雄川流域散策(南大隅町・錦江町)その2
年末が忙しかったので、二回目の雄川流域散策は年明けとなってしまった。
1月2日の午後、この前の続きを台地の上から始めるべく、旧大根占町の海岸通り(国道269号)の栄町信号から、左手の台地への道(国道448号)をとった。
台地に上がり、杉の美林に囲まれた快適な道をひた走り、花之木信号を右折する。この道は広域農道だ。花之木農場の施設の間を抜け、大きな下り坂にかかると行く手に巨大な橋が見えてくる。「滝見大橋」だ。
今から十年前に架けられたこの橋は鉄骨アーチ式吊り橋だそうで、 雄川峡谷をはるか下に見おろす。
全長は150メートル、雄川まで優に100メートルは越す高さがある。下を流れる川がこの橋の高さにあった台地平面を、そこまで削り、えぐったのだ。ここの地 質も阿多カルデラの噴出による物だから、5万年ほどかけて今見るような峡谷を現出したことになる。
ただ、滝見大橋という名の由来は「雄川ノ滝」が見えることにあったはずだが、実際は見ることはできない。
そのわけを知るとがっかりするが、滝見大橋をわたって左折し、旧田代町(現錦江町)方面の道をとるとはっきりする。
というのも、雄川ノ滝は田代町の北西の外れ、旧根占町(現南大隅町)との境にあるのだが、その境のところ、つまり滝のすぐ上手に雄川発電所の取水口が設けられていたのだ。雄川が崖下に身を躍らせようかというその直前で川の水は大部分発電用に取られてしまうという塩梅で、余り水だけが細々と身投げをしていたわけで、滝としては見られたものではなかったのである。
取水施設一帯には入れぬように鉄条網の付いた高い柵がめぐらしてあったが、からみついたカズラを頼りに登り、やっとの思いで撮ったのが左の写真。
岩盤の上にあるべき水はなく、したがって今、滝はちょっと勢いの良い立小便くらいな感じで落ちているに過ぎないだろう。情けない姿に見えるはずだ。
「滝見大橋」からはなまじ見えないほうが、都合よかったのである。
取水口の上流を500メートルも行くと、雄川流域最大の田園地帯・田代川原地区だ。真ん中を川が流れ、その周りには見渡す限り田んぼが広がる。
正面の山塊は稲尾岳で、昨夜からの冷え込みで頂上(959m)からおそらく標高800メートルくらいまでは雪に覆われているのが見て取れる。道理で、風がやけに冷たい。
川原地区の中心部で川に架かる鶴園橋あたりでみる雄川は、あの深い峡谷を流れていた川とは打って変わって、実におとなしいどこにでもありそうな穏やかな川に見える。
橋の向こうは鶴園集落だが、そのさらに向こうに見える小高い山で、とてつもない縄文時代早期の土器が多量に見つかっている。
「ホケノ頭遺跡」がそれで、時期は平成10年の秋だったと思う。
鶴園集落から登ること5分、距離にして1キロ強の丘の上にタバコの共同乾燥施設がある。その前を走る道路の拡張工事の最中に土器がザクザク現れたのだ。
しかも古い。岩本式土器と言い、薩摩火山灰(約11000年前の桜島噴出物)のあたりに埋まっていた。その数がまたすごい。4m×5mの区画の中に、実に12個体が検出されたという。異常な数と言っていい。これが首都圏や近畿圏で発見されていたら一大センセーションを巻き起こしたに違いない。残念ながら、辺境で発見される高文化は得てして評価されないか無視されるのが通例だ。
鹿児島では縄文時代早期(10000~6500年前)の遺物は、きまって標高の高いところで発見されている。よほど気温が高く、そのせいで海水面もまた相当高かったのではないだろうか。検討の余地アリだ。
川原地区へ戻り、上流を目指す。
佐多方面に通じる中央線をしばらく行くと信号があるので、そこを左折。川も、ちょうど同じように左手へ曲がっている。さらに2キロ余りで右手に「花瀬川発電所」を見ると、やがて花瀬地区に出る。架かっている赤い橋は「花瀬大橋」で、花瀬とは左の写真で見るように、硬い凝灰岩の岩盤を水流があたかも花びらの文様のように削った石畳が広がっているためだ。
花瀬大橋のひとつ上流側に旧花瀬橋があるが、橋のたもとには「お茶亭跡」がトタン屋根に覆われて現存する。これは幕末に襲封した名君・島津斉彬が藩内を巡検したときに茶を一服点てて休息したという由緒を持つ。
花瀬を過ぎると川はようやく渓流らしくなる。道を左岸つまり川を左手に見て上流へと向かう。この左岸の道は、かって田代が林業と炭焼きで大いに栄えていた頃にはトロッコが走る道だった。それゆえ傾斜は緩やかで、川に沿って右へ左へとくねくね続く。
2キロ足らずで鵜戸野地区に着く。ここはいくつもの川が合流する場所で古い時代は聖地のようなところではなかっただろうか。鵜戸野橋近くには「近津神社」が小高い丘の上に鎮座する。鵜戸野橋近くにゲートボール場があるが、そこに立派な石の鳥居があり、それをくぐって石段をあがって行く。周りは文化財に指定されている社叢林で、社殿のある平らな頂上部には樹齢500年ほどのモミの木が四、五本堂々たる容姿で立っている。
近津神社は佐多の郡地区にもあり、そっちが本社らしいが、面白いのはこの神社の向こうに流れる鵜戸野 川の滝つぼ近くにちょっとした洞窟(うど・うろ)があり、その「鵜戸」という名称のゆえ、明治7年の天孫三山陵の治定の際には、現在の吾平山陵、日向の鵜戸神宮とともにここがウガヤフキアエズノミコトの山陵の候補に上がったことだ。
そんな思いで眺めると、ここら辺はそれとなく神秘的なたたずまいも感じられ、1万年前の土器の出現とあいまって、意外にとてつもない歴史を秘めているようにも思われてくる。
鵜戸野を過ぎ、なおもトロッコ道を行くこと1キロ、山間に広がる田園を見下ろすことのできる見晴らしの良い場所に出る。ここを大原地区という。
大原地区にはかなり確かな伝承がある。それは平家の落人伝説で、大原地区に住む「大原」「中野」「大浦地」の3姓はその子孫ということだ。大原という名称は確かに京都の大原と繋がるし、大浦は太平洋岸にへばりつくような平家の落人集落という大浦地区からの移住者だそうである。
移住者といえば、そもそも大隅半島全域が藩政時代には西目(薩摩半島)からの人配(にんべ=狭郷から寛郷への移住)政策の対象であったわけだが、それ以外にも明治以降は指宿あたりから、また大正3年の桜島の大噴火で居住地を失った避難者を受け入れ、戦後は引揚者の入植地としてずいぶん多くのよそ者を引き受けている。
その中でも特筆すべきは「与論島満州開拓団」の戦後入植だろう。彼らは水の豊富な大原地区を第二の故郷として、帰農し、辛苦の末に「茶の生産」に励み、ようやく大原の住民として認知され今日を築いている。
その一方で、また、大原地区は良質米の産地でもある。標高300メートルという高地に位置するため、夏でも朝晩は冷涼で寒暖の差が大きく、水も清流である雄川の上流から引いているので冷たく、どちらも実のしまりを良くし味を良くするというわけである。
田んぼの用水の取り入れ口を探して、さらに上流を目指した。
トロッコ道をさらにさかのぼること2キロ、目指す取水口は「南風谷(はえんたん)橋」の すぐ下にあった。おそらく水利組合の手造りだろう、幅60センチ、高さ20センチほどのかまぼこ型の堰が川を横に仕切っていた。
川底は比較的固い岩盤なので、コンクリートを載せるだけでよく堰の工事は簡単だったろう。それより大変だったのが用水の掘削だったはずだ。総延長3キロ余り、うねうねと途中硬い岩のところはくりぬいてトンネルにしたり、かなりの人手と手間が要ったに違いない。
南風谷橋の上流側には「奥花瀬ニジマス釣り場」があるのだが、期間外のため生憎閉まっていた。確か料金が2000円だったはずだ。
南風谷橋を渡って川の右岸に行き、そのまま2~300m行くと国道448線に出る。
さらに上流を目指すが、国道から川の姿は見えない。広い国道を行くこと2キロで内ノ牧集落、さらに1キロ足らずで重岳集落、ここが旧田代町の東のはずれで、そのまま2キロ行けば隣町・旧内之浦町だ。
最奥の集落と言っても、この辺りは高原状に開けており、山奥という感じはまったくしない。標高400mから450m、都市部に近ければ瀟洒な別荘やペンションが建ち並んでもおかしくない所に見える。
かって炭焼きや林業の盛んだった昭和40年代初めまで、重岳には大原小学校の分校があったという。その分校の跡地とおぼしき場所に奇妙な形の建物がある。まるで北欧かカナダの北部にでもありそうなログハウス風の教会かなんかのように見える。廃屋だったが、もったいないまだ住めそうだ。
錦江町のスクロール地図はこちら
最近のコメント