高須川流域散策(最終回)

 鹿屋バイパスの一里山交差点から鹿屋体育大学に向けて走り、体育大学の入り口信号を花岡町方面へ右折する。そこから500㍍行くと海道町のバス停のある四つ角がある。それを右折すると鳴之尾牧場への道だ。牧場まで10キロとある。Takasugawa3_004

 上り道が続くと思う間もなく今度は下り坂になる。ずんずん降りていくと橋に出会う。「小薄(おすき)橋」だ。かなり大きな「小薄橋架設記念碑」がそばに建っていた。

 ここまで、高須川はずうっと峡谷で人目には触れない。やっと川の流れが捉えられるかと期待して橋から見下ろすと、比高で25㍍ほどはあろうか、凝灰岩を侵食してできた流れは、周りに生えている照葉樹林のせいで全貌は捉え切れない。Takasugawa3_003

流れがナイフのように凝灰岩をえぐり、あたかも人口の運河のようにさえ見える。不思議な雰囲気を漂わせている。

 

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橋を渡り、小薄町を抜け、次の有武町を通って次第に山道に入って行く。

 右へ御岳登山道を兼ねる林道を見ると、間もなく第一展望所だが、よい被写体が得られそうもないので、次の第二展望所まで行ってカメラを向けた。ワンダフルだ!牧場の牧舎とモルゲンルートに染まる妻岳(1145m)の対比がなんとも言えない。

 Takasugawa3_012 ここにはもう5~6回来ているが、もちろん早朝は初めてで、来た甲斐があったというものだ。

 もう少し進んで角度を変えて見ると、なんと白糸の滝が、牧舎の左奥に写っていた。高須川の最上流近くで、おそらくは削られずに残った「高隈花崗岩」の岩肌を滑り落ちているのだろう。落差は62mというから半端な滝ではない。

 滝のある所がほぼ源流地帯で、一番の先端は妻岳の直下にある。

Takasugawa3_014 牧場から、今度はさっきの入り口海道町ではなく、花岡町に下る道をとった。2キロほどで「くぬぎ橋」に出る。この橋から上流300㍍のところに「花岡用水」の取水口があるというが、道が見つからなかった。

 上流はこのように穏やかな渓谷なのだが、それにしても中流地帯の峡谷振りにはおどろくほかない。カワゴケソウの一種のカワゴロモという熱帯性の水中植物がいまだに生息しているのもそのお陰だろう(天然記念物)。

Takasugawa3_016_3   くぬぎ橋から高須川の右岸を上がっていくと花里町に出、そこからは今度は下り道となる。1キロ半ほど下ると、大隅少年自然の家前というバス停があり、右折して約1キロで「国立大隅少年自然の家」だ。

 ここは子供たちが宿泊して自然体験をするところで、我が家の子供たちも小学生の時は何度か学校から出かけている。写真では背景に高隈山系が見えるだけだが、宿舎の窓からは鹿児島湾が望めるようになっている。

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   さっきのバス停まで戻り、なおも下っていくと1キロ余りで前方が開ける。道路左手の畑の中に入っていくと、200㍍ほどで道は右にカーブするが、そのまま行くと今度は左手に上がっていく道がある。行き止まりまで行くとザア、ザアという水の音。

 鉄筋の門を入ってみると、そこには水の出口があった。上流のくぬぎ橋上の井堰からの水だ。ここまで4キロもあるというから驚く。しかも用水建設の指導者Takasugawa3_022 は女性なのである。その名を「島津岩子」(22代藩主継豊の妹)といい、花岡島津家第2代久尚の正室だった人だ。

 飲料水と農業用水を兼ね、8年の歳月をかけてついに成し遂げた(安永9年=1780)あと、水田を40町開くことができた。その成果に藩主も喜び、褒美として鹿児島城下の原良に屋敷を与えたという。その花岡屋敷は今に残るそうだ。

Takasugawa3_017_2 戦後になっても敬愛の念があったようで、右の写真で学校の裏にある小高い丘「木谷城址」の一角には岩子の顕彰の石碑が建っている(上)。

 木谷城は南北朝時代に南朝方の武将・楡井頼仲が鹿屋城から転戦し、立て篭もったという城であったが、江戸時代の一国一城制度により廃城になった。

 城の頂上はかなり広く平坦で、行ってみたら高齢者たちがグラウンドゴルフをやっていた。それはそれは見事な芝生が生えていた。

Takasugawa3_024 城の下にある鶴羽小学校は、門柱と石垣に藩政時代の石が転用されているが、ここは「御仮屋跡」なのであって、けっして「鶴羽城」という城だったわけではない。城はあくまでも後ろの丘の上にあった。

 小学校の前から道を左手にとれば鹿屋体育大学入り口の信号への道となる。それを約500㍍行くと、右手に墓地がある。これが花岡島津家7代(145年間)の墓地で、ここには菩提寺「真如院」があったという。

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 ひときわ大きい屋根型の墓塔は初代久とし(人偏に寿の旧字)のものと思われる。

 久としは薩摩藩主20代綱貴の二男で、最初わずか1300石の持分しかなかったが、用水の完工を見た後は幕末までに5400石と大幅に増加している。家格は一所持ちで、一所一門家(加治木家、重富家、垂水家、今和泉家)に次ぐ家格であった。

Takasugawa3_029  墓地の裏手約600㍍ほど、花岡の台地が錦江湾に向かってせり出そうという辺りに「高千穂神社」が鎮座する。祭神はニニギノ尊で、伝説では高千穂に天下りしたニ二ギが大隅から阿多地方に渡る前に、ここにしばらく滞在したという。それで最初は「当座大明神」と言ったらしい。

花岡地区からは北に桜島、東に高隈山、西は広大な錦江湾が望まれ、古来より聖地視されていたのかもしれない。

  マップ(赤い十字は木谷城、矢印は花岡用水の取水堰)

 Maptakasugawa3 注:この地図には国道220号から海道、花岡への道路が記入されていない。ちょうど220号線の三角のマークあたりから海道ー花岡ー根木原ー大浜(海岸)と花岡地区を貫く道路がある。

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高須川流域散策(その二)

 国道269号が高須川を渡る「岡留橋」から、左岸を上って行くこと500㍍で「野里地峡」に入り、道はほぼ直角に東向きに折れる。Takasugawa2_001

 一番狭いところでわずか30㍍くらいだろうか、といって川自体は峡谷かといえば全くそうではない。緩やかな、どこにでもありそうな川底の高い流れである。

 そこを抜けると広大な野里大津地区だ。

 この「大津(うつ)」という地名の由来は諸説があり、おおむね二つに絞られる。ひとつは近江の国の大津から有力者がやってきて住みついたからというもの。Takasugawa2_005 もうひとつは、昔この地は水はけが悪く(野里地峡のせいで?)、大雨が降ると一面が湖のようになる。その時に大津集落がまるで大きな津に臨んだように見えるからというもの。

 どちらも「大津」という漢字に囚われた解釈で、私見では「ウツ」という音の意味するところを汲む。これはかって肝属川流域の中心だった「打馬(うつま)」と同じ由来で、ウツ(宇都)とは「すべてがまとまってある状態」つまり「生存条件の完全な」ということである。大津(うつ)地区はまさに野里宇都の広い田んぼ地帯の中心に位置している。

 その広い(およそ70㌶はあろう)野里田んぼを上流に向かうと、珍しい物に行き会った。「稲こづみ」だ。稲藁のとんがり帽子だが、今はほとんど見かけない。藁が腐らないようにする積み方だが、近くで作業していた人に聞くと園芸用の敷き藁だそうだ。リサイクルの見本がここにある。

Takasugawa2_006 野里田んぼのど真ん中、「大津橋」のすぐそばに県指定の「野里の田の神」がある。約250年前に造られた田の神は、端正で福々しい。よく見ると例のピンク石のようだ。左には水神様が二基建っている。

 説明板がいい。花崗岩製の重々しい本のスタイル。洒落た事をする。ずいぶん金を掛けたなとも思うが、こういうのもあっていい。

Takasugawa2_010 大津橋から上流を見る。晴れていれば高隈山が遠望できる所だ。

 川はすぐそこから左、つまり北の方角に向きを変える。その向きは最上流の高隈連山中のピラミッド「妻岳」(1145m)の南斜面の源流域までほぼ変わらない。

 橋を左手に渡れば大津地区だが今回は渡らずに、そのまま左岸沿いを上流に向かう。野里小学校のすぐ下に田の神があると聞いたからだ。Takasugawa2_013

小ぶりの田の神だった。しかも顔がえぐれ、両手も落ちている。珍しいのは座っていることだ。有名な田の神はほとんどが立った姿のはず。行き会った人が「一昨日まで周りが草ぼうぼうだったのに」と言っていた。

 隣の石碑は耕地整理記念碑だ。田の神に負けず劣らず多いのがこの手の記念碑であるが、田の神と並んでいるのは余り見かけない。

Takasugawa2_014  田の神の筋向いの道路下に池のような物がある。行ってみると野里小学校の「メダカの池」だった。睡蓮がびっしり浮かび、池の周りの草も自然だ。ビオトープという生態系観察のための施設ということだろう。

 いわゆる総合学習の一環だが、文科省は「そんな時間があったらもっと机に向かって勉強せい」と国際学力調査の成績が落ちたことでカリカリしているらしい。なんとも短絡なことだが、こっちを学習したほうが探究心は付くし、ましてこれからの環境問題を考える糸口になろう。 

Takasugawa2_015 それにしても野里小学校の校舎のすばらしさには舌を巻く。どこぞの有名私立小学校という雰囲気だ。

 ここに限らず、鹿児島の小学校は地域のシンボルの意味合いもあってどこに行っても豪華に造ってある。イザというときの避難所にもなるから頼もしい。これに温泉があれば完璧だが・・・。Takasugawa2_017

おやおやと思うほど野里田んぼには田の神が多い。シラス台地の下に広がる集落から田んぼ地帯に出る際に必ずあると言ってよい。

 ここ吉国集落では田の神が二基並んでいる。耕地整理記念碑とも同席だ。それだけではない、向こうの四角いのは「戦災復興記念碑」で、海軍基地のあった鹿屋は米軍の爆撃の標的になることが多く、この地区もひどい目にあったらし い。時代の証人だ。Takasugawa2_020_2 

吉国橋のすぐ上手には井堰がある。

 橋を渡って吉国集落を通り抜け、さらに上流を目指すと300㍍ほどで峡谷の入り口になる。急に林が迫り、川も近づいてくる。程なく国道220号線に出る。そこに架かる橋が高橋(下の写真)で、これは峡谷をかなり下に見る「高い橋」には違いない。そのためか、このあたり一帯も高橋地区になっている。Takasugawa2_021

高橋を渡ると、道は峡谷とは離れ、1キロ余り上流の一里山交差点を右折し、約150㍍先の「一里山橋」の上からしか川は望まれない。ところがあったのだ、峡谷へ降りる道が。

 一里山交差点からは250㍍ほど手前になるが、右手に入る細い道がある。うっかりすると見過ごしてしまいそうな道だが、ちゃんと舗装はされている。右折すると緩い下り坂で、100㍍も行くと先に小さな橋が架かり、左手には立派な石碑が立つ。

Takasugawa2_023 これが知る人ぞ知る「磯吉橋」で、大正年間に国道の川向こうの台地を開墾しようという熱意を持った「郷原磯吉」が私財を投じ、川幅の最も狭いここに橋を渡したという。峡谷の川面からは優に30㍍はある高い所に、80年以上前の当時どのように橋を渡したのか、凝灰岩製の頑丈な橋は今でも車を通している。

 磯吉橋を渡り、50㍍ほどいくと川に降りる道がある。

Takasugawa2_024 国道220号線鹿屋バイパスに架かる一里山橋が、すぐ向こうに高く見える。川面との比高は40メートル以上はあるだろう。見ているとひっきりなしに車が通る。一里山の一里とは、花岡町にある花岡島津家の仮屋(役所)からの距離だそうだ。

 再び磯吉橋を渡り、さっきの国道に戻る。一里山交差点を右折して一里山橋に至り、そこから下を眺める。すると川の右岸に見事な田んぼがある。磯吉橋開設の功徳のひとつだろう。

Takasugawa2_026 川はこの上で二股に分かれ、左手の川が鳴之尾牧場の近くを流れ、源流を妻岳に持つ高須川本流だ。

  

 マップ(赤い十字は磯吉橋。矢印は吉国の二体の田の神)

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高須川流域散策(その一)

高須川は高隈山系の南部を源にする長さ16キロほどの小河川だが、きわめて個性的な川である。その特徴Takasugawa1_001 は河口から表れる。

 河口はかって港町として栄えた(写真は野里から下る道路から見下ろした河口付近の町並み)。

 古くから言えば、10世紀の初期に編纂された『和名抄』(源順が編纂)の中の諸国の郡郷一覧に登場する。大隅国6郡のうち「姶羅郡」と「大隅郡」にある二つの「岐刀郷」(キトまたはフナト郷)のどちらかが高須で、野里を示す「野裏郷」と隣り合っていることから考えると、前者の「姶羅郡」に属していたことは確かだろう。それほどの古い港。

Takasugawa1_003  その野里から坂道を下って高須三文字という信号を左へ折れると、高須の町並みの中に入る。すぐに面白い欄干をもつ「高須橋」を渡る。これが高須川だが、河口は右手約250㍍のところだ。その手前には旧国鉄大隅線の小さな橋が架かっている。

 さて、高須橋を渡ると左に小さな赤い鳥居と社が目に付く。これは「川津神社」。ミズハノメという水の神を祭る。社の後ろは比高15㍍ほどの凝灰岩(ピンク石だ)の小山になっている。海蝕性の岩山はいかにも港にありそうな風景。

 もう少し行くとやはり左に、人家の塀にはめ込まれたような社がある。Takasugawa1_006

 すだれが掛かっているのは信仰する人の思いやりか、覗くと一対の陶製の狐が置かれていた。お稲荷さんだ。やはり町場なのだろう稲荷信仰には根強いものがある。祭神は稲魂(ウカノミタマ)なので農業神だったのだが、人が多く町に住むようになってから、商売繁盛、家内繁栄の守り神となった。

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 さらに町並みを行くと100㍍足らずで、右に赤い大鳥居が見える。入っていくとそこが「波之上神社」だ。二つ目の鳥居の下には石の祠が左右に二つ、またその奥には仁王像が一対建っている。

 仁王像はこの社殿の下にあった「光明院」の廃仏毀釈遭難の名残りだが、祠は分からない。たぶん神社の門守りの神だろう(左の緑色の建物は大きな蒲鉾屋の裏の倉庫)。

Takasugawa1_014_2   石段を登るとそこに本殿がある。高須の総鎮守にしては小さな建物だ。建っている岩山の頂上の広さから言えば、こんなものか。創建は正平3(1347)年、紀州から下って来た昌光(しょうこう)というお坊さんで、紀州熊野三所権現を祭った(イザナギ、イザナミ、コトシロヌシ)。

 昌光僧都は勤皇の志の篤い人で、同じく勤皇方の肝付兼重、楡井頼仲とは気脈を通じていただろうと思われる。その時の祈願文が今に残る。

左の裏手に回るとそこに六基の板碑・石塔が立っていた。説明板によると鎌倉Takasugawa1_016_3 時代末期のもので、一番古い刻銘では嘉暦3(1328)年が確認され、興味あるのはもうひとつの板碑(心敬という僧の供養碑)の年号で、南朝年号の元弘2(1332)年と北朝年号の正慶2(1333)年が同時に刻まれていることである。南北朝時代直前の混乱した世相の表れで、大変珍しいとされている

  板碑のほとんどは山川石という同じ凝灰岩でも黄色味を帯びた石で造られている。山川石は比較的硬いため風雨にさらされても崩壊が少ないが、さっき川津神社の裏で見たピンク石系の凝灰岩はもろい。左から二つ目の板碑(もしくは石塔)はそのピンク石で造られたため、ぼろぼろになっている。

 神社をおりて裏道を港へ向かう。50㍍ほどで旧大隅線の跡の道路に出る。今は「フィットネスパースTakasugawa1_017 (健康通り)」と名づけられ、ウォーキングを楽しむ市民に開放されている。左の小山が神社の山で、向こうに見える丘が「高須城址」(南北朝期)。

 手前右手に港がある。「高須港」だ。

 高須港はかって重要な港で、古代より向かいの半島、つまり薩摩半島に渡る拠点でもあった。郷土史家の中にはここに肝付水軍の基地があったと考える人もいる。それはおおいに有り得ることと思う。

Takasugawa1_008_2 現在は防波堤で囲まれた漁業基地で、海運は北にある古江港にその座を明け渡したが、それまでは高須川の入り江は底が深いため造船・停泊に適した良港であった。

 高須漁業の一番の目玉は「ミナミグダエビ」という深海性のエビだろう。なんでも100㍍以上の海底を底引き網ですくってとるというが、網の長さが半端ではないらしい。初夏から秋までの漁期しかなく、貴重な海の蛋白源だ。

 港から再び町並みに戻る途中、伊地知さんという家の塀の中、道路からすぐのところに巨大な五輪塔が見える。Takasugawa1_009 これは刻銘はないが、波之上神社と光明院を創建した昌光僧都の供養塔とされる。

 説明では県下でもっとも大きな五輪塔であるという。それほどのものでありながら、普通の家の庭にさりげなく石灯籠のように立っているのがほほえましい、というより驚きだ。市の指定文化財だが、県指定になってもおかしくない代物なのである。石材は山川石を使っており、対岸の指宿・山川との交流が偲ばれる。

Takasugawa1_020本通りに出て南に向かい、300㍍で左へカーブするところに警察署があり、そこから右に入ったところが高須海水浴場である。 そこは素通りし、カーブして約300㍍、左手に新聞販売店があるのでそこを左折し、100㍍足らずで高須小学校に着く。

 校舎の上に高須古城跡の丘があるはずと思い、確認しに訪れてみた。すると確かに小奇麗な校舎の向こうに山頂が頭を出していた。入ろうとして校門の周りをせっせと草取りする先生に気づいた。実はこれこれで・・・。ああ、どうぞ、どうぞ。ちょっと先生もそこに立ってくださいよ。え、あ、そうですか、それじゃ。

Takasugawa1_022 小学校の裏手に回ると、坂の途中にまず中学校(高須中)があり、校門の前を左手へさらに登ると、そこは確かに見晴らしのよい丘の上で、山頂部にはなんらそれらしきものは無く、鹿屋市営墓地になっていた

 古城といっても、波之上神社近くの高須本城よりえらく古いというわけではなく、同じように南北朝期に造られたものだ。

 墓地のすぐ下は高須中で、校舎の向こうには錦江湾南部の波頭が望まれる。

Takasugawa1_026 墓地から北へ向かい再び高須の町並みに下り、今度は高須橋の袂から右手、つまり高須川左岸をさかのぼった。すると川の左岸の先に何やら子供の赤い帽子の群れがうごめいている。目を凝らすと小学生らしき一団が、ワイワイやっている。

 登り坂になって川から離れようとするところで、左へ下りる道があったので、それを下っていくと、高須にこんなところがあったのかと思うようなちょっとした田んぼ地帯だ。小学生の稲刈りだった。

Takasugawa1_028 バインダーという刈り取り結束機をあやつる農家の人の後を、生徒たちが金魚の糞よろしくくっついて行く。見ていてほほえましい光景だ。向こうで写真を撮っているのは担任の先生らしい。やはりデジカメでチャンスを窺がっている。

 高須川は向こうの崖の下を流れている。その上流はすぐに約1キロの渓谷になり、その間は一般道路はない。ここは高須の隠れ里のようなところだ。Takasugawa1_030

手伝いをしているお年より二人に聞く。

子供たちの加勢ですね? ああ、こんたモチ米じゃっど。架け干ししてから、学校で餅つきばすっと。 子供たちはお孫さんみたいですね! うんにゃ、ひ孫ほどじゃらい。 (あら、よう・・・。)

Takasugawa1_024 さっきの左岸道路にもどり、500㍍ばかり行くと、国道269号線のバイパスに出る。信号があるので右へ折れる。これをどこまでも行けば佐多に達するが、右折して間もなくの左側一帯に遺跡がある。右の写真は逆向きに撮ったので右手の丘陵部分がそれだが、遺跡名を「榎木原(えのきばる)遺跡」という。

 縄文早期からの複合遺跡だが、特筆すべき出土物は縄文中期に属する「船元式土器」だろう。岡山県の船元貝塚の物を指標とする縄文中期の代表的土器だが、高須という地には5000年近くも前から海人(航海民)が住んでいたという証拠になろう。

川はこれから上流1キロは深い渓谷になっているので、バイパスをそのまま鹿屋方面に向かう。

立派な「高須大橋」で渓谷ををはるか下に望み、さらに1キロ行くと野里のホンダ自動車が見えてくるが、そのTakasugawa1_047 少し手前から川に降りる道がある。降りると言ってもそこはもう渓谷の上流で、ごく普通の穏やかな流れになっている。

 川に架かる「小天(おてん)橋」を渡り、右手の道をとる。川を逆に上流からたどってみようというわけで、幸いにも旧国鉄大隅線の跡が歩き専用道(フィットネスパース)になっていて、川の様子を垣間見ることができる。

 小天橋から300mほどでそのパースだ。ここでも右への道をとる。高須方面へのパースである。約500㍍行くと、「磨崖仏」の標識。それに従って右へ下りTakasugawa1_035_2 Takasugawa1_037_3 て行く。比高で20㍍も下りると川面に面した岩があり、その一番下に 三体の仏が彫りこまれている。小ぶりの仏で真ん中の釈迦如来でも1メートルほどである。

 川との間は2メートル足らずしかないので、何人も並ぶことはできない。まるで隠れ念仏の場所のようだ。惜しいことに一対の石灯籠がどちらも倒れていた。

Takasugawa1_044 Takasugawa1_045_2  フィットネスパースに戻り、さらに高須方面へ50㍍、瀬音が聞こえてきた。右側の林に立つとはるか下に岩らしき物が見える。足元には踏み跡がある。よし、とばかり、かなりの傾斜を木につかまりながら下りてみた。

 いや、驚くべき光景!左の写真はよくある川の井堰だが、落ちる水の先がすごい!

 右の写真に到っては、いったいどうしてこんな形に?と驚くやら呆れるやらの自然の造形。自然の美にも端正な美もあれば、こんなにシュールなやつもあるんだ、と感じ入った次第。

 こうも言い換えられる。前者が「弥生の美」なら、後者は「縄文の美」。岡本太郎に見せたら喜んだろう。

 もう一度パースまでよじ登り、今度は野里方面へ引き返す。もとの田園風景にTakasugawa1_050 帰るとちょっとほっとするのは、筆者の弥生人根性のなせる業か。

田んぼを通りかかるとおばさんが帰り支度をしていた。

 今、ちょうどコンバインの刈り取りが終わったんよ。もう一枚向こうに田んぼがあって、あそこは架け干しにする。コンバインを人に頼むとモミの乾燥までやってくれるけれど、田んぼ一枚で4~5万円もかかるもの。

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小天橋まで戻ると、橋越しに小さな丘がこんもりと見える。あれは「岡泉の古墳」で、この田んぼ地帯を開いた豪族の眠る岡のようだ。ただ、今は集落の墓地と化していて、それらしき遺物・遺構は見られない。

Takasugawa1_054 川の左岸をさらに行く。見渡す岡留地域は「岡泉」ともいい、現に公民館は「岡泉公民館」である。だが、古地図では岡泉はない。首を傾げつつ田んぼ地帯の上手に架かる橋にたどり着いて納得した。

 「岡留橋」とある。やはり岡留が先にあった地名なのだ。橋のさらに上流は地峡になっている。「野里地峡」と名づけておく。地峡から先は次回に・・・。

 それにしても高須は見所が多い。志布志も史跡が多く、犬も歩けば史跡にあたる、と言えるが、高須はさらに凝縮されている。カメも歩けば、とでも言おうか。

 マップ(赤い十字は子供の稲刈り田んぼ、矢印は磨崖仏)

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