田原川・持留川流域散策(大崎町・有明町)その2

 田原川上流入り口の高井田から本宮橋へ戻り、もう少しそのまま下流に向かうと「草野へ」という道路標識があるのでそこを右折する。

 道は西に向かって次第に高度を稼ぎ、たちまち広いシラス台地の畑地帯を行くようになる。約1キロ走ったところで、右にロードミラーのある小さな十字路を、今度は左折。これも道なりに約1キロで、人家のある地区に出るから、そこを鋭角に右折すると急勾配の下りだ。0305tabarugawa_049

 下りきると正面に持留川、右手には学校が見える。「持留小学校」だ。周りは切り立ったシラス崖で、山奥の上流地帯といった趣があるが、ここは河口から8、5キロほどしかない。シラス台地は標高75メートル、小学校は標高28メートルだから、その落差は50メートル近い。

 幅はわずか10メートルの浅い川。この川がシラス台地を2万数千年かけてこんな峡谷に抉り取るとは信じられないが、それがシラス台地の特徴である。0305tabarugawa_050

 学校の隣りにある商店のうしろには、垂直に近い生々しいシラスの崖が見えるが、その比高は40メートルは優にあるだろう。

 こんなに切り立っていて、崩れることの少ないのもシラス土質の特殊性だ。

0305tabarugawa_051 持留小学校から7~800メートル下ると、川の両岸の田んぼで大規模に「基盤整備」が行われていた。掘っても掘っても川砂化してはいるが、白っぽいシラスであることが分かる。

 向こうに見えるコンクリート製のの高い橋は「大崎中央大橋」で、鹿屋と志布志とを結ぶ農免道路の橋で、平成16年に完成したもの。小さな河谷には不釣合いなほど高く、長さも長い。

 道は左岸を登り始める。登り切った所が岡別府地区で、かなりの大集落だ。0305tabarugawa_054

集落を貫く県道〈大崎ー野方〉線を700メートル余り行くと、信号のある農免道路との交差点で、右折するとわずかで大崎中央大橋に着く。

 ここからの眺めが圧巻。基盤整備の進む下の田んぼ地帯までの比高は40メートルはあるだろう。およそ10階建てのビルの屋上から見るのと同じだ。川の奥に見える岡は「草野丘」(268m)で、田原川の水源のひとつになっている。

 0305tabarugawa_053 中央大橋から引き返すと、さっきの交差点までの途中に「下堀遺跡」がある。

 ある、といっても農免道路の完成とともに埋め戻されてしまった(右の写真の道路案内板の立つあたり一帯)が、縄文早期と弥生中期~古墳時代の複合遺跡で、特に弥生中期の大型住居跡、古墳時代の異形鉄器と初期須恵器の出土は特筆に価する。

0305tabarugawa_055 中央大橋の下流の「档ヶ山(まてがやま)橋」は何の変哲もない小さな橋だが、名前が珍しい。

 「档(まて)」とは「まて」という名の木のことだろうか?調べても出て来ない。もしかしたら「マテバシイ」のことか。マテバシイなら南九州にはたくさん自生している。

 その橋の向こうで何やら川をまたぐような工事をしている。看板を見ると「東九州自動車道」の橋がここに架かるという、その前段階の調査らしい。0305tabarugawa_057

一時、危ぶまれた高速道路の建設も、いまや確実に実現に向かっているようだ(このあたりは河口から6キロくらい)。

 さらに下流の「谷迫橋」まで行くと、橋のたもとにビニールハウスより強い硬質プラスチックの連棟ハウスが建ち並んでいる。行ってみると「養鰻組合」による集団生産地だ。このあたりは良い水が豊富なのだろう。0305tabarugawa_058

谷迫橋からは土手の上が通れる。約1,5キロで右岸の永吉地区の崎園集落と仮宿の繁華街とを結ぶ「崎園橋」に至る。ここから川は急激に向きを東に変え、大崎町の中心部へと流れるようになる。

 国道220号線に出て左折し、プラッセだいわというスーパーに行くと、駐車場からは神領古墳群のある長い台地が、志布志湾に向かって突き出ている様子がよく分かる。かってこのスーパーのある国道付近まで、海水が迫っていた頃はその長い台地は大きな岬、つまり大崎だったわけだ。0305tabarugawa_064

東側を流れる田原川と西側を流れるこの持留川は、神領台地(大崎上町=仮宿)から西北の井俣地区、野神地区にいたる長大な台地を挟んで流れる双子のような川に見える。

 国道が持留川を跨ぐ「第二大橋」付近からは、よく見ると広い田んぼ地帯の向こうに「横瀬古墳」(国の史跡・148 メートルの前方後円墳)が望まれる(写真中央より左手に見える小さな森が前方部。後円部はその左側)。持留川の流域にあるといってよいのかもしれない。

  マップ

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田原川・持留川流域散策(大崎町・有明町)その1

 0305tabarugawa_011 田原川と持留川は河口を同じくし、どちらも大崎町の丘陵地帯である野方地区を水源としている15キロほどの小河川である。以前、「綿打川河口」で河口の一帯を紹介したが、今度は川の流域を調べて回ってみようと思い、出掛けてみた。

 田原川を遡り、上流の山間に入る手前から、西へ丘陵を越えて持留川に降り、そこからは持留川沿いに再び下流に帰って来るコースをとった。

 河口に最も近い国道448号線にかかる「大原大橋」を起点にして周回を始める。右の写真は、旧道に架かる「綿打橋」と上流を望む。左手は神領古墳群のある台地。0305tabarugawa_015

 写真の右手へ道をとり、少し行くと田の中を行く道があるのでそれを左折。川を左手に、台地を眺めながら約1キロで「龍相大橋」のたもとに出る。その道は旧国鉄「大隅線」のかっての軌道だ。今はすっかりきれいな道路になっている。

 写真は橋から上流を望んだところで、すぐ先に見える新しい橋まで行き、左手に上がってみる。0305tabarugawa_021

 上がり切ると左右に住宅(天子ヶ丘住宅)があり、看板の建った路地を右手に入り、ずうっと突き当たりの住宅まで行くと、庭の片隅に何やら丸っこい石が見える。

 どうやらそれが神領古墳群中の6号墳通称「天子ヶ丘古墳」の形見らしい。

 0305tabarugawa_019 普通の人家なので何度か訪うのだが、主は居ないらしい。そこで失礼ながら入ってみると、長さ1メートルくらい、幅は50センチほどの、ちょうどラグビーボールの形をした花崗岩製の石碑(?)だった。コンクリートで覆ったような小山のてっぺんにドンと置かれている。

 「天子ヶ丘城跡」と彫られていた。あれ、古墳じゃなかった、中世の城跡だったかとちょっとがっかりしたが、なるほど眼下には田原川が沖積した平野が一望の下に見える。城砦にはもってこいだな、と思いつつ後ろに回ると0305tabarugawa_020そこには 「棺石が埋蔵されている 昭和48年・・・ 中山・・・」と明瞭な刻字。

 ほう、と驚く。やはり古墳だったと確認された。棺石は石棺のことだろう。まだこの下にあるらしい。もし6号墳であれば、ここは鹿児島の古墳では珍しい銅鏡が発見された所。とにかく比高20メートルほどの丘の上で、四、五世紀に自分たちが拓いた田んぼ地帯を一望できる丘のへりに造成された高塚(前方後円墳)。これは大隅の古墳の定石に適っている。0305tabarugawa_007

次に6号墳から五世紀前半の初期「武人埴輪」の発掘された10号墳に向かう。住宅街を抜けて出た道路を南へ、さっきの大隅線旧軌道を横切り、約150メートル行くと道路沿いの畑の中の一軒家があるから、その先を左手に入る。細い道だが5,60メートルで広場に出る。

 なんとミツバチがぶんぶんうなりを上げていた。養蜂家が借りている場所なのか、巣箱の向こうのこんもりした小さな森を古墳と知ってか知らずか、面白い取り合わせには違いない。0305tabarugawa_009

前方部(下の写真の手前側)はやせ細っているが、後円部はしっかりと円形を留めている。クスノキが墳丘の崩壊を防いでくれたようだ。もっとも繁茂のお陰で古墳、特に前方後円墳には見られずに来たのかもしれないが、いずれにしてもよく残っていたものだ。墳丘の長さは現存で40メートル強だろうか。

 ここは、6号墳と違って、丘陵のヘリではない。0305tabarugawa_059

10号墳からもとの道に出、右折して北を目指すと国道220号に出る。大崎上町だ。そこを左折してやや行くと、道路が下りになりかかるところの右手の丘に「都万(つま)神社」がある。

 日向国都万五社のひとつとされ、大崎郷の郷社だったという由緒を持つ古いお宮だ。祭神は「コノハナサクヤ姫(カムアタツ姫)」とコトシロヌシ0305tabarugawa_061_2

 不思議なのはコトシロヌシだ。カムアタツ姫なら配偶者であるニニギノ命が祭られていそうなものだが、コトシロヌシとは不可解。天孫降臨に敵対した側なのだから・・・。

 だが、私見で「コトシロヌシは鴨族の王者になった」とすれば、鴨着く島のこの地に祭られていておかしくはない。むしろはじめ鴨族の王コトシロヌシがここで祭られているところへ、あとから都万神社が加えられ、そっちの方が大社になった(庇を貸して、母屋を取られた)とも思える。それと、天文年間に上流の原田地区から遷宮して来た、というのも気にかかる。 0305tabarugawa_026

大崎上町信号に戻り、その先を左折すると野方方面への道で、1キロも行くと右手にJAの葬祭場があるから、その手前を右に折れると田原川の沖積平野に下りる。

 広い平野部を上流方面へ行くと、左手に田中集落の入り口が見え、その手前の田んぼ地帯との境に「田の神」が祭られていた。ここの田の神は親子で、とても珍しい。おまけに白化粧をしている。ユーモラスだ。このあたりで河口から4キロ遡ったことになる。0305tabarugawa_028_2

台地のへりの下を縫うように、さらに北上すること約1キロ、太い道路に出たと思ったら道は「平良橋」を向こう岸(左岸)に渡る。この橋から上流を見ると、これまでの平らな沖積平野が河岸段丘風に傾斜を持つようになっている。シラス台地をえぐってできた平野には違いないが、やや水量が乏しかったのだろうか。

0305tabarugawa_031 平良橋から左岸沿いを800メートルほどで、コンクリートの分厚い橋に出る。「金丸橋」といい、鹿屋と志布志を結ぶ農業用の基幹道路いわゆる「農免道路」に架かる。

 この橋から上流を見ると、やはりシラスへの強いえぐりは見られない。このあと帰りに回った持留川に比べて河床が高いようだ。水量的にはそう変わらないと思われるのに、地形図で確かめると、河口から同じほどの距離の地点の海抜が、田原川のほうが7~8メートルは高い。つまり、田原川の方がえぐりが弱かったということ。

  0305tabarugawa_033_2 その原因は分からないが、田原川のほうがその分、古代人にとっては開拓しやすかったはずで、そのためこちらに古墳や古墳群が多いのだろう。下流から言うと、神領古墳群、飯隈古墳群、原田古墳群、高井田古墳群、岩屋古墳群と、小さな川にしては流域に古墳が目白押しだ。

 さて、金丸橋からさらに左岸沿い(川に向かって右側=志布志市有明町側)を行くと、300メートルほどで右手に原田小学校が見え、そばを通り抜けて坂道を台地の上まで登りきると、道路の右側に石柱が建つ。

 「原田古墳」の表示だ。芽を出したばかりの春巻き大根の畑越しに、こんもりとし た小さな丘が原田古墳で、茶畑に囲まれた直径40メートル余りの鹿児島県内では 有数の円墳である。

 0305tabarugawa_035_3 被葬者は不明だが、このような大きな高塚が普通はこんな台地のど真ん中に築かれることはない。私見ではこのすぐ坂下にある「森神社」の説明板にあるように、崇仏論争に敗れ、殺されたとされる物部守屋が南九州に落ち延び、ここらあたりで隠棲生活を送ったということを信じたく、そうなると守屋本人が葬られていてもおかしくない。森(もり)という神社名も「守屋(もりや)」の「もり」から来ているのかもしれない。  

 さらに森神社の祭神が用明天皇(31代・在位586~587年)なのも、用明天皇時代に大臣・蘇我馬子と並んで国政のトップに居た大連・物部守屋が、用明天皇の崩御と時を同じくして滅ぼされたことを考えると、守屋一族が建立した可能性は高い。

0305tabarugawa_037 もうひとつそのことを裏付けるのが、原田古墳への殉葬墓と考えられる地下式横穴墓だろう(古式の軽石製組み合わせ石棺が出土)。

 昭和54年に発見されたその地下式横穴墓は、原田古墳の裾から20メートルほどの畑で見つかり、被葬者は成人女性だったが、興味あることに頭の向きが原田古墳に向いていた。ということは、この女性被葬者が原田古墳の主に対して非常に近しい存在だったと見てよい。

 0305tabarugawa_041 ということから、筆者は「原田古墳は守屋その人か子供」「殉葬されたのは在地の、つまり隼人系女性」と見る。守屋が敗れたのは用明2(587)年のことで、難波から速やかに逃れてきても在地の隼人系の民には何者なのか見当が付かなかったはず。しかしそれでも「大和王朝の最上層部にいた人」ということで、ようやく在地民たちに尊崇され、受け入れられたに違いない。 成人女性は現地で娶った妻だろう。

 以上の所論はこれからの肉付けが必要だ。

 原田小学校の校門の向かい側の道を入っていくと、約700メートルほどで田原川0305tabarugawa_045 に出る。そこに小さな石橋が架かっている。その名は「本宮橋」。このあたり、ほどよい盆地で、 本宮という地名ですぐに「都万神社」の由緒書きにあった「天文年間(1531~1554)に原田地区から現在地に遷宮した」という情報を思い出した。

 付近の人に本宮の類のお宮はないか、と聞いてみたが知らないという。だが、私はこの地に文字通り都万神社の本宮があったと思う(これも精査が要るだろう)。

 写真右は「高井田橋」。ここから河谷は急激に狭くなり、上流は渓谷状になる。ここまで、河口から約8キロ。

  マップ(大崎町のスクロール地図)

 

 

 

 

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