く。

 その傍を多くの見物客がカメラや携帯を持って、追いかけて行く。周りは露店でいっぱいだ。215hatuumasaitohikiyama_006

最大の第2鳥居をくぐる頃、人出は最高潮に達していた。215hatuumasaitohikiyama_013

参道の右手にある「宮内小学校」に入ると、なにやら物々しい格好の男衆がたくさん集まっている。

 校庭の遊具のそばには飾り立てた馬が繋がれていたので行ってみると、「隼人中 厄払い」の垂れ幕。

 すぐ近くにいた長い法被も勇ましい人に聞いたら、「隼人中卒業生で、今年の厄男が奉納するしきたりなんです」とのこと。許可を得て並んで立ってもらった。215hatuumasaitohikiyama_015

石造りの古風な第3鳥居をくぐると、いよいよ神宮の森が近くなる。215hatuumasaitohikiyama_019

黄色地の浴衣姿も鮮やかな木田の踊り連も加わり、ここで本式の奉納踊りが披露される。

 踊りの場には竹囲いして人が入れないようにしてあり、さらに御幣を付けた荒縄を張り巡らしてある。結界、つまり清浄を保っている。奉納はすべからく神事でもあるからだろう。215hatuumasaitohikiyama_021

二番手に控えているのは愛らしいポニーだった。名は「舞姫」だ。ポニーも4,5頭参加しているようだが「篤姫」がいたかどうかは確認していない。

 今年はポニーを含め全部で25頭の奉納があった。215hatuumasaitohikiyama_022

広場から階段横の車道を通って、いよいよ上の神宮境内に向かう木田の神馬。

一方で樹齢6、700年と思われる大楠。そしてこれとさほど変わらぬ長い歴史を持つ初午祭の神馬奉納神事。

 今ここで、その二つの歴史がクロスするかのような感慨に浸るのは自分だけか・・・。215hatuumasaitohikiyama_027

神宮の拝殿に向かって右手、武内神社などの摂社のある境内広場でも、厄払いの神事の後に奉納踊りが行われる。215hatuumasaitohikiyama_031  

摂社横での奉納が終わるといよいよ最後の奉納踊りだ。

 拝殿前の広場には、やはり竹囲いと荒縄に御幣で結界を作ってある。

 木田郷中の歌声が威勢よく響き、踊り連も華やかに加わって、見物客のにぎわいもピークを迎えていた。215hatuumasaitohikiyama_034

木田郷中の最後の奉納踊りが終わって拝殿に向かうと、何やら異様な男連が勢揃いしている。

 立てられた幟旗を見れば「日当山中卒業生の厄払い」だった。こちらもさっきの「隼人中 厄払い」と同様、伝統あるものに違いない。

初午祭は一種の豊作予祝・五穀豊穣の祈年祭のようだ。

 行き会った神官の一人に聞くと「馬を奉納するのは神への最高の儀礼」だそうで、馬の踊りは「土の霊を目覚めさせる」ということらしい。また、馬が奉納できないとき、代わりに奉納するのが「絵馬」とのこと。なるほど、なるほど。

 また別の神官Kさんは「島津貴久公が霊夢を見て、それから初午祭が始まったと伝承していますが、木田の馬がまず第一に奉納されるというのが当時からのものなのかは定かではありません」と言う。ただ「神宮の歴史を考えると、島津氏以前からあったと考えてもおかしくない」とも。

 ちなみに鹿児島神宮の概略を「由緒略記」から――

  御祭神  天津日高彦ホホデミノミコト(山幸彦) トヨタマヒメ

   相殿  仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 ナカツヒメ(皇后)

  由緒  

 俗に「正八幡」「国分八幡」「大隅正八幡」と称し、全国正八幡の本宮。 大隅一ノ宮として朝野の崇敬篤く・・・、建久年間の図田帳(1198年)によれば、社領2500余町(2500ヘクタール)の多きに至り、江戸末期まで1000石を領有していた。明治28年には官幣大社に列せられた。現社殿は宝暦6(1756)年、第24代島津重年公の造営寄進によるものである。

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山宮神社のダゴ祭り(志布志市田之浦)

志布志市田之浦地区宮地に鎮座する「田之浦山宮神社」は天智天皇を祭神とする神社である。

 社伝によると創建は和銅2年(709年)といい、東北に聳える「御在所岳=530m」を天智天皇の御廟とし、里宮に子の大友皇子を祭っていたのが由来だそうだ。しかし約百年後の大同2(807)年、同じ志布志市の安楽地区にある名も同じ「山宮神社」に合祀されて、向こうが天智・大友両祭神とその后妃一族をあわせて「郷社・六所大明神」となってからは、地元で細々と祭祀が続けられ今日に至っている。201dagomaturi_001

田之浦へ向かう途中から見た秀麗な「御在所岳」。201dagomaturi_012

山宮神社の全景。201dagomaturi_013

神社の周辺には田んぼが広がる。田の数にして17,8枚ほどか。面積にして1,5ヘクタール位なものだろう。

 左手に見える集落各家の耕す土地だが、神社横に神田らしきものがうかがえる。201dagomaturi_024

神社の右手(東側)は安楽川の清流で、県道からは向こうに見える橋を渡って来るようになっている。201dagomaturi_010

神社脇の生垣にも注連縄が張り巡らされ、祭りの厳粛さを予感させる。201dagomaturi_056

のぼり旗の立ち並ぶ境内は、春一番の大祭に繰り出す人出が多く、にぎやかだ。201dagomaturi_006

拝殿前には今日の祭りの由来「ダゴ飾り」が美しく供えられている。

 ダゴとは紅白の餅を丸めて竹串に刺したもので、さらにそれを太い竹の上部に荒縄で捲いた藁苞状の物に挿し込んで「ダゴ飾り」となる。

 直径が8~90センチはあろうかという大きなもので、ダゴ以外に椿の葉、梅の枝、金柑などの縁起物も挿し込まれ、見ていて浮き立つような明るさがある。

 各集落や婦人会のお供えだが、今年は向こうに見える田之浦小学校生徒のダゴ飾りもあった(ピンク色の短冊がひらひらしていたが、それに各自の願い事が書いてあった)。201dagomaturi_007

本殿の入り口にもダゴ飾りを供え付けて、いよいよ準備は整った。201dagomaturi_021

午前11時、祭典が始まった。

 宮司の修祓のあと神招ぎの拝礼、供献をし、それから参列者の玉ぐし奉奠と神事は進み、30分ほどで終了。

 この後は拝殿前に設えられた舞台で「神舞」の奉納が行われた。

 神舞保存会の解説によると、昭和58年に復活した神舞は33番あり、今年はその中の6番が奉納されるという。201dagomaturi_028

まずは「彦舞(ひこまい)」。

彦とは猿田彦のことで、天孫降臨を道案内した国津神であるから、トップバッターにふさわしい。

 四方を祓って回るので、舞と言うよりは「祓い歩き」である。

 真ん中に置かれた注連縄付きの木の切り株台にのって、四方をお祓いしているところだ(上に吊るしてあるのは四方八方を表す物で、子・丑・寅・・・という十二支を書いた御幣もぶら下がっている。これも方角を示しているのだろう)。201dagomaturi_029

2番目は「帯舞(おびまい)」。

 白装束の男二人が、それぞれ紅白の帯状の布を手にして舞う。

 こちらは「地を祓い清める」所作が多かったように思われた。201dagomaturi_031

初めて目にするタイプの舞で、見ごたえがあった。201dagomaturi_033

3番目は「児鬼神舞(こきじんまい)」。

 田之浦小学校の高学年の男子二人が舞った。

 33番の中にはこの他に「稚児鬼神舞」というのもあるようだが、もっと小さな子が舞うのだろうか。

 どちらにしても大人が舞う勇壮な「鬼神舞」の前座なのかもしれない。201dagomaturi_035

4番目は「弓舞」。

男性二人が、弓を手にして舞う。腰には矢も挿している。

 保存会の解説では、祭神の天智天皇が狩猟をされた故事に倣って舞われるもの―だそうだが、別に天皇を持ち出すまでもなく、縄文時代からの習俗を儀礼化した舞、と見ていいのではないかと思うが・・・。201dagomaturi_036

最後は舞いながら、実際に的(イノシシ?)に見立てた俵に矢を放つ。

 今年は4本のうち3本が刺さった。201dagomaturi_037

5番目は「田の神舞」。

「舞」というのは当たっていない。田の神と農民(田吾作)との「掛け合い万歳」というのに近い。

「田の神(かん)さあ、田の神さあ」―と田吾作がおどおどしながら呼びかける。201dagomaturi_038

「ない(何)か、ゆ(用)か?」―と田の神が振り向く。

「へっ、ない(何)か珍しかもん(物)をば、背中にからっちょい(背負っている)もしたげな」

「ア、ハアハアハア!こい(これ)かや。こんた(これは)メシゲじゃらいよ」

「い、いけんして(どうやって)つこう(使う)もんな、そんた(それは)」

 などなど鹿児島弁で珍妙かつ間合いよくやり取りを繰り返し、結局、気のいい田の神は田吾作に「メシゲ(しゃもじ)」と「すいこぎ(すりこ木)」を与えてしまう。

 その上に、田の神の最後の持ち物である「稲穂鈴(山伏の持つ錫杖の頭に似た格好の物で、振ると鈴の音色がする)」をも所望するが、「こんたぁ、やれん(これはやれない)」と断り、舞台を去って行く。

思うに――田の神は道具は授けるが、それを使って田を耕し、稔らせるのは人間の仕事であり、あとは自分で努力せよ ――と言いたいのだろう。

 ただし、メシゲを「女性の象徴」、すりこ木を「男性の象徴」と考え、実らせることを「子産み」になぞらえる性風俗的な観方もある。しかしそれは余りにも限定し過ぎた見解だろう。201dagomaturi_047

本日の最後、6番目の舞は「四方鬼神舞」。

東西南北を表す「青・白・赤・黒」の4種の鬼面を付けた四人が、所狭しと激しく動きまわる舞である。201dagomaturi_053

4鬼神の最終的な狙いは舞台の真ん中の「金の鉾」を獲得することで、黒鬼が敗れ去り、白鬼が去りして、最後は青鬼と赤鬼が競り合う。201dagomaturi_055

とうとう右の赤鬼が金鉾を手にして、長く激しい舞が終わる。

保存会の解説では「赤鬼神が勝ったのは、赤は東を意味していますから、太陽が昇ることの寓意なのでしょう」―ということだったが、赤は南ではなかったか。

 南が勝ったのは、太陽の極盛が穀物でも何でも、大きな実りをもたらす、ということの象徴だろう。

(青龍が東、白虎が西、朱雀が南、そして玄武は北を表すというのが中国伝来の陰陽道にある。)201dagomaturi_057

奉納の舞が終り、いよいよ待ちに待った「ダゴ取り」が行われる。

 数えたら全部で13本あったダゴ飾りが、境内に持ち出された。201dagomaturi_059

はよ、「始めっ」ち言わんかよ―と皆、スタンバイ。201dagomaturi_062

はら、開始やっど!

それ取れ、やれ取れ!201dagomaturi_063

やれやれ、これで今年も家内安全・無病息災。

 取ったダゴは家に持ち帰って食べるか、神棚に一年飾っておくらしい。

食べる際には、そのままか、煮るのはよいが、けっして焼いてはならないそうだ。火事・火難に遭うからという。201dagomaturi_064

少女は誰かからおすそ分けを貰ったらしい。

ヨモギ入りのダゴも混じっている。健康によさそうだ。

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旗山神社の柴祭り(肝属郡錦江町池田)-④1月4日(その二)

「三の柴」の柴立て神事が済むと、最後の目的地「高尾神社」だ。「三の柴」からは1キロ余り、大根占の市街地から上がってくる道が左から合わさった所に高尾神社がある。すぐ前には「貯水タンク」が聳える。

 急な階段を登った上に高尾神社はあり、階段の途中から俄然眺めがよくなる。104hatayamajinja_039

遠くの山々のすぐ手前の白い建物は「宿利原小学校」だ。104hatayamajinja_035

意外と広い境内の奥にある「高尾神社」。

 宮司の話では元来は「高穂神社」であるが、転訛して「高尾神社」になったとのこと。

 私見だが、この神社は「高千穂神社」ではないか。「高千穂」が天孫降臨の舞台であるのは周知のことだが、池田地区の「高千穂」がここではなかったか。

 遠い祖先がこの地にやってきた最初のその場所が「高穂(高千穂)」なのだろう。104hatayamajinja_034

境内の中ほどに立つタブとおもわれる木を依り代として最後の神事が行われた。104hatayamajinja_040

拝礼が終わって、宮司の切り分けた「藁苞のシトギ」を皆で食べて、神事は終了。104hatayamajinja_037

ところで、神社の裏手には国土地理院の「三等三角点」が立っている。

 そこからの眺めは素晴しい。

 はるか向こうには「肝属三山(甫余志岳・黒尊岳・国見岳)が屏風のように連なって見える。104hatayamajinja_036

高尾神社の建つピークはこのように屹立しているため、修験道の霊地だったとみえて、三角点のすぐそばには「役の行者」像がある。

 役の行者は大和葛城山の修験者だが、古書『山城国風土記』によれば、南九州の曽の峰に天下った「カモタケツヌミ」は神武東征の頃、大和に遷り、葛城地方を治めていたので、同じ葛城出身の「役の行者」はもしかしたら南九州との縁者かもしれない。

 それはそれとして・・・・・。旗山神社は島津忠国時代にそう命名される以前から、ずいぶん古い歴史がありそうだ。

 というのは本殿には「天神七代および地祇」が祭られているが、その横に並んで建てられている「狩長神社」こそが、本来の祭神だろうと思われるからだ。見るからに「狩猟の神様」ではないか。考えようでは弥生時代の怒涛の「米米時代」をやり過ごした縄文の残り香がするといってよい。

 今回、厳しい寒さの中の取材だったが、宮迫宮司はじめ神職の方々、宮迫夫人には温かいもてなしを受けたことに感謝したい。

 できれば来年も参加して、大隅の歴史の謎解きに挑戦しよう。

 (第二部終り・完結)

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旗山神社の柴祭り(肝属郡錦江町池田)-③1月4日(その一)

旗山神社の正月行事の三日目は、これこそが「柴祭り」の語源と思われる「柴立て神事」である。

 朝9時に本殿の前で神事が行われ、そのあと、本殿に納められていた諸道具を拝殿まで取り出して並べる。104hatayamajinja_009

一通りそろったところで、いよいよ柴立てに出発する。

 昔は約2キロ北西にある「高尾(高穂)神社」まで、「一の柴」「二の柴」「三の柴」と立てて行き、最後の高尾神社まで徒歩で行ったそうだが、今は文明の利器の車を使うようになった。

 致し方あるまい、雨でも何でも遂行しなければならない神事である。104hatayamajinja_010

「一の柴」は神社から北西に約300mの、とある自然木の森である。

 道路から一段上がった所に、椎の巨木があるが、それが神の依り代になった。104hatayamajinja_012

椎の巨木の前に、神社から持参の榊、神面などを立て掛けて行く。104hatayamajinja_015

前迫宮司が神降ろしをし、そのあと参列の皆が参拝した。104hatayamajinja_021

「二の柴」は県道68号線(鹿屋・吾平・佐多線=通称は中央線)を300mほど行った道路脇の竹やぶだった。

 依り代となる大木はない。怪訝に思っていると、ここから池田地区の北はずれの「段・中野集落」方面を遥拝するのだそうだ。104hatayamajinja_024

宮司の神降ろしの祝詞奏上のあと、次々に参拝をする。104hatayamajinja_026

拝礼の後はどういうわけか「直会」が始まった。

 実は、かっては徒歩で高尾神社に向かったので、ここら辺がちょうど休憩地点だった、というわけ。

 たっぷり1時間をかけて、茣蓙の上で「飲ん方」だ。104hatayamajinja_030

「三の柴」は県道から神川・宿利原方面へ入り、200mほど行った道路際の杉が依り代だった。

 例によって「神降ろし」と「参拝」が行われた。

(第一部終り)

 

 

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旗山神社の柴祭り(肝属郡錦江町池田)-②1月3日

1月3日、旗山神社「柴祭り」の2日目「シシ狩り神事」に出かける。今朝は我が家の玄関口で-2.5度、この冬一番の寒さだった。

 鼻をズルズル言わせながら、18キロの山道を単車で行くのは辛いが、一年待った祭礼行事だから―と気合を入れながら神社に向かう。幸い、路面の凍っていることもなく9時に到着した。

 拝殿の横ではもう「弓矢」や「イノシシ」の形代が作られつつあった。 103hatayamajinja_002_2

竹はコサンダケという自生している青竹、弦はごく普通のシュロ縄で、子供が喜びそうな出来栄えだ。103hatayamajinja_004

イノシシは藁苞にシュロの皮を着せていた。小ぶりだがなかなかの物。103hatayamajinja_008

最後に作られるのが「イノシシの肉」に模した「シトギ」(うるち米の粉を水で練った物=団子の原料)を藁苞に詰め込む。

 見た目は苞納豆(ツトナットウ)だ。

 これにあと8種類の常緑樹の枝葉でつくった「山ノ神シバ」(やまんかんしば)をこしらえて、午前中の準備は終わる。103hatayamajinja_018

午後一時に神事が始まった。

 午前中に作っておいたシシ狩りの道具と「山ノ神シバ」が、納められていた本殿から取り出される。103hatayamajinja_021

今日の行事の無事と、シシ狩りに代表される諸事万端の恙が無きを祈る祝詞奏上のあと、神社を後にしてシシ狩り神事のおこなわれる場所まで行列で歩いて行く。103hatayamajinja_024

神社から約500㍍、一行は山中の「この坂」に向かう。

「この坂」はシシ狩り神事をおこなう場所だが、「この坂」の意味はよく分かっていないようだ。

 私見では「この境」で、おそらく池田地区を見守る「山ノ神」の守備範囲の境目のことだろう。103hatayamajinja_025

シシ狩りの「この坂」に到着すると、すぐ近くの大木に持参した「山ノ神シバ」(榊の束と同じ)と鈴、神面などを立て掛け、宮司が祝詞をあげる。103hatayamajinja_026

そのあとが面白い。餅盗人(もちぬすと)」という神事があるのだ。

山ノ神の前で「餅泥棒」の絵を広げて、なんやかやぶつぶつ言いながら、絵に竹串を刺していく。

「こら、こら、お前は、ないごて盗んとか!」などと言いながら、十数本も餅泥棒の体に刺すのだが、ユーモアたっぷりの口上には思わず笑ってしまう。103hatayamajinja_027

そのあと、あらかじめ作っておいた「シシ小屋(ねぐら)」に向かって、神職が弓矢で射かける。103hatayamajinja_031

木の枝で設えられたシシ小屋をぐるぐる回りながら、ようやく4頭を仕留めて終了した。

 そのあとはシシを焼く。103hatayamajinja_033_2

焼けたシシは、神社で作っておいた藁苞入りのシトギがそれだとし、別の場所に行って祝詞を上げたあと、宮司が切り分けて参加者全員に食べさせる。

 神事はそれで終り、神社に戻って行く。

 この行事は昨日が「田の豊穣を願う予祝」だったのに対し、狩猟(山の幸)の豊かならんことを願うもので、当然ながら、米作りより一段と古い予祝神事であることは間違いない。

 

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旗山神社の柴祭り(肝属郡錦江町池田)-①1月2日

旗山神社は錦江町(旧大根占町)の山中の池田地区・川南に鎮座する古社である。102hatayamajinja_002_2

薩摩藩第9代島津忠国のとき、戦場に必要な幟旗用の竹竿を確保するため池田地区に竹を植えさせたことから「旗山神社」と命名された。今からおよそ560年ほど昔のことである。

 竹については由来を聞かなければ分からないが、神社に来て見た目にはっきりと知れるのが大楠で、神社の向かいに壮絶な姿を見せている。102hatayamajinja_004_2

現況で高さは17~8メートル、幹周りは15メートルほどか。壮絶と言ったのは、戦後間もなくクスの洞に宿を借りていたある人物が、誤って火事を起こしたため、洞の内部、つまり幹の中が焼けてしまい(大やけど―と言うべきか)、樹勢がいちじるしく衰えたからだ。

 宮司の前迫芳文さんによると、皮一枚でかろうじて生きているそうだ。102hatayamajinja_010_2

 

1月2日から4日まで、この神社の正月行事「柴祭り」があるというのでお邪魔した。

 前迫さんの家の入り口には、正月らしく結界を示す竹が立てられその間に注連縄が張られていた。102hatayamajinja_011_2

 

9時ごろ集まってきた地区の神職方が、前迫宮司を囲んで新年の挨拶を交わすところから始まる。

正月の祝い膳を食し、茶を飲んだあと、おもしろい行動に出た。銘々が赤い化粧箱から櫛、かみそりを取り出しては、髪をすき、ひげを剃ったのである。102hatayamajinja_015_2

 1月2日は何でも「事始め」とのことで、「櫛起こし」「かみそり起こし」だという(「起こし」は「始め」の意味)。102hatayamajinja_017_2

それが済むといよいよ今日の神事の場所である「安水の立神神社」に向かう。

 安水集落は池田から西へ約3キロの所にある集落で、そこから広域農道を神ノ川に向かって下ること500メートルの川向かいに「立神神社」はある。 102hatayamajinja_018_3

神社前には安水集落の人たちがおおぜい一行を待っていた。

赤い社殿の左手に聳えるのが「立神」で、数万年前にこの地を覆った噴火の噴出物「阿多凝灰岩」が流水によって削られ、高さ30メートルくらいのローソク岩となって残ったものだ。 ご神体は岩だが、修験の聖地となったため「六所・立神権現」と命名されている。102hatayamajinja_023_2

社殿の中で、早速祭礼の準備がなされた。

榊にシデを取り付ける。「田の神」の依り代である。102hatayamajinja_028_2

ここでは「田の神」を招き、安水集落の豊作祈願を行うという。

民俗学的には「豊作予祝」だ。102hatayamajinja_032_2

外では子供たちが「かぎ引き」に使うような二股の木の枝を手に手に、盛り上げられた土をかき撫で始めた。

 牛が田起こしをしているのだという。102hatayamajinja_034_2

牛が田起こしをしている間、神職たちが唱えごとをする。その歌の内容は、立神様への豊作へのお願いと、田起こしの良からん事への期待で、五七五の和歌のリズムに沿って歌われる古雅なものである。

 だが、巧まざるユーモアも織りこまれている所が面白い。

このあと、牛が暴れて周りの大人たちに土を投げて回るという一幕があり、最後に子供たちの耕した田に宮司が籾を撒いて終了した。「田ほめ」「籾ほめ」「苗ほめ」など、とにかく誉めることで健やかな生育と、収穫がもたらされるという「予祝行事」がこれである。

2日はこのあとに安水公民館で「針起こし(裁縫の始め)」と「直会(なおらえ)」があってお開きとなった。

(写真はクリックすると拡大する)

マップ:県道68号線=鹿屋・吾平・佐多線で吾平から12~3キロ南下すると池田地区。その中心地の川南に旗山神社はある)

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熊野神社の神舞(志布志市有明町蓬原)

11月23日は有明町蓬原にある熊野神社の祭礼日で、著名な神舞(かんまい)がある。

鹿屋から蓬原へは、東原町の先から志布志に直結している「グリーンロード」で行くと分かりやすい。15キロほどで大きな道路案内看板の立つ交差点を「山重」方面へ左折。道なりに直進2キロ足らずで目指す熊野神社の下に着く。1123futuharakumanojinja_006

石の鳥居からえらく急勾配の参道を上がると、もう境内だ。1123futuharakumanojinja_021

祭礼日とあって人の出が多く、幟旗が賑々しい。1123futuharakumanojinja_001

10時過ぎ、まずは地元の人たちが拝殿に上がって、神(祭神はイザナギ、イザナミ、コトシロヌシ)に供え物をし、祓いを受け、祝詞奏上から、玉ぐし奉奠という順序で式は進む。

11時を回ると式が済み、参列者たちはいったん家路に着く。

 神舞(かんまい)は午後1時から始まるという。1123futuharakumanojinja_032

1時にきっかりに神舞保存会長の挨拶(―によると、少なくとも350年の歴史があるという)があり、やがて神舞が始まった。

 本来は外の境内の一角を注連縄で仕切っやるのだが、今日は時々小雨が降るというので、拝殿の中で行われた。1123futuharakumanojinja_023

山神の舞。

今年初めて小学生のそれも女子が舞った。保存会長の弁によれば「これまで女性の舞い手は無かったのですが、後継者不足でそうは言っていられない時代になりました」―だそうである。

 女子の踊りとしては、確かにやや勇壮かもしれない。それでもよくできた。1123futuharakumanojinja_024

矢抜き舞。

舞い手は回り廊下を通って、拝殿正面から入って行く(以下の舞いはすべてそうしていた)。1123futuharakumanojinja_025

茣蓙の敷かれた拝殿を、四隅までフルに使って舞われる。

 口上も入る。1123futuharakumanojinja_027

終わると再び回廊を通り、拝殿横の社務所に帰っていく。1123futuharakumanojinja_028

幣抜き舞。

矢抜き舞もあったが、「抜く」という意味がいまひとつ分からない。1123futuharakumanojinja_030

長刀舞。

 これは面を付けずに舞われるのが、他のと違っている。

 四方八方を祓い清めていく舞だと思われる。保存会長の息子が今年初めて代役をした。

 これは舞いと言うよりか、長刀の「剣舞」で、まるで武道の稽古をしているかのような激しさがあった。1123futuharakumanojinja_031

四神舞。

東西南北を司る「青・白・赤・黒」の面と衣装を身に着けた四人が真ん中に立てた鉾の周りで踊り回る。

 (残念ながら仕事の都合で、今回はここまでしか見られなかった。今日はあと4番あるそうで、来年を楽しみにしたい。)

 帰り際に、矢抜き舞を舞った人がいたので聞いてみると、昭和41年に42番すべてを復活したそうで、その頃は朝から晩までかかって舞われたという。

 12人が一緒に舞うのもあるそうで、とてもじゃないが今日では人が集められない――ともいう。道具類をちゃんと揃え、保管しておくのも一苦労らしい。

 以前、ビデオテープに収録したこともあったそうだが、そういうものをきちんと残して伝えておかないと、この先大変なことになりそうだ。人に見せることが本意ではないが、後継者が見つからないとなれば、いっそのこと舞い手を公募したら・・・などとも思ったりする。

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十三夜の綱引き(鹿屋市吾平町下名)

去年は遅れていって綱引きを見ることができず、残念な思いをしたが、今年は綱引きどころか、その綱を練るところから見ることができた。

 吾平町の下名小学校の近くの「下名ふれあいセンター」の広い庭で、19日の朝8時頃から綱練りが始まった。行ったのは9時を過ぎていたので綱は半分近く、ない込まれていた。1019yabusame_001

 片方は電柱、もう一方は専門業者が使うような本格的な足場に丸太が二本架けられ、下の方の太い丸太に人が乗り、向こうから練りながらこちらへ少しずつ引き降ろしていく。1019yabusame_005

練り上げる方は男衆が三人、体重を掛けながら順番を間違えずにぐるぐる回って縄を編んでいく。まるでメリーゴーラウンドだ。1019yabusame_006

持つ縄が短くなっていくとストップをかけ、女衆が藁を補給に走り、1019yabusame_004

再び練って回る。かなり体力を使っているようだ。

 見ている高齢者に聞くと、昔は道路で沢山の人で練ったもの。今は広場があるのに若い者がおらず苦労している――という。

 しかし戦後途絶えていたのを復活した以上、絶やさぬように何とかやって行きたい、とも言う。1019tunahiki_001

綱引きが始まるという夕方6時、ふれあいセンターに行くと、練られた綱は広場の桜の木のそばに、とぐろを巻いた形で置かれていた。

 綱の前のバケツにはすすき、焼酎ビンには栗の枝が入れられていた。多分、お月様へのお供えだろう。1019tunahiki_004

時間が来たー、との声で綱が伸ばし始められる。

 聞けば、なるべく白い装束で参加し、その上に白い手ぬぐいを独特の形にして頭に被る、という。

そう言われれば、なるほどみんなが被っている。

1019tunahiki_008

建物近くのマイクでは、三人の男衆が立って、相撲甚句のような唄を歌い出す。1019tunahiki_010

歌に合わせるように、皆は綱を上下に揺らしながら広場を2~3回ぞろぞろと回る。

 ちょうど蛇(竜)がのたうつ様子を再現していたのかもしれない。

 竜は水の神でもある。1019tunahiki_012

いよいよ綱引きの開始だ。

数少ない子供が親子で引っ張る。1019tunahiki_013

今度は集落の上班と下班の対決。

 近頃はどっちが勝っても「五穀豊穣」「集落安全」だから、必死というよりみんなニコニコしている。1019tunahiki_021

 綱引きが終わると、綱はすぐに相撲の土俵に仕立てられる。

 中に藁をたっぷり入れて、即席の土俵の完成だ。1019tunahiki_025

まずは小学生の相撲。

集落に10人もいないようだが、子供たちが本来主役の十五夜、十三夜行事だから、これは本日のハイライトなのだが、ちと寂しい。

 それでも屈託のない無邪気な取り口に、大人衆はやんやの喝采をおくる。

 中学生に至っては写真の奥に座っている二人だけらしい(女子中学生は参加していない?)。1019tunahiki_030

圧巻は夫婦相撲だ。

 行事の呼び出し、解説がまず笑わせるが、取り口がとんちんかんで面白い。相撲漫才といったところ。

 件の夫婦は父ちゃんの酔いどれ負け。母ちゃんに投げ捨てられた。

 だが審判の物言いがあり、スローモーションでやれ、高速度でやれ、と三回もやらされたので観衆は大笑いだった。1019tunahiki_032

 そげん早く抱きつかんでよかが!呼吸が合わんどなあ。まあ、いっと深呼吸しやい。

 こんな相撲が三番あって、お開きとなった。

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流鏑馬祭り(肝付町高山」)2008

天気は上々だ。肝付町高山の四十九所神社の「流鏑馬祭り」を見るのは今年で三回目だが、いつも夏日のような晴天に恵まれる。

 今度もまさにそうだった。今年の目玉は去年見逃した「弓取りの儀」を拝観することだ。1019yabusame_019_2

市街地のパレードを終えて「射手(いて)」の一行が神社に戻って来たのが11時半頃。

 鳥居をくぐり、階段を上がって拝殿の前に整列する。1019yabusame_022_2

兜姿もりりしい一行は神妙に拝殿で行われる神事を待つ。1019yabusame_024 宮司の先導により町内各界の名士が玉ぐし奉奠したあと、今年の射手に選ばれ、騎射のための数々の修練を積み、さらに三日前の海岸でのミソギを済ませた高山中2年生の武下君が、力強く祝詞を奉唱した。1019yabusame_026

いよいよ「弓取りの儀」が始まった。

 神前に奉納してあった弓を宮司が下げてきて、別の宮司に手渡す。1019yabusame_028

宮司が射手と去年射手を勤めた少年の前で祝詞を奏上する。1019yabusame_029

宮司が祝詞の中で射手の武下何某と声を張り上げたと思ったら、もう一人の宮司が急いで弓を射手の少年に手渡した。

 すると少年は弓をしっかり握り締め、すっくと立ち上がった。まるで神が彼の体に乗り移ったかのように・・・。1019yabusame_037

昼食後、いよいよ流鏑馬の開始だ。

 姿を現した射手は、実父がお清めをする騎馬道を駆け抜けるが、その前に四十九所神社鳥居の前のちょっとした広場を三回まわる。1019yabusame_039_2

いよいよ第一走だ。

一の的めがけて矢を放つと、1019yabusame_040

見事に命中した。

第一走は三の的まですべて命中した。1019yabusame_043

第三走の三の的にも命中した。残念ながら二の的は射抜けなかった。

 結局、九射中の八射的中で、去年と同じだった。だが今年はひとつ素晴しい的中があったという。

 それはニ走の時の三の的に「コモリ矢」が出たことだ。これは的の真ん中を一直線に貫く竹のど真ん中を打ち抜いた矢のことで、神社に奉納されるそうだ。1019yabusame_044

息子が大役を負った父親は最後まで「潮振り」をしていたが、無事に任務を果たした安堵を顔一面に表していた。1019yabusame_045

中学2年生の息子も大任を終えて、やはりほっとしたのだろう、馬場を引き上げる時、周囲から聞こえる励ましの言葉に大きく礼を言っていたのが印象的だった。1019yabusame_046_2

流鏑馬が終わると、市街地ににぎやかな踊り連が繰り出し、秋晴れの下、970年続くという伝統行事に花を添えていた。1019yabusame_047

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八月踊り(肝属郡肝付町高山本町)

 去年の九月、あると思っていたら、「一年おきに開催されるので、今年は無い年だ」と知り、待つこと一年。ようやく高山町の八月踊りを見る機会が回ってきた。

 高山町の文化財審議委員のK氏に問い合わせたら、「八月踊りは確かに夜の7時半からだが、その前に水神様へ奉納の鉦踊りがあります」と言われ、予定より1時間早く家を出た。

 それが功を奏し、早目に着いてみると、ちょうど鉦踊りの一行が水神様の祀ってある祠に向かうところだった。0927kouyamahatigatuodori_001

 一行が街角にある水神祠に到着すると、水神の座元に当たる人が、一行にお神酒をふるまう。0927kouyamahatigatuodori_003

 

本町の八坂神社を皮切りに、いくつかの水神祠の前で鉦踊りを奉納してまわり、その際やはり酒をふるまうのだろう、顔を赤くしている踊り手が多い。0927kouyamahatigatuodori_004 

さあ、いよいよ鉦踊りが始まった。水神祠の前で丸く円陣を作り、太鼓と鉦の音にあわせた踊りが五分ほど舞われた。0927kouyamahatigatuodori_010

終わってから、八月踊りを見るのだが、時間が空いていたので、窪田税理事務所に立ち寄る。氏はまだ仕事中だったが、快く入れてくれた。四方山話をしているうちにもう7時半が近い。急いで本町通に向かう。

 本町通りは歩行者天国になっており、露天がいくつか出ている。子供たちの人気は風船釣りだ。

 ちょっとした広場の前に、太鼓・三味線・胡弓の楽士の乗る屋台が設えてあり、やがて胡弓の物悲しい音色と共に、踊りが始まる。0927kouyamahatigatuodori_013

出で立ちで独特なものは被り物だろう。

 菅笠だが、折を強くしてあるので顔の上半分は見えない。0927kouyamahatigatuodori_017

 八月踊りは水神様への祈りと感謝、つまり水害の無い安定した水の供給で米がよく稔るように、という五穀豊穣と平安への願いを込めた踊りである。

 肝属川流域では十五夜行事よりも盛んに行われていたが、戦後は衰退し、今でも昔ながらの番組が見られるのはここだけということで、昭和37年に県指定の無形民俗文化財に登録された。0927kouyamahatigatuodori_023

  屋台近くでは子供たちも参加して踊る。かっては青年団で溢れていたそうだが、今はこんな小さな子供までが踊って座を盛り上げている。0927kouyamahatigatuodori_033

中上がり(休憩)近くになって、昔の「お高祖頭巾」を被った女性が現れた。

 番組で言うと8番目「一つとの」(意味不明)だが、ここの踊りは総じて手を広げた際の、手首の返しに独特のメリハリがあると思った。

 休憩のあと、さらに7,8番あってお開きとなった。

 

 

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山宮神社の春祭り(鹿屋市串良町)

2月17日(第三日曜日・午前11時から)、鹿屋市串良町細山田に鎮座する山宮神社(祭神・スサノオノミコト)の春祭りが行われ2008217maturimeguri_031た。

 ちょうどこの日、鹿屋市ではここの他に午前9時前から事代主神社(串良町岡崎)、10時から七狩長田貫神社(田崎町)、午後1時からは中津神社(高隈町)と主要な神社で春祭りが集中して行われる。

 今年は午前中、串良川沿いの2社を訪ねることにした。9時から下流に近い岡崎の事代主神社の祭りを見、そのあと中流にあるこちらの山宮神社に移動、15分ほどかかって到着した。2008217maturimeguri_019

 お宮は串良川のすぐそばの高台にあり、向かい側の橋を渡れば堂園集落だ。写真は堂園橋から見た串良川で、ここまでは両岸沿いに田が広がるが、向こうの森の辺りからは渓谷となり、それは上流の高隅地区まで続く。

 (その高隅町でも、今日の午後から中津神社で同じような(もっと勇壮な)「かぎ引き」行事がある。しかしこちらの方が由緒が古いのか県指定の民俗文化財になっている。)2008217maturimeguri_020

 橋を渡ったところにある堂園集落の公民館に行ってみると、祭りの準備に追われていた。

 かんな屑の、のばせば1.5メートルは優にありそうなのを何十本も束ね、それを2メートル余りの竹の先端近くに取り付けている。紙の「幣(しで)」の代わりなのだろうか、アイヌにも「イナウ」という、やはり削り屑で作る幣があると本にあったのを思い出した。2008217maturimeguri_037

 再び橋を渡って神社の境内に上がってみると、すでにかぎ引きに使う二本の木が左右に分かれて置かれていた。

 社殿に向かって右が「雌カギ(めかぎ)」で、左が「雄カギ(おかぎ)」ということだった(写真上が雌木、下が雄木)。

2008217maturimeguri_038  上の雌カギは何の細工もない、ただ枝分かれしたあたりから伐っただけの物で、聞いてみると樹種はコナラで、伐りだす担当集落が決まっており、雌木は堂園、馬掛、生栗須(いぐるす)の三集落から伐りだすそうだ。

 雄木は下の写真のように引っ掛ける部分を短く切ってあり、男根を象徴している。この木はクヌギのようで、雄木は立小野、高松、平瀬の三集落から出すと決まっているとい2008217maturimeguri_033 う。都合、6集落の参加行事ということになるわけだ。

 11時、社殿の中では神事が始まった。

 お払い、供献、祝詞奏上のあと、祭りに参加する棒踊りの代表も神妙に玉ぐしを捧げていた。2008217maturimeguri_045

神事が終わると棒踊りが奉納される。正確には「正月踊り」というそうで、本来、古くは棒踊りではなかったようである。そういえば、先週(2月9日、10日)の志布志山宮神社・安楽神社の正月踊りには棒は使われていなかった。

 棒踊りの起源は、秀吉の朝鮮出兵の時、参加した薩摩軍が士気を高めるために踊ったというのが定説であるから、当然それ以前の奉納踊りは違ったものだったはず。志布2008217maturimeguri_048 志のほうが、より古式を伝えていると言えよう。

 棒踊りは正月だけでなく、他の祭りでも踊られることも、そのことを裏付けていると思われる。この棒踊りは、上で触れた雌木を伐り出す三集落(堂園、馬掛、生栗須)から奉納されている。

 三尺棒を使う踊り連と、六尺棒を使いしかも顔を布で覆って踊る組とがあり(下の写真)、こちらは志布志の正月踊りの出で立ちに近い。六尺棒がなければそっくりだ・・・。2008217maturimeguri_059

勇壮な棒踊りの後はいよいよカギ引き

 両方の木を真ん中に持って行き、引っ掛ける前にまず焼酎でお清めをする。

 それから五、六人ずつで持ち上げて両方を引っ掛ける。2008217maturimeguri_060

さあ、準備オーケー。ハジムッドー! で、各集落の老若男女が木の元あたりから先端まで、多数が取り付く。

 近くでカメラを構える者たちにも「引かんか、引かんか!」の声。で、こちらも雄カギの方の先端にまわって手ごろな枝を握り締める。2008217maturimeguri_062_2

勝負は2回。一回目はそれ!の合図で引き始めたもののあっけなくずるずると引かれて惨敗。2回目は少し加勢が増えたか、両者譲らず、それでも徐々に引っ張り込み勝利。

 結局、1対1で文字通りの引き分け。今年は6集落平等に平安・豊作ということになった。横たわった木から小枝を折り取って家に持って帰るという人が多かった。縁起物だという。2008217maturimeguri_065

雄木、雌木が境内の隅っこに片付けられると、白装束の神官が現れ、何やら叫んでまわる。田打ち神事の始まりだ。

 「おーい、次郎よお、ドケー行ったかよ」「まっこて、ホガネもんじゃ」「はよ、田を打たんな、日がくるっどー」

 神官は太郎だった。2008217maturimeguri_068 田打ちの相方が姿を見せないのだ。

 相方の次郎はやはり白装束。観衆の中をあちこち寄り道をして話し込んだりしている。

 そのうち、ようやく田んぼに到着。「おお、ソケー、おったか。ようよう」と両者対面。

2008217maturimeguri_069 「ないな?ゆうべ、夜中ん2時まで、鹿屋で飲んじょったとや」

「ええ、そいで、びんた(頭)がいてとや。んだも、まこて、やっせんぼじゃ!」

 てげてげな次郎を、太郎がたしなめる。

2008217maturimeguri_074 「さあ、始むいが!日が暮るっど」

 太郎は鋤の方を持つが、次郎はなかなか牛を曳こうとしない。とうとう近くで見ていた棒踊りの子供を連れ出して加勢を頼む。

 「子どんはなあ、親ん手伝いはするもんやっどお。はら、引かんか」

 「あんた、僕の親じゃないでしょ」と言ったかどうか聞こえなかったが、とにかく三人で無事に田打ちは終了した。

 ここの田打ち神事(正確には、代かき神事)は、まるで漫才のようなやりとりに面白さがある。観衆の笑いは、絶えることがなかった。

  マップ(赤い十字が細山田の山宮神社)

Hosoyamadayamamiyajinja

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事代主神社打植祭(鹿屋市串良町)

2008217maturimeguri_001  鹿屋市串良町の岡崎に鎮座する事代主神社(祭神・コトシロヌシおよびシタテルヒメ)で、春の祭り「打植祭」があった。

 このお宮は県道・高山ー串良線に面する岡崎台地の中腹にあり、さらに上の台地に上がると、巨大な初期須恵器が発掘された「岡崎古墳群・15号墳」の前に出る。

 9時前に着いたが、もう神事は始まっており、用水路を渡った鳥居の奥の石段を棒2008217maturimeguri_005 踊りの何組かが降りてくるところだった。

 聞けば、二組の踊り連で、「岡崎上・棒踊り保存会」と「岡崎東・西連合の棒踊り保存会」だという。かっては岡崎東と西は独立していたが、踊り手の減少で合併したらしい。

2008217maturimeguri_010 踊り連は神社前の道路に出ると、気勢を上げながら歩き出し、そこここの家々の庭で簡単な棒踊りを披露して回っていた。

 何やら「お花」も出ているようだ。縁起がいいのだろう。2008217maturimeguri_007

 50段はあろうかという石段を上がってみると、神主が木製の古い牛の像に向かって祝詞を上げていた。

 神主の足元を見ると、すでに牛を曳いて「代かき」を済ませた後のようで、境内の砂地が円形に、ちょうど土俵のようにえぐれていた。

2008217maturimeguri_012 祝詞が終わると、氏子の役員らしき人たちが片付け始めた。

 長さ1メートル弱、高さ60センチくらいの、結構ボリュームのある木彫りの牛は重そうだ。

 神社の由来を聞くと、古いことは古いがはっきりしていないという。『串良郷土誌』によると、大隅国分立(和銅6=713年)よりも古い創建だという。

2008217maturimeguri_014 拝殿の壁板の朱塗りのあでやかなことは、他に比類がない。手前の数百年は経とうかというソテツと妙にマッチする。海洋民の尊崇しそうな雰囲気だ。

 私見ではコトシロヌシは大和葛城にある鴨都味波八重事代主神社が本宮で、祭られているのは「南九州鴨族の王者であるコトシロヌシ」であるから、航海王の一面があり、何となく納得できる造りではある。

 右手の丘の上は古墳地帯で、もしかしたら航海王が眠っているのかもしれない。

  マップ(赤い十字が事代主神社)

Kotosironusijinja

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安楽神社打植祭(志布志市安楽)

Anrakujinja_001  志布志市の安楽神社(祭神・玉依姫)で、昨日9日の山宮神社祈年祭に引き続く春祭りの一環としての「打植(うちうえ)祭」があった。

 安楽神社は「やすらじんじゃ」と読み、安楽川や大字としての安楽地区は一般に「あんらく川」「あんらく地区」と呼び習わしているが、地元の人に聞くと、正しくは「安良」と書いて「ヤスラ」だそうだ。現にこの神社の鎮座する集落名は「安良集落」である。

Anrakujinja_002   由緒は山宮神社と同じく和銅年間で、明治39年に関わりのある他の五社が合祀された。旧安楽村の村社である。だが拝殿に掲げられた説明では「無格社」としてあり、首を傾げるところだが、大同年間(807年ごろ)に昨日祭りのあった山宮神社に合祀されているので、神社として戸籍上は存在しないということなのだろうか。

しかし紛れもなく神社はここにあり、実質上は「安良集落」の鎮守様として崇敬され続けている。より儀式性のある祈年祭は山宮神社で行われるが、土俗的・民俗的な打植祭(お田植え祭り)はこちらで行われているところに存続の秘密があるのかもしれない(県指定の無形民俗文化財)。Anrakujinja_005

 開始の午後2時まで時間があったので、神社の西側を流れる安楽川の沖積平野に下りてみた。一面の田んぼ地帯で、上流に行けば山宮神社のある台地のすぐ下まで続いているはずで、例によってシラス台地をえぐってできたウツ(宇都)状の地形が独特の凹んだ空間を示している。

 対岸から撮れば分かりやすいのだが、あいにく渡る橋がないので同じ側から撮ったのが右の写真で、左岸土手の左手のこんもりとした台地の上に安楽神社はある。流れがすぐその下までやってきていることが分かるだろう。要するに神社は流れにせり出した台地の上に設けられているわけで、これは安良集落側から神社を眺めるだけでは見えない視点である。Anrakujinja_008

神社に戻ると拝殿では祭礼が始まっていた。ここでは巫女舞があるらしく、二人の若い巫女がかしこまっているのが見えた(小学6年生だそうだ)。

 本殿に捧げ物をし、祝詞奏上、玉ぐし奉奠と型どおりに進みいよいよ巫女舞かと思っていると、巫女舞は外で行うという。

Anrakujinja_017 氏子の人たちがあわただしく境内に20枚ほどのゴザを敷き、その上で巫女舞が始まった。曲目は「浦安の舞」だ。

 この頃になると初春のやわらかな陽が差しはじめ、風も無く、まことにうららかな舞が、境内全体を舞台にして舞われた。周囲を埋め尽くした観衆も、しばし神妙に、春の気配を感じながら眺めている風だった。

Anrakujinja_024

 

 風雅な浦安の舞が終わると、今度は再びあの田の神夫婦のお出ましだ。

 今日は昨日ほどではなく、振る舞い酒もほどほどに切り上げて早々に境内に降りていった。それもそのはず、昨日とは違った役目があった。

Anrakujinja_055 田の神に抱っこされた赤ちゃんは丈夫に育つ」といういわれがあって、引っ張りだこなのだ。これではそう酔っ払ってはいられないだろう。抱かれるとすぐに泣き出す子もいるが、おおむねおとなしくしているように見えた。赤ん坊も馴れている(?)のか、まだ人見知りしない時期なのか、まさか本当に田の神に見えているのではあるまいに・・・。

Anrakujinja_030

田の神に赤ん坊を預ける人が続く間に、舞台では翁が現れ、田を打ち始めた。なかなか素早い手つきで田を打って回る。時々腰を伸ばして辛そうにするしぐさはご愛嬌ものだ。

 代掻き前の田の荒起こしを表現しているという。そう言えば、田の隅々まで丁寧に回り、水が漏れぬようモグラ穴までふさぐようなしぐさは念が入っている。

 やがて真っ赤な牛が舞台に下りてくる。今年は子牛までやって来た。はじめ翁が手なずけようとしても暴れまAnrakujinja_041 わって言うことを聞かない。そのうちに神官が手に木の鋤を持って来て牛に取り付け、どうやら無事に代掻きが終わる。

 このあと、宮司が代掻きした田んぼ(苗代)にモミをまき、それから田植えはどうするかと待っていると、拝殿で神主が田植え舞を行います、というアナウンス。

 拝殿を見ると、神官が二人で「田植え舞」を舞っていた。Anrakujinja_058

 打植祭とは「田を打つ」ことと「田植え」とを合わせたネーミングだろうから、当然「田打ち」と「田植え」は同格に扱われ、同じような行事があってしかるべきだが、これでは田植えが目立たない。

 鹿屋の中津神社では代掻き、田植え後に、苗に見立てた榊のような小枝を観衆に配る。それを田んぼの入り口に立てておくと虫が寄らない、などと言っている。Anrakujinja_050

  次は田の豊作を予祝するという「かぎ引き」だ。

 上半身裸の男たちが6人、三人ずつに分かれて向かい合う。2メートル余りの「かぎ」と呼ばれる先が二股になった木の棒で、相手を威嚇しながら股を引っ掛けあう。

 誰かの木の股が相手の股に引っ掛かったところで、両者は一気に力いっぱい引Anrakujinja_053 きながら、相手を自分の方へ引きずり込もうとする。

 今年は、向かって左のチームが引っ張り込んで勝ちを収めた。

 このあと、昨日と同じ「正月踊り」(安楽正月踊り保存会)が太鼓・三味線もにぎやかに奉納されて一連の祭礼は終了した。ちょうど2時間の行事であった。

  マップは前日(2月9日)の山宮神社祈年祭ブログを参照。ただし安楽神社(鳥居マーク)の位置はもう少し南で、安楽川寄りにあるので注意。

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山宮神社祈年祭(志布志市安楽)

 国指定の巨大クス(推定1200年、樹高26m、胴囲14m)を境内入り口に持つ志布志市安楽の山宮神社Shibushiyamamiyajinja_005(祭神・大友皇子・天智天皇など六柱) で、祈年祭があった。

 山宮神社は明治以前は「山口六社大明神」と呼ばれており、志布志郷の総社の地位にあった由緒のあるお宮だ。志布志と鹿屋を結ぶ国道220号線の「稚児松」という信号から北へ約2キロ、安楽小学校のすぐ先に鎮座する。

 社伝をもとにした由緒書によると、創建は和銅2(709)年というから古い。まだ大隅国が日向国から分立(713年)する前ということになる。Shibushiyamamiyajinja_009

 和銅2年からほぼ百年後の大同2(807)年、このお宮に「安楽神社(玉依姫)」「田ノ浦山宮神社(天智天皇)」「鎮母神社(倭姫)」「若宮神社(持統天皇)」「枇榔神社(乙姫)」の志布志一円に祭られていた5社が合祀され、それから山口六社大明神と称えられたという。

 由緒よりも参拝に来て何よりも目を惹くのが巨大クスだろう。大地から盛り上がる根(根回りは30m近い)の迫力にはすさまじい物がある。Shibushiyamamiyajinja_013

 十時から始まるということだったが、その前に赤い陣羽織風の物を着た4人の男の子が、拝殿前、二基のみこしの隣に弓を手に居並んだ。床几に腰を下ろして威儀を正した風である。

 近くの人に聞くと、「検非違使」なんだそうだ。検非違使と言えば、検察官のような役目で何かを守っているのだろう。祭礼を悪霊から守るのか、それとも祭礼がちゃShibushiyamamiyajinja_018 んと行われるかを検分するのか、よくは分からないようだ。

 十時になって宮司たちが現れ、拝殿に向かって左側に設けられた修抜所の前に参列者を案内し並ばせた。

 参列者の先頭に検非違使少年たちも並び、修抜の祝詞奏上のあと、みんなと一緒にお祓いを受けていた。Shibushiyamamiyajinja_027

 お祓いしてから、参列者一同は拝殿に上がり、それぞれに玉ぐしを捧げたあと、再び境内に降り、今度はひとりの係りが手に何やら持って宮司の後に続く。よく見ると細い竹串(ただし、緑の皮を一部残している)で、わざとササクレさせたうえ、先を割ってそこに白と赤の紙を挟んでいる。

 本殿横にある小さな長方形の仕切りの砂場のような物の前まで行き、拝礼をする。それから宮司を先頭に、「大和の国は・・・」などと唱えながら本殿と拝殿の周りをShibushiyamamiyajinja_031 三周し、それから参列者に向かって「さあ、植えもそかい」と言う。

 それを受けて、みんなは三宝の上の竹串を、小さなシラスの砂場に一本ずつ植えつけていく。何のことはない、田植えなのであった。こうして早くも「お田植え神事」が済んでしまった。

 そばにいた地元らしき人が言うには「明日の安楽神社のお田植え祭りこそが見ものだ」そうだ。なるほどここは祈年祭だったな、と納得する。Shibushiyamamiyajinja_039

そうこうしているうちに、拝殿の方に何やら得体の知れない風体の者が二人出現した。夫婦の田の神だという。

 男神は太い孟宗竹を肩紐でぶら下げたうえ、1メートルもありそうなしゃもじ(メシゲ)を持ち、女神はすりこぎ棒のような物を手にしている。二人とも拝殿に上がるよう促されて、中に入った。Shibushiyamamiyajinja_043

 拝殿の中でどっかと座り込むと、氏子総代のような老人と珍妙なやりとりを始めた。

 見ていると田の神は老人の問いには決してしゃべらずに、うん、うんと言うくらいで、結局はしたたか呑まされる羽目になるらしい。Shibushiyamamiyajinja_050

 田の神問答が済むと、境内ではにぎやかな太鼓・三味線の音曲に乗って舞が奉納される。

 地元の「正月踊り」で、「安楽正月踊り保存会」のメンバー15,6人が、大振りな踊りを境内狭しと繰り広げていた。

Shibushiyamamiyajinja_052 踊りの衣装が変わっていて、顔を黒頭巾で包み込み(眼だけは出すが)、その上に白い鉢巻を締めるのだが、頭の後で、なぜか三角にする。三角が前の額側に来ればまるで幽霊だが、いったいどんないわれがあるのだろうか。聞き漏らしたが・・・。

 それにしても曲数が多い。数えはしなかったが、おそらく12~3番はあっただろう。寒空だが、汗をたっぷりかきそうな運動量に違いない。

Shibushiyamamiyajinja_056  踊りの奉納が済むと最後の行事「浜処下り(はまどくだり)」だ。普通はこれを「浜下り」というが、ここでは浜処下りと言うそうだ。

 猿田彦の面を先頭に、氏子総代、神主、そして二基のみこしが続く。見ていると特別に神輿に「神移し」のような所作をしなかったが、境内に並べた時点ですでに移していたのだろうか、確認はできなかった。

Shibushiyamamiyajinja_060 門を抜け、鳥居をくぐると、駐車場のはるか向こう(200メートルくらい)に、背の高い一本杉が見える。その下が「浜処(はまど)」だという。

 この浜処下りについて書いた小さな紙が配られたが、それによると、ここに逗留された天智天皇が崩御ののち 、田ノ浦の御在所岳に御廟が営まれたが、そこを遥拝するための台座が「浜処」だそうだ。Shibushiyamamiyajinja_065

はまどは高さ60センチ、幅150センチ、奥行き100センチほどのブロック作りの何の変哲もない台座で、到着後、二基の神輿を置き、すぐに神主が拝礼をするだけで終わり、また来た道を引き返すだけ。

 昔は街中を神輿が練り歩いたらしいが、担ぎ手がいなくなった、というのが実情らしい。

 Shibushiyamamiyajinja_068 再び神社の方に向かう。

 最後に獅子舞があるというので、鳥居の前で待っていると真っ赤な装束の獅子が現れたのには驚いた。

 実はこの獅子、ライオンの獅子ではなく「イノシシ」なのだという。

Shibushiyamamiyajinja_071 獅子舞は何と言ってもあの獅子の巨大な金歯でパクパクと開く口の迫力が見ものなのだが、ここの猪のシシは口が開かないようになっている。

 それならまだしも、頭から背にかけて竹ざおのようなものが一本入れてあるだけの、ボリュームのないシンプルそのものの作りなのだ。

 Shibushiyamamiyajinja_073_2 このイノシシは天智天皇が田ノ浦からこの安楽の地へやってきた時の土産だという。だから、こんなに弱弱しくみすぼらしいのだとも聞いた。しかし私は「やせて、みすぼらしいイノシシ」でぴんと来た。『ソジシの空国』だろう。

 天孫ニニギノ尊が日向に降りようとした時、その地を形容して『ソジシ』つまり「イノシシの背の肉」のように「空っぽで何にもない国」と表現したが、それが下敷きになっているに違いない。

 それにしても、志布志にどうしてこんなに天智天皇の伝承が多いのだろうか。いつか解き明かしてみたいものだ。

 マップ(志布志の大クスのところが山宮神社。その南の鳥居マークが安楽神社)

Shibushiyamamiyajinja

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節替え(セッガイ・錦江町田代)

Seggaitasiro_002

 錦江町田代川原に着いたのは午後5時半ごろで、柴立地区の田んぼ地帯の道沿いに二つ、川(雄川上流)向こうの鶴園地区にひとつ、竹のやぐらが冬枯れの田んぼの中に高々と設えられているのが見える。「セッガイ(節替え)」の準備が整っていた。

 高さは下の塊の部分で6メートルほどだろうか、一本だけ葉っぱをつけたままの孟宗竹が中心に立てられており、その高さは優に15メートルはある。

Seggaitasiro_005  よその地区では主に正月6日の夕方か、小正月の前日の14日あたりに行う「鬼火焚き」「とんど焼き」が、ここではいつも節分の夜に行われる。

 「セッガイ」とは「季節を替える」ということで、大寒の最終日である今日の節分の日から、明日の立春へと季節が変わることを画しようという節目の行事だ。Seggaitasiro_008 

とっぷり日の暮れた午後6時半、いよいよ点火。以前参加した田代町の大原地区の場合は、火をつけるのは「年男」ならぬ「厄年の男女」と決まっていたが、ここでは集落の役員らしき高齢者が火をつけていた。

 いや、点火の真似事だけは厄年の人がやって、あとは危ないから係りがつけて回ったのかもしれない。うっかり見落としてしまった。Seggaitasiro_007

点火棒を持った係りの高齢者が一周すると、あっという間に火が燃え盛り始める。

 西風が強く、写真を撮っている東側に炎が吹き出されてくるので、田んぼから道路に移動する。Seggaitasiro_011

 炎がやぐらの高さを越えるのに一分かニ分かしかかからなかったろう。周りに衝立のようにびっしりめぐらしてある小竹(ニガタケという種類)は、いったい何把くらいあるのかと訊いても、「さあ、分からん。数えちょらん」と言う。おそらく100把(千本くらい)は越えるだろう。それでもこの炎と西風の強さでは、たちまち燃え尽きるのでは、と思えた。

Seggaitasiro_013 集落の参加者は、その小竹の束の中に前年のお札やお守りなども投げ込んでおくらしい。

 炎を見上げながら、今日の大寒までの冬篭りを終えて、明日の立春が、生き生きとすがすがしく迎えられるように祈っているのだろうか。Seggaitasiro_022

十分ほどで、風の当たる西側の小竹だけを残してすっかり焼け落ち、芯になっている孟宗竹の骨組みがむき出しになった。

 係りの人たちが、その骨組みが崩れ落ちるのを見守ろうと、そばに集まってきた。

 そのとき後からぱちぱちと音が聞こえてきた。振り向くと、200メートルくらい離れた田んぼの中で鬼火が点火されSeggaitasiro_024_2 ていた。

 聞けば「平石集落」の鬼火焚きだという。ここのは「上柴立集落」で、川向こうのは「鶴園集落」、さらに上流側に「郷ノ原集落」のものと、川原地区では都合4ヶ所で行われているという。

 Seggaitasiro_028 ふと見ると、道路の向こう側、発電機の明かりに照らされて、老人が二人小竹(ニガタケ)を手に手に、一心に先のほうを削っている。

 いったい何にするのかと聞くと「モチを先に付けて焼くんだよ」。

 よく見れば削っているのではなく、先を割っているのであった。その割れたところに切り餅を挟むというわけ。なるほど、まるでつり竿のような長さだ。

Seggaitasiro_032  モチ竿を手にした男の子たちが、鎮火しつつある火の周りに、早くも陣取って待っている。炎が収まらないと上手く焼けないと言われているのだろう、今か今かと気がせくのか、立ったりしゃがんだり落ち着かない。

 子供たちを撮っていると、係りの老人に焼酎を勧められたが「車で来ているので」と断ると、「それじゃ、モチでん焼かんか」とモチと竿を手渡された。Seggaitasiro_034_3

「そろそろ、よかど」の声で、周りに人が集まってきた。みな手にはモチの付いた竿。それを火の中に差し出すが、「直接火につけたらいかんよ。煤けて美味くなくなるから」とおばさんに言われ、なるほどと地面にたまったオキ炭の上にかざすようにした。

Seggaitasiro_035 ニガタケは細い竹だ。モチが焼ける前に竹が焼けては話にならない――と心配したが、2分もかからぬうちにモチのほうがしんなりしたので、火から出してみる。

 いい具合に焼けている。早速、凍える手で掴み、口の中へ。本当は焼酎の方が・・・と思いつつも、やはり温もりは十分だった。

    マップ(錦江町スクロール図・田代川原地区は錦江町中心部から東南へ8キロ)

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住吉神社の流鏑馬(曽於市末吉町)

Sumiyosijinjayabusame_025 曽於市役所(曽於市末吉町)の東南3キロほどに鎮座する住吉神社(祭神は住吉三神=ウワツツノオノ命・ナカツツノオノ命・ソコツツノオノ命)で秋の例祭に行われる流鏑馬を見に行った。

 このところ暦通りの晩秋の冷え込みが続いているが、風が無いので日中は過ごしやすい上天気。十二時過ぎに到着したが、走るのは1時頃からというので石の鳥居の少し先で待っていると、放送があり一時半だという。

 待つほかなく待っていると、やがてポニーに乗った小学2年生という子が手綱を引かれて神社の方から現れた。本走の前の清めの意味があるらしい。Sumiyosijinjayabusame_029

石の鳥居まで行くとUターンして走り出した。近くまで来たとき、その意外な速さにびっくりした。ポニーだからと侮ってはいけない。おそらく時速30キロはあっただろう。単車と同じか少し速いくらいに思えた。

Sumiyosijinjayabusame_030

 そのあとようやく本走の馬が三頭、それぞれに騎手をのせて現れ、スタート地点の石の鳥居までパレードする。よく見ると一番手の馬には騎手の前にさっきポニーで走ったちびっ子が乗っている。ほほえましい光景だ。

 

 いよいよスタート。石の鳥居から二の鳥居までの350メートルを疾走する。Sumiyosijinjayabusame_035

 その前に急いで二の鳥居近くまで行くことにした。高山の流鏑馬では走る距離は2丁、約220メートルだが、ここのは優に1.5倍はある。そうすると最後の方は相当なスピードだろうと思ったのだ。

 案の定、下に撒いてあるシラスがひずめで巻き上げられ、砂ぼこりとなって舞っていた。乗り手も怖いだろう。

 Sumiyosijinjayabusame_036 二の鳥居前では神職らしき大人が二人がかりで手綱を握り、どうどうと押さえつけていた。

 大隅半島ではこの住吉神社の流鏑馬と、今しがた触れた高山の四十九所神社の流鏑馬が長い歴史をとどめているが、鹿児島県ではもうひとつ薩摩半島の旧吹上町(現日置市吹上町)の大奴牟遅(オオナムチ)神社で行われている。

 あちらは天文7(1538)年に時の伊作一円の領主・島津忠良(日新斎)が始めたことがはっきりしているので、470年の伝統。こちらは高山のが900年、住吉神社のは明確ではないが、おそらく中世の初めごろには行われていたようだから、かれこれ800年の伝統。大隅は特殊なところだとつくづく思う。

 Sumiyosijinjayabusame_005 そこで、住吉神社と住吉山を探索する。

 

 標高267メートルの住吉山に向かって登るような感じで参道の石段が続くが、段差の小さい広い石段なので苦にはならない。途中、左手には直径2メートル近い巨杉があって、いかにも聖域らしい雰囲気が漂う。

Sumiyosijinjayabusame_011 拝殿に前には人だかりができていた。

 それもそのはず、左手の広場で空手道場の試合が行われているのだ。

 ブルーシートの上で小学生のちびっ子たちが、大きな声を上げていた。Sumiyosijinjayabusame_014

 空手の試合もさりながら、私は向こうに見える小さなお宮の後背の丘が気になってしょうがなかった。杉の植林の下草がきれいに刈り取られて地肌が見えるのだが、どう見ても古墳にしか見えないのだ。

 そっちに歩いて登っていくことにした。少し登るとやはり上はなだらかに丸っこい。自然の造形にしてはきれい過ぎる。うむ・・・。だが、さらに上を目指すことにした。やや高みから神社を見下ろすと、本殿は朱色ではなくごく普通の木造りのそのままの姿だった。Sumiyosijinjayabusame_020_2

 

 山頂へはさしたる距離ではない。おそらく神社の位置がすでに標高にして230メートルくらいはありそうだから、標高差は40メートルほどでしかない。200メートルも歩くと、見晴らしのきく明るい広場に出る。

Sumiyosijinjayabusame_018 二つを人工的に縦に並べたとしか思えない石の造形が、マウンドの上二ヶ所にあった。

 立てられている説明板によると、大正年代(90~100年前)に鳥居龍蔵という民族学者が調査に来て、発掘を指示したところ、石組みが現れたそうだ。

 鳥居龍蔵はこれらを「ドルメン」(石のテーブル状の墓)だと言ったそうだが、それにしては小さいような気がする。

Sumiyosijinjayabusame_017  いずれにせよ、ここが聖域であったことは間違いない。住吉山は「姥が岳」という別名を持つというが、そのあたりに解く鍵はありはしないだろうか。

          マップ(スクロール型)はこちら

 

 

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高山の三山縦走(肝付町)

かねてより希望の高山町(現・肝付町)の三山縦走だったが、ようやく昨日果たすことができた。Kouyamamitakemairi_003

 三山縦走は江戸時代からある行事と言い、以前は「三岳参り」と呼ばれ、本来は旧暦4月3日(方言でシンガサニチ)に行われていたそうだ。男女の出会いの場だったという説(歌垣=かがい=説)もあるが、それよりシンガサニチと言えば「神武天皇東征」の出航日を思い出す。

 そんな古い、確証もない話を持ち出すと笑われそうだが、東串良町でその日、凧揚げをして風向きを確かめるという風習があったことは事実である。

 それはさておいて、現代の三岳参りは「国見校区の青少年育成行事」としてKouyamamitakemairi_005 復活しているというので、参加させてもらうことにした。旧高山町の窪田哲郎税理士の紹介によるが、氏はあいにく当日の参加が不可となったので単独で行くことになった。

 朝7時過ぎに肝付町役場の南3キロほどの所にある国見小学校に着いて、事務方の国見小の教頭先生のチェックを受ける。7時半には100名近くの参加者が三々五々集まり、国見峠まで登るというマイクロバス三台に分乗して出発。

Kouyamamitakemairi_008  約30分で国見峠(769m)に到着。そこからは国見岳無線中継所まで歩くのかと思ったら、中継所の許可を得たのだろう、レーダーサイト(888m)まで車で行ってしまった。

 ここが開会式の場所であり、縦走の出発点だ。縦走距離はほぼ10キロ、6時間を予定していると言う。育成会会長の挨拶と、高山三岳会会長の挨拶があっていよいよスタートかと思ったが、班ごとに記念写真を撮り始めた。

 Kouyamamitakemairi_014 怪訝に思っていると、完歩証に載せると聞いた。ええっ!今日の行事の終わりにそんなことがあり得るのか――と驚いたが、実際、午後4時の閉会式の時に手わたされて、2度ビックリ(このブログの最後参照)。

 出発は8時40分ごろ、班ごとに分かれて歩き出す。200メートルほどで高屋山上陵(彦ホホデミのお墓)という言い伝えのある国見山(887m)への細い道を左に見送り、なおも来た道を国見峠へ戻る。

 現代版「三岳参り」では国見岳のレーダーサイトを国見の場所とするらしい。Kouyamamitakemairi_018 確かにこちらの方が眺めが良い。おそらく大隅の山では高隈山の御岳か、南大隅町の辻岳と並ぶ展望名所だろう。これから目指す甫余志岳も優れているが、東側に若干の藪があるのが惜しまれる。

 国見峠に立ち戻り、そこからはいよいよ尾根筋に入る。黒尊岳(908m)を経て甫余志岳(968m)まで6キロの道のりだ。

 道は高山三岳会の会長はじめ会員諸氏が、先月の下旬に踏査・整備をしてくれていて、迷うことのない明瞭な行路がずっと続く。ありがたいことでKouyamamitakemairi_020 ある。

 黒尊岳までは2キロ足らず、さほどのアップダウンもなく、まだみんな元気なので大体予定通りに行き着いた。頂上のやや西寄りに「黒尊岳のほこら」こと「イワナガ姫神社」があるというので、迂回して参拝する。

 なるほど岩だ。高さ5~6メートルの巨大な花崗岩の岩で、正面から左手に回ったところの岩陰に小さなお宮があった。祭神の「イワナガ(磐長)姫」は皇孫ニニギノ命の后として、妹の「コノハナサクヤ姫」とともに差し出されたが、醜さのゆえに容れられなかったという不遇の女性だが、しかし、美人の妹をもらった皇孫は短命になってしまった。Kouyamamitakemairi_023

 それはイワナガ姫が嫉妬の余り呪ったからというわけではなく、「イワうこと」を忘れたからだと言っているらしい。イワナガとは「長く祝う」で、「祭る」ことと同じ意味だろう。一言で言えば「祭りを忘れてはいけない」という戒めになる。

 ちなみに国見岳に祭られているのは皇孫二代目の「彦ホホデミノ命(山幸彦)」で同時に御陵でもある。また甫余志岳にも同じホホデミが祭られているが、こちらは子のウガヤフキアエズノ命をタマヨリ姫が養育した場所との伝承が Kouyamamitakemairi_028 あり、そのため元来「母養子(ホヨウシ)岳」だったのが、甫余志岳と転訛したそうだ。

 イワナガ姫神社の周りには「ツチトリモチ」があちこち群生していた。よく見ないと何か赤い実でも落ちているくらいにしか見えないが、愛らしい形にやや毒々しい真紅の色が何となくイワナガ姫の情念を漂わせていた。Kouyamamitakemairi_027_2

 赤いと言えば、まだ紅葉もほとんどしていない緑一色の照葉樹林帯の山道の無聊を慰めてくれたのが、「ミヤマシキミ」の赤い実。

 初夏にチンチョウゲに似た白い花をつけるミヤマシキミの実の赤さは、濃い緑の葉に包まれてより一層鮮やかだ。

Kouyamamitakemairi_037 黒尊岳から標高差200mを下り、今度は甫余志岳の稜線へ向かって再び200m登り返す。これはきつい。

 前を行く子供たちが、何度か悲鳴を上げていたが、こちらも脚がつりそうになるのを堪えるのに必死だった。

 それで、頭の上のほうが明るくなったなと思ううちに、稜線の直前にでんと構える巨石の展望台を目にしたときは、何とも嬉しかった。

Kouyamamitakemairi_039  さっそく岩の上にあがり展望を楽しむ。

 さっき出発した国見岳のレーダーがはるか向こうに見えていた。ここまで約6キロの山中を歩いてきたが、それが実感として分かるのが醍醐味だ。高齢者も岩の上で嬉々としているではないか。

 さあ、甫余志岳まであと1キロ。稜線上のプロムナードだ。きばい(気張り)もんそ!Kouyamamitakemairi_043

展望岩から約20分でいよいよ頂上だ。われわれの班は最後尾なので着いたはいいが足の踏み場もない。何せ100人近い大人数。芋の子を洗う状態。

 いつもは足元に見えている巨岩の頂上がこんなに狭く感じられるとは、思いもよらなかった。うれしい悲鳴!時計を見ると何と1時半。道理で腹が空いているわけだ。

 ようやく一番北寄りの岩畳の緩い斜面に腰を降ろし、おにぎりをほうばる。Kouyamamitakemairi_044

 腰を下ろした正面には錦港湾越しに開聞岳の麗姿(逆光で撮れず)。右手の北方向には高隈山系が全容を見せていた(右の写真)。天気は快晴で無風という最高の登山日和なのだが、惜しいのは霞んでいること。

 (これ、まさか中国製ではなかろうな。何でも作ってしまう中国は偽ブランド商品に飽き足らず、光化学スモッグの原因物資まで輸出(?)し始めたらしいから・・・。今度開かれた全人代という日本で言う「国会」で、胡主席が「環境問題」を大きな政策課題に挙げていたようなので、やや安心だが、早いとこ頼むよ。)Kouyamamitakemairi_051

 Kouyamamitakemairi_054 昼食を30分で終え、甫余志岳を後にしたのが2時だった。いつも利用される二股川林道が通行止めということで、今回はそちら側(西側)には下らず、姫門地区(南側)に下った。どちらをとっても1時間の下りだが、姫門コースは強烈な坂道がずっと続く。その上、沢(水場)もないから、登りには使いたくないコースだ。

 ひざがガクガクし始めるころようやく登山口に下り着いた(左上の写真は同じ班Kouyamamitakemairi_056 の仲間たちで、国見小学校のPTA会員)。おやっとさあ。

 姫門登山口からマイクロバスで閉会式会場の二股川キャンプ場に向かった(約6キロある)。着くとすぐ、ぜんざいが振舞われた。青少年育成会のお母さんたちと、多分、村作り(振興会)婦人部の人たちの合作だと思われるが、心づくしが温かかった。

 

 閉会式ではくだんの「完歩証」が授与された。むむ・・、すごい早業だ。今回の行事で事務方を取り仕切った国見小Kouyamamitakemairi_060 学校の教頭先生の手作りだという。

 育成会会長が班ごとの代表者に手渡すのを見ていると何とも微笑ましかった。

 小学生も高齢者も同じ賞状をもらうなんて滅多にないことだろうし、育成会長が挨拶の中で言っていたように「苦しさをみんなと共有して乗り越えたという経験は、ふるさとを強く思い出すきっかけになり、将来の心の糧となる」その証しには十分なるだろう。

    その「完歩証」(裏には参加者全員の名が、班ごとに書かれている)

Kouyamamitakemairi_061   

 マップ(赤い十字は国見峠。矢印は甫余志岳稜線上の巨石展望台)

Mapkouyamasanzan

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弥五郎どん祭り2007

そんなに早いんですか――とわが耳を疑った。午前4時ごろだという。

 曽於市の商工観光課に、岩川八幡神社の「弥五郎どん祭り」の弥五郎人形が、身支度を整えて立ち上がる(起き上がる)時間を問うたところ、そんな返事が返ってきた。

 マジかよというのが偽らぬ本音。弥五郎どん祭りでは、例の大人・弥五郎が山車のように街中を引かれて回るという大見世物が、午後行われるが、残念ながら仕事で行けない。しかしどうしても見ておきたいものがある。それが朝早く「起きっどー」の合図で起こされる弥五郎どんの姿だ。

 小耳に挟んだ時間では6時だった。それでもこちらから一時間以上かけて行くには十分早い時間だが、4時だったとは・・・。そうなると2時半ごろには出て行かねばならない。いや、このごろ行く祭りの度に時間遅れだったりしているから、少なくともさらに30分は早く行かないといけない。とすると、2時だ。いやはや・・・、寝る時間もない・・・。

 で、2日の晩は9時に寝ることにした。何とか一眠りし、起きたら1時だった。よかった・・・。少しまどろんだあと、がバッと起きて、身支度をする。厚手のジャンパーと手袋、ポットにお茶をいれ、懐中電灯を手に外に出て単車にまたがる。

 途中、24時間やっているガソリンスタンドに寄り、燃料を満たす。さあ、40キロの道のりだ。気を引き締めて国道269号をひた走る。

 Yagoroudonmaturi2007_002 深夜の国道はさすがにガラガラで、一時間十分ほどで岩川八幡神社に到着。すぐに境内に上がると、拝殿の中では弥五郎どんの組み立ての真っ最中。

 境内を見回すと結構子供の姿が多い。こんな真夜中に眠くはないのかといぶかるが、この子達が真夜中にやってくるわけがあとで分かった。弥五郎どんの起こし方の加勢をしようというのだ。多分、その綱を引くことで、弥五郎どんの力を授かろうというようなことなのだろう。無病息災、学業成就・・・何でももらいなさい。

 拝殿横の広場では焚き火がたかれ、まるで大晦日の除夜の鐘を待つというYagoroudonmaturi2007_004 雰囲気だ。

 焚き火の奥のほうにはテントが張られ、そこで甘酒を振舞っていたので、ご馳走になる。渋茶色の法被を着ている若者たちが応対しているので、聞いたところ大隅町商工会青年部だという。

 

 もとはこの神社の周辺の集落が祭りの主Yagoroudonmaturi2007_010 催をしていたのだが、高齢化、過疎化のためできなくなり、以来引き継いでかれこれ40年になるという。もうすっかり青年部の年中行事の一つになっている。それも最大の規模だろう。900年という伝統がこうして引き継がれた。うれしいことだ。

 Yagoroudonmaturi2007_013_2 待つこと40分、弥五郎どんの組み立てが終わったらしい、サーチライトが拝殿の入り口に持ってこられ、さあ、いよいよお出まし。

 

 下半身はまだ網み竹のむき出しだが、上半身が出てくるとさすがに巨大な姿だ。頭もでかい。

Yagoroudonmaturi2007_016 大人・弥五郎どんは「武内宿禰」か「大和王朝に楯突いて敗れた隼人の親分」かで意見が分かれているが、見るものを圧倒する巨顔であり、面相だ。身の丈4.85メートルはやはり大きい。Yagoroudonmaturi2007_020_2

  足元を山車の台車に取り付け、手に薙刀のような矛をもたせ、さらに腹の辺りに三本の太いロープを縛り付けると、大人も子供も混じってロープを手に取り、まるで綱引きが始まりそうな雰囲気。

 一人の青年部青年が引き手に向かってなにやら注意を与え、それが終わると拝殿の中から太鼓の音が聞こえてきた。

 「そいじゃあ、よかや、いっどオ。そら、起きっどー、起きっどー!」Yagoroudonmaturi2007_028

青年が叫ぶと、みな一斉にロープを引き始める。

 「それ!それ!それ!」

 むむむ、そろりと起き出した!

                    「まだや、気張れ!」Yagoroudonmaturi2007_029

  そら、そら、もう少し!

Yagoroudonmaturi2007_032_2  やれやれ、みんなオハヨー、長ごう寝ちょったワイ。

 さしかぶいの(久しぶりの)外ん空気はうんまかなア。

 このあと弥五郎どんは、足元まですっぽり梅の染料で染められたという丈の長い衣装をまとい、さらしの帯に二本の大刀を差した姿で完成となる。まだ2時間はかかるというので、社務所に行き、宮司さんを訪ねてみることにした。

 宮司さん、名前は谷川さんといい、中学校で長く教えていた人で、同じ社務所にいた60台半ばと見える氏子総代の山中氏を教えたという。

 もう一人話しに加わったのが宮元氏で、氏は万寿2(1025)年にここから京都の岩清水八幡宮を勧請に行ったときの供奉の10人の中の一人の子孫で、祭りでは矛を持つ役目を先祖代々継いでやっているという人だ。もし勧請の時からやっているとすれば、もう間もなく千年を迎えることになるという。まったく恐れ入る。供奉の10家は「宮仕」と書いて「みやだち」と呼ぶそうで、そんなところにも古式を感じる。

 話は八幡神社の創建のことから始まった。万寿2(1025)年に勧請したとき以来、お宮は元八幡という地区にあり、今の場所に来たのは大正3年だという。そのころの弥五郎どんはもう少しスマートだったらしい。「やはり、栄養事情が良くなったせいかな」と谷川宮司が笑う。さもありなん、巨像というものは年々大きさを増していくという傾向にある。

 祭神については、神社としては「武内宿禰」説。だが、いかんせん文献があるわけではなく、伝承だと言う。でも祭神の中に「武内宿禰」が入っている八幡神社はごく少ないので、可能性としては高いのではないか。

 もうひとつが「大和朝廷に敗れた隼人の首長」説だ。青年部の青年に聞いてもおおむねこの説を採っているようだ。ちょっぴり残念。まあ、武内宿禰は教科書には出てこないから、仕方がない。武内宿禰実在説が一世を風靡するようになるまで、神社にはがんばって頑固に「武内宿禰だ」といい続けてほしいと思う。

 もうひとつの話題。それは海岸に近いわけではないのになぜ「浜下り」と言うのか、ということ。

宮司さんは「あるところの祝詞に<里見(さとみ)>という言葉が出てきたが、要するに祭神が神社から出て、集落の中をいろいろ見て歩く、つまり民の様子を巡検(巡見)しに行くことが浜下り行事の中心ではないか」と言われる。また、「ここは確かに海からは遠いが、昔は4里も離れた志布志町まで徒歩で行って帰るのはさしたる苦労でも何でもなかったような時代で、それを考えるとかっては本当に海岸まで行っていたのかも知れない」とも。

 なるほどごもっともである。だが、私見もちゃんと述べておいた。いわく「浜下り」とは本当は「天下り」なのでYagoroudonmaturi2007_038_2 はないか。天孫ニニギノ命だけが天上界(高天原)から「天下り」したことにしたい大和朝廷の意向が貫かれ、天皇家ではない如何なる始祖も「天下ってはいけない」ようにした。だから地方の王者が使うときは「天下り」ならぬ「浜下り」と卑下させたのではないだろうか・・・、と。

 ストーブの焚かれた暖かい社務所の土間でこんな話をしているうちに6時が鳴った。少し空も白み始めている。いとまごいをして表に出ると、弥五郎どん、ついに大刀を腰に差していた。 

 Yagoroudonmaturi2007_041  提灯がまだともる参道の階段を下りる。

 鳥居の向こうは東で、あと少しで日の出だ。鳥居下の道路では、行商の屋台店が次々に開店の準備を始めていた。天気は上々。人出は大いに見込めるだろう。

  マップ(赤い十字が岩川八幡神社)

Mapiwagawahatiman

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九月十三夜の綱引き

 時間を間違えた!

 7時からと思ってその少し前に行くと、綱引きはもう済んでおり、相撲が始まっていた。聞けば6時からだったという。日曜日の高山流鏑馬祭りといい、今日の綱引きといい、最近時間をよく間違える。

 ともあれ、相撲だけでも鑑賞に値するだろうと気を取り直す。Yabusametomyouzubaru_045

所は、鹿屋市吾平町名主(みょうず)地区公民館の中庭。この地区では昔から旧暦九月十三日の夜、一般には「芋名月」と呼ばれる月の出の元で綱引き行事が行われている。

 旧8月15日の綱引きは大隅地方でかなり見られるが、旧9月13日の綱引きは珍しい。県下でも余り例がないのではないかと思う。

Yabusametomyouzubaru_044  お母さんと小学生の子供の対戦の最中だった。

ここの土俵は綱引きに使用した綱そのものを使っている。これは古式である。ただ、綱の材料が主に稲藁らしく、その点は簡略化されているようだ。本来は山や地区の共有の茅場などでチガヤやカズラを採ってきて練り上げる。

 件の相撲はとうとうお母さんが勝った。むむ、やはり強し・・・。

Yabusametomyouzubaru_046 つぎは下名(しもみょう)小学校の校長先生が土俵に上がった。今年新たに赴任してきた校長のようで、行司から受け取ったマイクでそう自己紹介していた。

 相手は3年生くらいか、不足のない相手と見た子供はどんどん攻め立てる。校長先生は防戦一方で、ついに藁に足をとられて負けてしまった。

 お月様に子供の元気な成長の様子を見てもらい、ともに喜び合うのがこの行事の眼目で・・・、と先生、言ったとか言わなかったとか・・・。Juusanya_002

 よく「月へん」と言ってしまうが、正確には「にくづき(へん)」で、夜、寝ている間に肉体(動物・植物を問わず)を成長または回復させる働きがお月様(ツキヨミノミコト)。その働きを「夜食国(よるのおすくに)を知らす(統括する)」とした日本神話の伝統の一端がこの行事に現れている。

 それにしてもあのお母さん、肉付きがよかったな・・・。

 児等の声 Juusanya_003 月に村雲 十三夜

鹿屋市のスクロール地図はこちら

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流鏑馬祭り(肝付町高山)と城山

Yabusametomyouzubaru_002  十月の第三日曜日。昨日は10度、今朝は7度とぐっと秋めいてきた。

 去年に続いて快晴の、願ってもない祭礼日和だ。流鏑馬は午後2時から始まるというが、その前に「弓取りの儀」という神事が四十九所神社で行われると聞いていたので、逆算して早くとも1時頃か、それならその1時より15分も前に神社に着いていれば見逃すことはあるまい――と高をくくりながら2丁(220㍍)ある馬場を神社へと向かった。Yabusametomyouzubaru_006_2

 ボツボツ人の出が見られる馬場には騎者道に沿って荒縄が張られ、幣がぶら 下がり、出番を待つ雰囲気がそくそくと伝わる。

 神社の階段を上がり、社殿の前に出ると、もう奉納の踊り連でごった返していた。このあと「弓取りの儀」があるのだろうな、と思いつつ、自分も社前で拍手を打つ。

Yabusametomyouzubaru_003_3  少し境内をうろうろしていると踊り連の姿も消え、参拝客が三々五々訪れるくらいになってきた。もう始まるのか、と思いつつ待ったが、一向に拝殿に人の上がる気配がない。

 しびれを切らしたころ、境内に現れた神主(宮司ではなく禰宜さんだったが)に聞いてみると・・・・・何と!もうとっくに済んでいる、とのこと。あらよう、だった。

 12時10分ぐらいでしたかな、とのたもう。 例年そんな時間ですか? そうですよ、市中パレード(武者行列のことらしい)を終えてここに上がってくるとすぐ「弓取りの儀」がありますからね。Yabusametomyouzubaru_009_2

 やれやれ流鏑馬行事まで、まだ一時間以上ある。

時間つぶしにと裏山に登ることにした。裏山は山城のあったところでその名も「弓張城(ゆみはりじょう、キュウチョウジョウとも)」、弓取りが見られなかったその代わりにはもってこい、か。中世の城でもちろん当地の肝付氏のだが、南北朝時代の一時期、武将・楡井頼仲がここを拠点にしたことがある古い城だ。

Yabusametomyouzubaru_021 神社の左手から上る道があり、ちゃんと丸太(に似せたコンクリート製)の階段がしっかりとしつらえてある。何度かジグザグを繰り返すと峠のようなところに出る。

 標識が立っていて、右を行けばすぐに下りになり、下った先は国指定の「二階堂屋敷」の建つところだ。城跡は左手を行く。

 ここまで多分80メートルほど登ったことになると思うが、展望はほんの一角でしかない。木立の間にやっと志布志湾が一部を見せるだけである。Yabusametomyouzubaru_011 これから行く尾根筋からも一切の展望は得られないのが残念だ。

 それでも道は広々として歩きやすいし、椎やタブの生い茂った照葉樹林は適当に影を作ってくれるので、おそらく真夏でもそう暑さにやられず歩けそうだ。

 標高100㍍内外の稜線上には城址を思わせる物は何にもないと言っていいが、数々の巨岩が昔を偲ばせる。中には絶対人工だろうと思わせる石組みもあった。Yabusametomyouzubaru_013

尾根筋から2~3メートル下がったところに、縦1.5m、横2m、厚さ0.5~0.8mくらいの平たい石が、四角い石に後ろを支えられて立っている。どう考えても自然の造形ではない。何かの碑かとも思ったが、表面に刻字はない。

 ドルメンを立てたような塩梅だ。

 そう感じながらやや行くと、何とまさしくそのドルメン状の石組みが現れた。上に木が立っているのも不思議だ。Yabusametomyouzubaru_020

  厚さ50センチほどの角のある楕円形の石が、3~4個の石の上に見事な水平を保って鎮座している。

 ドルメンは弥生時代の遺構で、九州でもほとんど北部にしかない。西九州ではかなり南にあるらしいが、東九州では聞いたことがないし、ましてこんな山の上にあろうはずがないのだが・・・。まあ、自然の造形としておくのが無難。

 ただし、とんでもなく古い人工物の可能性は残される、としてもよい。Yabusametomyouzubaru_028

城山で小一時間を過ごして戻ってみると、やがて大鳥居の前に騎乗の若武者が登場した。例年この若武者は中学二年生の中から選ばれるという。立候補だそうだから頼もしい。というより大変だ。

 というのも今日の晴れ舞台まで約50日の訓練が必要だそうなので、生半可な気持ちではできないらしい。乗馬のイロハから始まって、手綱を離したまま走るまでにはかなりの訓練と緊張が要るという。一週間前から家族とも「別火」つまり一種の「お篭もり」状態、さらに三日間の潮掛け(海のみそぎ)がある。Yabusametomyouzubaru_029

 若武者の家族も名誉といえば名誉、大変といえば大変だ。なにしろ騎手の矢の当たり具合で「五穀豊穣」「天下泰平(地域の安全・繁栄)」が占われるというのだから、子供以上の重圧がかかるに違いない。だからお父さんも紋付を着て、真剣な面持ちで、子供が走る馬場を念入りに「潮ふり」(みそぎをした海岸の砂を撒く)して回る。

 乗っている馬は今年新しく阿蘇のほうからやって来たという栗毛の馬で、少年との息もぴったりのようだ。Yabusametomyouzubaru_035

一回は歩いて、もう一回は矢を打たずに空走りをし、そのあといよいよ本番だ。

 今年は三番的で出走を待った。神社のほうからかすかなどよめきが起こり、それが伝わってくるともうすぐだ。どこからこんなに集まったかと思われる観衆の中、矢を放った瞬間を捉えようとおおぜいがカメラを向ける。

 と、少年の放った矢は、見事に命中した。Yabusametomyouzubaru_036_2

 今年は9射のうち、8射が的中した。五穀豊穣は間違いなしだ。少年も家族も大役を果たした充実感に浸っていることだろう

 900年続くという神事もこれで幕を閉じ、このあとは街中に踊り連が繰り出して、実りの秋はいよいよ深まっていく。

Yabusametomyouzubaru_042

 

 肝付町高山地区のスクロール地図はこちら

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八月口説き踊りと鉦踊り

Hatigatuodori_001  肝属川が中流の流れとなる所、鹿屋市川東地区では旧暦8月26日(今年は新暦で10月8日)になると、水神さあ、田の神さあへの感謝を踊りでささげる「八月口説き踊り」が行われる。

 口説き(くどき)とは「言って聞かせる」ことで、神々への場合は感謝の言葉が中心になる。口説くのは踊り手の女性連ではなく、座って三味線・鉦・太鼓を奏でる男たちだ。

 タブの木の下には水神さんの他に、田の神さま、見ざる・言わざる・聞かざるの三匹の猿を刻んだ物もあった。Hatigatuodori_008

 ここの田の神は盗まれていたのを、ある男性が96歳の祝いに新しく造って寄付したという。確かに昭和31年と記銘されている。

 地元の人の話では婚礼の夜、新夫婦が仲良くなるようにと一晩田の神を家に連れて行くという風習があったそうな。仲良くなるとはお分かりだろう「豊作(子供)に恵まれますように」ということ。そのまま返さない場合もあるというから、田の神さあも昔は忙しかったようだ。今は暇をもてあましているようだが・・・。

Hatigatuodori_016  川東は初めて来たところなので、踊りが終わってから集落を走ってみた。

 すると、さっきの踊りのあったところからシラスの台地まで上がり、しばらく西に向けて走ったら、教育委員会の石柱が目に入った。

 おや、と単車を止めてみると「川東古墳群」の案内柱だった。狭い石段を2㍍ばかり上がるとおやおや土饅頭がぽこぽこと並んでいる。手入れの行き届いたきれいな円墳だ。

Hatigatuodori_014  四基の円墳が重なり合うように築かれていた。

一番大きいのでも径10メートルあるかなしかで、高さも2メートルに満たない、とにかくかわいい古墳たちだ。古墳に眠るのは豪族と一応決まってはいるが、ここのはとても豪族とは思えぬ外観だ。さっき踊りのあった田んぼ地帯を治める有力者とは違うだろう。

 写真でしか見たことはないが朝鮮の陵墓の形にそっくりだ。もしかしたら渡来系の人物のものかも知れない。Hatigatuodori_029 

川東の踊り連が、午後からは王子町にある「和田井堰」の水神さあの前でも踊ると聞いて、 昼食後行ってみた。(和田井堰についてはこちら

 テントの向こうに四基の水神塔が並んでいるが、まずそこで祝詞などをあげて祈り、そのあと踊りを奉納する。

 黒紋付の衣装に濃紺の被りが緩やかに舞われると、あたりまでが優美な場所のように思えてくるから不思議だ。終わった後「花代」が読み上げられて祭りの雰囲気が盛り上がる。

Hatigatuodori_041_2  同じ川東地区の「光同寺の鉦踊り」もこのあと奉納された(右の写真。後方の山は御岳)。

 二人の締め太鼓の後ろに五人の鉦手が並び、それぞれ違った大きさの鉦を打ち鳴らす。音楽的だが、さほど響かない鉦の音なので余韻はない。ただし独特の素朴な音色だ。Hatigatuodori_053

 その一方、次に奉納された「王子町山中の鉦踊り」は人数も多く、動きもやや激しい。

 音楽的な構成は同じだが、二人の応援団長のような役回りがいて見ごたえがする。

Hatigatuodori_055_2  王子町の鉦踊りにはずいぶん若い子も参加していた。おそらく12,3歳だろう、鉢巻姿がなかなかりりしい。

 踊り始めてかなり経った頃、お年寄り連が、腰に巻いたごぼう締めの藁のまわしを着けて、踊りの輪に加わった。Hatigatuodori_059

 跳んだりはねたりの所作が多く、お年寄りにはかなり大変だ。それでも仲間内でやっている気安さか、息を上げてしまうという風には全く見えなかった。

 NHKの取材があったので聞いてみると、この王子町の鉦踊りを含め、県内の四ヶ所の祭りを取り上げる予定だそうだ。今日はその下調べに来たと言う。

 その一人が、県内の民俗学の泰斗、下野敏見・元鹿児島大学教授も取材に見えていると教えてくれた。そういえばカメラを盛んに写し、ビデオも三脚に据え、忙しそうにしている高齢者がいる。よく県芸能祭の舞台で民俗芸能の説明をされる先生だ。Hatigatuodori_056_2

 挨拶に行くと、「大学を退官後はこうして風来坊のようにあっちこっち」とおっしゃる。フットワークはとても78歳には見えない。 「民俗研究所の設計図はできているのですが」 ―― いつかは建てたいという夢がお有りのようだ。

 マップ(赤い十字は川東古墳群。矢印が川東の田の神)

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十五夜の綱引き(肝付町川上・片野)

 今年は9月25日が旧暦の8月15日、つまり中秋の名月。昔どおり旧暦を守ってこの日に十五夜行事をすると聞いて、肝付町の中心から9キロほど高山川上流に位置する川上地区に出かけた。

 今はもう川上地区の中心「片野集落」にしか残っていないという、十五夜の綱引き

 以前、錦江町田代の大原地区に住んでいたときは、やはり旧暦通りにやっており、三回ほどカズラ、萱の採取から綱練り(大綱を作ること)まで参加したことがあった。雨に遭ったことはないが、多少の雨でも日を改めたりせずにやってしまうのが彼の地のしきたりだった。

 こちらもそうだろうと思って、夕方、ちょっとした雨が降ったけれども、川上に行くことにした。

 片野公民館に行くと、集落長(振興会会長)が居たので聞いてみたところ「雨が降っても、シートを屋根替わりにしてやってしまう」とのことだった。

 綱引きは、満月(月の神=ツキヨミノミコト)に対する成長感謝儀礼だと思うが、豊作への祈り(予祝)の神事と考えられもする。ツキヨミノミコトはアマテラス、スサノオと同時にイザナギ命によって日向のアワギ原で生まれたことになっているが、アマテラスが高天原、スサノオが海原を統治するのに対して「夜食国(よるのおすくに)」を司る神だ。

 夜の食といっても夜食のカップラーメンではない。

 人間を含めて、地球上の生物は動物でも植物でも、夜、寝ている間に肉体を成長、あるいは回復する。このとき身体の中では栄養たっぷりの血液が身体の隅々まで行き渡り、その結果細胞が成長したり、受けたダメージを修復したりする。これを司るのがツキヨミノミコトである。

 十五夜の綱引き行事で綱を作る際、かっては子供が中心になって山からカズラを採ってきて材料にしたという。綱を引くのも大人も子供も一緒だし、そのあと土俵に上がって相撲をとるのは子供だけだ。成長著しい子供の元気な姿は、ほかの何にも増して月の神をよろこばせるからだろう。

Juugoyatunahikikatano_001 もう少しで川上地区というところ。 暮れなずむ田んぼと山々。Juugoyatunahikikatano_004

7時十五分前、三々五々子供たちが片野公民館へ。灯りはペット ボトル電球だ(絵も描いてある)

            

Juugoyatunahikikatano_005 土俵の真ん中に小さな砂の山がある  Juugoyatunahikikatano_007                       

さあ、7時だ。土俵の前に集合。 でも、川上小・中あわせて17名だそうだ

Juugoyatunahikikatano_012 蛇(竜?)がとぐろを巻いたように 置かれている綱に、お神酒を。Juugoyatunahikikatano_016

二人の男性がとぐろを 挟み、鉦と太鼓で神降 ろし?祭り開始のセレモニー

Juugoyatunahikikatano_017 いよいよ綱を引っ張り出す Juugoyatunahikikatano_024_2

みんな綱を持ったかァ。始めるぞォ

Juugoyatunahikikatano_025

それ引け、ワッショイ! Juugoyatunahikikatano_030_2

勝負はまだかな、ウントコショ

Juugoyatunahikikatano_027

上空はるかにお月様

Juugoyatunahikikatano_034_4 

                   やれやれ終わった。鉦と太鼓で終了のセレモニー  Juugoyatunahikikatano_035                                                                  

土俵の上の砂山は神座だった。相撲が始まる前の儀式

    Juugoyatunahikikatano_038_3

低学年は土俵に上が っても屈託がないJuugoyatunahikikatano_040_5

               高学年は真剣だ

Juugoyatunahikikatano_041 孫が楽しみ

ほら、きばらんか!Juugoyatunahikikatano_043_2

     お月様も見てござった

     

     マップ(肝付町川上・片野公民館)

Mapkouyamakatano

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祭りのはしご

 土曜、日曜と二日間、一つは佐多で、もう一つは当地鹿屋で珍しい祭りが催された。どちらも地元では町(村)を挙げての盛大なものだが、われわれ部外者からすると、奇祭以外の何物でもない。

 まずは、佐多で行われた「御崎まつり」から紹介しよう。Misakimaturikagihikimaturi_015

 2月17日午前7時、あいにくの雨の中、佐多町(現・南大隅町)田尻の海岸にある恵比寿神社脇にしつらえられた祭り所で、早朝に佐多岬に鎮座する御崎神社から招来した御崎神社の神々(イザナギ、イザナミおよびワタツミノ神三柱)を神輿に移すところから始まった。

Misakimaturikagihikimaturi_028  神輿に神様を乗せた後、その神輿は「七浦をへめぐって佐多町郡にある近津神社の姉神のもとに至り、一年一度の挨拶をする」という。昔はすべて各集落の人たちによって担がれて行ったそうだが、過疎化と高齢化のため、今は浦々の集落付近では担がれるが、あとは海岸沿いの道路を車に載せていくようになった。Misakimaturikagihikimaturi_018

 神輿は今日中に郡の仮宿(かりやど)まで行き、翌日の昼頃、いよいよ近津の宮の姉神様と対面することになる。

 土地の長老に聞くと、この祭りは島津氏の「琉球征伐」の時の総大将・樺山何某が戦勝祈願のために始めた、あるいは盛大になった――というのだが、御崎神社の神(妹神)が、近津宮の神(姉神)へ挨拶に行くことが、戦陣の幸いを願うことにつながるとは思えない。その説はどうも付会に過ぎないように思える。

 といって、御崎神社も近津神社も同じ神々(イザナギ、イザナミ、ワタツミ三神)を祭っており、妹神、姉神という言い方が、なぜそう言われるのか、首を傾げるところだ。そこにこの祭りの由緒を解く鍵がありそうだ。Misakimaturikagihikimaturi_036

 郡の近津神社は通りに面して鳥居があり、鳥居をくぐってちょっと登った小山の頂上にある。台風でやられたのか古い本殿は残っていない。代わりにコンクリート製の公民館のような建物の中にある。

 つぎに鹿屋市高隈町で行われた「鉤引き祭り」。

Misakimaturikagihikimaturi_093  高隈町の中津神社(祭神・ナカツワタツミノミコト=ワタツミ三神の一つ)で、18日の午後、今では県下でも奇祭としてすっかり有名になった祭りだ。直径三十センチはある長さ十五メートルほどのタブかクスの木を、太い枝をつけたまま、一方は「雄木(おぎ)」で男根状の引っ掛かりを残し、一方は「雌木(めぎ)」で二股とし、雄木の男根を、雌木の二股に引っ掛けて、集落の上手と下手とに分かれ、威勢よく引き合う。

 すでに焼酎が回っているせいか、引き手たちは時に卑猥なことを口走りながら、それでも力いっぱいに引く。見物衆からも野次や応援の言葉が飛ぶ。Misakimaturikagihikimaturi_091

 かねては一回きりの勝負だったのだが、マスコミに報道されるようになってから、三回勝負に格上げされたそうだ。

 神主のお父上という高齢の郷土史家にいろいろ聞くことができた。

 この祭りが盛大になったのは、高隈が島津の外城(とじょう)の一つ「高隈郷」になった明暦の頃からだと言う。とするとちょうど三百年の由来を持つ祭りだ。しかし実際はそれより前から行われていたらしいが、文献には無いので「らしい」としか言えないという。

 Misakimaturikagihikimaturi_103 五穀豊穣を願う鉤引き祭りは串良川沿いの神社にはおおく残されており、鹿屋市細山田に鎮座する山宮神社のそれは、ここのよりもはるかに規模の小さな「鉤引き」なのに県指定の文化財になっているという(中津神社のは鹿屋市指定)。ここのは余りに俗化している(焼酎が入りすぎている?卑猥になりすぎている!)ため、県の指定から外れた――と苦笑いしていた。それもいいではないか、なまじ県指定などとお墨付きが付くと羽目を外せず、庶民性が薄らぎ、「神と人との交わり」という肝心なことが忘れられよう。

 そのあと、ベブ(牛)の代掻き神事があり、餅まきがあってお開きとなった。Misakimaturikagihikimaturi_110

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奇祭・熊野神社の鬼追い(末吉町)

 Ibusukisueyoshi_108_2 曽於市末吉町深川の熊野神社には、奈良時代から千二百年伝えられているという「鬼追い」という神事がある。

 昨日は朝から冷え込み、午後になっても寒かったが、意を決して行ってみることにした。45キロほどあり、1時間余りかかって到着したのが5時半。明るいうちに着いておけば、と早く着いたのはいいが、事前情報で6時半に始まると聞いていた肝心の「鬼追い」行事自体は8時頃になると言われてがっかり。寒さはどんどん募って行く。

 そこでひらめいたのが「温泉で時間調整」だった。メセナ温泉というのがあって以前一度入ったことがあった。市街地に戻り、案内板に従って走ること5キロ。正確にはメセナ交流センターという名の温泉は、入湯料300円でサウナもある本格派。しかも液体石鹸・シャンプー付きで、これは有難かった。タオルは車の窓拭き用ので何とか間に合わせた。

 十分に温まり、休憩室でウトウトしたあと、再び熊野神社へ。もう真っ暗だったが同じ道を忠実に引き返して、難なく到着。神社の手前で通行止めになっていたので、路帯に駐車して歩く。石段の所から灯りが煌々と点され、上がってみると丁度太鼓の演奏が終わったところだった。

Ibusukisueyoshi_102  少し待っていると、山側の暗がりから虚無僧が現れ、お伴を引き連れてそのまますたすたと拝殿前から下の鳥居へと降りていった。はて、神事に虚無僧とは、と首を傾げたが、あとで鳥居の脇にある鬼追いの由来説明板を読んで納得した。この行事は熊野神社の近くに古くからあった「光明寺」という寺に伝えられていたのだが、明治初期に鹿児島で徹底して行われた廃仏毀釈によって寺院が壊滅したあと、熊野神社の行事として引き継がれたという。

 Ibusukisueyoshi_106 虚無僧が通った後、この行事の保存会会長らしき人がマイクを持って説明をした。

 それによると、鬼は常日頃、人々の行動を観察しており、その 愚かさを笑っているそうだ。だが新年くらいは里にやって来て愚かな人間どもに福を授けてやろうと、ちと手荒いが人々を叩き回る。それが罪滅ぼしであり、その際に鬼が身にまとっている物(和紙で作った幣=シデ)をちぎりとって持ち帰れば福徳に恵まれる。

 大略、そんな話だった。

 そのあとすぐに「鬼」の出番となったが、この鬼たち三匹(三組)は写真のように、少しも鬼らしくない。三人で一組らしく、そのうちの一人がたくさんのシデを付けた被り物をかぶって、まずは一目散に、さっき虚無僧が歩いていった方に駆け降りて行く。酒を飲みに行くのだという。

 Ibusukisueyoshi_112 ややあっていよいよ鬼が待ち受ける人たちの間に乱入してくる。人々は鬼にこづかれながらも、逆に鬼たちを襲うかのようにまとわり付き、シデを引きちぎる。多い人は一抱えも手にしていた。鬼役もそれを承知でやっているようだ。ユーモラスでさえある。

 三組とも乱入した後、もうこれで終わりだろうと歩いてきた道を引き返していくと、そこに役目を終えた鬼たちが何やらひそひそ話をしているところに出くわした。「こんどあっち側を狙おう」とか何とか言いながら、休憩をかねて作戦会議という場面だったようだ。

 Ibusukisueyoshi_113

  おそらく被り物のシデが全部なくなってしまうまで、何度も走り回るのだろうが、カメラもつ手もかじかんできたので、帰ることにした。単純といえば単純素朴な行事である。だが単純だからこそ風習としては極く古いものであり、長く続くのではないかとも思われる。

 発祥といわれる「光明寺」はその名からして、聖武天皇の「金光明経」による国家仏教興隆政策のもとに建立された古い寺であることは想像されるが、この行事は光明寺起源というより、それ以前からの民俗的な風習がベースにあったのかも知れない。シデを被った姿は「鬼」というより「神」を連想するからだ。

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高山の流鏑馬祭り

_080  前回の弥五郎どん祭りで触れた「高山の流鏑馬祭り」は十月十五日に催されました。当時まだこのブログを始めていませんでしたので、ちょっとさかのぼりますが今紹介します。
 高山町の四十九所神社に伝わる流鏑馬祭りは、当地の豪族・肝付氏がここに居城を定めた百年後に始まったといいます。肝付氏は伴(大伴)姓で、有名なかの大伴家持と同じ祖先を持つ名族で鹿児島を経由して十一世紀の初期に大隅半島の当地に弁済使として赴任して来ました。それから百年後と言うと平安時代末期になりますが、以来およそ900年、途切れた時代もありましたが連綿と今日に及んでいる古い奉納神事です。
_055 射る手には中学生が選ばれ、乗馬・弓引き・騎射の訓練を受け、さらに祭礼の一週間前から宮に籠もります。二日前になると7キロほど離れた東串良の海岸で汐掛け(みそぎ)をして本番に備えます。
 神社前の二町(220㍍)の馬場に三本の杉板の的が建てられ、それを射抜くのですが、三走して都合九つの的を狙ったうち何射が当たるかで豊作か不作かが占われるので、射る方も真剣勝負です。当日は中学生の父親が紋付を着て馬場を歩きながら塩で清めるという念の入れようです。
 今年は九射中七射が当たったので、親子ともどもほっとしたことでしょう。
 流鏑馬が済むと、南国大隅にも秋の気配がぐっと深まります。

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弥五郎どん祭り

初めてこれを書き始めます。どうぞよろしく。

 大隅半島の歴史・話題・季節の移り変わりなどをお知らせします。ただし、kamodokuの眼と心に映じたようにしか書けませんので悪しからず、お付き合いください。

 さて、昨日は旧大隅町岩川の八幡神社の神事〈弥五郎どん祭り>
が催され、行ってきました。さすが「県下三大祭り」(他はおはら祭りと川内大綱引きです)の一つ、盛大でありました。900年続くと言いますから、大隅半島では高山町の流鏑馬(やぶさめ)と並ぶ伝統祭事です。
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 一丈六尺七寸(4.85㍍)の大男・弥五郎が子供たちに曳かれて町中を練り歩く様は見事なものです。弥五郎については二説に分かれていていまだに決着を見ていません。一つは武内宿禰説、もう一つは隼人の首長説で、前者は応神天皇を守り立てた忠臣、後者は南方辺境の反逆者、と正反対の性格です。いったいどちらなのか不思議な話です。学者は武内宿禰など実在の人物と見ていませんから隼人の首長説でしょうが、地元は同一視したいようです。
kamodokuもその説に傾いています。皆さんはどちらでしょうか、考えてみて下さい。

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