高須川流域散策(最終回)
鹿屋バイパスの一里山交差点から鹿屋体育大学に向けて走り、体育大学の入り口信号を花岡町方面へ右折する。そこから500㍍行くと海道町のバス停のある四つ角がある。それを右折すると鳴之尾牧場への道だ。牧場まで10キロとある。
上り道が続くと思う間もなく今度は下り坂になる。ずんずん降りていくと橋に出会う。「小薄(おすき)橋」だ。かなり大きな「小薄橋架設記念碑」がそばに建っていた。
ここまで、高須川はずうっと峡谷で人目には触れない。やっと川の流れが捉えられるかと期待して橋から見下ろすと、比高で25㍍ほどはあろうか、凝灰岩を侵食してできた流れは、周りに生えている照葉樹林のせいで全貌は捉え切れない。
流れがナイフのように凝灰岩をえぐり、あたかも人口の運河のようにさえ見える。不思議な雰囲気を漂わせている。
橋を渡り、小薄町を抜け、次の有武町を通って次第に山道に入って行く。
右へ御岳登山道を兼ねる林道を見ると、間もなく第一展望所だが、よい被写体が得られそうもないので、次の第二展望所まで行ってカメラを向けた。ワンダフルだ!牧場の牧舎とモルゲンルートに染まる妻岳(1145m)の対比がなんとも言えない。
ここにはもう5~6回来ているが、もちろん早朝は初めてで、来た甲斐があったというものだ。
もう少し進んで角度を変えて見ると、なんと白糸の滝が、牧舎の左奥に写っていた。高須川の最上流近くで、おそらくは削られずに残った「高隈花崗岩」の岩肌を滑り落ちているのだろう。落差は62mというから半端な滝ではない。
滝のある所がほぼ源流地帯で、一番の先端は妻岳の直下にある。
牧場から、今度はさっきの入り口海道町ではなく、花岡町に下る道をとった。2キロほどで「くぬぎ橋」に出る。この橋から上流300㍍のところに「花岡用水」の取水口があるというが、道が見つからなかった。
上流はこのように穏やかな渓谷なのだが、それにしても中流地帯の峡谷振りにはおどろくほかない。カワゴケソウの一種のカワゴロモという熱帯性の水中植物がいまだに生息しているのもそのお陰だろう(天然記念物)。
くぬぎ橋から高須川の右岸を上がっていくと花里町に出、そこからは今度は下り道となる。1キロ半ほど下ると、大隅少年自然の家前というバス停があり、右折して約1キロで「国立大隅少年自然の家」だ。
ここは子供たちが宿泊して自然体験をするところで、我が家の子供たちも小学生の時は何度か学校から出かけている。写真では背景に高隈山系が見えるだけだが、宿舎の窓からは鹿児島湾が望めるようになっている。
さっきのバス停まで戻り、なおも下っていくと1キロ余りで前方が開ける。道路左手の畑の中に入っていくと、200㍍ほどで道は右にカーブするが、そのまま行くと今度は左手に上がっていく道がある。行き止まりまで行くとザア、ザアという水の音。
鉄筋の門を入ってみると、そこには水の出口があった。上流のくぬぎ橋上の井堰からの水だ。ここまで4キロもあるというから驚く。しかも用水建設の指導者 は女性なのである。その名を「島津岩子」(22代藩主継豊の妹)といい、花岡島津家第2代久尚の正室だった人だ。
飲料水と農業用水を兼ね、8年の歳月をかけてついに成し遂げた(安永9年=1780)あと、水田を40町開くことができた。その成果に藩主も喜び、褒美として鹿児島城下の原良に屋敷を与えたという。その花岡屋敷は今に残るそうだ。
戦後になっても敬愛の念があったようで、右の写真で学校の裏にある小高い丘「木谷城址」の一角には岩子の顕彰の石碑が建っている(上)。
木谷城は南北朝時代に南朝方の武将・楡井頼仲が鹿屋城から転戦し、立て篭もったという城であったが、江戸時代の一国一城制度により廃城になった。
城の頂上はかなり広く平坦で、行ってみたら高齢者たちがグラウンドゴルフをやっていた。それはそれは見事な芝生が生えていた。
城の下にある鶴羽小学校は、門柱と石垣に藩政時代の石が転用されているが、ここは「御仮屋跡」なのであって、けっして「鶴羽城」という城だったわけではない。城はあくまでも後ろの丘の上にあった。
小学校の前から道を左手にとれば鹿屋体育大学入り口の信号への道となる。それを約500㍍行くと、右手に墓地がある。これが花岡島津家7代(145年間)の墓地で、ここには菩提寺「真如院」があったという。
ひときわ大きい屋根型の墓塔は初代久とし(人偏に寿の旧字)のものと思われる。
久としは薩摩藩主20代綱貴の二男で、最初わずか1300石の持分しかなかったが、用水の完工を見た後は幕末までに5400石と大幅に増加している。家格は一所持ちで、一所一門家(加治木家、重富家、垂水家、今和泉家)に次ぐ家格であった。
墓地の裏手約600㍍ほど、花岡の台地が錦江湾に向かってせり出そうという辺りに「高千穂神社」が鎮座する。祭神はニニギノ尊で、伝説では高千穂に天下りしたニ二ギが大隅から阿多地方に渡る前に、ここにしばらく滞在したという。それで最初は「当座大明神」と言ったらしい。
花岡地区からは北に桜島、東に高隈山、西は広大な錦江湾が望まれ、古来より聖地視されていたのかもしれない。
マップ(赤い十字は木谷城、矢印は花岡用水の取水堰)
注:この地図には国道220号から海道、花岡への道路が記入されていない。ちょうど220号線の三角のマークあたりから海道ー花岡ー根木原ー大浜(海岸)と花岡地区を貫く道路がある。
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