前川流域散策(志布志市)―その二
潤ヶ野小学校から再び県道に戻り、上流を目指す。
行くとすぐ左手には出水中学校があるのだが、道路からはかなりの高台にあって見えない。
1,5キロ余りでちょっとした集落があり、通り抜ける所に「御手洗橋」が架かる。
御手洗というからには、近くに神社がありそうだが、見当たらない。
それよりこのあたりは「カワゴケソウ」が自生しているという。
下を覗いたが、例によって凝灰岩を切り込んだ深い谷で、そう言われても目視さえままならない。
橋を渡ってすぐ右の道を取ると、前川の左岸沿いに、約2キロで「倉園集落」が見えてくる。
標高はまだ100㍍に満たないのだが、シラス台地の河岸段丘と思われる等高線に沿ったなだらかな高原上の土地が続く。
右岸にある倉園集落への分岐道。
さらに1,5キロ。八郎ヶ野集落に入る。
最奥の簡易郵便局の手前を左に折れると、すぐに「八郎ヶ野橋」がかかる。
これを渡って2キロ行くと「八野小学校」のある「姥ヶ谷集落」があり、さらに2キロ行けば「馬庭集落」で、藩政時代に抜け駆けを取り締まった「馬庭辺路番所跡」がある。
八郎ヶ野橋の上から、ようやく流れが間近く見えた。
川面まで比高5メートルの左の家は、凝灰岩の上に建っている。
手前の桜が咲く頃には、「桃源郷」のような風情のある光景が見られるだろう。
馬庭方面の道(北の方向)をとらずに、今回は東へ行ってみた。
道は次第になだらかになり、2キロ足らずで県境を越え、宮崎県串間市に入って行くが、その手前、このあたりとおぼしき場所で、30年ほど前にとてつもない発見があった。
道路の拡張工事の際に、約11500年前の「ドングリ貯蔵穴」が多数のドングリと共に見つかったのだ。
これを「東黒土田遺跡」という。匙形石器や土器片も出土しており、縄文草創期(10500年前より古い)の遺跡とされている。
この前川の上流域には他にも「石踊遺跡」「鎌石橋遺跡」「倉園遺跡」「片野洞穴遺跡」という縄文早期(10500年~7000年前)の遺跡が見つかっていて、狭い地域にこんなに早期以前の遺跡がかたまっているのは珍しい。
人煙稀な地帯だから荒らされずに残ったのだろうか。
もちろんそれも大きな要因だが、水田が極めて少ないという流域の地理的状況から見ると、結局のところ水田開発による攪乱がなかったためだろう。
水田開発による地形的改変は古く見積もれば弥生時代から行われていた、ある意味で環境破壊でもあった。その最も大きな「被害者」は野生動物であるとともに「縄文遺跡」でもあった。
幸い、と言うべきか、前川上流域には水田適地が稀であったので、弥生的な「地形の攪乱」が最小限で済んだのであろう。
また上の「片野洞穴遺跡」の洞穴内に残された貝類(ミニ貝塚)のうち、90パーセントが海産だったという。山中とはいえ、海との交流は頻繁だったことが示され、南九州は太古の昔から海との関わり抜きには考えられない人々が住んでいたことが分かる。
(前川流域散策―その二・終り・完)
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