惻隠の心と日本人

 今朝の「新・報道2001」に登場したのは数学者の藤原正彦氏と三遊亭円楽。

 藤原氏は独自の日本人論を持っておられ、日本人の特質を一言で言えば「惻隠の心」だという。

 惻隠の心の出典は『孟子』で、儒教で最高の徳目とされる「仁」の拠って立つ心のことである。

 分かり易い日本語では「同情心」。他人のことを慮ること、つまり「思いやり」のこととも言い換えられる。

 長くアメリカで研究生活を続けて向こうの人間との付き合いの多い藤原氏が到達した「日本人論」、すなわち「日本人の属性」の最大の特長が「惻隠の心」で、今後のグローバリゼーションの中でこの特質は何があっても失ってはならない――というのが結論であった。

 そのためには小学校からの英語教育はやめて、すべからく日本語(国語)を徹底的に教えることが必要だともいう。

 かなり突飛なというか過激なというか、英語は絶対教えてはならないというのには賛成できかねる。ただ、英文法や英文解釈的なものは絶対にやる必要はなく、ただ日常的なオーラルイングリッシュに限定すべきだろう。

 要は、海外旅行の際や来日した外国人に対応できる日常会話がそこそこできるようになればいいのだ。小学校の段階では文字(英文)を教えてはかえって英語嫌いを増大させるに違いない。


 話変わって、ゲスト出演していた落語家の円楽が、藤原氏の「惻隠の心」に対して、「要するに思いやりですよ。江戸の昔に芭蕉が、〈秋深し 隣りは何を する人ぞ〉なんて句を詠みましたが、あれなんか隣人に対する思いやる心で、今はなくなってしまいましたね」――などと話していたが、

 あの有名な芭蕉の句は、〈秋深き隣りは何をする人ぞ〉が正しく、「秋深き」を「秋深し」と思い込んでいる人は多く、学識ある円楽もその一人だとは意外だった。

 〈秋深し〉では、解釈が二通りに分かれる。

 一つが俗に「隣同士でありながら何をしている人かが分からない。そういう都会の人間関係の薄いことを読んだ秀句である」というあまりに現代に引き当てた解釈。

 もう一つは、「秋が深まっていよいよ寒い冬支度だが、隣人はどうしているだろうか」という解釈になる。この場合、たしかに隣人への「思いやり」がうたわれてはいる。がしかし、どこもかしこも隣人同士がそういう風にいたわりあっている様子が冬間近の一般論的な風景として単に描かれているだけになってしまう。

 つまり「隣りは何をする人ぞ」が単に「秋深し」を引き出す12文字に過ぎなくなる。


 ところがこれが〈秋深き〉になると、「秋が深まり冬枯れ間近の隣家の様子が垣間見えるが、隣人はどういう暮らしの人であろうか。冬が越せるだろうか」と解釈され、一隣家の具体的な寂寥への哀惜の念が湧き上がってくる。

 俳句や短歌は決して、「隣人を愛(哀惜)せよ」という抽象文学であってはならず、具体に於いてその心を表現していくものなのである。

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上野三碑

 上野三碑が世界記憶遺産に登録されたという。

 上野(こうずけ)とは群馬県のことで、三つとも高崎市にあり、古い順に「山上碑」「多胡碑」「金井沢碑」が見つかっている。(※以下の内容は高崎市の公式ホームページによる。)

 このうち「多胡碑(たごひ)」は歴史教科書には必ず記載されている。

 当地に新しく「多胡郡」が誕生したいきさつが端正な楷書漢文で刻まれた石碑で、刻字の中に「和銅4年」が出てくるため西暦711年頃の建立であろうとされる。

 奈良時代に入ったばかりの頃で、奈良の都周辺でもほとんど石碑のない時代であり、おそらく朝鮮半島からの渡来人がその知識と技術をもって刻んだであろうとされている。

 しかし、同じ上野三碑で最も古い681年建立の「山上碑(やまのうえひ)」(追善供養の碑)に刻まれた漢字は漢文ではなく、和漢文(漢字を借りた和文」である。

 681年と言えば白村江戦争で敗れた百済系の官民が大挙して列島に渡来し、近江を中心に関東まで流れて来たと考えられるが、もし百済人がこれを建立したのであれば純粋な漢文を使いそうなものであるが、どうして和漢文なのであろうか?

 このことから百済では(ほかの南部の伽耶・新羅も)和文(倭語)が普遍的に使われていたのではないかという推理が成り立つ。そうすると百済を含む半島南部では倭語(口語)が公用語であった、つまり倭人が支配層であった可能性を考えなくてはなるまい。

 681年からわずか20年後に「大宝律令」が完成し、それ以降は大陸(唐)の法治(律・令)を取り入れて口語から文語(要するに官僚による布告・通達文)が列島を席巻し始め、公文書はすべて漢文でなければならなくなったゆえに、「山上碑」に見られるような「和漢文」は影を潜めてしまったのであろう。

 これに似た運命をたどったのが『古事記』である。

 『古事記』の完成は712年なので、「多胡碑」の1年あとであり、「多胡碑」がもうすでに純粋の漢文で刻まれているように、当時は『古事記』のような和漢文的な用法は「時代遅れの古臭いもの」として避けられ、編纂された712年以降に読まれたり解釈されたりすることが極めて少なくなり、ようやく中世に復古神道が叫ばれるようになってからリバイバルされたのである。

 それでも、その内容から「偽書ではないか」という疑いがなかなか晴れることがなかったわけだが、昭和47年だったか、奈良市近郊の茶畑で編纂者の太安万侶の墓が墓誌とともに発見されて偽書の汚名は返上されたという経緯がある。

 三つ目の「金井沢碑」は726年(神亀6年)の建立で、仏教の普及の様子が書かれているそうである。

 これらの三つの碑は奈良時代の初期までに刻まれており、内容も当時の歴史的な流動がよくうかがい知れるということで今回の世界記憶遺産登録となった。

 因みに、現存する古代石碑は18例あり、もっとも古いのは京都府の「宇治橋碑」(646年)だが、この群馬県高崎市の三碑はすべて古例に属している。府県別では奈良県に五碑、熊本県に四碑、京都府・栃木県・滋賀県・徳島県・宮城県に各一碑、そして群馬県はもう一つが桐生市にあり、五碑で、都合18碑となっている。

 

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映画『海賊とよばれた男』を観る

 やっと大隅史談会での最後の仕事、『大隅60号』の編集作業がほぼ完了(あと2名の寄稿文の最終校正を残すのみ)してホッとしている。1月半ばからだからちょうどふた月に係る仕事だった。

 12月23日の理事会(編集会議)の時点では、寄稿者10名足らず、大隅誌仕様で換算して120ページにも見たなかったが、その後8本の論文が加わり、なんとか総ページで180ページは確保できた。

 21日に製本印刷を依頼する東洋印刷にUSBメモリーを持参し、あとは一ヶ月後の仕上がりを待つだけになった。


 気晴らしに久しぶりに映画を見ようと、先日の広報誌の後ろ紙面で紹介されていた百田尚樹原作の『海賊とよばれた男』を鹿屋市中心部にあるリナシアターに観に行った。

 今日(17日)が最後の上映で、そのまた最後の上映時間である午後7時から2時間半の映画であった。60歳以上は1800円のところ1000円で鑑賞できるのがありがたい。

 内容は民族石油資本の雄、出光佐三の話である。

 戦前は上海や満州にまで石油製品の販路を持っていたが、戦後は占領軍(GHQ)の監視の下でしばらくくすぶっていた。しかしサンフランシスコ条約締結による日本の独立を契機に自前の巨大タンカー「日章丸」を建造し、世界のメジャーの妨害をかいくぐってイランに原油の買い付けに行った。

 当時イランを支配していたイギリス系のメジャー(BP=ブリティッシュ・ペトロリアム)から独立しようと社会主義革命を起こして民族資本を醸成しようとしていたイラン。そうはさせじと経済封鎖(海上封鎖)をしていたイギリス。出光もいろいろな規制ややっかみを受けていたが、何するものぞの気概を持った出光佐三の快挙はイラン国民も日本国民もともに熱狂させた。

 熱と光があらゆる困難の壁を溶解する――ことを教えてくれる映画だ。

 
 

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右と左

 今夜の「バクモン爆笑問題」(NHKテレビ)は、広辞苑の編集についてのバクモンだったが、編集長が『「右」という言葉の定義は何だろうか』という質問を出し、それに爆笑問題の二人ともう一人乃木坂46のメンバーの子がそれぞれ回答していた。
 
 その中で爆笑問題の田中の答え「南を向いた時の西の方向」が正解だったが、しかしそれはあくまでも右左という言葉を使わないでなら、そう答えられるというに過ぎない。「右(みぎ)」という語源そのものを答えているわけではない。

 ところが実際に辞書を引いてみると、「みぎ」の意味については田中の答えと同じだということが分かり、唖然とした。そのほかに「にぎり」から来た、つまり多くの人は右利きなので、物を握るときに必ず右手を使うから「にぎり手」から、「にぎ手」→「にぎ」→「みぎ」という変化を想定している。

 どちらも噴飯物の解釈である。

 右と左についてはすでに古事記の中で次の箇所に説明書きがある。もちろん説明書きといっても「みぎ」の意味はこれこれで、「ひだり」の意味はこれこれですよと箇条書きにしてあるわけではない。

 その箇所とは、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が天照大神・月読命・須佐之男命の「三貴子」を生む段である。
 
 それにはこう書いてある。

 <ここに左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は天照大神。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は月読命。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は建速須佐之男命。> 

 伊弉諾尊は男性神であるから当然懐胎して腹から子を産むわけではない。生まれる原理が天照大神の場合は「左目」から、月読命は「右目」から、そして須佐之男命は「鼻」からなのである。

 ではなぜ太陽神である天照大神が「左目」から生まれたのか。ここに「左」の意味が隠されている。

 すなわち「ひだり」とは「日足り」で、「日」が足りていることである。「日(ひ)」とはもちろん現実の太陽のことでもあるが、「霊」「魂」などをも含む広い意味を持っている言葉であり、そのような「ひ」に満ち満ちているのが天照大神の属性である。

 「右目」から生まれた月読命の場合は、月(ムーン)の属性を考えるとすぐに分かる。月は規則的に満ち欠けをする(もちろんこれは地上から見ての話で、実際に月という星が物質的に削られるわけではない)。つまり月は「身を切っている」ように観測される。これが「身切り」→「みぎり」→「みぎ」と変化して、「月と言えばみぎ」となったものだろう。

 簡単に整理すると、「左(ひだり)」は「日足り」、「右(みぎ・みぎり)」は「身切り」、が語源である。

 最後に須佐之男命は「鼻」から生まれたとするが、これについてはよく分からない。「鼻」の語源は顔の中ほどに突き出しているので「トップ・最初」の意味の「はな」(例として、「この問題は難しくてはなから解らない」など)だろうという説がある。

 しかし須佐之男命が生まれたのは、「三貴子」の中では最後で、最初ではない。「鼻」が「最初」の意味であるのなら、文字通り三貴子の中でイの一番に生まれてよさそうだが、そうではない。

 まったく視点を変えてみると、鼻は漢方医学では「肺」の機能を表しているという。肺とは呼吸器官であり、空気の流れを象徴しており、空気の流れの強まったものが「風・強風・暴風」である。そうしてみると須佐之男命は高天原に上って姉である天照大神の田を荒らしまくっていることなどから、稲作の強敵「暴風・台風」の象徴に他ならないのではないか?――という考え方もできる。

 須佐之男命についてはまだ考慮の余地はあるが、天照大神の「左」、月読命の「右」は「日足る」・「身切る」が語源として間違いないと思う。

 

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前方後円墳の起源は壺?

 今日(1月20日)のNHK「歴史ヒストリア」では前方後円墳の起源について、「壺型説」を取り上げていた。

 まず典型的な巨大前方後円墳である「箸墓古墳」を例に出し、その築造年代を3世紀半ばとしたうえで、「日本独特の前方後円墳はどのようにデザインされたのか、上空から見ると壺のようですありませんか」と紹介した。

 確かに長頸の壺に似てはいる。

 さらに中国の3世紀に作られたという「壺の上に不老長寿の仙人たちが乗った『神亭壺(シンテイコ)』(浙江省出土)」という遺物を取り上げ、壺は不老長寿のシンボルであり、その頃の中国人は来世と重ね合わせてみていたともいう。

 元同志社大学の教授だった人は「東王父(トウオウフ)」という古代中国の伝説に登場する神人を引き合いに出して、
 「古代中国人は東の海中に壺型の霊山があり、そこに不老長寿の仙人たちが住んでいるとするが、その思想を倭人が取り入れてあのような壺型の前方後円墳を創造したのだろう」
 と解説した。

 しかしこれはおかしい。もしそうであるならば中国大陸人こそがまず壺型の墳墓すなわち前方後円墳を造っていなければならないからだ。

 中国の浙江省でもどこでもよいが、日本列島のものより古い前方後円墳のような墳墓が発見されているならば、「ああ、たしかに中国大陸で造られたものが日本へ移入され、それが日本で巨大化して独特の前方後円墳になったのだ」とはいえる。

 中国大陸で不老長寿の仙人たちを乗せた壺が作られているからと言っても、そもそも焼き物の壺と大土木工事を必要とする前方後円墳とはスケールよりも前に概念が違うではないか。

 日本の巨大前方古墳の多くが周濠を持ち、水をたたえていることを海になぞらえ、「北部九州の古墳でよく見られる彼岸(来世)に渡る船の絵図」にあるように、大王のお棺をそのような船に乗せて周濠を渡り、後円墳の頂上まで引き上げて埋葬したとするが、全国に4000基もあるとされる前方後円墳の中で、周濠に水をたたえているのは河内と大和地方の大型墳だけであり、残余の数千という数の水をたたえない前方後円墳群から見ればむしろ例外に属している。

 畿内の大型前方古墳で周濠に水をたたえているのは、海を模したわけではなく、単に地下水位が高かったが故の自然現象だろう。その地方の灌漑用に水をためておいたという考えもあるくらいだ。

 もし中国古代人たちが、「来世を意味する仙人たちが壺型の宮殿に住み、東へ海を渡ったところにある「東王父の住むという壺型の島」があると考えたのならば、思想だけが日本列島へやって来たというより、中国古代人そのものが日本列島に渡来し、理想の「壺型古墳」すなわち前方後円墳を築造して自らを埋葬した――と考えなければ整合性は得られまい。

 果たして、日本独特のと形容の付く前方後円墳の初期のころの墓主は中国古代人だったのだろうか?

 今日の番組を見ればそういう流れになっていなければおかしいだろう。倭人はどこに行ったのだ!?

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円形周溝墓の初源地

 前方後円墳の始原は帆立貝型古墳に求められ、その帆立貝型古墳の前駆的形態は弥生時代の「円形周溝墓」ではないか――との見方を補強する遺跡が、奈良県橿原市で見つかったようだ。

 ハンドルネーム 「Don Pancho」氏のホームページ(http://bell.jo/pancho/)内の「橿原日記」というカテゴリーに「2016.05.15 遂に奈良県でも見つかった弥生末期の円形周溝墓」という一文がある。今回はそれを参照させてもらった。

 それによると奈良県橿原市のポリテクセンター奈良という建物の改築工事中に一基の「突出部を持つ円形周溝墓」が出現した。7世紀後半の藤原京時代に建てられたらしい大型の建物跡の遺構がまず見つかり、その下層で今回の発見があった。Cimg2367
 今回見つかった円形周溝墓の直径は19m、周囲を幅6m、深さ50㌢の溝がめぐらされていた。築造された時期は墳丘部で見つかった土器から見て2世紀後半であると専門家は推定しているそうだ。

 その結果この円形周溝墓は3世紀になるとすでに瀬戸内海東部地域から河内地方に見られるようになる円形周溝墓群の一環として考えられ、大和地方でさらに一歩進んで初源期の古墳群と言われる「纏向型前方後円墳」の築造につながったとし、これまで大和地方でどうしても発見できなかった円形周溝墓に喜びを隠せないでいるという雰囲気が伝わってくる一文である。

 この発見によって箸墓古墳のような定型的な前方後円墳の前駆的形態としては纏向型(帆立貝型)前方後円墳が存在し、その纏向型前方後円墳の前駆的形態は「突出部を持つ円形周溝墓」である――との発展過程が描けることになる。

 突出部は「陸橋」とも呼ばれることがあり、これは墳丘部に至る通路であろう。墳丘部を盛り上げるために周辺の土をすくったあとには当然「周溝」という名の溝(みぞ)ができ、その溝の一か所は土をすくいあげないでおけばおのずから陸橋になる。


 さてではその前方後円墳の大本となった円形周溝墓が生まれたのはどこであったか――に興味が移る。

 上記のホームページでも触れられているように、大和地方では今回発見された弥生時代後期の円形周溝墓が初めての発見であることからして、初源は大和地方でないことは明らかである。

 周溝墓には円形の他に「方形周溝墓」があり、こっちは弥生時代の前期から西日本でかなり普遍的にみられるのだが、円形周溝墓は極めて少ないという。

 少ないながらも瀬戸内海の東側(香川・徳島・兵庫)では、前期の終わりから後期にかけて小型の円形周溝墓が築造されていたようだが、方形周溝墓20~30基に対して2~3基の割合でしか見つかっていないという。

 そこで思い浮かんだのが志布志市松山町秦野にある「京ノ塚遺跡」だ。

 ここでは何と丘の上に20基もの円形周溝墓が2基の方形周溝墓とともに発見された。
 時代は弥生中期で約2000年以上前の遺跡である。

 志布志市松山町がまだ単独の町であった時に建設しようとしていた「やっちくふれあいセンター」の基盤工事中に京ノ塚という丘の上でとてつもない遺構群が日の目を見た。

 丘の標高は170メートルで周囲がそれより20メートル程度低いだけなのでさほど突出した丘ではないが、登ってみると見晴らしの良いのには驚かされる。
 上り道を隔ててすぐ隣にやっちくふれあいセンターの大きな建物があるので東側の展望はないが、あとの方角はよく見渡せる丘である。おそらくここの弥生人もそれが気に入ってここを墳墓の地にしたに違いない。

 1基だけコンクリートで固めて残してあるが、直径は5メートルくらいの小ぶりなものである。副葬品のようなものはほとんどなかったようだが、一基のそばの浅く掘った穴から底に穴をあけた山ノ口式土器(弥生中期)によく似た土器が埋められていたという。南九州の古墳ではよく見られる葬送儀礼の原型かもしれない。

 これほど円形周溝墓がまとまって見られる遺跡はおそらくないのではないか。
 上記の「方形周溝墓20~30基にたいして円形周溝墓は2~3基しかない」という割合と真逆なのである。

 そうなると円形周溝墓が当地の弥生人では普通だったということになる。これはもう当地弥生人のオリジナルではないか。決して畿内などからの渡来人が来て造ったり、当地の弥生人が向こうの築造を学んだりしたのではないだろう。

 なぜならもし向こうからやって来た墓制ならこんなに海から離れた場所に造られず、まずはもっと海岸に近い地域に見られなくてはおかしいからだ。

 また、東九州自動車道建設にかかる発掘事業の中で曽於郡大崎町の「永吉天神段遺跡」でも、弥生中期の円形周溝墓(直径8メートル)とそれを取り巻くような土壙墓群が発見されている。すでに家族墓を超えて共同体の中で身分差が表れて来たかを思わせる態様が見られ、興味がそそられる遺跡である。

 志布志市松山町秦野に起源をもつ円形周溝墓が、海に近いより先進的な永吉天神段では身分制の表徴となってそのような態様を取ったのかもしれない。

 まだまだ大隅地域では「起源はここ」というような遺構なり遺物なりが発見される可能性が高い。
 


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『寺山修司研究・9』

 小田原に暮らす甥から今年も『寺山修司研究』本が送られてきた。Photo_3 第9号は2016年4月20日発刊

編著者 「国際寺山修司学会」 

発行所 文化書房博文社

 まだ全部は読んでいないが、甥は編集委員であり、今号ではエッセイを2編、書評を4編も書いている。

 中でも「魂の語り、魂の声、魂の叫び ~昭和精吾さんに捧ぐ~」という20数ページにわたるエッセイ(というよりは叙事詩)は圧巻だ。

   「 昭和精吾事務所

    寺山修司生誕80年記念

    われに五月を 特別企画

    『寺山さんてなんだった?』

    ~2013年トークショー映像上映と追加トークと詩の朗読~ 」

 という催し物での感想を詩にしている。

 中で、

   スモークとともに昭和さん登場。

   そこから30分以上

   寺山さんの思いが

   寺山さんへの想いが

   ぎっしり詰まった

   昭和さんの魂の語りが

   昭和さんの魂の叫びが

   続くのである。

 という箇所で、最初にちらっと読んでいった時に「昭和」という時代を想起し、

 昭和さんの語りは、「昭和の語り」であり、「昭和の叫び」との連想を懐いた。

 昭和が人生の起伏の中で最も身近で切ない者の謬感であるが・・・。

 さて、自分としては

 『寺山修司と石子順造――「幻の母」と「イメージの母」と』という研究論文に惹かれた。

 この二人とも揃って母の存在感が希薄であったそうで、そこに自分を重ねてしまった。

 実態の母とイメージの母のギャップから生まれる葛藤は芸術のどの分野にも存在する。子供から見た母親は常に「所与のもの」(別言すれば神から与えらえれた存在)であるが、母親の実態はなかなかそうはならない。そのギャップに苦しむ子供が多いが、そのことが逆に音楽を生み、文学を生み出す根源となるのだろうから、世の中捨てたものじゃない(と世俗的な結論)。

 

 











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史論集『大隅』59号を発刊

 史論集『大隅』59号が今日出来上がった。59_4 1月後半から編集に入り3月10日に印刷会社に依頼して今日上梓した。

 今度の号には特別寄稿と銘打って、九州大学名誉教授・秀村選三先生の貴重な原稿が載っている。学業(薩摩藩高山郷の研究で学士院賞・恩賜賞)の経緯と同時に、旧制高校時代の親友で鹿屋海軍基地から沖縄へ特攻に飛び立ち散華された林市造氏への温情溢れる回顧がしたためられている。また米軍の日本本土上陸作戦を遅らせ、結果として断念させるのに大きな楯となった沖縄への想いが率直に綴られている。

 この最後の点だけでも現代の日本人に裨益すること大であり、大いに読んでもらいたい箇所である。

 【史論集『大隅59号』の目次】

1 特別寄稿 「大隅鹿屋・高山とわが友・林市造」 秀村選三

2 「古代内之浦のロマンを探る(その三)」 吉田幸栄

3 「古代日本と鳳凰」 武田悦孝

4 「キスミミ(岐須美美)は残った」 松下高明

5 「古事記と南九州(2)」 松下高明

6 「橘姓柏原氏の系図」 松下高明

7 「和気清麻呂と大隅国」 新留俊幸

8 「新城の軍神碑」 中島勇三

9 「薩摩藩武士の本名考」 橋口 満

10 「小説『於雪―土佐一条家の崩壊』にみる一条康政」 橋口 満

11 「岩川領主伊勢家二代 伊勢貞豊文書」 橋口 満

12 「ケサナ考」 橋口 満

13 「故郷忘じがたく―野村傳四の生涯」 渡口行雄

14 「平成外城巡り(その二)」 井之上光徳

15 「渋谷氏族 伊牟田氏系譜」 隈元信一

16 「是枝柳右衛門と高山」 竹之井 敏

17 「大隅から観る日本古代史」 郷原建樹

18 「トロッコ」 下田節子

19 「明治時代の俗謡」 村中キヨ

20 特別論攷 「南九州古墳文化の展開」 柳澤一男

◎ 平成27年度月例会報告

 以上、投稿20篇、投稿者14名。213ページ。

 頒布価格 1冊 2000円

 送料 1冊 80円  (2冊 120円)

 ※購入希望者は最寄りの郵便局で上記の合計金額を下記の郵便振替口座に振り込んで  下さい。入金を確認次第すぐに発送します。

           記

    宛て先   大隅史談会事務局

           (〒893-0042 鹿児島県鹿屋市池園町2245-5)

  振替口座番号 02000-2-11027   

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鬼界カルデラ噴火災害

 夕方6時過ぎのNHK鹿児島で「かごしま防災最前線」という特集があり、鬼界カルデラの噴出を取り上げていた。Cimg8794 1月は桜島の大正大噴火を話題にしていたが、今回の鬼界カルデラ大噴火はそれをはるかに上回る規模の災害をもたらした。Cimg8795 薩摩半島南部から直線距離にして50キロほどの南海上に浮かぶ薩摩硫黄島がそのカルデラ噴火の名残の外輪山で、現在は一応は活火山だがほとんど無害である。

 しかし約7300年前に巨大なカルデラ噴火を起こし、薩摩半島部はもちろんだが大隅半島の大部分にも甚大な被害をもたらし、鹿児島で栄えていた高度な縄文早期文化を壊滅させているCimg8802 巨大噴火で恐ろしいのが火砕流で、上の図で赤茶の部分が火砕流の到達した範囲とされている。このことを研究し推定図を描いたのが、Cimg8798 北海道大学の名誉教授である宇井忠英氏。Cimg8803_2火砕流は水より密度が小さいので軽く、海上を平気で走ってくるそうで、時速でいえば100キロにも達し、いま宇井氏が見下ろしている根占(南大隅町)の海岸まで噴火してから1時間もかからないうちに押し寄せて来ただろう、と語る。

 火砕流は何もかも飲み込んで焼き尽くし、南大隅町では火砕流で焼かれて倒れた上にアカホヤ(と南九州で名づけられている)火山灰に覆われ、炭化したまま横たわっていた大きな木が発見されている。火砕流のすさまじさの物証であるという。

(放映では津波のことは言及されていなかったが、海中のカルデラ噴火であるから津波も巨大なものが発生したに違いなく、しかも縄文早期後半は海進の時代で、海岸線が現在よりだいぶ内陸側に入り込んでいたからその被害も甚大だったろう。まさに泣き面に蜂の状態だった。また大陸の「河姆渡遺跡」に代表される古文明も大津波によって同時に壊滅したのではないか――とも考えられる。)

 ※ここまで書いていると、9時過ぎのNHKニュースの途中で急に地震警報音が発せられ、何だろうと思っているうちに横揺れを感じ、慌ててデジカメを持ち出してその画面を撮影した。以下は9時半ころのニュース9の画像である。Cimg8820 一体どこで地震があったのかと思えば、熊本地方だという。しかも震度7とは驚きだ。

 九州で暮らしてもう35年にもなるが、熊本で大きな地震があったのを聞いたことはなかったし、突然の揺れが震度7とはただ事ではない。Cimg8822 数分後、ようやくマグニチュードと深度が分かった。震源は熊本市の東南部に位置する内陸の益城町で、深度は10キロ、マグニチュードは6、5。

 エネルギーは巨大というほどのものではないが、震度7はあの阪神淡路や東日本大地震と変わらない大きさである。内陸部の浅い震源だったため狭い範囲で大きく揺れたのだろう。おそらく活断層のしわざだ。Cimg8824 しばらく画面にくぎ付けになっていると、10時を回ったころに再び「緊急地震速報」が警報音とともに表示された。

 この時はこっちでは揺れは感じなかったが、10時06分に余震が発生したらしい。同じ益城町では震度6弱であった。Cimg8831 今朝6時台のNHKでは「9人の死亡が確認された」とあった。今のところ行方不明者はいない模様である。

 ※熊本城の天守の屋根瓦が半分も落ちてしまったり、天守閣の土台部分の石組みが崩壊しているのが映し出されたが、これは想定外だったろう。





















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「大王のひつぎ海をゆく」講演会

 2月20日土曜日の午後、西都原考古博物館で「大王のひつぎ海をゆく」というテーマの講演があった。

 ちょうど来月の27日(日)に宮崎大学名誉教授の柳澤先生のご案内で西都原古墳群と生目古墳群とを巡る研修旅行を計画しているので、行程のデータが取れると思い行くことにした。

 往路は大雨に降られ、到着時間の遅れを気にしながらの運転だったが、午前8時半に我が家を出発して西都原古墳群に到着したのが11時15分。所要時間は2時間45分。距離は127キロだった。都城インターから西都原インターまでの高速道路は使わなかったが、当日は高速を使うから20分ほどの短縮になり、2時間半を見ておけばよいことになる。

 西都原古墳に着いたころには雨が上がっており、『この花館』というレストラン兼土産物店に立ち寄って3月27日の弁当の予約をしておく。約40名位ということで。

 考古博物館の講演は2階の研修室で行われた。Cimg8271 講師は宇土市市民会館館長で長年行政側の文化財・発掘調査に携わっていた高木恭二氏。

 大阪の高槻市にある今城塚古墳から出土した石棺が、宇土の特産である「馬門(まかど)石」というきれいなピンク色をしている石材溶結凝灰岩の一種によって作られたことが判明し、宇土で実際に石棺を作ってそれを大阪まで船で運ぼうという「実験考古学」に取り組み、2005年、ついに実行して成功を収めた。その提唱者であり行政側の実行委員長であったのが今回の講演者高木氏である。

 ピンク石製の石棺もだが、運ぶ手漕ぎの古代船と石棺(重量7トン)だけを載せる台船などもすべて手作りで用意し、漕ぎ手は水産大学校のカッター部の学生に依頼して約半年の特訓を経て、2005年(平成17年)7月24日から8月26日までの34日間(実働24日)かけて無事に宇土市宇土マリーナから大阪南港までを漕ぎ切ったという(漕ぎ手は他の海事系学校や大学生の応援を含め延べ740人)。

 その距離は1006キロというから実働24日で割ると、1日平均41キロを漕いだことになる。しかし講演の資料によると、

 <(曳航する石棺を載せた台船まで含めての)2.2ノット(3.6キロ余)の速さで仮に1日5時間航海すると、宇土から大阪まで1000キロメートルを50日間はかかったと思われる。荒天、漕ぎ手の休養、食糧等の調達を考慮すれば50日を超えた日数になったであろう。>

 としている。

 1日に漕ぐ時間が5時間とはえらく少ない気がする。

 船の構造が「準構造船」といって西都原古墳170号墳で発掘された教科書でもおなじみの国指定重要文化財の例の「舳先のそっくり返ったいかにも波を切りにくい形の船」をモデルにしたので、転覆はしにくいけれどもその代わり水の抵抗が大きい。それだけ漕ぎ手には負担がかかるので速度が遅いうえ、1日に漕げる時間も短くなる。漕ぐ時間がわずか5時間なのはそのせいである。

 今回のように7トンもある石棺を載せた台船を曳航してなら確かに時間距離が3,6キロ程度になるのだろうが、当時のデータによると単船(主船)だけなら4.3ノット(時速7キロ)は出たようである。そうすると1日の稼働時間も長くなり、8時間漕いだとすれば56キロは行けることになる。

 高木氏はまた「手漕ぎ船は沿岸が見える程度の沖合を走り(これを地乗り航法というそうだ。自分は沿岸航法と言っている)、夜は絶対に運航しない」と断言された。

 その通りである。

 これに従えば、魏志倭人伝に於ける行程記事で、朝鮮半島南部の「狗邪韓国」(金海市)から対馬海峡を対馬まで80キロ余を渡る際に「夜は運航せず、昼間だけで渡り切らなければならない」という「海峡渡海1日説」は正しかったことになる。しかも水の抵抗の多い準構造線ではなくもっと小型の舳先のとがった船なら80キロを一日で漕ぎ切ることは可能だ。

 次の対馬から壱岐までの約60キロも日中だけの運航で、また壱岐から末廬国(唐津)までの約40キロも日中だけの運航で渡り切ることになり、この三海峡を魏志倭人伝ですべて「水行千里」と表しているそのわけは「海峡はすべて一日で渡っている」、つまり<水行千里=水行一日>ということを意味している。

 この<水行千里=水行一日>を逆算すると、帯方郡の近くの港から出航した船は半島西岸から南岸を回るのに「水行七千里」であるから日数は「七日」で半島南岸の狗邪韓国に着く。そして三海峡をそれぞれ一日で渡って末廬国(唐津)までの三日を加えるとちょうど十日。距離表記では10000里。

 邪馬台国は「(帯方)郡から(一)万二千余里」と倭人伝にあるから、このうち一万里は水行十日に該当する(このとき当然ながら残りの二千里は陸行行程となる。したがって邪馬台国は唐津から陸路で行ける九州島内にあり、畿内説は成り立たない)。

 さらに邪馬台国が「投馬国から南へ水行十日陸行一月」ととる見方は間違っており、「水行十日、陸行一月」というのは「帯方郡からの行程」としなければならないことになる。もし投馬国からの行程としたら「水行十日」の部分は「水行一万里」と距離表記になるはずである。

 もう一つ、漢文表記では段落がないことに留意しなければならない。もし投馬国から南に邪馬台国があるのならば、「・・・投馬国、官は彌彌、副は彌彌那利。戸数五万戸ばかり有るべし。其の南、邪馬台国・・・」というように「其(の)」を入れるはずである。いくら史官の陳寿が「簡略を旨とする書き方をした」としてもわずか一字を惜しむわけがない。

 以上から邪馬台国は帯方郡から距離表記にして「(水行)一万(陸行)二千里」、日数表記にして「水行十日、(さらに)陸行一月」の場所にあり、九州島以外の場所に求める説は全く成立しない。

 さて、末廬国(唐津市)から東南に陸行500里で「伊都国」だが、この伊都国を「いとこく」と読んで、糸島市(糸島町と前原町の合併)に比定する説がほとんどである。

 だが糸島市なら壱岐から直接船を着けることができるうえ、唐津市から糸島市へは東南ではなく東北であり、倭人伝の記述に合わないから間違いである。この東南陸行という方角に何とか合致させようと末廬国は唐津ではなく名護屋だ、呼子だ、と汗だくだくの解釈が行われているが、そもそも糸島に直接船を着ければいいはずのものを、魏王朝からの銅鏡百枚を含む数々の賜物を海岸沿いの隘路・悪路をなにゆえに(文字通り汗だくだくで)糸島まで運搬しなければならないのか、訳が分からんとはこのことである。

 伊都国を「いとこく」と読み、しめたあそこに豪華極まりない副葬品を持った三雲・平原などの王墓が見つかっている――とばかり糸島(旧前原町)に飛びついたのが運の尽きであった。

 以来、邪馬台国論争は「カラスの勝手でしょ」とばかり、各人がてんでんばらばらに方角を変え、距離を変え、日数を変えて解釈しはじめ、いまだに紛糾止むことなき、自分に言わせれば「阿鼻叫喚」の態を示したままだ。

 末廬国(唐津市)からは素直に東南に歩けば伊都国に当たる――のである。自著『邪馬台国真論』(2003年刊)で伊都国を「いつこく」と読み、唐津市から東南にあたる松浦川沿いに500里にある戸数千戸の伊都国を、「厳木町は現在はキウラギと読むが、厳はイツと読むのが普通であるからイツキが原名であり、イツのキ(城)と解釈すればここが伊都(いつ)の王城となる。だが500里というにはあまりにも唐津から近いのが難点で、一応の候補地として挙げては置くが・・・」というように触れて別の候補地である「小城市」を伊都国ではないかとした。

 だが今では「厳木町」が伊都国である可能性を考えている。そのとき多久市が奴国となり、小城市は不彌国になる。ここまでが700里。そして小城市からは今の海岸線よりかなり陸側(天山山地側)を通って大和町から吉野ケ里(華奴蘇奴国)を経由して筑後川を渡り、久留米を経て1300里で八女に至る。ここが女王国。

 女王国の連盟国群は斯馬国以下狗奴国との境界にある奴国(玉名市)までの21か国で、すべて旧肥前・筑後南部にある国々である。古事記では九州に4つの国があるとした(筑紫国=白日別、豊国=豊日別、熊曽国=建日別、肥国=建日向日豊久士比泥別)が、そのうちの肥国に該当する国家群である。

 邪馬台国連盟国家群は「周旋五千里」(ぐるっと巡ると五千里ある)と書いてあるが、自著ではその解釈を施していなかったので、ここに付け加えておく。

 「周旋五千里」とは「船で巡ってみると五千里、つまり水行で五日かかるほどの広さである」と言っているわけだが、末廬国に到着した後、そこから一月(一か月)も日数を要する陸行などせず、船で九州の西海岸を回って有明海に入り最南部にある玉名(奴国)に行けるはずである、しかも五日で。

 こう思っていたのだが、あえてそこは避けたのである。魏の使いが通ったという東南陸行500里を優先させたためである。

 ではなぜ、当時の魏の使いを乗せた船は水行五日で回れる海路を無視したのだろうか。

 その理由は女王国の南にある狗奴国の攻勢にあったと考えられる。倭人伝本文に書かれているように、当時、邪馬台国と狗奴国はほぼ戦争状態になったのである。それだからこそ卑弥呼は二度目の使いを魏に送り援助を要請したのである(その結果、魏から「黄幢(オウドウ)」(将軍旗)がもたらされ、一時は狗奴国も手を引いたが、卑弥呼は死亡している)。

 この女王国の宿敵ともいうべき狗奴国は今日の玉名市を含まない熊本県域であり、当然有明海の制海権を握っていた。したがって女王国が招へいした魏の使い及び黄幢などを乗せた船は有明海域を通行するわけにはいかなかったのである。これが唐津から八女の女王国まで海路を取らず、陸路で通行した理由である。

 ・・・・・・・話がずいぶん飛んでしまったが、今回の講演で得た情報は大変にありがたかった。感謝したい。

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