姶良川流域散策(最終回)

 姶良川の源流で滝ウォッチング。

 吾平町を流れる姶良川の散策も最後になった。

神野地区のバスの終点である永野牧から、右に小さな橋を渡ると正面に丘が横たわるが、それが大川内神社で、神武天皇を生んだアイラツヒメを祭る(紹介済み)。

 神社を左手に見ながら、道を大川の源流方面にとる。あたりは段々田の広がるいかにも山村らしいたたずまいだ。どの田もゴルフ場のグリーン状にみどり豊かである。

  Turuminekamino_011 山合いの道へ入り人家を過ぎると、橋を渡って大川の左岸沿いのくねくね道となる。スギの植林が尽きると南隅らしい照葉樹林帯だ。シイ類が圧倒的に多い。一キロほどで最初の滝「杖立Turuminekamino_010_1ての滝」だ。

写真右は一番下の滝つぼ。比高3m。

写真左は上部の滝。比高12~3m。

上部の滝の上にはまだ滝があるようなのだが、これ以上登れないので分からない。実に神秘的。上から下まで一枚の花崗岩らしいのには驚く。驚くのはまだ早い。あと三つ見た滝もすべて一枚(と言うか、ひとかたまり)なのだ。

 「一本松の滝」は杖立ての滝から3~400メートルの所、何と砂防ダムのすぐ下にあTuruminekamino_014 る。というより砂防ダムがこの滝の上部の岩盤を利用して造られている。不粋なダムだがそのダム壁の上に乗って見下ろすことができる。比高20メートルほどか。

 大きな花崗岩が下に落ちそうだ。いつか豪雨の際の出水で流されはしないかと気になる。

 ここから100メートルほどにあるのが「特攻の滝」だ。

 Turuminekamino_015 なんとも言えないネーミングだが、どういういわれからなのか今度調べてみよう。これは道路から降りる道はないので、遠くから眺めるのみ。

 巨大な花崗岩の小山の天辺からしなだれ落ちる水が、白く泡立っている。こういうのでは「布引の滝」などという名が付けられそうなもんだが・・・。

 さらに登ること数百メートル、道が右へカーブしている所にあったのが「おしどりの滝」。Turuminekamino_016

 道路からほんの三十メートルで滝の中間(第一の滝と第二の滝の間)のテラスに行き当たる。広さはかなりあって、親子連れで来たらここで弁当を広げたい所だ。

 上の滝から落ちてくる水が、ぽっこりと突き出た花崗岩を滑り落ちた所が丁度よい水飲み場になっている。試しに飲んでみると、これが実にうまい。甘露なのだ。おそらく超軟水だろう。Turuminekamino_017

 酒、特に日本酒をこの水で仕込んだら、いい味が出るのではないか。そこまでしないまでも焼酎の割り水(湯)に使えるなー。今度来るときは、大きな水筒を持参することにしよう。

 ここからあと500メートルほどで八山(ややま)岳登山口だが、道々思いがけずきれいな鳥の鳴き声を聞いた。アカショウビンだ(と思う)。「ひゅるるるるる」と啼いていた。頭のすぐ上の茂みの中だった。

 Turuminekamino_023

 入山口に立つ看板によると、神野地区のこのあたり約14ヘクタールは遺伝資源保存林という事だ。

 樹種はイスノキとアカガシだそうだ。どっちも硬い木として著名で、入山してみると登山道沿いに普通にイスノキの大木があり、板根がすさまじい。Turuminekamino_018

 こんなフィトンチッド一杯の森林を歩くことわずか5分。道は滝の出会いに到達する。二本の沢が出会うのだが、どちらも滝の形で出会っているのだ。滝だらけの大川ならではのシーンだろう。おかげで沢の出会い部分は見られないのだが・・・・・。Turuminekamino_021

←この沢を渡ると、いよいよ八山岳(941m)への本格的な登りになる。

 以前、一度登ったことがあるが、結局山頂らしきものが分からず、引き返したことだった。

 帰る途中、往きには気付かなかった所に水田があった。道路から少し入った木立の間Turuminekamino_032 に、満々と水が貯められた姿は神秘的でさえあった。もう すぐ普通作の苗が植えられるのだろう。

 Mapyayamadake_2 マップ(赤い十字は一番山奥の水田)

  

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姶良川流域散策(その6)

Airagawakamino_001  神野地区に入る。

 中心で右へ分かれているのは「林道大根占・吾平線」でしばらく走っていくと珍しいものに出会った。

 何とダチョウがいたのだ。通りすがった時は柵のはるか向こうにいたのに車から降りて近づくと、こちらに寄って来た。Airagawakamino_007_1 4羽だったが、おとなしいものだ。

  以前、どこかやはり山手の所で七面鳥の飼育場を見たことがあったが、あれはうるさくていけない。

 新聞でたしか大崎町か志布志市のほうで、大量に飼い始めたというのを見たことがあるが、ダチョウは肉と皮と両方利用できて無駄のない鳥だからという触れ込みだったと思う。さて、採算に合うものやらどうやら、だろう。Airagawakamino_003

 再び神野の中心に返り、もう少し上流を目指す。

 相変わらず川は澄んだ流れを見せている。川の左手は道路、右手は生活改善センターがあり、さらにその奥にはちょっとした公園がある。

公園内に「ウォーターパール館」という名の施設があって、何でも暗室のような建物の中で水を垂らしながら特殊な光線を当てると、水がきれいな色に染まりつつ、水滴が上下して不思議な動きをするというものらしいが、300円払って見るほどもなかろうと敬遠させてもらった。

 それより澄んだ川の一部を仕切り、自然の流水プールなんかを造成すればいいのになどと思ってしまう。ここなら夏も涼しそうだし、大隅広域公園などとつなげば人もやって来そうだ。Airagawakamino_023 そう金もかかるまい。

 少し上流に上がると、またコンクリート製の「川底橋」があった。やはり対岸に広がる田んぼの作業用トラクター、トラックなどが渡るのだろう。

 渡ってしばらく上流に向かうと川からの水路が、滝のように勢いよく流れ込んでいた。

このさらに上が、神野に流れてくる二本の川「大川」と「永野牧川」の合流地点なのだが、残念なことに合流点の直下に砂防のミニダムが作られたため、葦の茂り放題のジャングル状態で入ることができなかった。Airagawakamino_024_2

 そこで再び県道に戻り、さらに上流に行く。永野牧川に架かる橋があり、それを渡ると道はもう一つの支流「大川」沿いの林道となる。200メートルほど行くと、左手にこんもりとした丘が近づく。

 そこには神野地区の守護神アイラツヒメを祭る「大川内(おおせんだい)神社」が鎮座する。アイラツヒメは神武天皇がまだ日向に居たころ后にした女性で、東征には参加せずここで残りの生涯を過ごしたとされている。

Airagawakamino_014_1

 

 道路を覆うばかりのクスの大木の所から、比高で15,6メートルだろうかよく手入れされたスギの植林の参道を行くとやがてお宮が見えてくる。

 参道の重々しさに比べると、社殿はかなり見劣りがする。拝殿は鉄骨製の吹きさらし、本殿はコンクリート製の、味わいとてない小ぶりなもの。

 Airagawakamino_017

 大和王朝の始祖王・神武のお后だったにしては、わびしいたたずまいではなかろうか。戦後の歴史から完全に否定された神武天皇であり、またその連れ合いの王妃であるにせよ、伝承は伝承としての価値は十分にある。

 誰が好きこのんで、こんな山奥の人目に付かない場所にひっそりと「嘘だった、存在しなかったお后」など祭るだろうか。やはり何らかの史実があったから祭っていると考えるほうが、理解できるし納得もできる。

     〈  神野地区の地図 〉

  中岳(吾平富士)の北の赤十字が大川内神社。神社を挟んで左の川が大川、右の川が永野牧川で、源流は大川のほうである。

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姶良川流域散策(その5)

                吾平Kaminoiriguti_001 山陵入口への道を左に見て、今度はまっすぐ上に向かう。

 300メートルほどでなだらかな丘陵地帯に入る、急に視界が開け、左手には甫余志岳を中心とする国見三山が望まれる。

 あたり一面は畑で、サツマイモと飼料作物が植えられているが、そんな畑の一角、道路際に白く塗られた木製の道しるべのようなものがあった。Kaminoiriguti_013

 よく見ると道しるべではなく、「早馬(はやうま)の馬場跡」と書いてある。

 農村の昔の娯楽としての草競馬の跡地だという。おそらく30数年前のいわゆる「高度経済成長期」のその前まではあったのではないか。高度成長は日本の農村という農村から人を都会に向かわせ、その伝統は絶えて久しい。

 かってはそんな人々の仕送りが村を潤したこともあったが、それももう夢のような話だ。総務大臣が「ふるさと納税」構想を打ち出したというが、金よりも江戸時代の「人帰しの法(帰農令)」でも出したほうがいい。

Kaminoiriguti_004  

 早馬の馬場跡を過ぎて、ちょうど1キロで横井坂という分岐だ。これを右手にとれば姶良川支流・菅野川に至り、それをさかのぼっていくと錦江町の高原地帯を越えて道は佐多まで通じている。

 さて、姶良川は一気に山間に入る。横井坂の分岐から300メートルほどで「市之渡橋」を渡る。いよいよ神野地区だ。

 神野はウガヤフキアエズとタマヨリヒメとの間に生まれた皇孫トヨミケヌ(後の神武天皇)の后になったアイラツヒメの古里だという。それにしてはひなび過ぎてはいないか、と心配になるほどの「隠れ里」である。過疎化が進んでいるので、なお一層そう感じるのかもしれないが・・・・・。

 Kaminoiriguti_006 市之渡から川向こうに細長く水田が広がりだした。畦を刈る人の姿なんかがちらほら見える。長閑な心安らぐ風景に目を奪われながら少し行ったとき、あっと驚いた。川の中にコンクリートで橋、いや「道路」が敷かれているのだ。

 田んぼに水が取られているのと、ここのところの晴天で水量が少ないせいだろう、「川中道路」が完全にむき出しになっている。Kaminoiriguti_007_1川 向こうの田んぼに通うための道路だ。

 四万十川の中流に、水量の少ない時は通れるが、水量が多くなると橋が冠水して通行止めになる、という橋があるのをテレビで見たような記憶があるが、同じようなものか。――ただし、こちらは「道路」だが。何にしても珍しいものがあったものだ。

 Kaminoiriguti_009 感心しつつなおも行くと神野地区の中心が見えてきた。吾平富士(中岳)が相変わらず秀麗な山容をほこり、左手には地域のアイデンティティ・神野小学校が清流のほとりに建っているのが見える。

  鹿屋市吾平町神野地区の地図はこちらで(マピオン

 

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姶良川流域散策(その4)

 妹はつらいよ!

 と言ったかどうかは分からないが・・・姉さんのトヨタマヒメがせっかく産んだ皇孫ホホデミノミコトの子を、産み落としたまま竜宮へ帰ってしまい、ピンチヒッターに立たされた妹がタマヨリヒメだった。

 「赤ちゃんポスト」なんてない時代だ。おまけに妊娠もお産もしたことのないタマヨリヒメに乳の出ようはずはない。

 どうしましょ、などと悩んでいる暇はない。腹をすかせた赤ん坊のウガヤフキアエズは泣くばかりなのだ。そこで思いついたのが「飴」だった。飴といってもそこらで売っているわけではない。米から作る「水あめ」。よほど作るのが上手だったのだろう、ウガヤの皇子はすくすくと育ち、大人になった時、その恩人タマヨリヒメと結婚したそうな。

 Airatyurumine_009_1 その飴を作り、ウガヤの皇子を育てた屋敷跡というのが、この鶴峰地区の広い田んぼ地帯の中にある。

 木の説明板の後ろには立派な石碑が建つ。例によって皇国民教育時代の昭和15年(紀元2600年)のものだ。

 鹿児島は皇孫4代(ニニギ、ホホデミ、ウガヤ、神武)の地だと「古事記・日本書紀の神話」に書かれており、その神話を史実であると叩き込まれたあの時代。だが戦争に敗れ「神風は吹かなかった」「天皇は現人神ではなかった」

と、今度は180度の価値観の転換で「嘘だった」「古事記も日本書紀も嘘ばっかり書いてある」と見向きもされなくなった。一種の「焚書」だ。それも「自己焚書」だ。GHQは歴史教科書には墨を塗らせたが、古事記・日本書紀が発禁になったわけではないのに。

 罪は、解釈にあるのであって、書物そのものには何の罪もない。

 難しいことは抜きにして、ともかく昔々、実母に捨てられ、叔母に育てられた子供がいたというわけなのだ。あり得ないことはないだろう。

 ここらあたりはおそらく弥生時代ころから米は作られていたに違いない。Airatyurumine_010_1

 説明板のはるか向こうに姶良川が流れているが、その距離7~800メートルはある。以前に紹介した湯遊ランドあいら温泉のある下流地区が、広大だが明治以降の新しい田んぼ造成地帯であるのに比べ、この山間の盆地のような鶴峰地区こそ、はるかに古い時代からの水田地帯だったろう。

 さて、いよいよ流れは山間部に差し掛かる。

 その入口に位置するのが「吾平山上陵」だ。

 お墓の主は今の伝説に登場したウガヤの皇子である。一ヶ月前に桜を見に行ったらもう散り始めていたが、今はすっかり濃緑の春に変わっていた。131

 昨日から今日の午前中まで降っていた雨がようやく上がり、陵内はしっとりと静まり返っている。

 橋を二度渡ると一瞬伊勢神宮を思わせる杉木立が続きやがて川の向こうに鳥居が見えてくる。鳥居の奥が洞窟になっており、その中に御陵があるという。

 『麌藩(げいはん=鹿児島藩のこと)名勝考』という江戸時代に出された名所・旧跡を書いた本によると、洞窟の中は広さが120坪もあり、大きな切り石の上に3メートル余りのお宮が建っているという。それがお墓なのだそうだ。133

 このような洞窟を鹿児島では「うど(鵜戸)」と言い、それゆえこれを祭る神社は「鵜戸神社(神宮)」と呼ばれる。鹿児島ではこの吾平に一社、吾平の南の旧田代町・大原地区にもう一社の二つあるが、現在は宮崎の日南の鵜戸神宮のほうが本社のようになっている。

 明治7年の神代三山陵の裁定によりすべてが鹿児島県内に決まってしまったが、敗戦後、鹿児島のほうの分が悪くなり、日南の鵜戸神宮の観光性にすっかりお株を奪われた形だ。134

 しかしお墓としての静謐さ、荘厳さにはこちらが勝る。史実かどうかは別として、何らかの御霊がまつられていることに異論はない。もしかしたらとんでもなく古い時代のものかもしれない。

 もともと洞窟遺跡といえば、縄文のそれも早期とか草創期という時代のものが多い。そこで私見だが、 あの南九州を襲った6500年前の「鬼界カルデラ大噴火」の降灰と火砕流を生き延び得た装置(避難所)がこれだったのではないだろうか・・・・・・(笑)。

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  吾平山陵(公式には吾平山上陵)の地図はこちら

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姶良川流域散策(その3)

Airatyurumine_003  先日訪れた「中福良」地区から、ちょうど1キロ上流に鶴峰橋が架かる。

 鶴峰橋のところは両側から山が迫り、もしかしたら遠い昔はこの上流の鶴峰東地区は広大な沼地だったのではないか と思われなくもない。

 事実、橋の左手は川を遮るようなちょっとした岩山になっていて、その頂上には軍(いくさ)大明神が祭られている。祭神は「イワナガヒメ」で皇孫ニニギノミコトの后コノハナサクヤヒメの姉さんだ。

 戦時中は軍(いくさ)というネーミングの故、出征兵士や家族が「武運長久」を祈るためにたくさん訪れたという。岩山の上だから「イワ」つながりで「イワナガヒメ」が祭られたのだろうが、それがなぜ「武運長久」の「軍大明神」になったのだろうか、探索の必要に駆られる。Airatyurumine_005

 それはそれとして、軍大明神から500mほど上流に行ったところが、Nさんの田んぼだ。4月1日からちょうど一ヶ月の生育の様子を見ると、可愛げだった苗がたくましく風に揺れていた。

 身長は植えつけた当時の2倍、およそ20センチになっている。一箇所に3,4本ずつ植えたそれぞれがしっかりと根を張り、地中からどんどん養分を吸収し始めたようだ。

Airatyurumine_012  鶴峰保育園の下にある I さんのたんぼも状況は同じだ。

 田んぼの中をよく見ると、小さなおたまじゃくしが泳ぎまわり、みずすましもあちこち水上遊泳をしている。あと半月もしたらうるさいぐらいにカエルが鳴き始めるだろう。

 

 このあたりの水はどこからやってくるのか、田んぼの人に聞くと、さらに上流5,600㍍のところだという。行ってみると、吾平山陵に近い姶良川から引いていた。Airatyurumine_014

 井堰(いぜき)を構築した記念碑が建っているが、それによると最初に作られたのは江戸時代の寛永年間(1624~1644)だそうで、その時の田んぼは50町歩。現在のメートル法では500,000㎡、東京ドームの25倍くらいだろうか。

 その後、幕末の文久年間(1861~1864)には 灌漑面積がちょうど2倍の100町歩になっている。つまり約200年で二倍になったということだ。

 ところが昭和2(1927)年の拡張工事で、面積は200町歩にまでなった。わずか60年でさらに2倍に増えたというわけである。日進月歩という言葉があるが、江戸時代のそれは、近代以降のそれとは比較にならないほど緩慢だったということが分かる。

 ところでここまで来たのだからと、今まで行きそびれていた温泉――内之浦の湯之谷温泉まで行ってみることにした。大隅半島では3ヶ所くらいしかない「山のいで湯」である。

 高山ー岸良(きしら)線に入り、川上地区を過ぎると道はいよいよ山奥へ。十分ほどで二股川キャンプサイト。さらに五分でトンネルをくぐって、岸良地区に下りていく。十分弱で湯之谷温泉に到着(湯之谷温泉の地図はこちらで)。Airatyurumine_036

  山のいで湯にしては立派な造りだが、海にも近い(さらに7~8分ほどで海釣りのメッカ岸良地区)ので建築工事に難儀することはなかったのだろう。

 お湯は源泉26度と鉱泉に近いが、大隅半島では珍しく強いアルカリ性(PH10)なのだ。おそらく沸かし湯で薄めてあるのだと思う(入湯料300円。食堂併設)。

 内之浦の中心にある国民宿舎「銀河荘」の湯も、肌のすべすべするアルカリ系の温泉である。同じ泉脈なのだろう。道理で内之浦には美人が多い?

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姶良川流域散策(その2)

 広大な吾平田んぼ。04210001_1

 姶良川右岸に沿って「さんぽ道」が整備されている。ここから上流に向かって左側には、一望して7~80ヘクタールはあろうかという田んぼ地帯が開ける。

 04210007 ここから一キロ余り上がって行くと、「湯遊ランドあいら」だ。自噴ではなく沸かし湯だが、もともと正規の温泉の少ない土地なので都会の銭湯と思えばよい。入浴料が鹿屋市民なら200円。市民以外は300円。この程度の料金でサウナ付き、露天風呂を含めて4種類の湯舟を楽しめるのだから、本物の温泉じゃないなどと文句は言うまい。

 

 この立派な銭湯の建つ姶良川右岸の土手からは、左岸側に開けた吾平町の中心部が04210009 望まれる。写真中央の左岸土手にかかるように立つ青い屋根の側溝監視塔と白い四角の建物の間に見えるのが町役場だ(合併後の現在は、鹿屋市吾平支所)。

 その上の濃い緑の丘の上には吾平小学校がある。そこは、又、隼人特有の地下式横穴墓が20基ほど見つかった「宮の上遺跡」でもある。丘の上からはこちら側がよく見えるはずで、姶良川とそこに広がる田園を、墓の主たちは見守っていたに違いない。

 04210013 右の写真は吾平町の中心街。こちらに向って来る自動車の向こうの鳥居は鵜戸神社で吾平山陵の主、ウガヤフキアエズ命を祭る。そのすぐ向こう隣が町役場で左手のこんもりとした樹林は、吾平小学校の丘へ続く傾斜地の一部である。

 右手手前の歩道に立つのは石灯籠で、手入れの行き届いた一つ葉(槙の木の一種)並木とともに、吾平の風景を特色付けており、飾らないデザインはすがすがしさを感じさせる。

04210014   鵜戸神社から上の写真の手前に走っていくと、姶良川が大きく蛇行したところにぶつかる。そこにかかる橋の向こうに吾平中学校があり(左の写真)、ここから「山陵道路」は登り道となる。

 橋を渡ってすぐ右折すると再び姶良川の右岸の土手道だ。左手の田んぼの中に焼酎工場が意外に巨大な姿を見せる。04210016

 ここ数年の本格焼酎ブームで増設したに違いない。原料は芋なのだから畑の中に建てられてよさそうだが、問題は水の確保なのだ。この工場のほんの300メートル先の崖下からは「玉泉」という室町時代に建てられた「玉泉寺」に因む名水が滾々と湧き出ている。今はどうか知らないが、工場が建てられた当初はその良質豊富な水が使われていた。

 玉泉の湧く「玉泉寺公園」の川を挟んだところの微高地を「中福良(なかふくら)」という。

 中福良は南九州独特の地名で、下福良も上福良もあるいは大福良も小福良も伴わず単独で「中福良」と使われている。柳田国男などの説では「ふくら」は「吹浦」、つまり海岸地帯の「膨らんだ浦」に関する地名か、「穂倉」という「米がよくとれる場所」の意味かなどと解釈されるようだが、それでは「上、下、大、小」の付かない理由が説明できない。04210020

 左の写真は田んぼから見た「中福良」の様子で、左手のこんもりした木の立つ田中八幡社から右手へ微高地が続く。さらに右手に行けば姶良川である。このあたりを姶良川の土手から眺めると、ここは姶良川の氾濫原の中にあったのではないかという気がする。つまり相当古い時代は人の住めるような台地ではなかったのが、度重なる洪水や氾濫で土砂が供給され、次第に「中洲」状に土地が出来上がっていったのだろう。川の氾濫によって作られる土地は養分の多い上質地であることは「エジプトはナイルの賜物」を引き合いに出すまでもあるまい。

 そういう土地を「穂倉」といい、川の中にあるから「中穂倉」と言われ、「ほ」から「ふ」への転訛で「なかふくら」となったのではないだろうか。もし近くに「外福良」が存在すればこの説は妥当と思えるのだが、もともと田んぼは川の「外」にあるのが当たり前で、わざわざ「外福良」と言う地名をつける必要性はなかったと考えてよいだろう。04210019

 ←中福良地区の外れにある田中八幡神社。

 元の場所は現在の鵜戸神社のところだったが、明治7年に吾平山陵が皇室ゆかりの遠祖ウガヤフキアエズ命の御陵であると裁定されてから、山陵近くにあった鵜戸宮に場所を明け渡し、ここへ移ったという。

 このあたりの地図はマピオンでどうぞ。中福良は吾平中学校とその南の鶴峰小学校のちょうど中間あたりです。

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姶良川流域散策(その1)

 女遍に合うのが良いと書いて「姶良川」という。

 鹿児島県の大隅地区には「あいら」地区が二ヶ所ある。大隅半島側にある、いま、散策している地域の「あいら」は「吾平」と書き、鹿児島県の中央部、国分(現在は霧島市)の西にあるのは「姶良」と書く。

 10世紀の初め頃に編纂された『和名類聚抄』(源順著)によると、大隅国には「姶羅郡」があり、その中に「鹿屋郷」がある。「鹿屋郷」といえば現在の鹿屋市を指しているから、この「姶羅郡」は当然、現在の鹿屋市吾平町を中核とする地域のことである。

 姶良川はこの吾平町を南北に貫流する「吾平町の母なる川」である。姶良川は吾平町の最南部に聳える八山岳(ややまだけ=標高941m)に源を発し、肝属川に注ぐ全長約20キロほどの小河川で、肝属川に注ぐ比較的大きな三つの川(串良川、姶良川、大姶良川)のひとつである。

 では、その姶良川を下流からたどってみることにしよう。04140001

 左の写真は向かって右から流れてくる肝属川に姶良川が南から(写真では上のほうから)注いでいるところだ。

 ここが合流点で、肝属川はここから左へ(東へ)約12キロほどで志布志湾に入る。

 04140003

 合流点のすぐ下に「流合橋」が架かる。

 姶良川と肝属川が流れ合う所だからそう名付けたのだろう。合理的な命名だ。ただ、味も素っ気も無いが・・・・・。

 04140005 ここからほんの5・600メートルもさかのぼると「吉田橋」だ。その橋の西のたもとに「移住記念碑」が建つ。移住といっても戦後の農地開拓の移住ではない。話は江戸時代の前期にさかのぼる。

 「元和偃武(げんなえんぶ)」というように、戦国時代を収束させた徳川江戸幕府に入ってから、全国的な戦乱が収まり、平和な日々が訪れた。そうなると増えるのが人口である。鹿児島では特に西目、すなわち薩摩半島側はただでさえ狭い土地柄なのに、人口がどんどん増えた。そうすると田畑が足りなくなる。そこで奨励されたのが「東目(大隅半島)移り」だ。そのことを「人配(にんぱい=にんべ)」と言った。

 吾平町在住で「人配」を研究されていたM先生によると、吾平町の四割は西目から移ってきた人たちの子孫だという。先生が中心になって建てられたのが「移住記念碑」だ。04140004

 姶良川を挟んだ広大な吾平田んぼを背景にして、大隅花崗岩を刻んだ高さ3メートルはあろうかという立派な石碑である。

 前面に人配の由来、後方にこの碑を建てた子孫たちの名が刻まれている。

 この碑の建つ川の向かい側は「井神島(いかんじま)」という集落だ。かっては文字通り姶良川の中洲つまり島だったのだろう。

 集落の中心部、小山の上に「宮比神社」がある。祭神はめったにお目にかかれない「天ノウヅメ」だ。彼女は天孫降臨の時、天孫の前に立ちはだかった「サルタヒコ」(国津神)を篭絡して無事の降臨を演出した。のちにサルタヒコと夫婦になったが、サルタヒコは「比良夫貝(ひらぶがい)にその手を喰われて海で溺れ死んだ」(古事記上巻)。

 04140006_1 ウヅメとは「ウツ女」のことで、「ウツ」とは古語で「現実の、過不足の無い、すべてが整った」という意味であるから、「ウツ女」は「完璧な女」ということだ。こういう女に惹かれない男はあるまい。結局、サルタヒコは自分の国すなわち「葦原の中つ国」を明け渡してしまったわけだ。恐るべし「女の力」。

 井神島を過ぎると、いよいよ広大な吾平田んぼ地帯に入る。見渡す限りの田園が広がる。その中にぽつりと小山が見える。まるで田んぼの海の中の島だ。

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 私見ではこれは円墳である。直径約30メートル。もしこれが地質学でいう「丘」ならば、わずか30メートル高さ5メートルほど、しかも周囲のどこからでも削り取ることのできる平野のど真ん中の丘だ、これを平らにしなかったはずはないだろう。

 現に、頂上には何を祭ってあるのか、凝灰岩製の小さな祠がある。やはり神聖な場所、という暗黙の了解があるから今に残されたのだろう。

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 この「円墳」から500メートル足らずの所に姶良川に最長の橋「姶良橋」がかかる。

 この橋の向こうに行くと肝付町(旧高山町)に達する。橋の上、遥か向こうには肝属山地の東のはずれが見えている。

 このあたりの地図はAiragawa1 これ。

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