西郷どん(せごどん)終焉の地

 鹿児島市内に用事があったついでに、これまで行ったことのなかった「西郷隆盛終焉の地」を訪れた。

 西郷の生まれた場所は何回も行っており、また西南戦争最末期の明治10年9月に宮崎から郷里の城山に戻った際にしばらく過ごした「西郷洞窟」もかなり昔だが訪れている。
 
 だが、洞窟を出た直後に官軍側から発射された鉄砲の弾が太ももに当たり、動けなくなった西郷が行動を共にしていた別府晋介に介錯を頼んでこの世を離れた場所にはまだ行ったことがなかった。

 その場所は西郷洞窟から直線距離にして300メートルくらいな所で、城山行きのバスで「西郷洞窟前」で降りたらそのままバス道を戻り、最初の信号を突っ切って左手に高層マンション「anabuki](穴吹工務店の所有か)を2棟見送って数十メートル下った左側にある。

 すぐ下を日豊本線が走っており、線路を渡る踏切のたもとといった位置具合である。

 幅の広い石段が10段ほど、階段を上がったところに「西郷隆盛終焉の地」(昭和49年建立)の木柱が立つ。
約5メートル奥に御影石の碑が立ち、木柱とは違い「南洲翁終焉地」と親しみの込められた文字が刻まれている。

 西郷どんの終焉の日は明治10年(1877年)9月24日。死亡時刻は午前7時ころ。亮年、満49歳。(注)文政10(1827)年の12月7日生まれなので、単純に引き算して50歳としている本もあるが、文政10年12月7日は太陽暦で1828年1月23日なので、満年齢では49歳と8か月となる。

 同じ頃、官軍に突撃していった桐野利秋や村田新八も戦死。

 西郷どんの首級は下僕が隠したので見つからなかったという説もあったが、実際には見つかっている。

 波瀾に満ち満ちた西郷どんの生涯はこの洞窟近くの岩崎谷で終わるが、生まれも同じ鹿児島城下の加治屋町であるから、「人間、至るところ青山(せいざん=終焉地・墓所)あり」といえども死を郷里で迎えたのは幸いというべきか。

 翌年の5月14日朝、政府へ出仕の途中、維新時代の盟友大久保利通は紀尾井坂で斬られて絶命したが、大久保の墓は青山墓地にある。大久保はまさにこの格言を地で行ったわけである。

 大久保利通も維新から新政府で十分に活躍したのだが、西郷どんが鹿児島で今なお他を寄せ付けず圧倒的な存在感を得ているのは、天下無双の全国を股にかけて活躍した英雄なのに生地と終焉地が同じ場所であるという親近感が相乗しているに違いあるまい。

 

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宇佐神宮

 岡山の息子の家に家内と3日間滞在した帰り、4日目の朝、早目の7時過ぎには家を出て山陽道を下り、九州に入って北九州JCT から東九州自動車道に入って約1時間、宇佐インターチェンジで自動車道を下り、宇佐市郊外にある宇佐神宮に到着したのが12時半であった。

 すぐに近くのとり天(唐揚げではなく衣はてんぷら仕様)の定食屋で昼食をとり、神宮専用の駐車場に車を置いて境内を歩き始めた。

 広壮な境内の中の参道は折からの焼けるような日差しだったが、参拝客は三々五々途切れることはなかった。

 駐車場からは10分ほどのだらだら上りで本殿のある一角に至った。朱塗りの勅使門がまず目を射た。その前に平成になってから皇室の勅使参向の立て札が披瀝されており、奈良時代からという宇佐神宮と皇室の深い関係を明示していた。

 皇室との関係で最も初期のドラマチックな出来事は奈良時代にあり、一つは聖武天皇の東大寺大仏建立に、ご神意により足りなかった金箔用の金の産出を言い当てたことと、もう一つが称徳天皇に取り入っていた弓削道鏡の皇位簒奪に対して天皇側近であった備前出身の和気清麻呂がやはり神意を伺いに下向したことである。

 後者は戦前は小学校などで徳目として必ず教えられたというが、道鏡が称徳天皇からの寵愛をいいことに天皇位を求めたが、和気清麻呂が宇佐神宮の神に祈ったところ「皇位はとうの昔から天孫に決められており、血筋ではない無道の者が就くことはありえない。そのような者は掃除(そうじょ)せよ」というもので、復命した清麿は道鏡の怒りを買って大隅国に流された。

 しかし目の覚めた称徳天皇により、道鏡は下野国(栃木県)の薬師寺に流され、清麿は許されて京に帰り、その後は順調に出世して最後は「造平安京長官」(平安京を造成する中心人物)にまでなっている。

 宇佐神宮は全国に4万社はあるという八幡社の総本山で、中古以降は宇佐神宮の分社である石清水八幡宮(男山八幡)のほうが都に近いためむしろここからの分祠のほうが多いようであるが、とにかく欽明天皇の時代(西暦550年のころ)に大神の比義という神官が「広幡八幡童子」の示現を体験し、その童子を祭ったのがこの八幡様総本山のいわれである。

 いま宇佐神宮の本殿は「一之御殿」「二之御殿」「三之御殿」と三社があり、大神の比義の祭ったのが「一之御殿」の「八幡童子」で、これは応神天皇のこととされている。また「三之御殿」は応神天皇を産んだ母神の神功皇后である。

 そこで不可解なのが「二之御殿」の祭神・比売之神で、普通なら応神天皇の皇后であろうかと考えられるのだが、この神は実は他の二殿の祭神より古いのだそうである。

 この神は神代に宇佐神宮の南東6キロにそびえる「大元山(御許山)」に降臨された神で、社伝では天照大神と須佐之男尊との間の「うけひ」によってそれぞれ身に着けていた物実(ものざね)から生まれた神の一つ(一グループというべきか)であるいわゆる「宗像三女神」であるという。

 しかし宗像三女神であるとするとその奉斎する氏族はれっきとした航海民「宗像氏」であり、大神の比義やのちに宮司家となる宇佐氏とは筋が違う。このあたりを宇佐神宮で入手した≪宇佐神宮由緒記≫ではぼかしており、結論としては八幡童子が祭られる前から宇佐地方で祀られていた土地神ではないか、ということにしてある。

 結局のところ「二之御殿」に鎮座する「比売之神」の素性についての判断は保留されているのである。

 そこで私見が登場する。

 私見ではこの「比売之神」とは卑弥呼の後継者であった「台与」(トヨ)である。台与の時代に邪馬台国(八女市域)は南の狗奴国によって併呑され、トヨは矢部川に沿って逃れて豊後に入り、さらに豊前の宇佐に至り、そこに辛くも邪馬台国の王統を継いだと考える。

 大元山に天下った女神(比売之神)とはこのトヨのことで、そのために今の大分県の古名は「トヨの国」すなわち「豊国」(古事記の国生み神話)となった。

 崇神天皇の時代には「トヨスキイリヒメ」として登場するが、この比売は天照大神を祀ることができたのだが、それも当然のことで、卑弥呼の後継者だった所以であろう。

 詳細は省くが、卑弥呼の後継者であった「台与」(トヨ)が豊前まで落ち延び得たのは、その250年後に八女を本拠地としていた当時九州最大の前方後円墳「岩戸山古墳」をt築いた勢力「筑紫の君・磐井」が継体朝から派遣された物部アラカビの軍勢によって侵攻されたときに、「磐井は山中深く逃げて、豊前の上膳県(カミツメノアガタ=大分県中津市)に行ったが、そのまま行方知れずとなった」(筑後国風土記逸文より要旨)とあることからも想像できる。

 卑弥呼の後継者「台与」(トヨ)が狗奴国に侵攻されて西暦280年頃に落ち延びたのが「大元山への降臨」で、宇佐に祀られたトヨが「比売之神」で、祭られたがゆえに「豊国」という名が生まれたーーという考え方には非常に整合性があると思うがどうだろうか。
 

 

 

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安芸の多祁理宮

 岡山の息子一家のところに行ったついでに、安芸の多祁理宮のあったという府中町を訪れた。「安芸の多祁理宮(あきのたけりのみや)」といっても知らない人の方が圧倒的だろう。
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 広島県安芸郡府中町本町に鎮座するこの「多家(たけ)神社」を中心とするあたり一帯が「多祁理宮」のあった場所で、南九州からの神武東征軍(船団)がここに滞在したというのが記紀の伝承である。

 ただし、古事記では「多祁理宮」だが、日本書紀では「埃宮(えのみや)」という名称であったとしている。この神社では社名を古事記の「多祁理」の「たけ」から「多家」と名付けたものの、社名の脇にはカッコして「埃宮」を追記してある。要するに古事記と日本書紀どちらの記載からでも分かるように、「神武東征の途次に滞在したのは安芸国ではここ多家神社である」と両論併記してあるのだ。

 実はこの「たけ」も「え」も南九州には共通の地名が見られる。
 「たけ」は古事記で南九州熊曽国を「建日別(たけひわけ)」と言っているように南九州そのものを指し示し、また薩摩川内市にある皇祖ニニギノミコトを祭る山陵を「可愛山陵」と書いて「えのさんりょう」と読ませているように、「え」が使われているのである。Cimg2173
 立派な鳥居をくぐって80段ほどもある石段を上がると広い境内で、その先に社殿が見える。社殿の近くには両脇に花崗岩の標柱が立ち、漢文から取られた句が彫られている。(この字を書したのは江戸時代の広島藩主(42万石)であった侯爵浅野氏。)
 御祭神は神武天皇で、相殿に安芸国の祖「安芸津彦」が祭られている相当に由緒のある古い神社である。Cimg2161
 多家神社とは小さな流れを挟んで反対側にあるのが、「府中町歴史民俗資料館」だ。

 ここの館長さんに話を伺うと、神武天皇の腰掛石などの史跡もあるが、神武東征となるとほぼ懐疑的であった。館長さんは自分と同世代か少し上と見えたが、さもありなんで、我々世代からは戦前の「記紀神話はすべて真実」という太平洋戦争遂行上の「皇国民教育」は完全否定されて教えられたので無理からぬことである。

 しかしだからといって「記紀」は怪しげな書であるからと無視するのでは元も子もない。私はよく「汚れた水だけを捨てればよいのに、赤ん坊まで捨ててしまった」という比喩を使うのだが、「戦争遂行上の皇国民教育による記紀解釈」という「汚れた水」だけを捨てればいいのであって、記紀まで捨ててはいけないのである。

 館長さんは、この付近には「安芸国府跡」があり、「総社跡」も存在するから非常に重要な場所であったことは史実であると太鼓判を押された。
 
 自分としては古代から府中町でも要枢の地であればこそ、神武船団もここに船舵を休ませたのであり、もしかしたら水先案内人の世話でここにしばらくの行宮を建てて住んだのかもしれない。その名残が「多家神社」となったのではないかと考えることができるだろう。

 神武東征船団は古事記ではここに7年滞在したとし、日本書紀ではわずか3か月ほどしかいなかったように記載するが、どちらを取るにしてもそれだけ長期の滞在期間を支える現地豪族の受け入れ態勢が大きくものを言ったのである。(同じ東征上の滞在期間で古事記と日本書紀で大きく食い違うのは何故か? これについては二度の「東征」―神武と崇神―があったのだろうと拙著『邪馬台国真論』(2003年)で論じた。)

 「たけ」と「え」という南九州由来と思われる名称の他に、もう一つ「神武東征」の史実性を窺わせるのが、「鹿籠」という地名である。
 
 この地名を館長さんに言うと即座に「それはコゴモリと読むんですよ。ええ、ここから南にある地名ですよ」と、私が「かご」と読んでいたのを訂正して教えてくれた。

 薩摩半島の有名なカツオ節産地である枕崎市に全く同じ字を書いた地名がありましてね――と返すと、ほほう、と驚きを隠さなかった。
 
 コゴモリはもっと海に近い所で、何でもそこでは鹿を飼っていて宮島からの平家の密書を鹿の角に付けて遣り取りをしていた、という伝承があるそうだ。
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 そこで多家神社のすぐわきの道を南に向かった。Cimg2185
 「空城山」(あきしろやま)の麓を通ってちょうど2キロほどにもう一つ小高い丘があり、そこに「鹿籠神社」が鎮座していた。Cimg2188
 参道を3~40メートルも進んでいくと正面に社殿が見えた。と、その手前が池になっているのに気づく。池を覗き込んでいた保育園児と思しき女児を連れ赤ちゃんを抱っこしていた母親に尋ねると、池の中に錦鯉がいるのでパン屑をあげていたところだそうだ。

 池の向こうに社殿があるといえば、神様は海の関係だな――そう思いながら境内の掃除をしていた神主さんに問うと「宗像さんの女神で、イチキシマヒメですよ」とのたもうた。

 海の神様には違いないが、宗像大社の御祭神であるのなら北部九州の胸形族との関連なのか。
 神主さんもさっきの史料館館長のように宮島との連絡に使った鹿の伝承を話してくれたが、話しながら腑に落ちないようでもあった。

 この神社は昭和29年に再建されるまで、しばらく多家神社の摂社・貴船神社に合祀されていたが、地区民の霊夢により多家神社から引き離されたという経緯を持つ。

 神社の裏手は小高い丘で、その湧水で池が満たされていたのだが、高いマンションが建設されてから水が乏しくなって汚れが目立つようになった――と神主さんは諦め顔であった。
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 これは多家神社から鹿籠(こごもり)神社までの都市地図で、多家神社を含む一帯が古代からの要衝の地で、そこから南へ約2キロの鹿籠神社界隈はほぼ古代の海岸線である。

 ここに宮島との間を密書を角に付けて往復する鹿が飼われていたというのは漢字の「鹿」からくる連想で、応神天皇の13年条に注記として「南九州から鹿の皮をかぶった船団」があって彼らが船を着けたので「加古(鹿子)川」(兵庫県加古川市)という地名になった――とあるように、鹿とは実は「鹿子(かこ)」すなわち「舟子」のことではないだろうか。

 つまり府中町の地名「鹿籠(こごもり)」とは本来、薩摩半島の枕崎市にあるように「かご(鹿籠)」(かこ)なのであり、舟子(航海交易業者)の多く住んでいた場所のことを指すとした方が合理性があろう。

 この鹿児島(このカゴも鹿子すなわち舟子だろう)に由緒のある地名を持っているからには、やはりそこにいた航海交易民も鹿児島由来としてよく、航海交易を業とするからには海の女神「イチキシマヒメ」を祭っていて何らおかしくはない。

 以上、「たけ」「え」「かご」というように南九州由来と思われる地名・名称が府中町の狭い地域にあることを示した。
 神武東征と言い切ってよいか判断は分かれるが、少なくとも南九州からの相当な数の人々の移住の跡が古代安芸国の中心地であった府中町に見られることは確かである。

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南九州最古の水田跡

 縄文時代にさかのぼる水田の跡が見つかったという都城市横市町にある「坂本A遺跡」を訪ねてみた。Cimg1763_2
 かっての北郷氏(都城島津氏)の居城「都之城」址に築かれた都城歴史資料館(上の写真)に立ち寄って坂本A遺跡について教えてもらい、その場所を確認した。坂元A遺跡からは縄文晩期(弥生早期)の水田跡と初期稲作の証拠品である「擦り切り孔のある石包丁」が出土したそうだ。Cimg1767
 説明を受けたあと歴史資料館駐車場から北に200メートルほど行ったところの「岳下橋西」信号を左折、そこからは県道31号線を道成りに5キロ行くと右手に「児湯食鳥」の工場があり、そこの信号を左折してもう一度左折した先に「坂本A遺跡はある。Cimg1768
 平成8年度からの圃場整備事業の際にこのあたりの横市川流域で20余りの遺跡が確認され、特にこの田んぼの下からは縄文水田が2500年余りの長い眠りから覚めた(真正面に見える小高い丘は「母智丘(もちがおか)」)。Cimg1774
 縄文水田の近くを流れるのは横市川で、この川の流域の沖積層に田んぼが広がっている。Cimg1772
 母智丘橋から眺めた「坂元A遺跡」のある田んぼ地帯。真ん中の母智丘橋のすぐ上辺り。右手には野球用の夜間照明灯の建つ市民広場がある。
 歴史資料館で受けた説明では、この田んぼの用水は横市川からの導水ではなく周囲にある小高いシラス台地から湧き出る水だったろうということであった。そのシラス台地からは時おりがけ崩れによって田んぼにシラスが流れ込んだらしいことも発掘の結果わかっている。
 いまのところ南九州で最も古い水田だが、もうそのころから大雨等による災害との闘いだったことを明らかにしたことになる。南九州特有のシラスはやはり大昔から手ごわい相手であったのだ。Cimg1798
 橋から北へ2キロほど行くと桜並木で有名な母智丘公園で、その一角には「母智丘神社(祭神・トヨウケヒメ)」がある。江戸時代末期に都城の地頭であった薩摩藩士・三島通傭が神社の衰微を放っておけずに整備・寄進(桜並木もその一環という)して今日の隆盛に導いたという(三島は明治維新後に福島県令を務めたことがあったが、その時に有名な「安積疎水」を完工させたことでも有名である)。
 幅の広い階段を200段も上がっていくと神社。裏手一帯は巨石群で巨岩を稲荷神社として祭ったりしているが、その奥に展望所がある。Cimg1788
 母智丘展望所から見下ろした「坂元A遺跡」の辺り。真ん中に母智丘橋。横市川が右から左へ流れている。Cimg1787
 展望所にある説明版。都城盆地はかっては湖だったという。さもありなん、国道10号線を宮崎方面に向かっていくと高城町あたりから大淀川は次第に隘路に入り、轟ダムでは峡谷(ボトルネック)となっているのである。

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日南線で串間へ

 志布志市内に用事があったついでに日南線に乗ってみたくなって串間まで行った。

 串間へは以前に「串間今町の農夫・佐吉が自分の畑である王之山(おうのやま)で、周王朝代の諸侯への賜与品である玉壁を発見した」という伝承に興味があって、「王之山」とはどこだろうか――と訪ねたのを含めて3度ほど行ったことがあるが、今回は平成20年に国の重要文化財に指定された「旧吉松家住宅」を訪れた。Cimg0321 出発駅志布志。ここは昭和62年までは志布志線の起点であり、大隅線の終点であった。

 両線が廃止になり、残ったのは日南線。つまり志布志駅は3つの路線が交わる鉄道の要衝だった。駅前のだだっ広い広場は鉄路が縮小した分、駅舎が東に移動した(というか、押し込められた)名残りである。Cimg0320 駅舎に向かって左手の隅のほうに「大水害復旧記念碑」なるものがひっそりと建っている。

 昭和13年10月13日から三日間台風がらみの豪雨で志布志線も大隅線(ただし当時は志布志から古江までしか開通していなかったので、正確には古江線)も線路土手をはじめ鉄橋も流され、まだ国鉄化して間もない両線に大打撃を与えた。

 しかし九州管内からの保線要員などの応援を受けて、突貫工事で10日後くらいにはおおむね復旧のめどが立った。その後も補修に追われたが、この石碑が建てられた12月までにはほぼ完全復旧を果たしたらしい。(こういう応援協力体制があったのは国鉄化していたお陰だろう。民営ではこんな早い全面復旧は不可能だったはず。おそらく倒産した?)Cimg0324 出発時刻前にトイレに入っておこうとトイレ前まで行くと「あれ?」。一瞬風呂場と勘違いする暖簾がかかり、しかも「男子」「女子」ではなく「男志」「女志」と書かれている。ここまで志布志は「志」にこだわっている。何しろ志布志市の旧志布志町宛のハガキなり封書なりを出すとき、「志布志市志布志町志布志○丁目」と書く場合が多く、宛先の住所には何と「志」が6回も出てくるのだ。

 こうなったら志布志では「し」に当てる漢字はすべて「志」にして、新しく「志布志語」を作ったら面白い。「志ばらく」とか「志りません」とか・・・。Cimg0325 南宮崎行きのディーゼルカーがぽつんと一両待っていた。車体は「キハ40-8099」だったか・・・。Cimg0328 運転手一人のワンマンカ―なので乗り込むときに整理券を取るのは市電でもバスでも同じだ。Cimg0331 整理券は切符ではないが、久しぶりのJRチケット。Cimg0342 車窓風景。大隅夏井駅を過ぎて見えてきた志布志湾。右手の奥の島状の半島は「ダグリ岬」で、ど真ん中に海を見下ろす全長50メートルくらいの前方後円墳があったのだが、取り崩されて国民宿舎が建てられた。泉下の豪族は地元の航海交易族(5世紀代)であったと思われるが詳細は不明だ。海の中にぽつんと浮かぶのは枇榔島。ここの枇榔は平安京に送られた。Cimg0351 大隅夏井―福島高松―福島今町と来て、いよいよ串間に到着。15キロほどの旅。電車賃は290円。柱の「運転中は話しかけないで下さい。」がユーモラスだ。最後に句点が付くと意思表示としては強い。

 機械に投げ込むべく290円を財布から出そうとしたら、駅員にやってください――と。駅員が居たんだった。確かにホームで待っていた。Cimg0354 串間駅。外観は造りといい色といい若干チャラい感じがしたが、隣りに「道の駅」的な店舗が続いていて、なるほどそっちの方がメインな仕組みらしい。(帰りに寄ってみたが内部は食事ができないこと以外は道の駅そのものだった。)Cimg0357 串間駅に着く直前にある踏切から駅方面を写そうとして行くと、何と市電(しかも広島電鉄の宇品行と表示)がでんと置かれていた。撮影後に寄ってみたら、そこは観光総合案内所であった。実家は志布志だという中年女性の係員から数種類のパンフレットをもらい、吉松家住宅への行き方を教えてもらう。Cimg0361 その吉松家は何と駅からわずか2分、郡元という信号を右折してすぐの旧志布志街道筋にあった。Cimg0362 石段のある表玄関の先に車が入れるようにコンクリート舗装をした通用口があるが、そっちからの方が観光的な入口に近い。真っ白い土蔵の反対側が見学者用の入口になっていて、引き戸の傍らには旧吉松家入口という墨書の案内板が掛かっている。

 案内のパンフレットによると、この住宅は明治から昭和にかけて串間の政治・経済に大きく貢献した吉松氏によって大正時代に建築されたそうで、再来年に建築後100周年を迎えるという。

 吉松氏は串間を飛び地として領有していた日向高鍋藩(藩主・秋月氏)の重臣で、明治維新後は代々串間村長を担ってきた家柄だということである。Cimg0372 屋敷の造りは「崩れコの字型」とでも言うのか、基本はコの字型なのだがコの字の先に付属して離れが付いていたり、大広間が突出していたりする。一階だけで部屋数は大小15部屋。二階に二間あるから全部で17間と台所や風呂・便所など延べ床面積は197坪(約600平米)。

 この母屋が建てられたのは大正8年(1918年)だが、ほぼ当時のままの造りは頑丈そのもので、張り巡らされた廊下の板一つとっても分厚く、今なお歩いてもミシリとも しないでいる。Cimg0368 手前が10畳、奥が15畳、ぶち抜きで25畳という大広間。百人くらいまでなら集会は可能だろう。ここもぐるりを廊下がめぐっていて、とにかく明るい。床の間には「鶴と松」の巨大な扇(直径2メートル)が飾られている。Cimg0371 洋間が一つだけあってガランとしていたが、ここは書斎だったという。床と天井はまさに洋室そのものだが、出窓風の大きな窓さえなければ、外目から洋室であるとは誰も気づかないに違いない。Cimg0388 コの字の一方の角にある「台所」はずいぶん広く、種々の道具類はまるで民俗資料館のようだが、驚いたのが屋敷内なのに井戸が掘られていたことだ。これは便利だったろう。かまども四つあり、使用人を含めて相当な人数が暮らしていたことを偲ばせる。Cimg0376 台所のある方のコの字先端(西)に和室が二間続きになっていて、そこには各種資料が置かれている。右手には仏壇と神棚があるからもとは仏間だったのだろう。手前のガラスケースには例の串間王之山出土の玉壁があったが、これはレプリカであった。

 帰りに事務室にいた若い職員に、王之山について最近何か分かったことがあるかどうか尋ねたが、無いらしい。今町の農夫・佐吉がどこを「王之山」と言ったのか、いまだに謎のままだ。Cimg0399 帰りは14時27分の志布志行だが、その前に油津・日南(飫肥)方面の上り列車が到着し、ホームにいた10人余りの人たち、中に5,6人は高校生だったが、その列車に乗り込んでいった。Cimg0403 帰りの列車は「快速」だった。どの駅を通過するのかと思っていたら、大隅夏井駅にだけ停まらなかった。ほんの1,2分早く志布志駅に着いたかな・・・。

 線路の継ぎ目のガタンゴトン、ディーゼルエンジンの変速音、ブレーキの軋み――これらは居眠りを誘うに十分なのだが、たったの20分ではね・・・。






















 




























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西都原古墳群研修会

 大隅史談会の3月月例会は宮崎県西都市にある「西都原古墳群」で行った。Cimg8488 朝の7時に鹿屋市北田にある城山下公園駐車場を4台の車で出発し、笠野原インターから弥五郎インターに抜けて国道269号で都城市内を走り、都城インターから東九州自動車道の二つ目の西都インターで降り、途中、講師の柳澤一男宮崎大学名誉教授も加わり、西都原古墳を案内していただいた。

 写真は最初に古墳群の概要を説明する柳澤先生(右端)と参加者(16名)。Cimg8490 天気を心配したがまずまずの日和となり、各古墳を見て回るjことができた。これは46号墳(墳長83.6m)である。

 先生の説明によると、西都原古墳群のある台地は南北4キロ余り、東西が2.5キロほどの広さで、ここに史跡としての古墳の数は約330基。そのうち著名な男狭穂・女狭穂を含む前方後円墳が30基もあるという。

 前方後円墳は首長墓であり、それら大小の首長墓は実は複数の系列に分かれて同時並行的に築かれているという。西都原古墳群では谷筋が区画(支群)を仕切る役割をはたしていて、そのような「支群」は5つに分かれ、それぞれが同族的な首長墓を築いていたようである。

 今登っている46号墳は西都原台地の最南部に位置し、第一支群のA(先生はA群でよいと言う)における最大の前方後円墳でA群の最後を飾る首長墓である。概ね4世紀の末頃の築造で、その後前方後円墳は築かれなくなるそうだ。Cimg8497 後円頂上で記念撮影。

 前方後円墳の場合、後円の頂上部は平らになっているのが普通。その上で死者への葬礼が行われるためだという。そこが単なる円墳と違うところかもしれない。(「後円」という字から受けるイメージは頭のてっぺんまで丸いのだが、墳墓に限ってはそのイメージは誤りである。)Cimg8502 同じ第一支群にある13号墳は46号墳の直前に造られたそうで、周溝のはるか手前に葺石で覆われた築造当時の姿を再現した模型が設けられてあった。

 この13号墳は玄室の中に入って見学できるようになっていて、今日の研修の目玉といってよい前方後円墳だ(墳長は約80m)。Cimg8503 後円部のやや上部に開けられた狭い入口から入っていく。Cimg8505 素掘りの玄室の中はかなり広く、真ん中に細長い船のような形の屍床が丸みを帯びた漬物石くらいの大きなの礫で造られていた。

 この中におそらく一本の大木を刳り抜いた「舟形木棺」が置かれていたという。その長さは6メートルを超えるというから相当なものだ。Cimg8507 「舟形木棺」はすっかり腐っており、その中に置かれていた遺体は無論だが、骨も酸性土壌によって溶けてなくなっている。ただお棺の中や遺体に塗られていた赤いベンガラ(酸化第一鉄)だけは消失せずに残され、玉砂利の敷石を赤く染めている。

 また副葬品はネックレスのような玉製品と三角縁神獣鏡が1枚、そして短い鉄剣があった。

――被葬者は女性でしょうね?

と質問すると、

「いや、一概にそうとは言えないが、可能性は高いでしょう」

とのことであった。

 このあと「第2支群」などを見る予定だったが、この第一支群だけで2時間を費やしたので,このあとは「酒元ノ上横穴墓群遺構保存覆屋」を足早に見学した。Cimg8515 酒元ノ上横穴墓の羨道と玄室。いま先生がしゃがんでいる辺りに窪みがあるが、これは地上から竪穴を掘った名残りという。つまりこの横穴墓群は南九州独特の「地下式横穴墓」と普通の「横穴墓」との折衷で、古墳時代も末期の様相を見せているそうだ。


 考古博物館内の食堂で昼食をとった後は博物館内を見て回った。Cimg8523 宮崎県内でも縄文時代早期の「壺」(右)が発掘されている。

 鹿児島県の上野原遺跡で7400年前の鬼界カルデラ由来の火山灰「アカホヤ層」の下から二個の「壺型土器」が発掘されたことで「縄文早期の壺」が作られたことが判明し、それに伴って宮崎県で過去に発掘されていた写真の壺が弥生時代のものではなく、縄文の、それもとんでもなく古い早期(11000年前~7500年前)のものであると訂正された、いわく付きのものである。Cimg8527 これは教科書でもおなじみの舟型埴輪で、西都原170号墳(前方後円墳)から採取された。170号墳は「男狭穂塚」と同じ台地上に築かれており、その陪冢とされている。子持ち家形埴輪とともに重要文化財だ(ただし考古博物館のものはレプリカで実物は東京上野の国立博物館にある)。

 博物館のボランティア案内氏によると、船底は一本の大木のくり抜きでその上に側舷やら波切やらを付加して完成された「準構造船」だそうである。側舷には片側に六つの櫂を固定するための突起があり、12人で漕いでいたことが分かる。人間の歩く速度よりは早く、ジョギングの速度よりは遅く、おそらく時速8キロ程度は出たであろうから、一日に8時間漕いで64キロは最低でも稼げたはずだ。日が長ければ、10時間漕ぐのも無理ではないので80キロ。これは対馬から朝鮮半島南部までの距離である。

 そう考えると、朝鮮海峡は天気さえ安定していれば三日で渡り切れる。鴨族や宗像族や安曇族はそうやって朝鮮海峡を往来していた、おそらく「定期便」のような形で・・・。

 南九州と南方海域や中国大陸南部とのつながりこそ密接だったという人は、この朝鮮半島との「定期航路」の濃密さを評価しないきらいがある。中国南部から日本列島(沖縄・奄美を含む)への航路はかなりの危険を伴う賭けの要素の強い潮路だった。8世紀から9世紀ですら遣唐使船の遭難・座礁が相当な確率で発生しているのである。


 1時半過ぎに次の目的地「生目古墳群」に向かった。

 生目古墳群は宮崎市跡江丘陵にある古墳群で、柳澤先生によると「4世紀代(古墳時代前期)の100mを超える前方後円墳が3基もある日本でも最古級の大首長墓築造地」だそうで、丘陵上に他に5つの前方後円墳を含めて約50基の高塚が確認されている。Cimg8534 写真は「葺石」を完全再現した生目5号墳(墳長57mの前方後円墳)。発掘された遺物(壺型埴輪=土師器)から4世紀末頃の築造と比定されているが、時代が下がるほど葺石は省略されていくという。

 ここには傍らに「地下式横穴墓」が作られているが、写真前方部のさらに向こうに横たわる7号墳(墳長46mの前方後円墳)は生目台地で最後の前方後円墳だが、それには地下式横穴墓が10基も周囲に作られているという意味で特異な古墳である。中でも後円部の周溝内に掘られた18号地下式横穴墓はレーダー探査の結果玄室の向きが後円部中心に向かっており、しかもその長さが5メートルもあるという。この7号墳を築いた主が埋葬されているかもしれず、そうなると日本で唯一の事例となるそうだ(生目古墳群の地下式横穴墓の総数は56基)。Cimg8532 5号墳からは宮崎平野が遠望される(大きな常緑樹の左手)が、縄文の海進のころ(早期~前期始め)は海であった。また弥生期から古墳期でも海は相当入り込んでおり、入り江と干潟が広がっていた。


 さて、この古墳群とほぼ同じ時代に築かれた西都原古墳群の最古級の首長墓系列の古墳群よりひと回り大きな古墳が続々と築かれたその背景には何があったのか――。

 柳澤先生によると古墳の大きさだけからみれば、4世紀代は生目古墳群の首長のほうが西都原古墳群を残した首長よりも格が上だった可能性が大きいそうである。

 しかし、生目古墳群での首長級の「王墓」も4世紀代のうちに終焉を迎えるころ、西都原古墳群で「男狭穂」(墳長176m。日本最大の帆立貝型古墳)・「女狭穂」(墳長176m。前方後円墳)という九州で最大の古墳が5世紀初頭に築造されるが、実は西都原古墳群でも首長級の前方後円墳はその後、ほぼ築造されなくなる。

 最後に宮崎市埋蔵文化センター「遊古館」の職員が話してくれたのが、標高の低い丘陵の北側緩斜面には弥生中期の「環濠集落」があったということ。この環濠集落は後期ではないので、次の段階である古墳時代の人々とは考古学上の断絶があるようだが、やはり繋がってはいるのではないかと考えられると・・・。

 そうか、ここでも「弥生後期」の遺構なり遺物なりが出ていないのか――。東回り九州自動車道建設に先立って行われた鹿屋市や大崎町での発掘調査でも弥生中期はたくさん出ているのに「弥生後期」はゼロであった。

 宮崎も鹿児島と同じ「古日向」に属するが、同様な現象はここでも観察されている。古日向の「弥生中期人」はいったいどうしたのだろうか?

 自説の「1世紀前半(弥生後期)に古日向(投馬国)から列島中央への移住(東征)があった」という見解が再確認されたように思う。








 

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倉敷(阿知潟と吉備高島宮)

  1月3日、息子のところに三人目が生まれたので御祝いと孫守りかたがた倉敷まで行って来た。  Cimg7781倉敷は江戸時代に天領として代官所が置かれ、それなりににぎわいを見せていたが、明治維新で肝心の代官が廃され衰微するかに見えていた。しかし明治20年頃にその代官所跡地に「倉敷紡績所」が開業して以来、倉敷紡績の発展とともに町も繁栄しはじめ、今は江戸の名残りの蔵屋敷群と倉敷紡績の創業者・大原氏の残した美術・民芸などの展示で独特の街並みを形成し、多くの観光客を集めている。

 けれども自分としては、倉敷で一番興味のあるのは倉敷市南部の児島地方で、この児島に神武東征当時の「吉備の高島宮」があったという伝説があることだ。  

 児島は児島半島の付根の東側に展開する街で、港町の雰囲気を多分に持つ。ここにジーンズとはそぐわないことおびただしいが、知る人ぞ知るジーンズファッションの街でもある。(児島は和製ジーンズ発祥の地として有名だが、そもそもは倉敷紡績というリーディングカンパニーがあったればこその話である。)

 児島を見下ろす位置にあるのが半島の先端「鷲羽山(わしうやま)」で、標高こそ120mほどしかないが、登ってみれば360度の眺望が得られ、まさに海の風景の金字塔といっても過言ではないだろう。Cimg7802 鷲羽山からは「備讃瀬戸大橋」が眼下に望まれる。大自然の海に人工物の極致とも言うべき鉄骨製の巨大な橋が架けられてはこの原日本的な風景が台無しになると危惧されたが、こうして眺めているとさほどの違和感に襲われなかったのが不思議だ。

 12月に東京に行った時に大東京のビル街の人工建築物群をいやというほど見て来たせいだろうか、むしろ島と島とを結ぶことで大海の中に人間を拒絶するかのように浮かぶ孤立した島々がより人間に親しくなったように感じられ、うれしさの方が先立つ。そこには四国の人たちが長年想い続けてきた「本土との連絡橋を!」という夢が実現した喜びも反映しているのだろう。

――それはそれとして、この児島地区は昔は本当の島だったのである。そして先に触れたように「神武東征」の時の「吉備の高島宮」の所在地だったという伝承を持っている。

 今の日本史学では神武天皇以下9代目の開化天皇までは全くの「おとぎ話」として扱わず、10代目の崇神天皇の大伯母に当たる「ヤマトトトヒモモソヒメ」の墓が箸墓であり、実は箸墓こそはかの邪馬台国女王ヒミコの墓に違いない(というよりは是非そうしたい)という「畿内邪馬台国説」が抬頭してきているので、史学会的にも崇神天皇くらいからは歴史として認めてもいいのでは――というような潮流が生まれて来てはいるのだが、とにもかくにもそれ以前の天皇は「作り話」に過ぎず、したがって天皇家の鼻祖である神武天皇などそれこそ「鼻も引っ掛けない」から、その東征も「有り得ない」ことになっている。

 だが、私は『邪馬台国真論』を書いた時に投馬国を南九州(古日向)に比定したが、倭人伝ではその官(私見では王)が「ミミ(彌彌)」、副官(私見では女王)が「ミミナリ(彌彌那利)」とある。ところが記紀の神武・綏靖天皇時代にはこの「ミミ」が頻出する。「タギシミミ」「キスミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」と。そしてこの最後のカムヤイミミが古日向からやって来た庶兄(腹違いの兄)を殺して二代目の綏靖天皇になったというのである。

 この記述はまさに「古日向(投馬国)からの東征によって橿原王朝が始まった」ということを証明しているではないか。以来、私は「神武東征」(なる南九州からの大和への移住)は真実あったことだと考えるようになった。

(ただ、記紀の「神武東征説話」は余りにも神話的で大和地方における征伐も一方的な描写が多すぎる。俗に言う「話半分」として相当割り引いて読んでみないといけないのだが、大筋は認めていいと考えられる。「おとぎ話」と一蹴するのはむしろ歴史の醍醐味を貶めるだけである。

 戦前の「進歩的」日本古代史学会の寵児となった津田左右吉は「古日向に天孫が降りたのは日向という瑞名に引き当てたに造作に過ぎず、神武東征説話などあのような遅れた南九州が大和へ上って大和の豪族を打ち負かすことなど全くのおとぎ話」(要旨)――という記紀神話の把握の仕方が史学会では風靡し、そして今もおおむねその線で変わっていない。

 このような学会の姿勢を自分は「タライの中の汚くなった湯だけを捨てればよいのに赤ん坊まで流してしまった」と見る。赤ん坊とは「記紀」特に津田左右吉などが捨て去ったいわゆる神代(崇神天皇以前)の数々の説話のことである。)

 さて、鷲羽山にはビジターセンターという施設があり、中に入ると以外にも歴史的な展示が多かったのには驚かされた。鷲羽山の山頂部には古墳がいくつもあるというのだ。Cimg7813 花崗岩とその風化した砂礫でできているような鷲羽山だが、古墳時代には植生の腐食などでできた土もあり、墓を掘れないことはなかったようだ。頂上部に展示されているのは三基だけだが、他にもたくさんあるという。Cimg7818 瀬戸大橋を望むこんな石組も墓と言えば言える。ただし人骨や副葬品などの証拠物が無ければ古墳とは認定されない。ここからは下の下津井港を見下ろすことができ、下津井港を支配した交易航海民の親分が葬られてもおかしくはない。

 それよりも有難かったのが、館内にあった次のパンフレットだ。Cimg7831 A四一枚だけのパンフレットで作成したのは「みんなでつくる私たちの町児島・吉備の児島 『古事記』編纂1300年実行委員会」という会で、児島商工会議所が資金を出しているらしい。

 この地図が非常にありがたいのだが、その前に上の説明書きの部分で「『古事記』の国生み神話によれば、吉備の児島は日本で9番目の島として誕生した」とあり、地図の下の解説ではさらに『日本書紀』では国生みの最後に八番目の島として「吉備子洲」(きびこじま)を掲げ、吉備児島までを「大八洲」(おおやしま)としてあるとし、「その重要性、子の島として国土の繁栄に寄与する期待を込めているのではなかろうか。」と結んでいる。

 吉備の児島が当時は本当の島であり、瀬戸内海の海上交易中継地として他の島々より重要視されていたことが明確にわかる記述である。

 ところが、肝心の神武東征は省かれており、当然児島を有力候補とする神武東征の時の「高島宮」についての言及はない。

 この解説文を書いた人もそれなりの歴史通の人だろうから、やはり今時の通説(崇神天皇以前の歴史は造作に過ぎない論)に従ったのだろうが、地元の伝承もある以上はカッコ付きでもいいから触れて欲しかったと思う。

 高島の伝承地は下の地図で言うと、阿知潟海峡の右手(東)に流れ込む右から「吉井川」「旭川」のうち旭川の河口部あたりに「高島」という周囲1キロほどの小島がそれだというが、私見では児島全体を「吉備高島」と見る。ただし「高島宮」の「宮」の場所自体は特定できない。Cimg7832 立体地図の部分だけをやや拡大したのがこれで、真ん中に横たわる島こそが吉備児島で、島の左下(南西)先端に▲鷲羽山が見える。島のおおむね左半分が倉敷市児島で右半分は玉野市に属するが、倉敷市の中心部、上で述べた代官所のあった倉敷中心部は島の北側を東西に通じる海峡に水没していた。

 地図の上では島の北部の▲種松山のさらに北に「▲向山」という小さな島があるが、代官所はその向山の北麓にあった。また代官所のすぐ北には「鶴形山」という小丘があり、かってそこには妙見宮と、今も倉敷の鎮守として崇敬されている「阿智神社」が建立されている。この小丘もかっては海に浮かぶ島であったという。

 Cimg7788 JR倉敷駅と南口駅前。信号の地名表示に「阿知北」とある。
 今の倉敷駅の南側一帯の地名は「阿知」といい、小丘「鶴形山」にある阿智神社もそこから来た社名だが、児島の北側を東西に抜ける海峡を「阿知潟」と言った。満潮の時はそれなりの海峡だが、干潮時には浅瀬が続く海というよりは干潟に近かったのだろう。

 そこでこの地名「阿知」だが、倉敷市のホームページや阿智神社の説明板などによると、応神天皇の時代に半島から渡来した「阿知使臣(あちのおみ)」一族がここに住み着き、文化を伝え周辺を開拓したりした阿知使主に因んで名付けられたと説く。

 非常にもっともらしく思われる解釈だが、不思議なことにその阿知使主の高徳を偲んで阿知一族が建立したとされる阿智神社に肝心の阿知使主は祭られていないのである。Cimg7759 鶴形山(昭和の初めまでは妙見山と言われていた)のほぼ山頂部にある阿智神社(総門)。出かけた1月10日は倉敷の成人式だったらしく、着飾った女子が参拝に来ていた。

 この阿智神社の主祭神は宗像三女神(オキツシマヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメ)で、北部九州を勢力圏とした航海民・宗像族の奉祭する神々なのである。しかも相殿として副祭神20柱ほどを挙げているのだが、その中にも阿知使主の名は見えない。

 とすると当地での解釈「阿知という地名は阿知使主に基づく。また阿知使主一族が定住後に一族の氏神のような社を造って奉祭した」(阿智神社の由緒書きからの要旨)は正しくないことになる。

 阿知使主は『新撰姓氏録』によると、「後漢の霊帝の三世孫・阿智使主の後なり」(左京諸蕃上・木津忌寸)とあるように、後漢の皇室の一族のひとりであった。それほどの人物が肝心の阿智神社に祭神として姿が見えないのは不可解である。

 『延喜式・神名帳』によると式内社の「阿智神社」は一社だけあるが、そこは信濃国伊那郡で当地吉備国ではない。ただし備前国津高郡に二座あってそのうちの一社が「宗形神社」であるから、ここ倉敷の阿智神社は古来より「宗形(像)神社」と称していたのかも知れない。

 いずれにしても、どうやら阿知(阿智)が阿知使主に由来すると決めるのは早計のようだ。

 それでは「阿知」は何に由来する地名なのだろうか? 

 私見では「あち」「あじ」は鴨のことである。鴨とは中国大陸北部から朝鮮半島を経由して日本列島へ避寒のためにやって来る渡り鳥で、この習性が冬になると北西の季節風に合わせて日本列島に渡って来る(帰って来る)航海民の行動によく似ていることから「朝鮮半島まで船足を延ばして航海交易に従事する航海民」を鴨族と称するようになった――と考えている。

 こういった航海民「鴨族」は半島と九州全域および瀬戸内海航路を我が物顔に走り回っていた。その瀬戸内海での最重要拠点が吉備の児島を中心とする「阿知潟」ではなかったか。それ故に名付けられたのが倉敷周辺に広がる「阿知潟」であろう。

 また面白いことに児島の街には「味野(あじの)」という地名があり、これも鴨族に因んだ命名だろう。

 こうしてみると、阿智神社に宗像三女神を祀ったのは航海民である鴨(阿知)族で、彼らはこの阿知潟を拠点とし、また定着もしたのでおのずと我が祖神を祀った。その対象が宗像三女神であって何の不思議もない。Cimg7766 阿智神社から倉敷の伝統的蔵屋敷群のある観光の中心部を望む。かってはこの石段の下あたりまでが浅瀬になっていた。

 この浅瀬は倉敷の西側を流れる岡山県三大河川のひとつ「高梁川」のもたらす土砂により少しずつ自然に干拓が進んで行ったが、戦国時代末期(天正年間)に備前国主としてここまでを領有していた戦国大名・宇喜多秀家によって本格的な干拓事業が開始されたという。

 江戸時代に入った寛永19年(1642)に当地は天領となり、干拓はさらに加速されて今日見るような市街地にまで発展したのである。

 今はもう「吉備児島」の面影はないが、児島地区を島たらしめていた阿知潟海峡は児島湾干拓事業によりすっかり干拓・水田化されてしまった。その嚆矢はわずか400年と少し前だったということを前提に吉備の歴史を探っていく必要があるということだけは確実に言えるだろう。











 

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あれから50年(番外編)

 久し振りに行った序でに東京見物など――

 スカイツリーCimg7132 いやはや高いな。とんでもないのが建ってしまった、が第一印象。

 東京タワーだと今見上げている位置は鉄骨の下で、こんなふうに頂上は見えないだろう。本当にこれほど支柱のカバーする面積がコンパクトでいいのか、しかも三本柱だ。大した技術力である。Cimg7141 350mからの展望。3時過ぎだったがあいにくの曇り空で、東京タワーは見えたが、その右手の方に見えるはずの富士山は雲の中だった。

 静岡県掛川市から来たという小学生の一群が大はしゃぎだった。修学旅行だろうか、昔は東京タワーだったろうに・・・。Cimg7144 下りてから今度は「三囲神社」(みめぐりじんじゃ)に行く途中、一緒に行った中学校時代の友人を前景として見たスカイツリー。
 三囲(みめぐり)神社Cimg7146 墨田区向島の業平小学校の隣りにある三井(みつい)家ゆかりの神社。

 創建は行基の時代だというから奈良時代の中頃ということになるが、近江商人だった三井家が伊勢松坂に移り、さらに江戸開府後にこちらに移って来た時に呉服店(越後屋=三越)を開いたのが成功の始まりで、この神社の存在を知り「三井」の井が囲まれている「三囲神社」を三井家の守り神としたことで有名になった。祭神はウカノミタマで稲を代表とする穀霊である。

 三井家は近江商人だった頃、「三井(みい)寺」との関係があり、三井寺はまた京都の下鴨神社とのつながりが強いので、自分としてはとても興味のある存在だったので、是非とも来たかった。

 友人のF君は怪訝に思ったらしいが、娘の婿が三井住友生命に勤務しているらしく、それなら大いに参るべしと得心してもらった。Cimg7150 二の鳥居も花崗岩製の立派なものである。向うにライオン石像が見えるが、あれは三越にあったビアホール「ライオン」の飾りだったのを閉店を機にここへ奉納したものだ。Cimg7151 境内の一角には三井家の祖先を祭る「顕名(あきな)霊社」という小社も建立されている。Cimg7156 三囲神社から隅田川の対岸に渡ると、「待乳山聖天(まっちやましょうてん)」という観音様の霊場があるがその一角に何と鬼平犯科帳の作家・池波正太郎の生家跡の石碑があった。これは収穫だった。

 ここから南へ数百メートル歩いて着いたのが浅草寺だ。Cimg7157_1 5時近かったので、本堂も五重塔もすべてライトアップされていた。見応え十分だった。Cimg7161 仁王門と五重塔。

 ここから左手へは「仲見世通り」で、観光客、とりわけ外国人が目立った。

 六義園

 Cimg7177 翌々日の午後、高校A組クラス会参加の前に行った「六義園(りくぎえん)」。

 母校(小石川高校)から不忍通りを渡って5,6分のところにある名園である。幕府の側用人だった柳沢吉保の屋敷跡で、明治になってから富豪として知られる岩崎弥太郎が周囲の何軒かの大名屋敷を購入して拡大し大衆に開放したという。

 土曜日だったからか大変な人出で、お目当ては紅葉らしい。Cimg7182 庭の中心部を相当な面積で占める池があるため、ほとんど起伏を感じない庭園だが水分を好むモミジの名所になっているようだ。Cimg7187 観光客があちこちでシャッターを切っていた。Cimg7199 一周回ってきたら「江戸伝統芸能の何とか組」の3人の一座が「傘回し」の見世物を開陳していたのには驚いた(というよりはラッキーだった)。

 高校生の時に1回は来ているが、季節が違っていたのだろう、こんなに人出のあるところではなかったと記憶する。もう50年近い昔のことだ。



























 

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あれから50年(高校編)

 今度の東京行きでは二つの高校同窓会(同期会)に参加した。

 一つは12月4日に部活の同窓と、もう一つは翌5日のクラス会だ。

 高校に行くようになって電車通学になった。家が赤羽西だったので国電赤羽線の赤羽駅から池袋駅に行き、そこで山手線に乗り換えて巣鴨駅で降車し歩いて通った。

 まずは赤羽駅の変貌から―Cimg7031 赤羽駅西口(昭和30年代)

 赤羽駅へは我が家からほとんど歩いて通ったが、たまに遅刻しそうだと、西口まで国際興業のバスで行くことがあり、その時はここから(普段は南口から)電車に乗ったが、入り口横の売店と改札口を入ってすぐの跨線階段だけは覚えている。Cimg7030 別の角度から写した西口風景。駅舎正面の向こうに赤羽線・高崎線・京浜東北線の各ホームに行くための跨線階段(もちろん屋根付きだ)が高く見える。

 さらにその向こうに階段が見えるが、あれは人道跨線橋で、並行している踏切を渡らずに東口方面へ行ける橋である。小学校の低学年の頃まであの橋の上から電車や列車の往来をよく眺めに来たものだ。Cimg7032 当時走っていた国電赤羽線の車両。十条駅のホームから撮ったものらしい。こげ茶色の車体で戦前からの生き残りのような、外面にぽつぽつと鋲留の鋲の頭が露出している代物であった。せいぜい7両か8両くらいなものだったと思うが、そのうちにグリーンだったかイエローだったかの新しい車体にとって代わられた。

 Cimg7044 あれから50年の赤羽駅。12月とあってイルミネーションが飾られている。西口の駅前ロータリーにはひっきりなしに循環・池袋行き・王子行き・浮間行きなどのバスが発着。どれも車体がグリーンなので以前と同じ国際興業バスである。

 駅舎は二階建てで完全に駅ビル化しており、改札口などはすべて線路の向きに対して直交していた。この駅ビルの上にさらに埼京線と東北など各新幹線の線路が「二階建て」で上乗せされているが、下からはよく分からない。Cimg7041 そこで中学時代の親友F君の好意で、F君の今の実家から撮らせてもらったのが地上30㍍ほどからの赤羽駅の俯瞰図だ。

 実はF君の実家は西口から100mほど南へ「岩槻街道」を下った商店街の一角にあったのだが、駅前再開発のため移転廃業を余儀なくされ、駅前の総合ビル「ビビオ」の15,6階建ての住宅部分のうちの12階に住んでいるのである。お邪魔をして撮らせてもらった。

 夜写した場所からそのまま30㍍上がった所から見た赤羽駅の現況で、これではここはどこの駅だ?と問われたら、自分は無論だが地元の人間でも言い当てることは難しいかもしれない。

 ちょうど今三階に当たる部分の線路を上りの新幹線が通過しているが、その真下が埼京線、さらに向うの線路の露出して見えている部分に高崎線・宇都宮線・東北線・京浜東北線などのホームがある。すべて高架ホームになり、開かずの踏切と言われた西口と東口とを結ぶ踏切は無くなり、商店や飲食店の建ち並ぶ歩車道に変貌した。

 通学生だった50年前の赤羽は東口の方がビルも多く、道も広くて「近代的」だったが、今は逆転してしまった。Cimg7043 同じくF君の実家から「岩槻街道」を見下ろす。再開発で最初に建設されたのが左手のビル「アピレ」で、右手のイトーヨーカドーが建っているすぐ向こう並びにF君の「東屋ふとん店」があった。

 もともと赤羽駅は乗客用ではなく、軍事物資用の貨物駅だったというのも今度調べてみて分かったが、その東口には軍服用の製麻会社と染色会社があり、終戦後の跡地が東口駅前広場などに転用されたり、商業化されたそうである。

 また赤羽台団地や稲付中学校辺りまで陸軍の砲兵隊などの軍事基地(兵器処と呼んでいた)があり、物資や兵員輸送用の鉄道が引き込まれて、現在の赤羽駅の北数百メートルに設置された貨物駅につながっていたのだという。

 そうしてみると赤羽はいわゆる「軍都」だったのである。敗戦後は米軍に接収され、同じ引き込み線は米軍が撤収するまでは使われており、小学校のごく低学年の頃まではジープなどに乗るアメリカ兵を見た記憶がある。

 次は山手線巣鴨駅―Cimg7168 巣鴨はとげぬき地蔵の縁日で有名だが、今は「おばあちゃんの原宿」として活況を呈しているようだ。JR巣鴨駅の西口(池袋寄り)から本郷通りに出て、手前方面がそのお地蔵さん、高校へは向こうに歩いて10分ほどの駕篭町と云う所にあったが、地名が変わり「千石」何丁目かになった。

 駅の構えは高校の時とは大きく変わっているが、駅入り口などの位置自体は変わっていないので、赤羽よりは「今浦島」感は少ない。

 そしてもう一つ駅の近辺で忘れられないのが「福々まんじゅう」だ。これは部活(バドミントン部)の帰りに小腹がへってよく立ち寄って食べて帰った。駅の北側の商店街の一角にあったが、今度訪ねてみたらまだやっていた。Cimg7167 相変わらずの福々まんじゅう店舗。店名が「駿河屋」だったとは今度初めて気がついた。あの頃は腹を満たすことに精一杯だったんだなア(それが青春ってもんだ)。

 昼の日中だが結構買いに来ていたのは、おばあちゃんの原宿からの流れ客だろうか・・・。

 《高校》Cimg7172 東京都立小石川高校

 高いフェンスのある向こうが正面入り口で、4階建ての校舎が二棟見える。その向こうの高い建物は旧理化学研究所跡地に建てられた「文京グリーンコート」とかいう住宅団地とオフィ―ス・文化施設がコンパクトにまとめられた街区に変貌している。校庭が正門の右手に広がっているが、当時は左手の理研側にあった。Cimg7174 理研近くの通用門から駕篭町都電電停方面を眺める。

 駕篭町は北郷方面へ都電が通り、学校まで歩いて行くとたいてい二つ三つの都電に追い越されたが、あの走る時のゴーゴーガタンガタンという音がいまだに耳に残っている(乗ったことはほとんどないが)。

 小石川高校は現在「小石川中等学校」になり、中高一貫の学校になった。科学教育推進校に指定されて毎年行われる高校生の科学オリンピックなどに出場しているらしいが、将来ノーベル賞候補者が出るのだろうか楽しみである。Cimg7218 旧小石川高校の正門から見た校舎(卒業アルバムから)。

 校門を入るとロータリーがあり、その中心に棕櫚の木が数本植えられていたが、下校時の待ち合わせなどでよく目印に使われ、そこを「ハワイ」になぞらえて「ハワイで待ってる」などと言ったものである。

 部活の帰りにハワイで待ち合わせ(部活だから着替えも一緒で待ち合わせる必要もたいていは無かったが)、巣鴨駅横の福々まんじゅうを食べて帰った仲間が――Cimg7165 これである。秋葉原の駅前で飲んだ後のとある喫茶店でのスナップ。遠方からは(最も顔の赤い)自分だけであとは首都圏に住んでいる連中だ。クラスはみんな違い、当たり前だがそれぞれの道を歩んだ。

 彼らとは5年前にも「還暦記念」と称して会っているから、見た目でそう変化はなかったが、そろそろ孫の話が出始めて来たのが大違いかも知れない。

 

 12月5日は昭和43年卒A組クラス会。Cimg7210 恩師のT先生を含めて12名が千代田区平河町のホテルのレストランに集まった。

 恩師曰く、「僕も後期高齢者になりましたよ」。といっても我々より10歳上なだけだ。当時の先生は若かった。年が余り離れていないのでこうしてまた会えるというわけだ。

 47年ぶりに再会する同級生ばかりだったが、当時の面影が髣髴としてくるから不思議だ。もっとも、小石川高校では一年のクラスがそのまま持ち上がって卒業まで一緒という制度を採っていたから余計に記憶を手繰り寄せるのに時間はかからない。

 学生服やセーラー服を着せたらそのまま高校生として通用するのではないか――と思われるような「老い止まり」の若々しい姿もあった。

 話に花が咲く――と言うほどではなかったが、半世紀近い離別が一気に縮められたクラス会であった。Cimg6976_2 昭和40年4月から43年3月まで一緒だったAクラス49名。このうち物故者は3名。

(追記)

 来年は鹿児島で開こうということになりましたので、みなさん元気にまた集まりましょう。

 

 
 

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あれから50年(中学校編)

 《中学校》Cimg7001_1北区立稲付中学校

 赤羽駅から本蓮沼行のバスで通過する大通りに面した校門は位置も造りも変わっていないが、左手の校舎とフェンスが当時は無かった。奥に見える左右に長い校舎は元のままだ。

 ここに在籍したのは昭和37年4月から40年3月まで。卒業からまさに50年である。それまで自由だった服装が学生服に変わり、型にはめられたような気がした。部活には入っていなかったが、1年のころからハイキングに行き始めた。2年からは友人を誘って行くことが多くなった。Cimg7005 校門から覗いた校庭。

 当時とそんなに変わっていないようだ。校舎はおそらく阪神淡路大震災を契機に進められた耐震化工事のためだろう、まるで建て替えられているかのように見えるが、実は来年度から本当の建て替え工事が始まるという。

 中学校で初めて男性教諭の担任を経験したのが印象に残っている。なにしろ小学校の6年間と中学校の1年、3年は女性教諭が担任だったのだから。

 1年の時の担任は英語の女先生で、教科別の先生による担任が物珍しく、まだ30歳くらいの若い先生だったが、大きな黒縁の眼鏡をかけていたので「トンボ」がニックネームだった。

 英語では生徒を指名して単語の発音を繰り返させるが、中には悪がいて「ブラザー」(兄弟)の時に指名されて「ブラジャー」と発音してよく女先生を困らせたものだった。ある時は先生が泣いてしまい、それ以来悪ふざけは無くなったように思う。こんなことも今となっては懐かしい思い出だ。

 あの先生はどうしているだろう・・・。また、あの悪は今頃どうしているだろうか・・・。

 卒業アルバムが家にあったので当時の校舎が分かる。Cimg7219 本校舎に関しては当時も今もほとんど違いはない。

 ただ、たぶん生徒数に大きな違いがあるはずだ。在籍当時、中学校でも小学校同様やはり一クラスは50名。10組まであったから一学年が500名。三学年では1500名を数えた。この数はおそらく今日では有り得ない数だろう。

 中3だった昭和39年が東京オリンピックだったので、荒川の戸田橋ボートレース場で行われたボートの競技を見に行った。教育的配慮から見物の無料券が配られたのだと思うが、いい体験だった。

 当時の中学校の向かい側は武器弾薬庫が林立する旧陸軍の施設であり、敗戦と同時に米軍に接収されてそのままになっていたが、返還後に弾薬庫群は取り壊された。その時の工事の様子で面白かったのが、巨大なクレーン車に取り付けられた大きな鉄の玉が倉庫の壁にぶち当てられて破壊されて行く様だった。映画のワンシーンを見ているようだった。

 現在の稲中の周りには国立のトレーニングセンターやサッカー場が造られており、これらを見る限りではまさに「今浦島」の感がある。Cimg7008 国立スポーツトレーニングセンター(朝日を浴びている建物)

 右手には国立西が丘サッカー場がある。武器弾薬倉庫群が立ち並んでいたところだ。競技場のスポンサーは味の素株式会社である。

 稲中の前の通りには「2020トレセン通り」という名が付けられ、5年後のオリンピックまでにはさらに整備が進むらしい。Cimg7006 学校正門前の通り。

 これに2020トレセン通りという名が付けられた。右手は当時これほど大きくはなかった体育館。フェンス沿いにはヒマラヤスギらしきものが、小学校同様、やはり植えられている。

※2年の時に同じクラスだった友人は親友と呼べる人物で、帰郷の時は必ず会うようにしている。彼を含めていろいろな同級生を誘ってハイキングをよくしたが、今でも当時の記憶で鮮明なのがいくつか残っている。5年前には一緒に富士山にも登ったが、悪天候のため本8合目までで断念することになった。だが、それも佳き思い出の一つになった。

※登山そのものの思い出ではないが、強烈な記憶がある。

 それは中学2年の1963年11月23日のことであった。この日ハイキングに行こうと早目に家を出て上で触れた赤羽駅に近い親友の家の前で待っていると、別の友人がやって来るなり、「マッチャン(我が略称)、ケネディ大統領が暗殺されたんだってさ」と言うではないか。「えっ!本当かよ」と言い返すのが精一杯だった。

 この日、つまり1963年11月23日は「日米間初のテレビ宇宙中継が成功した日」なのであった。その中継の第一報がかのケネディ暗殺だったとは劇的以外の何物でもなかった。

 アポロ号の月面着陸も驚いたが、今現在のリアルタイムで向うで起こったことが茶の間のテレビに映し出されるというのは、ほぼカルチャーショックであったし、内容も同じようにショックだったのである。


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