2月20日土曜日の午後、西都原考古博物館で「大王のひつぎ海をゆく」というテーマの講演があった。
ちょうど来月の27日(日)に宮崎大学名誉教授の柳澤先生のご案内で西都原古墳群と生目古墳群とを巡る研修旅行を計画しているので、行程のデータが取れると思い行くことにした。
往路は大雨に降られ、到着時間の遅れを気にしながらの運転だったが、午前8時半に我が家を出発して西都原古墳群に到着したのが11時15分。所要時間は2時間45分。距離は127キロだった。都城インターから西都原インターまでの高速道路は使わなかったが、当日は高速を使うから20分ほどの短縮になり、2時間半を見ておけばよいことになる。
西都原古墳に着いたころには雨が上がっており、『この花館』というレストラン兼土産物店に立ち寄って3月27日の弁当の予約をしておく。約40名位ということで。
考古博物館の講演は2階の研修室で行われた。
講師は宇土市市民会館館長で長年行政側の文化財・発掘調査に携わっていた高木恭二氏。
大阪の高槻市にある今城塚古墳から出土した石棺が、宇土の特産である「馬門(まかど)石」というきれいなピンク色をしている石材溶結凝灰岩の一種によって作られたことが判明し、宇土で実際に石棺を作ってそれを大阪まで船で運ぼうという「実験考古学」に取り組み、2005年、ついに実行して成功を収めた。その提唱者であり行政側の実行委員長であったのが今回の講演者高木氏である。
ピンク石製の石棺もだが、運ぶ手漕ぎの古代船と石棺(重量7トン)だけを載せる台船などもすべて手作りで用意し、漕ぎ手は水産大学校のカッター部の学生に依頼して約半年の特訓を経て、2005年(平成17年)7月24日から8月26日までの34日間(実働24日)かけて無事に宇土市宇土マリーナから大阪南港までを漕ぎ切ったという(漕ぎ手は他の海事系学校や大学生の応援を含め延べ740人)。
その距離は1006キロというから実働24日で割ると、1日平均41キロを漕いだことになる。しかし講演の資料によると、
<(曳航する石棺を載せた台船まで含めての)2.2ノット(3.6キロ余)の速さで仮に1日5時間航海すると、宇土から大阪まで1000キロメートルを50日間はかかったと思われる。荒天、漕ぎ手の休養、食糧等の調達を考慮すれば50日を超えた日数になったであろう。>
としている。
1日に漕ぐ時間が5時間とはえらく少ない気がする。
船の構造が「準構造船」といって西都原古墳170号墳で発掘された教科書でもおなじみの国指定重要文化財の例の「舳先のそっくり返ったいかにも波を切りにくい形の船」をモデルにしたので、転覆はしにくいけれどもその代わり水の抵抗が大きい。それだけ漕ぎ手には負担がかかるので速度が遅いうえ、1日に漕げる時間も短くなる。漕ぐ時間がわずか5時間なのはそのせいである。
今回のように7トンもある石棺を載せた台船を曳航してなら確かに時間距離が3,6キロ程度になるのだろうが、当時のデータによると単船(主船)だけなら4.3ノット(時速7キロ)は出たようである。そうすると1日の稼働時間も長くなり、8時間漕いだとすれば56キロは行けることになる。
高木氏はまた「手漕ぎ船は沿岸が見える程度の沖合を走り(これを地乗り航法というそうだ。自分は沿岸航法と言っている)、夜は絶対に運航しない」と断言された。
その通りである。
これに従えば、魏志倭人伝に於ける行程記事で、朝鮮半島南部の「狗邪韓国」(金海市)から対馬海峡を対馬まで80キロ余を渡る際に「夜は運航せず、昼間だけで渡り切らなければならない」という「海峡渡海1日説」は正しかったことになる。しかも水の抵抗の多い準構造線ではなくもっと小型の舳先のとがった船なら80キロを一日で漕ぎ切ることは可能だ。
次の対馬から壱岐までの約60キロも日中だけの運航で、また壱岐から末廬国(唐津)までの約40キロも日中だけの運航で渡り切ることになり、この三海峡を魏志倭人伝ですべて「水行千里」と表しているそのわけは「海峡はすべて一日で渡っている」、つまり<水行千里=水行一日>ということを意味している。
この<水行千里=水行一日>を逆算すると、帯方郡の近くの港から出航した船は半島西岸から南岸を回るのに「水行七千里」であるから日数は「七日」で半島南岸の狗邪韓国に着く。そして三海峡をそれぞれ一日で渡って末廬国(唐津)までの三日を加えるとちょうど十日。距離表記では10000里。
邪馬台国は「(帯方)郡から(一)万二千余里」と倭人伝にあるから、このうち一万里は水行十日に該当する(このとき当然ながら残りの二千里は陸行行程となる。したがって邪馬台国は唐津から陸路で行ける九州島内にあり、畿内説は成り立たない)。
さらに邪馬台国が「投馬国から南へ水行十日陸行一月」ととる見方は間違っており、「水行十日、陸行一月」というのは「帯方郡からの行程」としなければならないことになる。もし投馬国からの行程としたら「水行十日」の部分は「水行一万里」と距離表記になるはずである。
もう一つ、漢文表記では段落がないことに留意しなければならない。もし投馬国から南に邪馬台国があるのならば、「・・・投馬国、官は彌彌、副は彌彌那利。戸数五万戸ばかり有るべし。其の南、邪馬台国・・・」というように「其(の)」を入れるはずである。いくら史官の陳寿が「簡略を旨とする書き方をした」としてもわずか一字を惜しむわけがない。
以上から邪馬台国は帯方郡から距離表記にして「(水行)一万(陸行)二千里」、日数表記にして「水行十日、(さらに)陸行一月」の場所にあり、九州島以外の場所に求める説は全く成立しない。
さて、末廬国(唐津市)から東南に陸行500里で「伊都国」だが、この伊都国を「いとこく」と読んで、糸島市(糸島町と前原町の合併)に比定する説がほとんどである。
だが糸島市なら壱岐から直接船を着けることができるうえ、唐津市から糸島市へは東南ではなく東北であり、倭人伝の記述に合わないから間違いである。この東南陸行という方角に何とか合致させようと末廬国は唐津ではなく名護屋だ、呼子だ、と汗だくだくの解釈が行われているが、そもそも糸島に直接船を着ければいいはずのものを、魏王朝からの銅鏡百枚を含む数々の賜物を海岸沿いの隘路・悪路をなにゆえに(文字通り汗だくだくで)糸島まで運搬しなければならないのか、訳が分からんとはこのことである。
伊都国を「いとこく」と読み、しめたあそこに豪華極まりない副葬品を持った三雲・平原などの王墓が見つかっている――とばかり糸島(旧前原町)に飛びついたのが運の尽きであった。
以来、邪馬台国論争は「カラスの勝手でしょ」とばかり、各人がてんでんばらばらに方角を変え、距離を変え、日数を変えて解釈しはじめ、いまだに紛糾止むことなき、自分に言わせれば「阿鼻叫喚」の態を示したままだ。
末廬国(唐津市)からは素直に東南に歩けば伊都国に当たる――のである。自著『邪馬台国真論』(2003年刊)で伊都国を「いつこく」と読み、唐津市から東南にあたる松浦川沿いに500里にある戸数千戸の伊都国を、「厳木町は現在はキウラギと読むが、厳はイツと読むのが普通であるからイツキが原名であり、イツのキ(城)と解釈すればここが伊都(いつ)の王城となる。だが500里というにはあまりにも唐津から近いのが難点で、一応の候補地として挙げては置くが・・・」というように触れて別の候補地である「小城市」を伊都国ではないかとした。
だが今では「厳木町」が伊都国である可能性を考えている。そのとき多久市が奴国となり、小城市は不彌国になる。ここまでが700里。そして小城市からは今の海岸線よりかなり陸側(天山山地側)を通って大和町から吉野ケ里(華奴蘇奴国)を経由して筑後川を渡り、久留米を経て1300里で八女に至る。ここが女王国。
女王国の連盟国群は斯馬国以下狗奴国との境界にある奴国(玉名市)までの21か国で、すべて旧肥前・筑後南部にある国々である。古事記では九州に4つの国があるとした(筑紫国=白日別、豊国=豊日別、熊曽国=建日別、肥国=建日向日豊久士比泥別)が、そのうちの肥国に該当する国家群である。
邪馬台国連盟国家群は「周旋五千里」(ぐるっと巡ると五千里ある)と書いてあるが、自著ではその解釈を施していなかったので、ここに付け加えておく。
「周旋五千里」とは「船で巡ってみると五千里、つまり水行で五日かかるほどの広さである」と言っているわけだが、末廬国に到着した後、そこから一月(一か月)も日数を要する陸行などせず、船で九州の西海岸を回って有明海に入り最南部にある玉名(奴国)に行けるはずである、しかも五日で。
こう思っていたのだが、あえてそこは避けたのである。魏の使いが通ったという東南陸行500里を優先させたためである。
ではなぜ、当時の魏の使いを乗せた船は水行五日で回れる海路を無視したのだろうか。
その理由は女王国の南にある狗奴国の攻勢にあったと考えられる。倭人伝本文に書かれているように、当時、邪馬台国と狗奴国はほぼ戦争状態になったのである。それだからこそ卑弥呼は二度目の使いを魏に送り援助を要請したのである(その結果、魏から「黄幢(オウドウ)」(将軍旗)がもたらされ、一時は狗奴国も手を引いたが、卑弥呼は死亡している)。
この女王国の宿敵ともいうべき狗奴国は今日の玉名市を含まない熊本県域であり、当然有明海の制海権を握っていた。したがって女王国が招へいした魏の使い及び黄幢などを乗せた船は有明海域を通行するわけにはいかなかったのである。これが唐津から八女の女王国まで海路を取らず、陸路で通行した理由である。
・・・・・・・話がずいぶん飛んでしまったが、今回の講演で得た情報は大変にありがたかった。感謝したい。
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