安楽川流域散策(その二)
山宮神社のある宮地集落で「田ノ浦一番地」というのがある、と聞いて行ってみた。
何のことはない、田ノ浦入り口の大越橋まで引き返し、橋を渡ってすぐ左手、川沿いの田に下りる道の途中にあった。
教育委員会の案内標柱が立ち、そこには「田ノ浦一番地 水神様屋敷跡」と書いてある。下の田んぼで肥料をまく準備をしていた人に聞くと「たしかにここに水神様が祭ってあった」と言う。
おそらく田ノ浦地区で初めて田を拓いて米を作った人たちが、いの一番に祭ったのだろう。
ゆかしき時代の、ゆかしき人々が偲ばれる伝承だ。
再び上流に向かう。さっきのふるさと交流館を左に見、田ノ浦小学校を左に見して行くと、川がだいぶ近づいてくる。川床はシラスの中に混じる溶結凝灰岩で、水流で侵食された痕が手に取るように分かる清流である。
水遊びにはもってこいの流れだが、誰も遊んでいないのはもったいない。
花房峡という名勝地を過ぎてなおも行くと、右手に「滝の入り口」という案内板があったので、車を停めて下りて行く。
かなりの急坂を下りること5分。滝らしき水音が聞こえてきた。見ると右手は確かに滝だが、左手の上流は河川プールのように穏やかな水が湛えられている。
井堰(いぜき)が造られていた。もちろん田んぼに水を引くためのものだ。川を仕切るコンクリートの幅1メートルほどの割れ目から、水が勢いよく流れ落ちていく。
比高にして5㍍くらいしかないが、確かに紛れもなく滝である。川床の溶結凝灰岩が水によってえぐられた痕がごつごつとし、水との長き戦いの結果を示す。
こんな景勝の地に人工物なんて――と言われそうだが、山間地に住む人の米への情熱(米作りへの本能的熱意)を知れば、そういう人でも口をつぐむだろう。
滝を見終わってもとの道まで上がり、少し行くとT字路があり、右折する。すると間もなくまたT字路があるからそこも右折する。左折すると道は大淀川の源流部を通って都城市に下りて行く。
ここは高岡口といい、田ノ浦から7キロほどの台地(標高300m弱)で、写真の真ん中のガソリンスタンドの右手に流れる水は大淀川から日向灘へ、左手へ流れると安楽川から志布志湾に入るという分水嶺である。
高岡口からはいよいよ源流部らしく道は蛇行を繰り返しながら上って行く。
高岡口は旧末吉町(現・曽於市末吉町)だが、すぐに隣県の都城市域に入る。町名は安久町だ。
途中、「御所谷橋」を渡るが、何やら由来がありそうだ。たぶん平家の落人伝説だろう。落人の中の高貴な人が住み着いたのかもしれない。
高岡口から5キロに最奥の「尾平野集落」がある。
こんな山奥に「平野」とはいかに?と感じたが「尾」が「小」なら「小平野」で当地の状況を言い表す地名だ。だが「尾」は「小」ではない。とするとやはり「平家」の「平」から来た地名ではないか?
「御所谷」からすっかり平家の落人モードに入ってしまったが、宮崎、鹿児島は平家の落人の極めて多いところとして著名であることからして、可能性は高いだろう。今度、都城の歴史を参照したいものだ。
平家は水軍・水運に重きを置いていたのだが、余りに都ぶりに染まりすぎて惰弱に成り果てた。その結果、海戦は不得手なはずの源氏に敗れる始末となった。
それでも多くの落人が九州に逃れ得たのは、やはり水運によるネットワークのおかげだろう。上陸後もそれが無かったならば、こんな山奥にたどり着く前にやられていたに違いない。
都を捨て、栄誉を捨て、その代わりクワとカマを手に黙々と開墾に励んだ平家の公達がいたかもしれない。最奥の棚田は、今、出穂期を迎え、いっせいに薄黄色の穂を伸ばす準備をしている。800年余り前にもこんな平和な風景があったのだろうか・・・。
マップ(志布志市田ノ浦・曽於市末吉町高岡口・都城市安久町)
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