前川流域散策(志布志市)―その二

潤ヶ野小学校から再び県道に戻り、上流を目指す。

行くとすぐ左手には出水中学校があるのだが、道路からはかなりの高台にあって見えない。

1,5キロ余りでちょっとした集落があり、通り抜ける所に「御手洗橋」が架かる。2010057

御手洗というからには、近くに神社がありそうだが、見当たらない。

 それよりこのあたりは「カワゴケソウ」が自生しているという。

 下を覗いたが、例によって凝灰岩を切り込んだ深い谷で、そう言われても目視さえままならない。

橋を渡ってすぐ右の道を取ると、前川の左岸沿いに、約2キロで「倉園集落」が見えてくる。2010051

標高はまだ100㍍に満たないのだが、シラス台地の河岸段丘と思われる等高線に沿ったなだらかな高原上の土地が続く。2010050

右岸にある倉園集落への分岐道。

河谷のえぐれは深いが、集落の点在する所はなだらかだ。2010054

さらに1,5キロ。八郎ヶ野集落に入る。

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最奥の簡易郵便局の手前を左に折れると、すぐに「八郎ヶ野橋」がかかる。

 これを渡って2キロ行くと「八野小学校」のある「姥ヶ谷集落」があり、さらに2キロ行けば「馬庭集落」で、藩政時代に抜け駆けを取り締まった「馬庭辺路番所跡」がある。2010056

八郎ヶ野橋の上から、ようやく流れが間近く見えた。

 川面まで比高5メートルの左の家は、凝灰岩の上に建っている。

 手前の桜が咲く頃には、「桃源郷」のような風情のある光景が見られるだろう。2010052

馬庭方面の道(北の方向)をとらずに、今回は東へ行ってみた。

 道は次第になだらかになり、2キロ足らずで県境を越え、宮崎県串間市に入って行くが、その手前、このあたりとおぼしき場所で、30年ほど前にとてつもない発見があった。

 道路の拡張工事の際に、約11500年前の「ドングリ貯蔵穴」が多数のドングリと共に見つかったのだ。

これを「東黒土田遺跡」という。匙形石器や土器片も出土しており、縄文草創期(10500年前より古い)の遺跡とされている。

 この前川の上流域には他にも「石踊遺跡」「鎌石橋遺跡」「倉園遺跡」「片野洞穴遺跡」という縄文早期(10500年~7000年前)の遺跡が見つかっていて、狭い地域にこんなに早期以前の遺跡がかたまっているのは珍しい。

 人煙稀な地帯だから荒らされずに残ったのだろうか。

 もちろんそれも大きな要因だが、水田が極めて少ないという流域の地理的状況から見ると、結局のところ水田開発による攪乱がなかったためだろう。

 水田開発による地形的改変は古く見積もれば弥生時代から行われていた、ある意味で環境破壊でもあった。その最も大きな「被害者」は野生動物であるとともに「縄文遺跡」でもあった。

 幸い、と言うべきか、前川上流域には水田適地が稀であったので、弥生的な「地形の攪乱」が最小限で済んだのであろう。

 また上の「片野洞穴遺跡」の洞穴内に残された貝類(ミニ貝塚)のうち、90パーセントが海産だったという。山中とはいえ、海との交流は頻繁だったことが示され、南九州は太古の昔から海との関わり抜きには考えられない人々が住んでいたことが分かる。

            (前川流域散策―その二・終り・完)

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前川流域散策(志布志市)―その一

前川は志布志市志布志町の旧市街地の中心部を流れる川で、20キロに満たない小河川だが、かって志布志が海運で栄えていた室町期から江戸初期の頃の、俗にいう「志布志千軒」の栄華を担っていた。118maekawa_004

写真は前川の当時の海岸線と思われるところに架かった「権現橋」。国道が通り、左手は鹿屋方面、右手は宮崎県の串間市方面に至る。

「権現」という名称の由来はよく分からない。権現と言うからには近くに何らかの神社があったものだろう。右手に渡り、信号を左に入った所に石の祠があるが、そこにかっては神社らしきものがあった可能性が強い。118maekawa_005

権現橋の200㍍ほどの下流にはJR日南線の鉄橋が架かる。国分駅から志布志駅までを結んでいた国鉄・大隅線が昭和62年に廃止になったあとも、志布志から串間を通り、日南・青島を通過して宮崎駅まで、太平洋を眺められる最南端の鉄道路線だ。

ここからさらに河口に向かうと、左手は埋立地で、今はそこに延々とコンテナヤードが続く。118maekawa_003_5

  志布志港は国際港に認定されていて、アジア各地からあるいはアメリカからのコンテナ入りの輸入物資が所狭しと並べられている。

権現橋から川上に向かうと、150㍍くらいの所に「志布志橋」があり、川筋の奥は右手に「宝満寺」の跡がある。118maekawa_006_4

  また、左のビルの奥には国指定重要文化財に指定された「志布志城」のうちの「内城」がある(小高い丘がそれ)。この内城こそが「本丸」を備えた最も重要な城址に他ならない。ほぼゼロメートルのこのあたりから見ると比高で50㍍はあるので、かなり高く聳えている。

志布志橋の上には「宝満寺橋」の赤い欄干がある。118maekawa_075_2

 ここから市街地方面を望むと、右手には「内城」、正面には「松尾城」が見える。

 このまま橋を渡っていくと突き当たりは「志布志小学校」で、裏山は「内城」である。

小学校は藩政時代の行政執行機関「御仮屋」の跡地に建てられた。

 118maekawa_007_3 このようなケースは、明治初期に学制が布かれ、急ごしらえの「小学」が次々に設置される際に、鹿児島ではかなり普遍的に見られた現象で、さほど珍しいことではない。

小学校から、川の上流をめざすと、すぐに道路沿いに鎮座するのが「若宮神社」で、祭神は「持統天皇」。118maekawa_008_2

  由来はめっぽう古く、和銅年間の建立というからもし本当なら1300年の歴史を数えることになる。

同じ志布志市でも安楽地区にある「山宮神社」の祭典のとき、ここを遥拝する神事があったのを思い出す。118maekawa_010

若宮神社からほんの500㍍も行くと、急に川幅が狭くなる。

その要衝に架かるのが「小渕橋」で、そこから下流を眺めると、市街地はこの橋の手前で終わっていることが分かる。

ここからは上流に向かい、次第に渓谷の雰囲気が漂いはじめる。118maekawa_012

クライマックスは「石踊橋」だ。河口からわずか2キロほどに架かるこの橋は、いかにもシンプルであるが、下を流れる水は谷川の透明さがある。

 この奥の岡の上に「大性院跡」があると言うが、どこから入っていいか分からなかった。中世に「大慈寺」と並ぶ伽藍があったという場所だ。

ここを過ぎると、道は台地へと向かう。

118maekawa_013

台地に上がろうかという所、わずかに開けた河谷平野に小さな水田が奥へ奥へとのびていた。前川の下流域では初めてのまとまった田園である。

約1キロで坂之上地区に到達する。標高70㍍のシラス台地だ。

118maekawa_014 広い道路の左右は見わたす限りの畑作地帯だが、途中の右側の畑に見慣れぬものが植えられていた。

 車を停めてしげしげと眺めると、それは「杉の苗」だった。

 杉苗畑とは珍しい。118maekawa_024

なおも行くこと2キロ弱、道はいよいよ山合いに入り、しばらく行くと分岐に差し掛かる。

 左を行けば前川の上流地帯、右を行けば前川を渡り、山越えして宮崎県串間市に至るルート。

 118maekawa_023 右を行くと、200㍍ほどで「船迫橋」がある。前川では唯一の石造りのアーチ型橋である。

 今はもう橋としての役目は終え、山間で静かに余生を過ごしている。

 さっきの分岐まで引き返し、左のまっすぐな道に入って行くと、やがて潤ヶ野地区だ。

 橋を渡ってたどり着いた集落はいわゆる「限界集落」なのだろうか、人っ子ひとり目につかない。118maekawa_021

だが、小学校は立派な造りで、この地区の子供教育への思い入れが分かろうというものである。

学校からさらに上にあがると、畑の真ん中に校舎のようなものがあった。

近づいてよくよく見ると、玄関口に「潤ヶ野公民館」という看板が掛かっていた。

 植え込みの前に石碑があったので、読んでみると昭和33年に建設されたとある。古い話118maekawa_018_3 だ。

 ところが面白いことに、同じ石碑に俳句が刻み込まれていた。その文面は

 村づくり 笠祇の里で 話し合い

レトロな建物といい、この俳句といい、郷愁を覚えざるを得な

かった。

(注)宝満寺・・・廃仏毀釈でつぶされたが、新しい観音堂(左)などが新築されている。118maekawa_025右は彫り込まれた神像118maekawa_027 などのある海蝕凝灰岩の崖。

                   (前川流域散策―その一 終り)

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