菱田川流域散策(その四)

菱田川本流に前川が注ぎ込む文化センターあたりは、おそらく河口から25キロあたりだろうか、ここからは流れを追ってほぼ北に向かう。3キロ弱で岩崎バス停があり、右手に末吉学園の案内板を見ると、道は下り坂になる。1キロほど下ると「中園橋」だ。Cimg2426

 中園橋から上流は再び北西方向に流路が変わる。

 そして川は再び、人目につかない河谷を形成するようになる。ただ「川添田」と言うべき「川に沿った狭長な谷間に沿うように開かれた田」が、延々と続く。

 ここから源流まで16~7キロだが、はじめの10キロはこのような風景ばかりで、田んぼの持ち主しかお目にかかれない。

 Cimg2404再び今来た国道269号を坂の上まで戻り、「柳井谷・景清の墓」の道しるべにしたがって右折する。

 約3キロで柳井谷集落に入る。田んぼの中の道沿いに白い案内柱が見える。

 そこから向こうの丘を目指して歩くこと200㍍、道に石段が付けられてあり、登っていくと杉林の中に、何やら白い物が見える。お地蔵さんだ。

Cimg2402 薄暗い林の中で、そこだけスポットライトを浴びたように光り輝いている。謂れが書かれていないので、どんな目的で建立されたが分からないが、厳粛な気になる。覚えず合掌。(どうぞ写真をクリックして拡大されよ)

Cimg2401_2  景清の墓という案内柱だったが、景清の墓については単なる伝説であり、実際には「柳井谷古石塔群」という遺跡地だった。ただ、大小40ほどの石塔の内、一番手前の3基並んだ真ん中の大きな物が「景清の墓」ということにはなっている。

 景清は平景清として知られるが、実は藤原氏だという。平家に与し、壇ノ浦で共に敗れ、落ち延びて建久6年か7年(1197)かに死んだらしい。それがこの地だったという伝説だが、石塔はそこまで古くはないようだ。

 宮崎県の生目古墳群のなかにある「生目神社」にこの景清が祭られ、しかもそこには「廟」もあるというから、そこから伝わった伝承だろうか? どっちにしても南九州に墓があると言っているわけだから、面白い。Cimg2405

景清 の墓をあとにして、道は柳井谷を抜け、川床と言う集落を抜けると、5キロほどで、高原状の見通しのいい台地に上がり、やや広い道に突き当たる。

 するとそこに、ステンレス枠の立派な案内板が立っているのが見えた。平成15年に建てられたもので、道路新設工事に伴う確認調査から全面調査まで行い、その結果2箇所に分けて遺跡名が付けられたという。

 萩原遺跡は複合遺跡で、縄文草創期の住居跡が見つかっている。鹿児島ではこのような標高の高い(ここは250m)場所で縄文早期・草創期というとてつもなく古い時代の物が発掘されるので、今さら驚くに価しないが、12000年前の住居跡というのは確かに古い。

 また出ヶ久保遺跡からは縄文後期の「橿原式土器」が発見された。説明では「大和橿原からここへ移住した者が持ち込んだ」と書く。3500年前に、開けていた大和橿原から、このような辺鄙な所へ移住した理由が不明なことはもとより、それならここに到るまでの道中に、点々と同じ土器が発掘されてもよさそうではないか。調べてみると「橿原式土器」は東北の縄文文様がルーツだろうという。そうなるとますますこちらへ到来した理由が分からなくなる。

 Cimg2422  

 遺跡地からは一般道路と県道、国道10号線を経由して、いよいよ最上流部に入って行く。国道10号線上の福山町(現在は霧島市福山町)佳例川バス停を見ると、すぐに右手に「水の郷・佳例川」の看板がある。そこを右に入る。

 100メートルも行かないうちに、左手に菱田川が現れる。

 それまでの深い河谷とは打って変わって、谷らしいもののない浅い清流だ。Cimg2421_2

 ここから源流までは6キロほどだろう。最終の地とした最上流部の集落「市ノ瀬」まで約4キロはこんな流れが続く。

 「川添田」はさっき通ってきた中流地帯より広い。珍しい現象だ。Cimg2418

さらに行くと、もうここらでは「川添田」というより「谷地田」だが、谷は深くなく、延々と奥まで続く。

 佳例川入り口から2キロ半ほどで、田んぼに突き出た岬のような塩梅のところにお宮があった。Cimg2417

手前の田んぼの方からも、向こうの道路沿いからも行けるが、神社の名は「飯富神社」で、祭神は「猿田彦大神」。

 猿田彦は天孫二二ギノ命が高千穂の峰に降ろうとした時に、「天の八街(やちまた)」にいて、天孫一行を道案内した神(国津神)として重用された。アメノウヅメという女神と結ばれたが、伊勢の二見でヒラブ貝に手を挟まれて死んだといい、伊勢外宮の神主家「宇治土公(うじどこ)氏」はその子孫という。

Cimg2415_2  山中と言ってよい場所柄にしては立派な神社である。

 朱(丹)塗りは鹿児島では霧島神宮はじめポピュラーなデザインだ。

 これを嫌う人も多いが、鹿児島の古墳の石室や石棺の内側には必ず朱が塗られており、朱は邪避け、魔よけの意味を持っていたようで、社殿を朱で塗るのも同じ信仰(コンセプト)といってよい。Cimg2414

神社下から眺める「谷地田」(川は右手の山裾を回って流れている)。

 この風景と「飯富」という社号から連想するのは、豊かな実りと村人の平安への祈りで、したがって祭神が猿田彦というのは、どうも天孫降臨の聖地・霧島が近い(直線距離にして20キロ)ため、降臨説話に付会した祭神ではないか――という気がする。Cimg2408

 さらに遡ること1キロ半、おそらく最上流部の集落であろう「市ノ瀬集落」に着く(このあたり標高は約300m)。Cimg2411  

「2級河川起点」という標識のすぐ上の川の流れは、まさに「春の小川」だ。幅は2メートル、これからさらに2キロ上流が源だろう。Cimg2407

 市ノ瀬集落を通過する道路の崖上から見ると、源流の山「荒磯岳(ありそだけ=539m)」が顔を覗かせていた。

 マップ(曽於市大隅町岩川・柳井谷。霧島市福山町佳例川・荒磯岳で)

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菱田川流域散策(その三)

 鹿屋と志布志を結ぶ農免道路に架かる「有明大橋」から上流は、5キロ上流の縄瀬地区まで谷が深すぎて見ることができないので、代わりに、というとおかしいが、有明大橋から2キロ半ほどの所にある岩屋観音淵を訪れることにした。

 これは菱田川の2大支流「大鳥川」「月野川」のうち、大鳥川に面した凝灰岩の崖の中腹に掘り込まれた観音様である。

 国道269号線の沿線にある旧有明町の山重小学校の前を通り過ぎると、道は長い下り坂になる。大鳥川河岸への坂だ。下りきると右手に道があり、大鳥峡と岩屋観音への道しるべが立っているので、それに従い右折する。

 Cimg2365 右折するとすぐに右手が大鳥峡だが、今は寂れ果てているので寄らないでそのまま道を急ぐ。1キロちょっとで月野川に架かる「小鳥橋」を渡る。すると左に商店があり、その向かいを右折する。エノキの大木が目印だ。

 このあたりの支流「月野川」の河谷はそう深くない。

 しばらく行くと三叉路に出る。岩屋観音のある「久保崎集落」は右手に入っていく。

Cimg2384 この入り口を造成工事したときに、このあたりで縄文早期の遺構が見つかっている。縄文早期の遺跡は、こんな辺鄙な何も出ないような地点で発見されることが多い。

 写真右端に見える白い標柱が、発見場所を表示している。

 ここを右に入って久保崎集落をまっすぐ抜け切ると、岩屋観音入り口の駐車場だ。Cimg2383

 左手へ階段を下りること340段、比高40メートルはありそうだ。つづら下りに降りていくとようやく川の音が聞こえ(ただし姿はほとんど見えない。まだ15,6㍍は下だろう)、テラス状の所に出る。

 そこが岩に掘られた観音(磨崖仏)の見える場所だ。左手に立ち上がる壁面の奥には何やら文字が彫られている。

Cimg2379 「霊岩山 仙遊寺」と読める。こういう寺が実在したとは聞かないから、この場所全体を寺に見立てて名付けたのだろう。確かに「仙人が遊ぶ」ような雰囲気は感じられる。

 この磨崖仏が掘られた時期は三期あるという。江戸初期、後期そして明治初期だ。

 このうち明治になって諸国行脚の末に到来した「吉田一円」という修行僧の彫った物を、すぐ間近に見ることができる。Cimg2377

 吉田一円は明治30年に亡くなっているが、その墓はこの磨崖仏のすぐ前にある。

 残念ながらこのあたり、まだ川は見ることができない(森の間にちらほら)。

 そこでここから2キロほど上流の縄瀬地区に向かう。そこには橋が架かっている。Cimg2386

縄瀬橋から菱田川の上流方面を見たときは、川と人家のどこにでもある風景だが、下流側を見てちょっと驚いた。

というのも、人家が川岸

にほぼ垂直に沿う形で並んでいたのだ。 

 そんな川の風景はどこにでもありふれていそうだが、雨量が多く台風などの豪雨で川が氾濫しやすい鹿児島の川では、実はあまりお目にかからない風景なのである。Cimg2387

以前、広島に住んでいたことがあったが、内陸部ではかなりの大河でもその河岸に迫って家々が立ち並んでいたのを思い出す。

 向こうは豪雨がなく、多少の雨では増水の心配が無いものと見えた。Cimg2389

    縄瀬橋をわたり菱田川の左岸を行くこと5キロ、志布志市松山町(旧曽於郡松山町)の中心部に出る。菱田川と松尾川の合流地点を中心に町が開ける(右)。

馬場橋を渡ってすぐ右手が高い台地になり、その上に「松山神社」「松山城址」「運動公園」「道の駅」があるCimg2392_2 が、これまで行ったことのない松山神社に上がってみることにした。

 祭神は「応神天皇・神功皇后・タマヨリヒメ」で、一般的には八幡神社の祭神といわれる。かっては八幡神社だったのだろうか、由緒書のような物はなかった。

 神社の向こうのさらに高い岡には松山城の天守閣らしきレプリカが建っている。この城は寿永3(1184)年、平重頼(係累不明)の築城と言われるから古いものだ。

 神社のある岡は菱田川と松尾川のY字形合流点にあるから、もしかしたら墳墓の丘かもしれない。Cimg2396

松山からはやはり同じ左岸に沿って上流に向かう。約5キロで岩川に到る(写真左は岩南小学校に近い菱田川の流れ)。

 ここでようやく深い河谷から解放され、水に親しめる川となる。

 岩川はかっての曽於郡大隅町の中心地。いや曽於郡全体の中心と言ってもよい。明治以降の行政・産業の郡都となったのは、ここが藩政時代、薩摩藩重役の伊勢家の私領だったことが大きい。Cimg2397

写真は市街地で菱田川に合流する前川。

 橋を渡った右手一帯は、菱田川とのY字形合流地帯で、万寿年間(1024年~1027年)に、当地の社人が、京都に行って岩清水八幡宮の分霊をもらってきて、その分霊を初めて祭った所だという。

 ところがその後、洪水で社殿が流されるようなことがあったので、熊野神社があったところへ八幡宮が移転した。それが現在の「岩川八幡神社」であるという。

    (マップは曽於市大隅町月野・岩川あたり)

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菱田川流域散策(その二)

0608hishidagawa2_001 散策その一で終わった蓬原橋から、山重方面(国道269号線に出る)に行き、100㍍ほどで右手に折れる道がある。「蓬の露」という焼酎工場の大きな字が目印だ。

 右折すると左は岡(シラス台地)、右側は川沿いの田んぼが広がる。川沿いと言っても菱田川は見えない。

 田んぼの向こうに古墳と見紛うような小山が望まれるが、あれが「蓬原城」で、こちらでは「ふつはらじょう」と呼び習わしている。0608hishidagawa2_003

 500㍍弱で城の入り口を示す石柱が立つ。30センチほどに成長した早期米の田んぼの中を、軽車両なら入って行けそうな農道が延びるが、生憎の雨ではどうしようもない。

 「蓬原城」は救仁郷(くにごう)氏の本拠地で、その一で訪ねた「片平古城」からここへ移ってきたという。救仁郷氏の始祖は、肝付氏初代・兼俊の二男・兼綱というから由緒は古く、最初の片平古城は11世紀代、こちらは12世紀の初め頃の築城と思われる。0608hishidagawa2_004_2

 城跡は南北に200㍍はたっぷりあろうかという小丘全体のようだが、その北のはずれに「惣持院」跡の石柱が立っている。真言宗の寺で、鹿児島の大乗院の末寺だそうだ。

 建立の年は不明とあるが、真言宗は禅宗や浄土系宗派よりは起源は古く、救仁郷氏による招来の可能性は強い。救仁郷姓の由来は菱田川流域を「救仁院」と言ったことによる。「くに」を狗奴国の「くな」、つまりは熊襲の「くま」に引き当てる説が根強い。志布志湾岸の砂丘一帯を、今に「くにの松原」と呼んでいる。 0608hishidagawa2_006

 城跡から北へ500㍍進むと重田集落に出る。そこを右折すると養鰻場があり、川辺に降りる道がある。

 川幅一杯の大きな井堰が、ごうごうと音を立てていた。このあたり、標高はわずか7~8m、下流の田園地帯を潤す水が採られているのだろう。

 川の向こう岸一帯は野井倉台地で、教科書でもおなじみ野井倉甚兵衛の0608hishidagawa2_007 出身地。台地を見渡す限りの水田に変えた死闘は後世に語り継がれている。その水の出どころはこの菱田川のずっと上流だ。

 堰から下手を望むと、川を堰き止めるかのような位置に蓬原城跡の小山が見える。要するに城の東は菱田川が天然最良の堀になっているというわけである。西側は今は一面の田んぼだが、城の近くは掘割りがしてあったかもしれない。

 そうなれば、城全体が一種の「川中島」となる。難攻不落の要塞だったろう。0608hishidagawa2_008

 重田集落からさらに北を目指すと道は上りになり、登りきってやや行くと、大きくカーブしたあたりが中野集落の入り口だ。ここは標高約60m、田んぼなんか無いだろうと思いつつ行くと、茶工場があり、その先一面が水田だった。

 普通作の田んぼでは青々とした稲が、折りしもの雨で一層鮮やかだ。鮮やかといえば田んぼの脇に立つ真っ赤な消火栓も鮮やかなもの。青々とした田んぼとのコントラストが面白い。しかし、なんでこんな所に?とも思うが、向こうに見える茶工場(中野共同製茶工場とあった)のためだろうか。0608hishidagawa2_009

 その茶工場の横には大きな石碑が建つ。

読んでみると「開田の記念碑」で、この高地に田を作ろうという気運は何と明治25年からあったそうな。てっきり戦後の計画とばかり思い込んでいた不明を恥じた。そういえば野井倉開田事業も明治からだったのだから、ほぼ同時進行の計画ということになる。最終的な完工は昭和28年。実に気の長い話で、米作りに対する執念・愛着がひしひしと感じられる。0608hishidagawa2_011_2

 大きな石碑の隣りに小ぶりの田の神像がちょこんと祭られているのも、村人の開田への喜びと感謝の表れと見た。

 茶工場からわずかに行った先を右折すると田んぼ地帯に入るが、農業機械倉庫の脇に何やら石塔群が立っている。見ると「アンダドン(阿弥陀どん)」という遺跡で、笠塔婆・五輪塔・無縫塔の三種の遺物がまとめて置かれている。かってここに「真中寺」という寺があったという。時代は無縫塔だけは0608hishidagawa2_012 刻銘があり安永9(1780)年の造立と分かるが、あとのは戦国期だろうぐらいしか分からないという。

 中野集落を後にして、また北上すること1キロ、鹿屋と志布志を結ぶ農免道路に出、右折するとすぐに「有明大橋」だ。

 長さ360m、橋脚間212mというこの橋は昭和56(1981)年に完成している。橋の手前に巨大な完工記念碑が立つが、当時の鎌田県知事の直筆が掘り込まれており、当時としてはかなりの大工事だったことが伝わってくる。0608hishidagawa2_013

 橋の下を流れる菱田川の川面の標高はまだ10mあるかないか、一方橋は標高70mほど。差し引き高度差は60メートルにも達する。錦江町にある「滝見大橋」(平成10年完成)の100メートルには及ばないが、工事の難度はそう変わるまい。

 それにしてもこのあたりの菱田川。すっかり深山幽谷の趣きだが、河口からわずか10キロほど、標高も10mしかないとは思えない。これがシラス台地をえぐって流れる川の特徴だ。

  マップ(志布志市有明町野井倉、山重のあたり)

 

 

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菱田川流域散策(その一)

 菱田川は鹿屋市輝北町に源流を持ち、旧大隅町(現・曽於市)、旧有明町(現・志布志市)を流れ、河口だけ0531hishidagawa1_003 は大崎町(曽於郡)という長さ約50キロ、大隅半島部では最大の川、旧大隅国では霧島市の天降川についで第二の河川である。

 河口の向こうは太平洋(志布志湾)。あいにく曇っていたので左手に遠く見えるはずの都井岬は見えなかったが、志布志湾に浮かぶ島「ビロウ島」が見えていた。

0531hishidagawa1_002 河口の先でやっていたサーファー。朝10時というのにもう上がってきた。

 早朝からやっているという。

0531hishidagawa1_006  

 河口から300メートルほど上流に架かる菱田大橋までの緩やかな汽水域には水鳥が多い。対岸の家並みは菱田川の土砂が造った砂洲の上に建つ。

 8世紀代に書かれたと思われる『大隅国風土記(逸文)』に0531hishidagawa1_007 

       必志里(ひしのさと)

 大隅国風土記にいわく「必志里。むかし、この村の中に海の洲ありき。

 因りて、必志の里という。(注)海の中の洲は、隼人の俗語に必志(ひし)という。 0531hishidagawa1_008

 とあり、このあたりに砂洲の多かったことが分かる。この説話は、原住民の隼人が砂州のことを「ひし」と言ってたので、ここが「ひし田」(大崎町菱田)と呼ばれ、川も「菱田川」になったという地名起源説話である。

 菱田大橋から右岸を300メートルほど行くと、土手の左手に大型のユンボが掘った池ができていた。池の対岸を見ると、緑の畑の直下約1メートル位は畑土(水田土)で黒いが、その下は川砂だ。ここもかっては砂洲だったのだろう。0531hishidagawa1_010 

さらに右岸を行くこと500メートル、ワゴン車が停まっていたので声をかけると釣り人だった。

 何が釣れるんです? ――コイですよ。  釣れますか? ――いや、今日はまだ。  

 見れば4本も釣り棹を伸ばしている。菱田川沿いを行ったり来たりしているそうだ。道順を教えてもらい別れた。0531hishidagawa1_012_3

釣り人の300メートル上流には「田尾橋」が架かる。

 この橋から上流はシラス台地がぐっと迫る。川沿いの田んぼ地帯もここまでだ。河口から1.5キロしかない。要するに、昔はこのあたりから志布志湾に向かって「扇状地状三角州」が広がっていたのだろう。

 その三角州のひとつひとつの砂洲が隼人に「ひし」と呼ばれ、今はこうして水田地帯になったわけだ。菱田川の賜物に他ならない。0531hishidagawa1_020

釣り人に教えて貰ったとおり、田尾橋を左岸に渡り、左折してさらに川めがけて降りていくと、「野井倉大橋」の下をくぐって上流に向かう。

 途中、目に付くのは養鰻場だ。菱田川の下流から中流にかけては養鰻場だらけと言って差し支えない。

 右岸にも左岸にも崖下だろうがなんだろうが、やたら目に付く。0531hishidagawa1_019

養鰻場に並んで、かなり大手の水産加工会社の工場もあった。

 飼育場にしろ、加工場にしろ、水が豊富でなければ成り立たない事業だが、菱田川流域は地下水に恵まれているに違いない。

 稚魚(シラスウナギ)が肝属川河口でよく採れると聞くが、菱田川河口もそうなんだろうか?いや、やはりほとんどは輸入だろう、残念ながら・・・。0531hishidagawa1_018

養鰻場を過ぎ、そのまま左岸をうねうねと500メートル余り行くと「蓬原橋」に行き当たる。渡らずに右を行けば志布志市役所(旧有明町役場)、左折して橋を渡っていけば国道269号線に突き当たる。

 橋の辺りは水量が豊かだ。左岸にも右岸にも白い養鰻場の建物が見える。

 今回、遡るのはここまでとし(河口から3キロ強)、引き返して野井倉大橋を渡ることにする。0531hishidagawa1_023

 「野井倉大橋」は志布志ー鹿屋グリーン道路に架けられた全長200mほどの橋で横浜ベイブリッジを思わせる斜吊橋なのが珍しい。

 平成17年3月に完工し、と同時に志布志グリーン道路も全線開通した。それまでの国道220号線経由より、20分ほど時間が短縮されたという。

 0531hishidagawa1_022 鹿屋・肝属産の農畜産物がいち早く志布志港発のカーフェリーに運ばれるように、というのがキャッチフレーズの建設だったが、出所は例の特定財源何とやらのはず。

 広々とした橋の上から上流を望むと、目に付くのはやはり、養鰻場。

 農畜産物のほかに、水産物であるウナギもこの道路を使って大都市へと運ばれるのだろう。

0531hishidagawa1_025  橋を右岸に渡った地区が片平。ここに「片平古墳」があるのは何かの情報で得ていたので、渡り切ったら誰か地元の人に聞こうと、単車を道端に寄せ、路地の向こうを覗くと、誰かが畑仕事をしている。

 行って「片平古墳は」と切り出すと、すぐさまのレスポンス。「ああ、すぐそこの森の中ですよ。でも竹やぶに覆われているようで・・・」と恐縮勝ち。

0531hishidagawa1_024_2   「ああ、そうなんですか」とよく見ると、麦藁帽子の下の顔はずいぶん若い。「実はわたし、志布志市の文化財課の者でして」――で、おどろいた。

 旧有明町の文化財係員でD氏という。今、精を出しているのは、これから家を建てる場所の整地作業だという。おとといの大雨で50センチ盛ったシラス土が一部流れたので補修とのこと。

 完成は今年末だそうだ。「それより、近くに片平古城址がありますよ。伴姓救仁郷氏が初めて築城し、その後、蓬原城に移ったらしいです」

ほう、肝付氏の分流ですな――礼を言って別れ、そこに向かった。写真(上)が「片平古墳」があるらしい岡(下は田んぼ地帯)。写真(下)がその約100メートルほど菱田川に近い「片平古城址」があるという小高い岡(人家の奥。写している耳に川音が聞こえるほど流れに近い)。

  マップ(最近、マップ用の地図コンテンツにつなぐと固まってしまうので、読者自らのアクセスをお願いします。「鹿児島県曽於郡大崎町」でアプローチしてください)

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