串良川流域散策(最終回)

Kushiragawa6_001 前回の続きは鹿屋市民族館のすぐ上にある「井手橋」から始まる。

 写したのは井出橋の上からだが、写っているのは「新井手橋」だ。県道71号(垂水ー南之郷線)の改良工事でショートカット工事が随所で行われ、くねくね道が直線あるいはなだらかなカーブに生まれ変わった。

 橋のあたりは「鶴地峡」(勝手に命名)で、その向こうの「鶴集落」は、地峡がまだ開削されていない時代は沼か湖だったと思われる。

Kushiragawa6_003_2 「鶴地峡」を過ぎて間もなく右へ降りる道があり、下っていくとすぐに「鶴橋」がある。

そこから見た上流は何にも変えがたい故郷の風景だ。川がそう深くえぐれていないのがここの特徴だろう。これなら幼児でも水遊びが出来そうだ。

渡った先の鶴集落は、おそらく十数戸、交通の便は悪いとはいえないのだが、小学校、中学校の遠いことを考えると、ここに住み続けようという若者がいないだろうことは察しがつく。Kushiragawa6_043

 鶴地区からおよそ600㍍で「瀬戸野公民館」を見る。右手から川へ降りる道があった。川には井堰がある。この瀬戸野地区と鶴地区へ供給する用水の取り入れ口だろうが、右手には魚道が見える

 魚道とは川を堰き止めることで上流に上ることのできなくなった魚たちのための「バイパス」である。「環境に配慮した優しい土木工事」のシンボルともいえる。こんな山奥でも取り入れられているとは、ちょっと感激する。

Kushiragawa6_010 瀬戸野橋を渡っていくと、右手にオレンジ色の屋根を持つこの辺には似つかわしくない御殿のような家が目に入った。近づいてみると家の下には養豚場らしきものがあった。そうか「養豚御殿」だったか・・・。

 黒豚ブームが久しく続いているので、今、鹿児島の養豚界は好景気なのだ。たしかに、こんなに自然あふれる所で育った豚は健康だろうし、安全だろう。消費者にこの風景を見せたら驚くだろう、喜ぶだろう。

 ――で、まさかプールまでは無いだろうな。Kushiragawa6_008

瀬戸野橋を渡った突き当りを左へ200㍍で、赤い鳥居が目に入る。「霧島神社」だ。串良川中流の下中地区に鎮座する霧島神社の分社だと思うが、鳥居をくぐって登って行くと、コンクリート製の朱塗りの社殿がなかなか立派で、過疎地によくある草に埋もれたというような雰囲気は全くない。

 よく手入れされており、階段の途中にでんと構える巨石がなにやらいわくありそうなのだが、これといって説明板のようなものは無かった。Kushiragawa6_040_2

瀬戸野からは急に高度を稼ぐようになり、川もいよいよ渓谷となるので、直接、串良川源流に向かうことにした。

瀬戸野から約3キロで峠に差し掛かる。そこはそのまま下れば垂水、左は大野小・中学校。右手がこれから行く源流のあるという「鹿児島大学農学部付属高隈演習林」だ(写真は峠を行き過ぎ、垂水側から写したもの)。

Kushiragawa6_038 右折して200㍍足らずで演習林事務所入口だ(道路の反対側にはジャパンファーム垂水工場の正門がある。ブロイラー養鶏では全国屈指の規模である)。中に入って行き、事務所に事情を言って源流に入る許可を得る。気さくにOKを出してもらい、演習林の地図まで頂いた。

 Kushiragawa6_022事務所から300㍍強で演習林の入口だ。「寄宿舎林道」という普通の林道ではあり得ない名が付けられている。約700㍍で分岐に差し掛かると、そのいわれが解けた。

 それはこの演習林が開設されて間もない頃からあったという「旧寄宿舎跡地」に至る道だったのだ。演習林が開設されたのは明治42(1909)年というから古い話である。鹿児島大学農学部がまだ「鹿児島高等農林学校」と言われていた時代だ。初代校長は玉利喜造農学博士。かなりの奇人だったらしい。

 入口から約1,5キロで源水地があった。「冷水谷」という名の湧水地だ。Kushiragawa6_018_3

比高で10mくらいの、そう高くないシラスの崖の下から、水が滴り落ちていた。その名の通り冷たい水だ。よく学校の生徒たちが学習に来る所らしい。案内板に彼等の集合写真が刷り込まれていた。

 だが本当の源頭はまだこの上にある。距離にして300㍍くらいだろうか。

Kushiragawa6_021

演習林の中に屋久杉があるとは思わなかった。

 「ヤクスギ巨樹林」の案内板に誘われていってみると、真っ直ぐに立つ太い幹が現れてきた。上を見ても頂上が分からないほどだ。

 しばらく行くと案内板が立ち、その傍にひときわ大きな杉が立っている。説明によると展示林の中では最大の「直径101センチ、高さ37メートル」という巨木だった。演習林が開設されて間もなく植えられたと言うから、樹齢90年余り、屋久杉では「小杉」だが、堂々たるもの。この展示林には屋久杉が134本あるという。

Kushiragawa6_035 演習林をでたあと、高峠のランドマークの美しい円錐形の山(722m)に登ってみた。

 高峠には今回で4回来ているが、高峠公園のツツジ(春)やコスモス(秋)を目当てに来ただけで、ついぞ登ったことはなかった。気温28度と下界よりは3~4度低いものの、登り出した途端に汗が噴き出してくる。

 歩くこと20分、ようやく頂上らしいと思ったら、そこからがいけない。何と階段が延々と続いている。Kushiragawa6_027上を見ないようにしながら、足元の階段の数を一歩一歩数えながら登る。苦しさの気が紛れる。数え終わった所が山頂だ(何と、303段もあった)。結局30分かかってしまった。

 360度のパノラマの景色、と言いたいところだが、あいにく雲が山々の中腹以上を覆っていた。頂上には、眺望の先にある県内の主なスポットを真鍮製の円盤の上に刻んでいたが、佐多岬が一番遠くて60キロ、霧島は43キロ、開聞岳が45キロ、そして鹿児島市は意外に近く20キロだという。

 桜島のくっきりした写真が取れるかも、と期待していたが残念ながら雲の中だった。Kushiragawa6_025_2 この山はれっきとした独立峰だが名前が無い。登山口にも「登山道」とあるだけで「○○山登山口」とは書いていない。

 マアいいかと登ってみたが、山頂にも山名を表したものはない。下山後に演習林事務所の先生に問い合わせてみた。すると「高峠って呼んでますよ」との答。―では地元では何と言っているんですか?「やはり、高峠ですよ」―!??山が峠なんですか?「そうですねえ・・・」 ・・・そうらしい、地図でもこの山を高峠としてあった。大隅の不思議な地名発見か・・・。

 マップ(赤い十字は県道71号最高点。右に折れると鹿大演習林入口)

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串良川流域散策(その5)

 今回は、谷田橋を渡って左折し、串良川左岸沿いの道から始めた。Kushiragawa5_002

 農道を行くと周りは右岸と同じく、やはり広い田んぼ地帯だ。遠くに前回行った「観音渕」の後に迫る丘が、丸く盛り上がって見える。川がそこに突き当たって左折している所だ。

 真っ直ぐの農道を行き、右手からの市道を併せると100㍍余りで柚木原(ゆのきはら)バス停がある。停留所でバスを待っているおばさんに、「柚木原の六地蔵」のある場所を聞くと、すぐ裏手にある墓地の中だと言う。

 バス停の所を右折するとすぐ登り道だ。それを50㍍足らずでKushiragawa5_003_2右手に入る細道がある。

 入った右手はゲートボール場で、その先にもう墓石が見えている。 六地蔵は墓地の左手に 立っていた。刻まれた銘文によると建立は天文4(1535)年である。鹿屋市の六地蔵の中では最も古いという。 

 加工しやすい凝灰岩製で、かなり痛んではいるものの、文字通り風雪に耐えた貴重なものだ。釈迦入滅後、次に弥勒菩薩が降臨するまでの間、衆生を救うために現れたという地蔵菩薩。笠の下は六角形で、六面に六道それぞれを教化するという六体の地蔵さんが彫られているのがよく分かる。Kushiragawa5_004

 柚木原(ゆのきはら)は今の道をさらに登っていった細長い谷間の集落だが、さっきのバス停まで下り、元の道を上がることにする。すると100㍍余りで地峡を通過する。「柚木原地峡」と名付けておく。谷田田んぼ地帯と高隈田んぼ地帯を分ける地峡だ。川遊びには持って来いの場所で、二昔前くらいは子供等の絶好の遊び場だったろう。

 高隈の田んぼ地帯に入ると、新学期前の一斉清掃があったのだろうか、どの田んぼも畦がきれいに刈られていて、見るからに清々しい。Kushiragawa5_005

どの穂も垂れ始めている。あと一ヶ月ほどで刈り取りになるはずだ。今年の普通作は、7月下旬からの高温と日照のおかげで豊作間違いなしだ。ただ心配なのが台風で、これさえクリアーできれば秋には評価の高い「高隈米」が食卓を賑わせるだろう。Kushiragawa5_007

 道の突き当りが高隈の中心で、左折するとすぐに高隈小学校がある。ご多分にもれずここも過疎で、子供がどんどん減っている。おそらく全学年併せても50人にならないだろう。校門入口の塀に「山村留学生募集」の案内が見えるが、どこも生徒集めには知恵を絞っているものの、なかなかままにならないようだ。いっそのこと「教育改革」の一環で、都市部の生徒に山村留学を義務付けたらどうか。文科省よ考えてくれ、都会が子供の墓場にならぬうちに・・。

Kushiragawa5_006  過疎のため既に廃止された学校がある。高隈高校だ。今そこには勤労者体育センターと鷲峰(しゅうほう)館という名のコミュニティー施設が建っている。中には鹿屋市の高隈出張所もある。

 この建物の裏がすごい。串良川が凝灰岩をえぐって、見事な峡谷になっているのだ。以前行ったことのある宮崎県の高千穂峡を思い出す。規模はあれの5分の1だが、人家のすぐそこにあるというところがすごいではないか。(前方の橋は県道にかかる高隈橋で、鷲峰館はその右手に白く見える。クリックで確認Kushiragawa5_009

いま来た道を引き返すと、正面に信号が見え、その先に大きな鳥居が見える。中津神社だ。行ってみると何と工事中で、県指定文化財に指定されている「本殿」がむき出しになっていた。いつ行っても拝殿の中から正面部分しか見えなかったのが、丸見えだ。ラッキーだった。

 工事中の人に聞くと、拝殿を新築し、本殿を覆う建物も造るそうだ。来年の「かぎひき祭り」までには完成するという。2月が楽しみだ。

Kushiragawa5_013_2  中津神社の鳥居の右手手前の高台には「西方(さいほう)寺」という寺がある。いつもは上がることもないのだが、境内に上ってみて驚いたのは、日清、日露、そして今度の大戦で亡くなった人々の慰霊碑が並んでいることだった。Kushiragawa5_012

鹿屋と昭和30年に合併する前、高隈村(もっと前は高隈郷)は大村で、藩政時代は島津氏の直轄領として地頭が置かれたが、明治になってからは上と下に分かれて自治組織になった。

 戦時にはそのどちらからも兵員が繰り出され、明治、大正、昭和と世界を相手に戦い抜いてきたわけだが、そんな歴史を垣間見せる石碑(塔)である。

Kushiragawa5_019 高隈中央からさらに上流へ(西へ)向かう。集落を抜けきった所で高隈バイパス(国道504号)の道を合わせ、約1.5キロで左にダムの堰堤が見えてくる。そこが「高隈ダム」だ。上高隈の2地区204戸が移転させられて昭和42年に完成し、現在、笠野原4000ヘクタールがその水利の恩恵にあずかっている。

 このごろの晴れ続きの渇水のせいなのだろう、放流する水はごくわずかで、近寄っても音もしない。

 事務所の横を左折すると堰堤の上だ。湖水(大隅湖)を見てもさほど減っているようには見えない。適度に串良川の水が流れ込んでいるからだろう。Kushiragawa5_021_2

 向こうに見えるトンネルをくぐると、すぐそのあたりから笠野原のシラス台地への水が取り込まれているらしい。残念ながら確かめられなかったが、湖面の標高が160㍍余り、送り込む台地の高さもほぼ160㍍と標高差はほとんど無い。よほど精巧な勾配技術で送水されているのだろう。

 トンネルの先は大隅湖の南岸を走るアジサイロードだ。Kushiragawa5_024 アジサイは確かに水辺に似合う。だが、今はもう咲いているはずはない。梅雨明けと同時くらいに急激に咲かなくなる。事実、どのアジサイも、茶色く変色したドライフラワーになっていたが、あるカーブであれ、と思った。咲いていたのだ、生々しく。

 わが目を疑ったが、よく見ながら行くと、無いことはない。百株に1株くらいの割でありそうだ。うーむ、遅咲きも遅咲き、狂い咲きとは言うまい。個性だ!もしかしたらこの花(株)にはアンチエイジング・ホルモンがあるのかも知れぬ。誰か抽出して研究せよ・・。

Kushiragawa5_026  湖の先端の少し手前に、ボート乗場があった。

 事務所を覗いてみたら、九月からは土、日、祝日のみの営業とあった。普通のボートが30分300円、スワンの形をした足こぎボートが30分1000円だそうだ。

 もう恋人よりも、孫を連れて乗りに来よう(まだいないけれど)。それにしても人里離れ過ぎている。子供を遊ばせる遊具などがあったら、家族連れも来るのではないだろうか。

Kushiragawa5_027 ボート乗場の向こうに見えたのが、県立アジア・太平洋農村研修村。大隅湖の一番上流に位置し、そこはかって鹿屋市立柏木小学校があったところで、過疎化で廃校になった用地を再利用して平成6年に開設された。

 国際交流と国際協力がテーマの施設で、国際交流員の研修や県内外の学校や団体が学びにやってくる。筆者も一度、韓国の団体と交流したことがある。

 もうひとつ珍しい建物がある。鹿屋市民族館だ(入館無料)。タイかインドネシアかそれ 風の外観をしている。

Kushiragawa5_038_2 中に入ると目に付くのが楽器類。自由に叩いたり、鳴らしたりできるところが面白い。フィリピンの二弦楽器が「アタ族」のものと聞いて驚いた。阿多じゃないか。フィリピンには別にイフガオ族というのがいてこれは「ヒュウガ(日向)族」の祖先だろう、などという説もあり、鹿児島民族(?)の由来はやはり・・・、それとも向こうへ渡った・・・?世界最古級の縄文早期土器がざくざく出る鹿児島の来歴も考えなければならぬ。

 インドネシアの仮面(バロン)も面白い。死神と永遠に戦う、というのがいい。生があるということは死があるということ。その逆もしかり。Kushiragawa5_037

それにしてもタイの少数民族の衣装は派手だ。日本人には考えられないデザインだ。もし日本人が向こうから渡って来たのなら、こんな仕様の一部でも残っていておかしくない。衣食住は意外と保守的なものだからだ。

 そんなことを思いつつ、館内で最近はじめたというコーヒーを飲んでみた。こくがあってなかなかのものだ。聞けば女性職員の実家がコーヒー豆の卸をしているという。さもありなん。ついでにうまい本場のカレーでも出せばいいのにと言っておいた。

Kushiragawa5_041 同じ道を引き返したが、ダムから国道504号に出たあと途中の集落「重田地区」に寄ってみた。国道を約1キロ下ると、道路の右に小さな噴水がある。その角にはグループホーム「泉の里」が新しくできているが、そこを右折すると、すぐに小さな橋がある。重田橋だ。

 高隈の山塊がすぐ目の前に広がり、山青く、水清い高隈でも一級の風景だ。山紫水明という言葉が、これほど当てはまる場所もそうは無いだろう。

 再び国道に出て帰路となる。今度は高隈バイパスを通って、直接シラス台地のKushiragawa5_042 突端・三角峠まで行く。途中、「高隈4号橋」といったと思うが、そこから眺める串良川の清流ぶりにはジンとくる。この風景はバイパスが出来たればこそ、得られた風景だ(下中の霧島大橋と同じだ。公共事業よ、ありがとう)

 清流の先、右手から、こんもりとした丘が左へなだらかに続くが、あれが高隈城(松尾城ともいう)の跡である。高隈城は南北朝時代初期に、肝付氏によって造られた山城(中津神社も同じ頃)で、南北朝の攻防と戦国期、島津氏との戦いの舞台だったが、三州統一後の慶長年間に廃城となった。城跡の向こう側はちょうど重田地区である。

   マップ(赤い十字は中津神社。矢印は高隈城)

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Maptakakumadamu

 

  

 

 

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串良川流域散策(その4)

Kushiragawa3_019 生栗須橋を渡って振り返ると、北原氏の拠った「北原城跡」が 屹立して見える。難攻不落の山城だったろう。

 しかしここも肝付氏が島津氏の軍門に下ると、廃城となる。

 この橋の向こうも手前もどっちも急な長い坂道(国道269号線)で、シラス台地を削り込んだ串良川の働きが思われる。Kushiragawa4_001

  国道から串良川の左岸沿いの細い道に入る。

 杉の植林帯を抜けると、川は遥か向こうに流れるようになり、道路との間に広い田んぼ地帯が広がる。草を刈った農婦がせっせとその草を軽トラックに積み込んでいた。牛にやるのだろう。

Kushiragawa4_003 約800㍍で山宮神社のすぐ下に架かる「堂園橋」だ。

 神社に行こうと橋を渡ると、橋のたもとに石柱が立っていた。新しい御影石の小さな石柱だ。Kushiragawa4_005 見ると、映画「望郷」のロケ地だったことを記念する碑だった。1992年とある。

Kushiragawa4_006 山宮神社は祭神スサノオノミコト、毎年2月の例祭に「カギヒキ」「田起こし」の神事があるお宮で、これは県の指定文化財(無形民俗)に登録されている。

お宮の建物自体はお世辞にも文化財にふさわしいとはいえないが、川沿いの田んぼ地帯が開かれた頃からの存在とすれば、少なくとも千年以上の歴史はあるだろう。

 Kushiragawa4_007 ここから山宮神社側の道、つまり串良川右岸を上って行く。

 堂園集落の最後の田んぼを向こう岸に見ると、道は川を離れて左手の台地に向かう。

 川はここから長い「深山幽谷」に入る。その3で紹介した、ピンク色凝灰岩の石切り場から下中地区までの峡谷と同じ成因だ。そことこことを併せると約5キロがこんな人跡未踏の峡谷というこKushiragawa4_009_2 とになる。大学の探検部なんかには持って来いの場所だろう。水も澄んでいる。

さて、台地方面へ1キロ余り行くと馬掛(まかけ)集落に入る。ここは川からの比高30㍍、上のシラス台地からは80㍍下がった所にある楕円形の段丘だ。かなり広く、バスも巡回している。昔、狩猟の神様が馬で駆け巡ったから「馬駆け」→「馬掛け」と名付けられたそうだ。「ウマ」く説明したもんだ。Kushiragawa4_010_2

馬掛地区から登ること1キロでシラス台地の上に出る。すると正面に高隈山が見えた。写真を撮りに脇道に入ると、輝くものが目に入った。パンパスグラスだ。菜園の一角がやけに明るいのはそのせいだった。

 県道<串良・高隈線>を北西に走ると、2キロ足らずで信号がある。Kushiragawa4_012_3 その角に建つのが「笠野原土地改良区事務所」だ。笠野原の開発の拠点がこれで、見過ごすわけにはいくまい。

 大正の終わりに、水道敷設事業で始まった共同開発は、やがて土地改良事業に引き継がれた。戦後の昭和35年にこの事務所が設立されると事業は国営化され、高隈ダムの完成が核となって土地整理、水利事業は飛躍的に進んで今日がある。現在でも年に2億程度の事業が行われているという。

 Kushiragawa4_014_2 さて、信号を右折し、台地から1.6キロほど下ると谷田橋に差し掛かる。

 もし川筋を遡ってくれば、きつい峡谷から解放されて、広々とした田園に歓声を上げるに違いない。そんな風景が待っていた。

 橋を渡ってすぐ右折すると300㍍で道が二手に分かれる。そのまま下っていく道と、大きく左へ曲がる道とだ。そのまま行くと谷田発電所に降りる。Kushiragawa4_019

白壁の新しい・・・と思ったら、よく見ると凝灰岩製のブロック積みで、白い塗料を吹きかけてあるらしい。物の本によると大正11年に送電開始した、とあるから古い歴史がある。建物が当時のものかどうかは判らないが、もしそうなら遺産ものだろう。

 水は谷田橋の下200㍍に堰を設けて取っている。発電所の下の串良川には、仕事を終えた水が轟々流れ込んで行く。リサイクルだ。Kushiragawa4_020

道を戻り、さっきの二又から、今度は大きく左へ曲がる道の方を行く。600㍍で「ふれあいの森」がある。夏の暑い盛りとあって誰も来ていない。入口の説明板によると、樹齢250年からのスダジイの大木があるらしいが、マムシはごめんだ。

 道端にちょっとした湧水の池があったので手を入れてみた。冷たい。口に含んでもみたが、うまい。近くで草を刈っている人に聞いたら、一般人はあまり来ないが、よく学校の生徒たちが来るという。なるほど例の総合学習か。Kushiragawa4_033_2

  再び谷田橋を渡って、串良川右岸を上る。谷田地区の穂を垂れつつある田んぼを右に左に見ながら1キロ余りで、左手から丘がせり出してくる。

 そこが「観音渕」だ。名だたる水の名所で、観音様を祭るという大きな洞穴(ガマ)の奥から、とうとうと水が湧いてくる。 Kushiragawa4_031_2

 道路からすぐそこに滝が見える。その下には水神が祭られ、さあ汲んで行きなさいとばかり、何本もの竹やパイプから水が流れ落ちている。

 水を大きなペットボトルに汲んでいた女性がいたので聞いてみると、近くなのでよく汲みにくるが、注意して見れば細かい砂粒のようなものが混じっているという。

 また、昔、自分の同級生に、このガマの入口付近に住んでいて、そこから学校に通っていた子がいたという。「法者(ほっしゃ)どん」という修験者がいて、ここで修行をしていたなどという話は聴くが、本当かよそれ、と耳を疑ってしまった。Kushiragawa4_030

洞穴は入口の幅20㍍、奥行は30㍍はあろうかという大きなもので、左右には五輪塔、宝塔類が数十基並び、奥の壁の前には、光背を負った仏像(観音その他)が左右に5,6体こちらを向いて壇の上に立っている。Kushiragawa4_026

壇の前には人のすわれるような座が設えてある。ここでお経でも唱えるのだろう。霊験あらたかとは聞いていないが、さっきの女性の話では、某町からわざわざ夜中に水を汲みに来ていた人は、この水で目を洗って白内障を治したという。

 観音渕の前の道路には駐車帯も設けられ、カラー舗装もされてずいぶん優遇されるようになった。Kushiragawa4_032_2

 駐車帯のすぐ向こうには串良川が流れる。以前来た時は竹やぶで下りられそうもなかったが、今見るとその一部に抜け道が出来ていた。下りてみると、川が手前に蛇行して迫り、心地よい田園が広がっていた。

 マップ(赤い十字は谷田発電所。右下の鳥居は山宮神社。発電所の左上の橋が谷田橋で、そこからさらに左上の川が大きくL字に曲がった所が観音渕)

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Mapkushiragawa4

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串良川流域散策(その3)

Kushiragawa3_005  林田堰を対岸に渡り、今度は左岸沿いに上って行く。

「林田地峡」の上は三年前に開通した鹿屋と志布志を結ぶ農業用道路(農免道路)で、串良川に架かる「霧島大橋」が高速道路の橋のようなスマートな姿を見せている。

 この前、観音洞を見に行った中野集落から、この農免道路のあるシラス台地に上がってみた。比高40メートルほどあるだろうか、登りついて右折するとすぐにあの霧島大橋Kushiragawa3_004 だ。

 橋の上からは高隈山地の全容が見える。そして直下には青々とした串良川の流れが緩やかに蛇行し、その右手には下中地区の田園が広がっている。息を呑む美しさだ。

 とかくの批判があるものの、公共事業で造られた農免道路とこの霧島大橋ができて、初めて目にすることのできる日本の原点ここにあり、という風景だ。有り難い。Kushiragawa3_030

 橋からその美しい田園に下る。上の写真の串良川の上手に小高い山が見えているが、その山の頂上に近いところにあるのが「霧島神社」だ。

 下中地区の30ヘクタールはあろうかと思われる広い田んぼ地帯の中、まるで人工的に盛り上げたかのような山塊には、天孫降臨後のニニギの命が宮を建てたという伝説がある。Kushiragawa3_029

 急な段々坂を登りつめた所に「霧島神社」があった。

 ここはかっては大きな社が建っていたのだが、島津氏が大隅までを完全に掌握したあと、本家の霧島山から文書などを押収に来たが、直後に火が付けられて灰燼に帰した――という言い伝えもある。とにかく謎を秘めた所なのだ。

Kushiragawa3_006 霧島神社から200㍍余りで下中橋に着く。

橋から先は急にまたシラス台地が迫り、今日の目的地である国道269号線に架かる「生栗須(いけぐるす)橋」近くまでの3キロは、ずっと深山幽谷といった趣の川の姿を見せる。

 途中、物部守屋が本拠地の河内から逃れて住み着いたという伝説のある平瀬地区を通ったが、残念ながら逢う人Kushiragawa3_010 毎に聞いても、要領を得なかった。

 観音迫(かんのんざこ)という小さな谷筋を入った所の人家の山側に、古い石碑などがあったりして、それなりに由緒ありげな場所なのだが、話が古すぎて呆れられるくらいだった(話を聞いた人の三代前は加世田からの移住者だそうだ)。

 それでも沢筋の奥に滝のように流れる豊富な水の流れを見ると、人がひっそりと居着くには持って来いの所だと思われた。

2キロ足らずで平瀬地区に入り、平瀬橋を渡ると、道はシラス台地に上がる。

登り切って平地に出、右折するとすぐ畑の中に石柱が建つ。「北原氏古石塔群」の案内Kushiragawa3_015_2 柱だ。矢印にしたがって行くと民家に行き当たる。断ってから裏手の畑に上がるとそれがあった。

 北原氏は肝付氏二代目の傍流で、串良町の細山田地区を所領 とした中世の領主である。

 肝付氏の大隅治世の一翼を担い、鎌倉期以前から当地方を中心に支配していた。今、初代および二代の逆修塔が残るという。Kushiragawa3_017_2

再び川沿いの道まで降りていこうと思ったが、このままシラス台地のへりを東に向かうことにした。細山田地区を通り抜けると、国道269号線にぶつかる。それを右折すると生栗須橋までの長い下り坂だ。

 半分以上下ったとき、行く手に「北原城」のあった小山が見えてきた。Kushiragawa3_020

  生栗須(いけぐるす)橋を渡らずに橋のたもとを右に入る。少し下ると、そこは広い田園地帯だ。

 ここは普通作の田んぼが多い。ちょうど今、穂が色づき始めたところだ。田んぼの向こうには北原城跡が望まれ、さらにその後には高隈山地が青い。

 ここからは逆に串良川の右岸沿いを下っていく。Kushiragawa3_026

やがて田んぼ地帯は終り、川は急に谷あいに入る。下中橋までは深山幽谷だ。

 ところが谷あいに入りかかった所で、珍しいものに出会った。石切り場だ。不思議なことに石がみな赤味がかっている 。そのとき、あれと同じか――と、ふと思った。Kushiragawa3_025_2

 シラス台地の所々には溶結凝灰岩という火砕流起源の 軟らかい石(軟らかいと言っても、シラスよりははるかに硬い)がある。シラスをえぐって流れる川でも凝灰岩盤のところは削り残してしまう。それが「深山幽谷」を生む。

 この凝灰岩の岩盤は、かっては墓石、門柱、塀など の用途として引っ張りだこだった。加工がし易いせいもある。古墳時代には石棺の材料にも使われた。Kushiragawa3_022_4

 中でも「阿蘇のピンク石」と言われる阿蘇山由来のピンク色の凝灰岩は、はるばる海を越えて畿内の古墳にも使われた。継体天皇陵ではないか とされる大阪高槻市の「今城塚古墳」の石棺がまさにそれだった。

 そのピンク石に似ていると思ったのだ。

  マップ①(赤い十字は霧島山。緑の矢印は下中橋)

Mapshimonaka

マップ②(赤い十字は石切り場。下流の下中橋までは渓谷となる)

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Mapikegurisu

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串良川流域散策(その2)

Kushiragawa2_003  串良町の中心に架かる新しい豊栄橋から7~800㍍で、国道220号線に架かる「串良橋」だ。

 さすがに大隅半島横断路線らしく、土手からは車がひっきりなしに通過するのが見える。

 川はこのあたりから、串良川が切り開いた(開析した)大塚原田んぼ(東隣りの東串良町から見れば岩弘田んぼ)に入る。Kushiragawa2_004

 串良橋からほんの200㍍上流に架かる「小間瀬橋」のたもとから、その広大な田んぼ地帯を望むと、特徴がよく分かる。

 左右の小高い丘がシラス台地で、串良川が真ん中の白い標識の奥の辺りから流れ下って、洪水のたびに右に流れ、左に流れしてシラスの台地を削り、遂に広々とした平野を造りだしたのだ。Kushiragawa2_006

 小間瀬橋から左岸を上って行くと、800㍍で堰を見る。「昭和堰」だ。現在、水田は早期はすでに刈り取り、普通作ももう穂が出ていて湛水の必要がないため、取水口は開けられていて水が勢いよく流れ下っている。

 白サギと青サギが何羽か、仲良く堰のコンクリートに止まって川の中を覗き込んでいた。

Kushiragawa2_009  そこから500㍍ほどで「大塚原前橋」だ。ここからは串良町側のシラス台地の展望台「大塚山」がすぐそこに見える。

 高さは108mと低いが、標高50㍍ほどののっぺりとした台地にとっては、目立つ存在だ。頂上には最近建てられたばかりのNTTの無線中継塔が見える。

Kushiragawa2_011 1キロ余りで「十五社橋」に着く。

 橋から西(串良町側)を望むと、小さく赤い鳥居が見えるが、そこが十五社神社(後述)で、橋の名はそれから来ている。

 橋の一直線上の先の崖が白いが、あれはシラスである。

橋の少し上流の左岸から東(東串良町側)を見ると、あたかも崖にコンクリートを吹き付けたかのような、異様に切り立った崖が目に入る。これもシラスだ。Kushiragawa2_014

 ここのは事業としてシラスを採取している。家畜舎の床敷き用に、また道路工事の路床の基礎材としても多く使われている。それにしても急傾斜だ。シラス特有の不思議な粘着力のため、あんなに切り立っていても持つのだという。川の削り取った跡が急な崖の理由もこれだろう。Kushiragawa2_016

 十五社橋から1800㍍ほどで、この大塚原田んぼ地帯の最上流部に架かる「林田橋」に着く。ここまで串良町中心の豊栄橋から約5,5キロ。標高差は7㍍だ。

 林田橋の200㍍上流には「林田堰」がある。

 林田堰によって潤される田は400ヘクタールを超え、下流にあった昭和堰とあわせると600ヘクタール以上、Kushiragawa2_020 まさに串良川流域田園地帯の心臓部だ。

 ここでももう田んぼへの通水は終えており、本来の流れが轟々と音を立てていた。

この上は急に谷間が狭くなっている。これを仮に「林田地峡」と名付けておくが、今回はその地峡をくぐらずに、Uターンして西(串良町)の崖沿いに走る県道を戻った。Kushiragawa2_022

林田橋を右岸に渡り、県道を約500㍍下ると、大隅交通の「中野バス停」がある。そのすぐ手前の右への道に入る。そこは中野集落だが、道はほぼ真っ直ぐに続き、500㍍で左に折れる。そうしたらほんの10㍍ですぐに右手に細い道がある。その奥が「中野観音洞」だ。

 洞穴(ガマ)の入口に観音堂と古い水神らしき祠が建っている。左手には大きな地蔵さん(?)も建つ。Kushiragawa2_025

結構遠くからの参拝客があるらしい。何のご利益かは分からないが、衆生済度ならみんなに平等だ。

 それより、ガマへ上がる小さな橋の右手の崖下から流れてくる水の多いのには驚く。シラス台地下によくある湧水だが、ここのは惜し気もなく湧き出している。これこそ観音のご利益だろう。Kushiragawa2_028

 仏教の次は、神道。中野バス停に戻って、県道を1,5キロ下ると赤い鳥居が道路に面して建つ。そこは「十五社神社」だ(写真は神社から串良川方面を見たところ)。

 物部守屋が聖徳太子と蘇我馬子の連合軍に敗れたあと、ひそかに大隅へ落ちのび、その後裔が綿々と続いた。最後は肝付氏の阿多移封後も高山郷に残り、神官として重きをなした「守屋家」となるが、その何十代か前Kushiragawa2_043 の先祖がこの地で祖神を祭っていたという由緒を持つ。

 さて、大塚原田んぼ地帯の最下流の小高い丘の上には「月読神社」が鎮座する。これも物部守屋の後裔が祭ったと言うが、この丘はどう見ても古墳だ。隼人時代つまり投馬国時代の王者の墓にふさわしい高台の一等地ではないだろうか。

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 月読神社まで下ったが、そこからUターンすること500㍍、大塚原公民館を見てすぐ左へ上がる道がある。これを登り切ると、右手が大塚山公園入口だ。

 円を描くようにして登ると、頂上に着く。大きなクスなどが生え、意外に広い山頂だ。

きれいな和風トイレの方(南側)に展望所があったのでいってみると素晴らしい風景が待っていた。 Kushiragawa2_034_2 串良川つまり東を見下ろすと、串良川の造りだした大塚原(岩弘)田んぼはもとより、その向こう側の台地のはるか先に志布志湾が広がり、真ん中には何とビロウ島が浮かんでいたのだ。

 また、展望所とは逆の西側の高みからは、鹿屋のバラ園のある「霧島が丘」の低いなだらかな一続きの向こうに、開聞岳がその優美な山容を現していた(クリックで確認)。

  マップー①(赤い十字は大塚山。緑の矢印は十五社神社)

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 マップー②(赤い十字は十五社橋。緑の矢印は林田橋)

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串良川流域散策(その1)

 一級河川・肝属川の最大の支流が串良川でKushiragawa1_001 、その長さは40キロ近く、本流の肝属川(別名 鹿屋川)が35キロほどなので5キロも長い。

 本来ならより長いほうの川の名が付きそうなものだが、鹿屋川は24、5キロの長さの支流を3本も持っており、流域面積が数倍広いため、全体を代表する川名を与えられたのだろう。

 肝属川河口から4キロの所に俣瀬橋があるが、その上からは500メートル先の合流点を見ることができるKushiragawa1_002 川幅がぐんと広くなり、河口までは大河の趣きで悠然と流れるようになる。

 串良川左岸の土手を遡ると、白い工場のような建物がすぐそこに見えるが、これは肝属東部浄水センターで、上下水道の最終末処理場である。明治の古地図を見ると肝属川はこの建物の向こう(上流)側を流れて、串良川に合流していた。だから、建物の建つ土地は、今も旧高山町に属している(地続きから言えば串良町なのだが・・・)。Kushiragawa1_003

 合流点から、2、5キロ余りで「吉元橋」だ。

 平成8年完成の新しい橋で、串良の田んぼ地帯とと東串良のそれとをつなぐ、重要な橋である。土手の先にこんもり茂った林があるが、明治まで串良川はその向こうへ大きく蛇行していた。右手つまり東へ最大1,5キロも膨らんでいた。

Kushiragawa1_005_2  次の橋「堅田橋」の架かる場所は、その大きな蛇行が始まる部分だ。橋と橋の間が約1,4キロだから、蛇行した川で囲まれた面積は1平方キロ(100ヘクタール)もの広さを測る。洪水さえ防げれば良い田んぼになるが、おそらく乾田化されたのは戦後のことだろう。「堅田」は「硬い土壌の田」ではなく、「片(傍)田」が語源ではないだろうか。

 堅田橋から川越しに台地が見えるが、あれが古墳地帯「岡崎台地」だ(後述)。Kushiragawa1_006

 堅田橋を過ぎると右手(串良川左岸地帯)に広大な田んぼが広がるが、串良町と東串良町を画する大穀倉地帯である。

 これは串良川の沖積平野だが、それだけではなく、水分を含むと泥流化しやすい豊富なシラス土壌と、縄文時代前期の海進とのコラボレーションも大きな要素であった。

 Kushiragawa1_008_3 堅田橋から2,5キロ余りで、串良町の中心部に架かる「豊栄橋」にたどり着く。18年度の改修で、新しく生まれ変わった。

 以前の橋は鉄橋様式で、頑丈至極の物々しい橋だったが、今度のは気が抜けたようにさっぱりとモダンだ。川幅も広げられたらしく、橋よりも川のほうが本来の存在感を見せているのはうれしい。

 Kushiragawa1_010 橋を右岸に渡ると、串良町の中心だ。信号を右折すると旧串良町役場(現・鹿屋市串良総合支所)が右に見え、その向こうに藩政時代の仮屋跡がある。さらにその向こうのこんもりとした丘は、中世の城跡「鶴亀城」である。

 串良郷(近世薩摩藩外城のひとつ)は大郷で、二万石近い米が採れた所だ。外城と言っても城があったわけではなく、藩士(外城士)の住む地域(麓=府下)が行政地域であり、その中心に「仮屋」があって郷支配の万端を司った。

Kushiragawa1_009  串良郷は藩の直轄地で、地頭の仮屋跡が公民館・文化センターなどの施設に隣接する。凝灰岩製の門柱と塀だけが当時の面影を伝えるのみである。

仮屋跡の石碑と門柱(道路の向こうは串良小学校)

 ところで堅田橋から右岸の串良田んぼに下り、そのまま田んぼの中の直線道路を岡崎台地に向かって進むと県道高山・串良線に出る。県道を曲がらずに旧道を真っ直ぐ行くと4~50メートルで、左手へ上がる道がある。Kushiragawa1_011_2

 その台地が岡崎台地で「岡崎古墳群」があるところだ(右の写真で、電柱のすぐ左の杉の生えている所一帯)。現在確認されているのは21基で、15号墳からは「長方板皮綴短甲」という5世紀の鎧や硬玉製の勾玉、18号墳に付随する地下式横穴墳には高さ70センチもある巨大な須恵器の甕が副葬されており、串良川下流域全体を支配する王者が眠っている可能性が高い。

 マップ(赤十字が「堅田橋」で、左上の鳥居マークあたりが岡崎古墳群)

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