菱田川流域散策(その四)
菱田川本流に前川が注ぎ込む文化センターあたりは、おそらく河口から25キロあたりだろうか、ここからは流れを追ってほぼ北に向かう。3キロ弱で岩崎バス停があり、右手に末吉学園の案内板を見ると、道は下り坂になる。1キロほど下ると「中園橋」だ。
中園橋から上流は再び北西方向に流路が変わる。
そして川は再び、人目につかない河谷を形成するようになる。ただ「川添田」と言うべき「川に沿った狭長な谷間に沿うように開かれた田」が、延々と続く。
ここから源流まで16~7キロだが、はじめの10キロはこのような風景ばかりで、田んぼの持ち主しかお目にかかれない。
再び今来た国道269号を坂の上まで戻り、「柳井谷・景清の墓」の道しるべにしたがって右折する。
約3キロで柳井谷集落に入る。田んぼの中の道沿いに白い案内柱が見える。
そこから向こうの丘を目指して歩くこと200㍍、道に石段が付けられてあり、登っていくと杉林の中に、何やら白い物が見える。お地蔵さんだ。
薄暗い林の中で、そこだけスポットライトを浴びたように光り輝いている。謂れが書かれていないので、どんな目的で建立されたが分からないが、厳粛な気になる。覚えず合掌。(どうぞ写真をクリックして拡大されよ)
景清の墓という案内柱だったが、景清の墓については単なる伝説であり、実際には「柳井谷古石塔群」という遺跡地だった。ただ、大小40ほどの石塔の内、一番手前の3基並んだ真ん中の大きな物が「景清の墓」ということにはなっている。
景清は平景清として知られるが、実は藤原氏だという。平家に与し、壇ノ浦で共に敗れ、落ち延びて建久6年か7年(1197)かに死んだらしい。それがこの地だったという伝説だが、石塔はそこまで古くはないようだ。
宮崎県の生目古墳群のなかにある「生目神社」にこの景清が祭られ、しかもそこには「廟」もあるというから、そこから伝わった伝承だろうか? どっちにしても南九州に墓があると言っているわけだから、面白い。
景清 の墓をあとにして、道は柳井谷を抜け、川床と言う集落を抜けると、5キロほどで、高原状の見通しのいい台地に上がり、やや広い道に突き当たる。
するとそこに、ステンレス枠の立派な案内板が立っているのが見えた。平成15年に建てられたもので、道路新設工事に伴う確認調査から全面調査まで行い、その結果2箇所に分けて遺跡名が付けられたという。
萩原遺跡は複合遺跡で、縄文草創期の住居跡が見つかっている。鹿児島ではこのような標高の高い(ここは250m)場所で縄文早期・草創期というとてつもなく古い時代の物が発掘されるので、今さら驚くに価しないが、12000年前の住居跡というのは確かに古い。
また出ヶ久保遺跡からは縄文後期の「橿原式土器」が発見された。説明では「大和橿原からここへ移住した者が持ち込んだ」と書く。3500年前に、開けていた大和橿原から、このような辺鄙な所へ移住した理由が不明なことはもとより、それならここに到るまでの道中に、点々と同じ土器が発掘されてもよさそうではないか。調べてみると「橿原式土器」は東北の縄文文様がルーツだろうという。そうなるとますますこちらへ到来した理由が分からなくなる。
遺跡地からは一般道路と県道、国道10号線を経由して、いよいよ最上流部に入って行く。国道10号線上の福山町(現在は霧島市福山町)佳例川バス停を見ると、すぐに右手に「水の郷・佳例川」の看板がある。そこを右に入る。
100メートルも行かないうちに、左手に菱田川が現れる。
それまでの深い河谷とは打って変わって、谷らしいもののない浅い清流だ。
ここから源流までは6キロほどだろう。最終の地とした最上流部の集落「市ノ瀬」まで約4キロはこんな流れが続く。
「川添田」はさっき通ってきた中流地帯より広い。珍しい現象だ。
さらに行くと、もうここらでは「川添田」というより「谷地田」だが、谷は深くなく、延々と奥まで続く。
佳例川入り口から2キロ半ほどで、田んぼに突き出た岬のような塩梅のところにお宮があった。
手前の田んぼの方からも、向こうの道路沿いからも行けるが、神社の名は「飯富神社」で、祭神は「猿田彦大神」。
猿田彦は天孫二二ギノ命が高千穂の峰に降ろうとした時に、「天の八街(やちまた)」にいて、天孫一行を道案内した神(国津神)として重用された。アメノウヅメという女神と結ばれたが、伊勢の二見でヒラブ貝に手を挟まれて死んだといい、伊勢外宮の神主家「宇治土公(うじどこ)氏」はその子孫という。
朱(丹)塗りは鹿児島では霧島神宮はじめポピュラーなデザインだ。
これを嫌う人も多いが、鹿児島の古墳の石室や石棺の内側には必ず朱が塗られており、朱は邪避け、魔よけの意味を持っていたようで、社殿を朱で塗るのも同じ信仰(コンセプト)といってよい。
神社下から眺める「谷地田」(川は右手の山裾を回って流れている)。
この風景と「飯富」という社号から連想するのは、豊かな実りと村人の平安への祈りで、したがって祭神が猿田彦というのは、どうも天孫降臨の聖地・霧島が近い(直線距離にして20キロ)ため、降臨説話に付会した祭神ではないか――という気がする。
さらに遡ること1キロ半、おそらく最上流部の集落であろう「市ノ瀬集落」に着く(このあたり標高は約300m)。
「2級河川起点」という標識のすぐ上の川の流れは、まさに「春の小川」だ。幅は2メートル、これからさらに2キロ上流が源だろう。
市ノ瀬集落を通過する道路の崖上から見ると、源流の山「荒磯岳(ありそだけ=539m)」が顔を覗かせていた。
マップ(曽於市大隅町岩川・柳井谷。霧島市福山町佳例川・荒磯岳で)
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