枚聞神社(指宿市開聞町)

11月の28日、29日に指宿の義父を見舞ったとき、久しぶりに枚聞神社を参拝した。

枚聞神社は「薩摩国一の宮」と呼ばれる古い神社で、貞観16年に枚聞神社の後方に聳える開聞岳が噴火して大災害になったとき、大宰府を通じて都に知らされ、山の神霊を鎮めるために「封戸20戸」が定められた―と古書に記されているのが、記録上の初見である。

 祭神はオオヒルメムチ。太陽神で、天照大神の分身かと言われている。

 開聞町の中心の交差点を北(左)にとると、300mほどで森が見えてくる。先に行くと神社入り口を過ぎて右に、駐車帯があるのでそこに停め一の鳥居に向かった。1129hirakikijinja_026_2

 一の鳥居をくぐると二の鳥居がある。この鳥居は両脚に補強の仕掛けがしてある。1129hirakikijinja_003_2

 一の鳥居より小さく見えるが、それは隣に生えているクスが大きいからで、実際にはほとんど変わらない。

 クスの手前のモミジが満開だった。1129hirakikijinja_005_2

 朱塗りの社殿は南九州特有で、派手すぎるように思われるが、実は南九州の古墳時代には、石棺などに朱が大量に使われており、赤や朱は当時から神聖な色という認識があった。1129hirakikijinja_019_2

 境内横には「宝物殿」がある。

 もうかれこれ20年前に来た時は、あったのかどうか覚えていないが、入館してみた。1129hirakikijinja_012_2

 いろいろ見るべきものは多いが、島津氏17代の義弘が奉納したという甲冑が目に付いた。

 慶長15年(1610)に今の社殿の基礎を造営した義弘が完成を祝って奉納したものである。

 次に目に入るのが鴨居に掲げられた扁額だ。1129hirakikijinja_018_3

 慶長14年(1609)に名高い薩摩軍の琉球侵攻があった。

 その後、薩摩の属領と化した琉球から毎年、朝貢船が送られて来るようになったが、長い船路の安全を願い、目通し山である開聞岳とそれを祭る枚聞神社へ琉球王から贈られた物である。1129hirakikijinja_017

 この彩色鮮やかな扁額は、「朝融王」の奉納とあるが、これは琉球王ではなく、明治時代の皇族「久邇宮朝融王」のものだろう。

 朝融王は昭和天皇妃「良子皇后」の兄に当たる人だ。太平洋戦争の完遂を祈って奉納したと思われる。1129hirakikijinja_009

蒔絵入りのこの漆器は「松梅蒔絵化粧箱」、別名「玉手箱」と言われる物で、国の重要文化財に指定されている。1129hirakikijinja_007_2

 小箱がいくつも入っているが、すべてに蒔絵が施された優品で、どのような経緯でここに奉納されたのかは不明である。1129hirakikijinja_023

 神社を出て、北に300mほど行った右手に「玉の井」がある。

 ここで天孫二代目のホホデミと海神の娘・トヨタマヒメが巡り会ったのだという。

 つまり竜宮城がここにあったというのであるが、どこを見回しても畑の真っ只中だ。1129hirakikijinja_021

 中に入っていくと「日本最古の井戸・玉の井」が現存する!!

 覗いてみたが5メートルくらいの深さしかなかった。

 神話は神話で楽しむのがいいのだが、何かを象徴して語っていることが多いので、これはこれで尊重しておこう。1129hirakikijinja_024

 それより、振り返って見た開聞岳がなかなかのものだった。1129hirakikijinja_030

 枚聞神社から1キロ余り東へ行くと直径200m位の「鏡池」がある。風が無く波が立っていないので、水面はまるで本物の鏡のように、逆さ開聞が映っていた。

 この池は爆裂火口(マール)に水がたまったのが成因で、近くの「鰻池」も同じ現象でできている。

 静まり返った池を眺めていたら吸い込まれそうで、ここを竜宮への入り口としたら、神話がそれらしく見えるのではないかなどと思われて来た。

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生目古墳群(宮崎市大字跡江)

11月15日(日)に西都原市の考古博物館で開催された「玉と王権」へ行く途中、宮崎西インターで降り、向かった先に「生目古墳群」があった。

 この古墳群は、大淀川が高岡町から東に流れて、大きく北へ迂回し半円状を描いて再び東に向かって流れていくちょうどその半円の中に展開している。

 宮崎西インターから国道10号線を東(宮崎市方面)に走り、2キロほどで「生目」信号にかかるから、それを左折し約1.5キロ行くと今度は「跡江」信号に着く。これを左折して500㍍ばかり行くと、右手に「生目古墳群・遊古館」の看板が見える。その上の台地が古墳群だ。

 左側には広い田んぼ地帯の向こうに「生目運動公園」があり、大きなドームも見える。今、ソフトバンク・ホークスのオフシーズンのキャンプが行われているらしく、そこの道案内が道路沿いに点々と立っている。1115saitobarutoikimekofun_008

 古墳群のある丘から眺めた「生目運動公園」。白いドームが印象的だ。

 丘のすぐ下の建物は「遊古館」といい、宮崎市の埋蔵文化財センターである。ここがとても勉強になった。

 というのも、丘の上に上がっても、広い駐車場の周りに、古墳らしきものは一つも見えないのだ。古墳群を俯瞰した畳一枚くらいの図版がぽつんとあるだけだった。

 そこで下の遊古館に行ってみたのだ。1115saitobarutoikimekofun_009

幸いにも遊古館の広いエントランスの床に、生目古墳群の巨大な航空写真が刷り込まれていたので、写真に撮ることができた。

 左の道路脇にあるのが「一号墳」で、長さは136メートルあり、生目古墳群の8基ある前方後円墳の内では2番目に大きいそうだ。

 道路はすぐ脇を走っているように見えるが、古墳の造営された丘より25~30㍍も低い。要するに生目古墳群は、大淀川が削り残したシラスの台地に築かれているのである。このことは現地に来てはじめて分かった。来る前に眺めた地図で判断した限りでは、10メートル程度の河岸段丘に営まれているものとばかり思っていたのだ。

 生目古墳群は海抜30㍍ほどの台地上に、25の高塚古墳と50余りの地下式横穴墳が築かれ、最大の前方後円墳「3号墳」は143メートルもあり、しかも古式の古墳でおそらく4世紀初頭のものだろうという。

 古式の100メートル級の前方後円墳が3つもある古墳群というのは、九州で最も早いもののようである。同じ県内の西都原古墳群を造営した王者より古い王者級の勢力が、ここに存在した可能性が考えられている。

 ところで生目古墳に来たら、どうしても見ておきたかったのが「生目神社」だ。生目古墳群に近いものとばかり思っていたが、神社は古墳群の南方3キロもの所にあった。1115saitobarutoikimekofun_007

 さっき通った「生目」信号をそのまま南下し、橋を渡って左折するとやがて「東九州自動車道」の高架をくぐれば、突き当りが神社の丘だ。

 生目古墳の丘陵ほどではないが、周囲より15,6メートルは高い。

 左に回りこむと駐車場があり、そこからは歩いて行く。なだらかな階段状の道から石段を上がると、一の鳥居がある。1115saitobarutoikimekofun_006_2

 ここから小砂利の参道を100㍍弱行くと、右手に門構えこそ無いが立派な石垣と塀をもつ宮司宅を見る。1115saitobarutoikimekofun_005

 参道の雰囲気といい、この宮司宅といい、由緒の古さを感じさせる。1115saitobarutoikimekofun_002

 社殿のある境内へはさらに7,8段の階段を上る。1115saitobarutoikimekofun_003

 拝殿の後ろの本殿。本殿を廻る屋根付きの回廊型の塀があるのは珍しい。相当な格式を思わせる。

 この神社のあるところこそが「大字生目」であった。しかも小字を「亀井山」と称する。

 社殿地や塚のある小山に多いいわゆる「亀山」と同じだろう。間違いなく誰かの墳墓に違いない。

 祭神は「八幡さま=応神天皇」と「藤原(平)景清」で、社名がもともと「生目八幡宮」だったそうだから、前者の祭神こそが本来のものだろう。

 それはそれでいいとして、問題は「生目(活目とも書く)」の名称だ。

 神社発行の「日本一社 生目神社御由緒」というパンフレットによると、三つの説があるという。

 1、景清が日向に下向し、ここに居を構えてやがて死んだ。その後、景清の「生けるがごとき霊眼(目)を斎き祭った」ので名が付いた。

 2、昔から眼病に霊験があり、その神徳を称えて名付けた。

 3、活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいそさちのみこと=垂仁天皇)を奉祭したので付けられた。

 このうち私見では3を採るが、必ずしも垂仁天皇ばかりではなく、「活目」は他にもたくさんいたと思う。

「いきめ」とは魏志倭人伝に出てくる役人の正式名で、邪馬台国の官制のトップに挙げられている「伊支馬(いきま)」のことだろう。それを漢字で「活目(目を活かす)」と当てているが、それはずばりこの役職の意味を表している。江戸時代で言えば「大目付」のことで、漢の制度では都督、つまりGHQのようなものである。

 邪馬台国に都督を置いたのは北部九州の「大倭」であったが、それと同様にここに都督を置いたのはやはり「大倭」であったろう。どこを監視するかといえば、それは南九州に一大勢力を持っていた「投馬国」をである。その時期は邪馬台国時代(3世紀前半)にもかかるがもう少し前の「倭の大乱」の時代(2世紀後半)ではなかっただろうか。

 西都原古墳群時代にさかのぼること1世紀~2世紀前の話である。

 

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西都市を歩く(宮崎県西都市)

西都原考古博物館を訪れたついでに、西都市の見どころをいくつか回ってみた。

 まずは考古博物館のある西都原台地。海抜は平均70メートル、面積約1000ヘクタールに広がる古墳群は、3世紀から7世紀にわたって造られ続けた。

  前方後円墳はじめ円墳、方墳などの古墳は300を超えており、その数は一ヶ所としては日本一である。中でも「男狭穂」「女狭穂」という二基の巨大古墳は、九州では最大を誇る。1115saitobarutoikimekofun_043

 男狭穂塚。宮内庁により陵墓参考地に指定されているため、柵に囲まれて入ることはできない。

 杉木立の向こうに、巨大な墳丘がかすかに見える。

 墳長155m、高さ19mで、国内最大の帆立貝型古墳という。1115saitobarutoikimekofun_044

 男狭穂塚のすぐ西隣りに築かれているのが「女狭穂塚」で、こちらは典型的な前方後円墳で、5世紀半ば近くの造営である。

 畿内の河内地方の巨大古墳とよく似た造りだそうだ。

 墳長176m、高さ15m。後円部の径は96mもある。

 この墳墓も参考地となっていて入ることはできない。写真では杉木立の間に前方部の一部が見えている。

 地元の伝承では、男狭穂塚には「ニニギノミコト」が、女狭穂塚には后の「コノハナサクヤヒメ」が眠っているという。ロマン溢れる伝承だが、そうなると台地上にたくさんあるもっと古い前方後円墳には誰が埋葬されているのかの説明がつかない。ニニギノミコトが天から降ってくる前から地上にいたオオクニヌシの一統ということになるのか・・・。1115saitobarutoikimekofun_045

 西都市街地から上がってくると、広大な景観が広がるが、その入り口に近いところにはコスモスが見事に咲き揃い、多くの家族連れで賑わっている。

 その中に風変わりな「鬼の窟(いわや)古墳」というのがある。真ん中に直径37mの円墳があり、それを取り囲むように外堤を廻らしてある。この古墳は最も新しく、7世紀初頭に造られたようだ。

 西都原に祭られた最後の首長だろうと言われている。

 西都原台地から市街地に下り、国道219号線の信号を左へとり、妻北小学校のところの信号を右折すると、間もなく左手に「都萬神社」の入り口がある。1115saitobarutoikimekofun_022

 社殿の下まで来ると上はずい分賑わっている。そうか、今日は11月15日で七五三参りの日だった。1115saitobarutoikimekofun_021

 階段を上がり、鳥居をくぐると正装の親子連れが目立つ。

 女の子は特に美しく着飾っている。ここの祭神は「コノハナサクヤヒメ」だからという訳でもなかろうが、「この子の七つのお祝いに・・・」などという唄を思い出した。

 社殿の造りは荘重で、なるほど日向五社の一つとしての由緒を感じさせる。1115saitobarutoikimekofun_023

 社殿の裏の駐車場への路地に生えているさほど大きくない杉の木に幣飾りがしてあった。

 よく見ると「日下部塚跡」とある。日下部氏といえば古代日向の首長家の一つだ。ここに代々の墓地があったのだろうか。手前の石組みが、何だかそれを思わせる。1115saitobarutoikimekofun_014

 次に「日向国分寺跡」に向かった。

 都萬神社をでて、さっき来た妻北小学校の交差点を曲がらずにそのまま行き、稚児ヶ池まで行ったら左折する。

 そのままずっと南下して行き、「三笠」という信号を右折する。突き当たりの台地の上に国分寺跡はあるのだが、右手からクランク状に上がるので、ちょっと分かりにくい。付近の人に聞くのが一番。

 瀟洒な和風建築が見えたら、そこが国分寺跡だ。1115saitobarutoikimekofun_018

 国分寺跡といっても礎石の跡だけが残るばかり。しかもその規模は小さい。

 向こうに見えるのは「木喰館」で、江戸時代に有名な木喰上人が当地に滞在し、数々の木像仏を残したが、そのうちの6体の仏像を安置してある。1115saitobarutoikimekofun_020

 木喰上人は若くして出家し、55歳の時に日本全国回遊行を発心し、70歳の時に、日向にやって来たという。

 そしてこの国分寺に来た時、請われて住職を9年務めたが、その時に刻んだのが、「木喰堂」に残る大日如来像ほか五体の仏像であるらしい。顔に独特の柔和さがあるので、厳かというより親しみを感じる仏たちである。しかし仏像自体は思ったよりかなり大きい。

 日暮れも近くなってきたが、最後に西都市一帯を育んだ母なる「一ツ瀬川」を眺めておこうと思い、車を東に走らせた。「三笠」信号から道を東北にとる(寿屋デパート方面)と、一本道で市街地を抜け、10分ほどで「山角橋」に到る。1115saitobarutoikimekofun_046

 橋の向こうは西都原市街地。はるかに西都原台地の低い丘が見える。1115saitobarutoikimekofun_047

 さすがに宮崎県では大淀川に次ぐ大河。河口までまだ15キロ以上あるのに、川幅はすでに100㍍近く、ゆったりとした流れである。

 この川によって育まれた一大勢力が、西都原台地にたくさんの墳墓を造ったに違いない。

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西都原考古博物館で「玉と王権」講演会を聴く

11月15日(日)の午後1時から4時まで、宮崎県の西都原考古博物館で展示中の特別展「玉(ギョク)と王権」に関して講演会があったので、片道3時間近くかけて出かけてみた。

 途中、東九州自動車道の宮崎西インターで降り、4キロほど行った所にある「生目古墳群」と「生目神社」に立ち寄ったり、西都原市内の「国分寺跡」や「都萬神社」などを見学したのだが、それらは別の日にものすることにして、ここでは講演会にしぼって書いておく。1115saitobarutoikimekofun_042

 国道219号線にしたがって西都市に入り、目抜き通りを行くと、西都原古墳群入り口の信号があるから、それを左折してしばらく坂道を上がっていくと、広大な西都原台地に出る。

 考古博物館は台地の北寄りにある。

 しばらく常設展と「玉と王権」展を見学したあと、館内の3階にある食堂で昼食をとった。

 講演会は予定通り午後1時に始まった。

 聴衆は150人くらいだったろうか、詰めればまだ50人は入れそうな、こじんまりとしたホールで行われた。講演者は次の三人であった。

 ① 東アジア古代の玉器  岡村秀典=京都大学人文科学研究所教授

 ② 日向国玉璧の啓示   トウ・シュクヒン=台湾・故宮博物館

 ③ 韓国の玉文化      ノ・キスク=韓国・国立中央博物館

 ②と③の講師はどちらも女性で、トウ氏は50代、ノ氏は40代と見えた。日本の岡村教授は1957年生まれの52歳である。専門は「中国考古学」。

 最初の岡村教授は、「玉」とは古代においてどんな役割をしていたか、から始め、分かりやすく聴衆に語りかけていた。その一方で、後の二氏は通訳付での講演だったので、いまいちぴんと来ないものがあったのだが、それは致し方あるまい。問題は内容だ。1115saitobarutoikimekofun_039

 「玉と王権」展には台湾の故宮博物館からの出品の「玉璧(ギョクヘキ)」が多数展示されていたが、岡村教授によるとこの「玉(ギョク)」こそは「金銀」に勝る漢代の王位者への下賜品だという。1115saitobarutoikimekofun_040

 実は宮崎県串間市からは、このような玉璧が江戸時代の文政年間に発掘されていた。

 上の二点はどれも外側のみ文字のような刻み帯があるだけだが、串間出土のものには、さらに真ん中にも刻み帯が施されている。

 大きさも直径33センチという特大の優品である。1115saitobarutoikimekofun_025

 岡村教授によれば、刻み文様は外側のは「龍文」、内側のは「鳳凰文」だそうだ。

 両方あわせて「龍鳳文」で、王者級の人物に対して、漢の皇帝が授与した物に間違いない、という。 

 串間の玉璧の正体が分からずにいたところ、今から25年前に中国広州市で見つかった「南越王墓」から、同じような玉璧が40枚以上発見され、そのうち最大級の33センチほどある玉璧は、大きさといい文様といい、串間のとそっくりであることが分かった。 

 このことから岡村教授は、串間のも南越王と同じように漢の皇帝からの下賜品であろうと考えている。ただ串間へは漢王朝から直接あたえられたのではなく、紀元前108年に朝鮮半島に楽浪郡が置かれたときに滅んだ「衛満氏朝鮮王」の所有していたのが、半島から九州への亡命者によって渡来し、さらに時が経て串間に到来したのではないかとする。

 その証拠が北朝鮮で発見された玉璧ではないか、と提示した。1115saitobarutoikimekofun_027

(写真は北朝鮮・石厳里9号墓出土のもの)

 北朝鮮ではこの石厳里ともう一箇所から出ているが、南朝鮮からは一枚も出ていない。

 そのことから、北朝鮮を治めていた「朝鮮王」が初めたくさん下賜されたが、朝鮮王が漢に敗れたあと、玉璧は亡命その他の要因で四散し、その最大の物が串間までやって来たと考えられる――とする。

 私見だが、この岡村教授の「串間出土の玉璧は朝鮮半島北部から到来した」という説には、おおむね賛成である。ただ、敗れた朝鮮王を衛満の系統としたのは疑問だ。衛満が燕から朝鮮に亡命したときに朝鮮王だったのはワイ(さんずいに歳)にいた「箕氏準」だったのである。その準王を衛満が駆逐して南朝鮮に亡命させたのは紀元前200年頃だった。

 だから、北朝鮮(楽浪)から串間出土の玉璧を持参したのは、箕氏準の系統である、とすれば、以上の岡村説は整合を得ることになる。

 しかしどうして北九州ではなく、南の外れに近い宮崎の串間なのか、は依然として謎である。

 一方で、二番目のトウ女史は結論として、「私は日本の歴史に疎いが、串間に玉壁をもたらしたのは、除福で、除福こそは神武天皇その人でしょう。発掘場所の王之山の石棺に眠っていたのは、その神武天皇だと思います」と言っていた。

 本当に日本史には疎い人だ。神武天皇を取り上げるのなら「神武東征」にも触れなければ片手落ちだ。串間に埋没されては困る。

 最後のノ女史の講演は、もっぱら韓国出土の「勾玉・管玉・丸玉」などの出土地と年代の話に終始していたので、ちょっと的外れのように思った。韓国からは玉壁が出土していない以上、やむをえないことかもしれない。

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熊襲・隼人シンポジウム(黎明館)

鹿児島市の黎明館で開催中の『古代のロマン~三内丸山vs上野原』の案内チラシに24日(土)「熊襲・隼人の時代を語る」というシンポジウムがあったので出かけてみた。

 桜島フェリーに行く道中で目の当たりにする桜島は、ずうっと灰を噴き出していた。1024reimeikan_001

 垂水市の早崎大橋から望む桜島。

 折からの北寄りの強い風で、灰は南へ流れていた。これはちょっとまずいな、と思った。何となれば、桜島港へはまさに桜島の南側の道路を通って行くからだ。1024reimeikan_002

 「有村熔岩展望所」まで走った。ここはもう桜島の南部だが、噴煙はやって来ていなかったので、ほっとした。時間は十分あるので、珍しく降りて、展望所を歩いてみる。

 展望所の最高点には高野素十の句碑があったのだった。

 初蝶の 熔岩につき当たり つき当たり

という句だが、初蝶とは春になって初めて目にする蝶だろうが、その初蝶が「熔岩につき当たりながら飛んでいる」という風景は、思い描きにくい。場違いに過ぎる。・・・それがかえってこの句の狙いなのか。

 確かに、逆に桜島の持つ荒々しさと原始の無骨さが、可憐な蝶を配する事によって、より一層際立ってくる。――「熔岩」をここでは「ラバ」と読む。1024reimeikan_006

途中、東桜島町あたりで降灰に遭ったが、さほどのこともなく無事フェリーに乗り込み、鹿児島の桜島桟橋まで15分。

 桟橋を出て、黎明館のある鶴丸城跡まで歩く。10分ちょっとで着く。歩いて黎明館に来たのは初めてというわけで、東側の西郷さんが最期を迎えた「岩崎谷」に通じる道路沿いに行ってみた(写真の右手の道路)。1024reimeikan_008

 東入り口のすぐ上に以前はなかった(と思う)薩摩義士前バス停と観光スポットの案内表示があった。

 向こうに見える石灯籠の階段を上がった所には、江戸時代の宝暦年間に、遠く岐阜の木曽川・長良川分水工事に幕府厳命の「お手伝い普請」として駆り出され、向こうで命を落とした「義士」が50数名祭られている(ただし石塔のみ。実際の墓は向こうのいくつかの寺に分かれて存在する)。1024reimeikan_014

 まずは黎明館の2階で開催されている「三内丸山遺跡と上野原遺跡」の比較展示をゆっくりと時間を掛けて見た。

 三内丸山は縄文中期(4000~5000前)であり、上野原は縄文早期(7000~10000前)で、時代はかみ合わないのだが、ともに比較的新しく発見されてその古さ・巨大さ・先進さが耳目を集め、即座に国指定の遺跡になったという似た経緯がある。

 また、たまたまどちらも日本列島の最辺縁部に位置するという共通点もある。1024reimeikan015

 遺物の点ではやはり上野原遺跡の「縄文早期の先進性」が際立っている。

 何しろ縄文早期の7500年前にすでに「壺(型土器)」が作られていたのだ。

 写真は右が上野原と同じ7500年前のもの。宮崎県でも出ている。左は栃木県で明治大学の調査で発掘された2100年前(弥生中期)の壺(優品で重要文化財だそうだ)。

 とても5000年古いようには見えないのが、上野原を代表とする土器群だ。唖然とする他ない。桜島と硫黄島起源の降灰の堆積のおかげで年代が明確になり、南九州の縄文時代の先進性が明らかになったが、同時にこの降灰こそが弥生時代になって米作りを滞らせた主な原因であり、ために南九州が「遅れた野蛮な熊襲の国」として「記紀」で貶められる元になってしまったのは、まさに歴史的な皮肉というほかない。(館内は撮影禁止ということで、上の写真はチラシから写し撮ったもの)1024reimeikan_013

 午後1時半からのシンポジウムの登壇者は、写真向かって左の二人目が隼人研究の第一人者・中村明蔵氏、右へ考古学者の橋本達也氏、そして埋蔵文化財センター次長の池畑耕一氏で、まずそれぞれ20分ずつ持論を展開したあと、会場参加者の質問用紙に基づいて発言がなされた(左端は司会者の永山修一氏)。

 中村氏のは図表を交えた説明が多く、数々の著作も読んでいるので分かり易かったが、橋本氏のは「南九州に特有の地下式古墳を隼人・熊襲の古墳とし、前方後円墳は畿内からの派遣統治者のもの、と色分けするのはこれまでの発掘の結果から見ておかしい。これからの古墳研究に熊襲・隼人という概念は必要ない」というもので、これにはやや驚かされた。

 シンポジウム後の茶話会でも、橋本先生はそう強調していたが、「熊襲はどうもいかんが、隼人はいい」などと洗脳(?)されて来た歴史愛好家には耳が痛いかもしれない。

 センター次長の池畑氏は発掘の専門家として鹿児島のあらゆる埋蔵文化に通じている人だが、今回は奈良時代以降の役所・官道・木簡などに限定して話を展開していた。橋本氏の南九州古墳研究への上述の提言をどう思っているのか、もう少し聞きたいところだった。

 なにしろ時間が少なかったように思う。三人の専門的な講演をそれぞれ別個の日に設け、その上で改めてシンポジウムを開催することはできなかったのだろうか・・・。でも、今日はその糸口だったのだと思えばよいかもしれない。

 

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谷山・清泉寺跡

指宿の義父を見舞った帰り道、鴨池フェリーを使ったので、途中、谷山に残る「清泉寺跡」を訪れた。

清泉寺は文字通り「清らかな泉が湧く」場所であった。922seisenji_012

四角く切り取った泉からは、滾々と清水が湧き出して流れ、それを汲みに来ている人がいた。

 サンダル履きだから近所の人に違いない。昔はこの水を焼酎の原料として使っていたそうだ。922seisenji_011

清水の湧く所から、奥の方へ行くと100メートルくらいで川(野頭川)に出る。

 振り返ると左手のうっそうと茂った森が清泉寺跡の入り口で、道路を挟んだ反対側のコンクリートの建物は「鹿児島市清泉寺水源地」。

 この水は市の水道に一役買っているのだ。

 でも水道になってしまうと消毒液が入ってしまう――というわけで、近くの人たちはポリタンクで原水を汲みに来る。手間ひまはかかるが、美味しい上に安心して飲めるというわけだ。

 この清泉の場所は、七ツ島交差点から山手方向にに、わずか1キロかそこらしかない。はるか昔は、ほとんど海岸べりに湧き出していたことになるだろう。船人にはありがたい湧水だったに違いない。922seisenji_007

史跡地には似つかわしくないコンクリート製の「清泉寺水源地」の向かい側が、清泉寺跡の入り口だ。

 金属製の塀が入場を拒んでいるかに見えるが、左手の門扉に錠前はかかっていないので、貫きを外して開け、見学させてもらった。922seisenji_006

よく手入れされた見学路を30メートルも行くと左を流れる小川の対岸に、「ミニ磨崖仏」が見える。

 さらに同じくらい行くと、向こうに石段があり、その奥は竹林になっている。922seisenji_004_2

 昼なお暗い竹林の階段を上がっていくと、ようやく竹が途切れ、少しの空間が見えた。手前には禅寺ではよく見かける「無縫塔」という僧侶の墓が2基建っている。

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ここが清泉寺の本堂があったところだろう。

 今は真ん中に巨大な五輪塔が建つ。922seisenji_002

高さ優に2mはあるこの五輪塔墓の主こそは、新城島津家初代当主「島津久章」である。

 新城は大隅半島の垂水市の一部だが、その領主の墓がなぜここにあるかと言えば、話は少し長くなるが・・・

――時代は江戸の初期の寛永16年(1639)、島津本家第19代・光久が新しく藩主となり、23歳の久章が江戸の将軍家へ報告方々使者にたった。

 久章が田舎者だったせいもあるのだろう、御三家の一つ紀州家に挨拶に行った際、篭に乗ったまま玄関先につけてしまった。それは非常に無礼なこととして叱責を受け、捕縛されて本国送還になった。

 本家でも藩主光久の怒りは大きく、久章は、はじめ川辺の寺院に蟄居させられ、後にこの清泉寺へ幽閉された。数年後の正保2年(1645)、今度は遠島処分を言い渡されたが、久章は反抗し、派遣された来た本府の執行役人の前で自害して果てた。(あるいは斬り合いになって殺された、とも言う)――。

 これが、ここに新城島津家の久章の墓がある理由である。久章の死の背景には、17代義弘の子孫である本家と垂水家(16代義久の娘が室に入っている)との内紛があったという説がある。久章の父であり垂水家4代目の久信が、青年期に2度にわたって徳川方へ人質として立てられたことによる本家への恨み感情が解けなかったことも大きかったのかもしれない。その久信は鹿屋へ隠居の末、久章の死に先立つ8年前の寛永14年(1637)に毒殺されている。

 東軍の徳川氏に敗れた西軍の島津であったから、島津家の内紛は下手をすれば「お家取り潰し」の口実になる。今度の久章の不手際はその糸口になりかねないので、厳しく罪をかぶせたのではなかろうか。

 しかしながら、新城家そのものは断絶されず、一応、嫡男の忠清が継ぐが、島津姓から「末川」に改められ、その後には藩主・光久の七男が養子入りして本家のコントロール下に組み込まれる。922seisenji_010

清泉寺跡を出て、水源地の向こうの川崖に「金剛力士像」が彫り込まれているが、軍配のようなものを持ったその姿は、そんな時代の是々非々を裁く仁王様のように見えた。

(清泉寺跡の説明板に「清泉寺は百済の僧・日羅上人が建立した」とあるが、日羅は正確に言うと倭人の父が渡海した先の百済で生まれ、百済官僚の最高の地位「達率(たっそつ)」に就任した人物で、僧侶ではない。

『敏達天皇紀』によると、百済から日本に呼ばれ、任那再興の建策を与えようとしたが、同行の百済人に妨害され殺されそうになった。その度に強い炎のようなオーラ状の物が体から発して殺されなかったが、ついに大晦日の日にオーラが小さくなり殺害されてしまった、とある。

 この「強い炎のようなオーラ」を発したということで、よく修行した僧侶であるかのように勘違いされたのだろう。実際には日本で言えば左大臣クラスの高官であった。)

     清泉寺付近の地図

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沖縄の旅②―波上宮と首里城

1月12日、沖縄最後の日の朝は、まず沖縄総鎮守と言われる「波上宮(なみのうえぐう)」を参拝した。111okinawa_130

ユイレールという空港と首里城を結ぶモノレールの旭橋駅を少し北へ行ったところに5差路があり、斜め左に入って行って1キロ弱、前方に大きな鳥居が立っている。ねずみ色の鳥居というのはかなり珍しい。それでもすっきりとした見ごたえある鳥居だ。

 まだ初詣での客も多いのだろう、いくつかの露店が朝の眠りをむさぼっていた。111okinawa_128

30年前に来たときは、コンクリートに白いペンキを塗ったような寒々とした社で、本殿の向こうに海が見えるような、何にもなかった境内だったように記憶するが、今は本殿、拝殿は無論のこと、手水舎までがなんとも立派になっている。

 木立までが往時とは全く違う。

 波上宮は熊野神社と同じ神々を祭る

中心は「イザナギノ命」で、日向の橘の小戸のアワギ原でいわゆる三貴神「アマテラス・ツキヨミ・スサノヲ」を生んだ神だ。配神が「速玉男命」と「事解男(コトサカヲ命」で、熊野本宮では「速玉男」こそが「イザナミ」であるとしている。

 また「コトサカヲ」は神格不明のようだが、私見では「コトシロヌシ(事代主)」で、いわゆる「えびすさん」の別名のある航海民の神だと考えている。

 神社に向かって右手に降りていくと、すぐに海岸でサンゴの砂浜が美しい。111okinawa_132

宮はサンゴ礁由来の琉球石灰岩の真上に鎮座するが、まさにその名にし負う波の上にある。

 この岩礁そのものを「御嶽(うたき)=聖地」とみる見方もあるが、なるほどと思わせる。

 左手の建物は社務所だが、立派な大したものだ。壁に「琉球大相撲の歴代横綱」として50年位前からの横綱名を書いてあったのが沖縄らしかった。111okinawa_050

総鎮守を参拝後、いよいよ世界文化遺産「首里城」に向かった。

 守礼の門の前では、新婚さんらしきカップルが琉球王朝衣装を着て、カメラに収まるところだった。

 (男性の被っているのは帽子ではなく実は「鉢巻」である。)111okinawa_053

王城の入り口「歓会門」

この辺りを裏側の高い所から見ると111okinawa_148

王城の壁は一部として直線的に造られていない事が見て取れる。

もちろん技術的に造れなかったのではなく、造らなかったのだ。というのは、大きく見せるためだろう。

 首里王府は大陸王朝の冊封体制下にあり、冊封使をしばしば迎えることがあった。その際に使者を大いにもてなすのだが、王城は大きく立派であるに越したことはなかった。111okinawa_136

瑞泉門などいくつかの門を経て、奉神門という深紅の建物をくぐるといよいよ王宮の前の広場だが、その奉神門の真ん前にぽつんといった感じで石垣に囲まれた小さな「森」がある。

 これこそが聖地を表す「御嶽(うたき)」で、ここは「首里森御嶽(すいむいうたき)」と名付けられている。

 首里城内には昔は10余りの御嶽があったというが、はっきりその場所を特定できたのは2ヶ所くらいしかない。111okinawa_055

奉神門を抜けると「宮殿」が華やかに広がる。

 首里城は昭和20年3月から6月までの沖縄戦において、灰燼に帰したが、アメリカからの施政権返還後の1974年に再建された。

石垣くらい残っていそうだが、それさえ全面的に造り直したのだそうだ。111okinawa_058

琉球王の玉座

「中山世鑑」によれば、沖縄最初の王統の始祖は「舜天王」で、かの鎮西八郎為朝の子だという。

 為朝は保元の乱の後、伊豆に流され、五島に至り、さらに沖縄まで渡ったと言われている。

それなら琉球王統は1180年代に始まったことになる。

 だが、三山(北山・中山・南山)を統一したのは尚氏の王統で、その名を「尚巴志」という人物だった(王位は1421~1441)。この王が即位したとき、すでに首里城はあったと言われているので、首里城は少なくとも450年の歴史を持つと言ってよい。111okinawa_138  

800円也を払い、靴を脱いで首里王城内を見学したあと、折りよく琉球舞踊の出し物を見ることができた。

 正月だけの催し物なのかどうか知らないが、入場券売り場の反対側の無料休憩所と書かれた建物の平入りの20畳ほどの座敷が舞台になっていた。

 最初はおなじみの「四ツ竹」111okinawa_140

次は「本貫花(むぅとぅぬちばな)」

愛する人に花を捧げようとする女心を切々と踊ってみせる。これは見ものだった。111okinawa_144

「浜千鳥」

船旅に出た恋人の無事を祈る踊り。111okinawa_147

「加那よー天川」

加那はかわいい娘といった意味で、相思相愛の男女の踊り(ただし踊り手はすべて女性)。

 間近で本場の琉球舞踊を見られるとは予期していなかったので、大変よい土産となった。

 ただ帰りの飛行機の時間が迫っていたので、もう一曲あったのだが、振り切らざるを得なかったのは惜しかった。

 しかし、まあ、サービス満点だったと思う。さようなら、沖縄。

                         (沖縄の旅②終り。完)

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沖縄の旅①―南部戦跡と斎場御嶽

姪の結婚式に参列したついでに、二回目の沖縄旅行を楽しんだ。今度は一回目と違い家族4人と実姉を連れた旅であった。

 沖縄と言えば、まず思い浮べるのが教科書で習った「ひめゆりの塔」に代表される沖縄戦末期のすさまじい「鉄の暴風」だろう。

 その次が、優に500年は続いた、日本本土とは別の王朝「琉球王朝」の首府で世界文化遺産にもなった「首里城」であろう。

 ひとによってさらには「エメラルドの海」「ダイビング」などがランクされるだろうが、上記の二つだけは動くまい。

 今回、やはりその定番の見所を中心に、レンタカーの旅となった。

那覇から南に国道331号線を行き、糸満市を通過して4キロほどの国道沿いに「ひめゆりの塔」がある。

入るとすぐ巨大なガジュマルがわれわれを迎える。111okinawa_013

ひめゆりの塔」は観光オフシーズンのこの頃でも、訪れる人はかなり多い。

111okinawa_016 碑の前には献花台があり、皆で花束を供えた。

 千羽鶴を供えて吊るしているお堂などもある。111okinawa_017

いわゆる「ひめゆり部隊」とは、沖縄師範学校女子部および第一高女の女学生百数十名の、おもに傷病兵を措置する「陸軍病院第三外科」に配属されたいわば急ごしらえの看護婦団であった。

 3月から始まったアメリカ軍の沖縄上陸作戦の南下に伴って、第三外科も那覇南部の南風原から、最終的にここまで南下してきたが、米軍の猛攻すさまじく、ついに焼夷弾、手榴弾の犠牲になって命果てた場所である。生き残りは十余名。90数パーセントの16歳から20までのうら若き女性たちが未来ある命をここに捧げた。

 洞窟(がま)が見えるが、あんな息詰まる所で最期を迎えた心中はどんなだったろう。111okinawa_022

ひめゆりの塔から1キロ余りで「平和祈念公園」(平和の礎=へいわのいしじ)に着く。

 喜屋武(きゃん)岬に造られた公園では、毎年6月23日の沖縄県平和祈念日に慰霊祭が行われるが、その時に使われる会場でもある。111okinawa_029

公園の一角には「沖縄県平和祈念堂」がある。

 入館すると、真ん中に巨大な仏像が鎮座している。

 沖縄独特の赤漆で仕上げてあるこの平和祈念像の製作者は「山田真j山」といい、地元沖縄出身で芸大卒の彫刻家だ。

 この像の周りにも千羽鶴が所狭しと供えられている。修学旅行生の心尽くしだろう。111okinawa_032

館内には「平和の礎」の碑に刻まれた戦没者の名簿が備えてあり、見ることができる。

 上巻・中巻は沖縄県民専用だが、下巻には他の都道府県出身者の戦没者名が載る。

 ところが、よく見ると最後の方に米国・英国・大韓民国・台湾・北朝鮮の戦没者が記載されている。

 自国のみならず、沖縄で戦没した人たちを平等に載せているのだ。敵味方を問わぬ世界平和、への力強い後押しと思われた。111okinawa_034

平和の礎

戦火に散った人たちは実は「平和への礎」であったのだ――という崇高な理念で建てられた。

 後ろの方には各市町村ごとに亡くなった人の名を刻んだ黒御影石がどこまでも立ち並んでいる。

 3ヶ月の激戦(3月27日~6月23日)で戦没した沖縄県民は14万9000余名。他県人は7万7000余名。併せて22万6000余名。軍民でなく一般民までが巻き込まれて死んだ数としては、その時点ではおそらく戦史最高の数だったろう(東京大空襲は12,3万)。終戦直前の広島・長崎原爆死者20万に匹敵するすさまじさだ。

 ちなみに件の米国軍民は14000余名。英国軍民82名、韓国364名、北朝鮮82名、台湾34名とのことである(「平和の礎」パンフレットによる)。111okinawa_033

修学旅行生が必ず訪れ話を聞く「平和祈念資料館」の前庭には、不発で引き上げられた艦砲弾や高射砲などが、赤さびたまま展示されていた。

沖縄戦は20年6月23日未明、陸軍沖縄総司令官・牛島満中将と副司令官・長勇中将の自決により降伏終戦となったが、その17日前の6月6日に現地入りし状況をつぶさに観察していた海軍沖縄陸戦隊司令官・大田実海軍少将の次の電文の末尾は大変有名であり、沖縄県民の塗炭の苦しみと真心が伝わる一文である。

  発信者:大田実少将

  受信者:海軍省次官

   『・・・。沖縄県民、斯く戦へり。県民に対し後世、特別の御高配を賜らんこを。』

いくら県民の心が素直で一途に戦争に協力したとはいえ、もう二度と戦火が訪れることのない沖縄であってほしいものだ。111okinawa_039

恒久平和祈念の地を後にして、次に向かったのが、沖縄最東南部に位置する「斎場御嶽(せーふぁうたき)」だ。

 最初に沖縄に降りて来た「あまみきょ」が、ここを聖地として祭った場所という。

「斎場(せーふぁ)」は漢字の沖縄読みで、和語では「いつき・ば」となる。伊勢神宮などの大社で今も残る「斎宮」を思い出す。

 いや、思い出すどころか、この聖地では国王の神女の最高官「聞得大君(きこえおおきみ)」の代替わりの「御新下り(おあらおり)」神事や、その他一年を通じての祭事がここで行われたのだから、「斎宮」とほぼ同じ働きをする所と言ってよい。

111okinawa_040

「三庫理(さんぐーい)」

聖地「御嶽(うたき)」の施設(自然物だから施設とは言えないが)の一つで、巨大な琉球石灰岩の断烈により人型の通路ができている。

 通路の向こうからは、晴れていれば海の中の最高の聖地「久高島」が望まれる。祭りの日には久高島の白砂が御嶽一面に散布されるそうだ。

                                     (沖縄の旅①―終り)

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元旦の指宿にて

ブログを見てくださっている皆様、明けましておめでとうございます。今年も気に入る、気に入らないは別にして、どうぞ暇な折にはお付き合いください。

 さて、31日の昼過ぎまでに正月の準備を終え、家内の実家、指宿へ渡航、大晦日から元旦を過ごしたのだったが、あいにくの荒天で、楽しみにしていた指宿国民休暇村の海辺からの初日の出は厚い雲に阻まれてしまった。101ibusuki_009

7時10分ごろに初日が出るだろうと、行ってみたのだが、30分待っても雲に覆われたままの向かいの大隅半島から、お天道様はついに現れなかった。

 冬至に近いので、おそらく根占港かその南に聳える辻岳あたりから太陽が顔をのぞかせるはずだったのに・・・。

 気を取り直して、すぐそこの松林の中にある「旧海軍指宿田良浜航空基地跡」を訪れる。101ibusuki_012

指宿に住んでいた20年近く前、この休暇村の田良浜には子供をつれてよく遊びに来ていて、標柱か何かでその存在は知っていたのだが、今度初めて来てみた。

 直径30㍍ほどの円墳かと見まごう防空壕の上に慰霊碑が厳かに建てられていた。101ibusuki_011

「円墳」の頂上には清潔な白砂利が敷きつめられ、奥に慰霊碑、観音像そして戦没者刻銘碑が建っている。

 後ろには自然生の黒松が見事で、さらにその背景には「魚見岳」の切り立った凝灰岩の巨大な岸壁が迫る。巧まざる造形美の中にあると言ってよい。

 正面碑文には、当基地からは82名の若者が不帰の客になったと書かれていた。101ibusuki_001

霙が混じっているような小雨の中、二月田の近くまで戻ってくると、二反田川沿いにある「殿様の湯」が、なんと元旦から営業している。

(写真の遠方の山は魚見岳)101ibusuki_008

驚いた。寒いので入りたかったが、夕べも入りに来たのでやめておく(朝風呂はなんとやら)。

 何しろ、熱い湯なのだ。源泉の温度は52度で、湯船にはそのまま入ってくる。それを湯船に付いている水の蛇口をひねって調整するのだが、きのう漬かった時には誰も水を加えていなかった。

 慣れがあるのかもしれないが、血圧の高い自分にはきつい。101ibusuki_007

裏手に回ると、殿様湯の名前の由来が分かる。幕末近くの1800年代当時のままの姿が残されていた。

 この湯殿は天保年間に、27代藩主島津斉興が別の場所に豪商浜崎太平次(5代目)に作らせたのを、ここに移築したものだそうだ。

 少し塩気のある温泉で、傷、凝り、皮膚病、冷え性によく、飲用すれば胃腸病に効くという。101ibusuki_006

すぐそこには「湯の権現」が祭られている。

祭神は「オオナムチノ命」と「スクナヒコナ命」。

 たしか道後温泉でも同じ神々が祭られていたと記憶するが、温泉にも命が通っているととる感性は日本人特有だろう。101ibusuki_014

殿様の湯の前を流れる二反田川をさかのぼっていくと、300㍍で「揖宿神社」に突き当たる。

 小雨の中だが、すでに露店が並び、参拝客もかなり多い。

 石の鳥居は大隅花崗岩製で、大根占の港から運んだという。その石工は鹿児島市内にあった五大石橋の製作棟梁「岩永三五郎」というから大した物だ。

101ibusuki_013

駐車場口から入るとおおぜいの参拝客。

手水舎にある手水鉢も三五郎の作で、寄進者は大河ドラマ『篤姫』では平幹二郎が好演した幕末薩摩藩財政改革家老職「調所笑左衛門」その人という。

 幸野宮司にちょっと質問してみる。

 このお宮は「開聞新宮」と呼ばれるが、どうして?

――貞観年間に開聞岳が噴火し、向こうがやられたので、ここへ避難して新たに祭ったからですよ。

 その前は何か祭られていた?

――天智天皇を祭り、「葛城宮」と言ってました。西暦706年の2月10日に創建したという記録があります。ただ、向こうが再建された時に、開聞神社の祭神が元に戻されたという記録は無いんです。

 じゃあ、再建された開聞神社はもぬけの殻?

――いえ、あちらはもともと開聞岳を神と祭る神社ですから・・・。

 天智天皇は志布志でも祭っている神社があるけれど、どう考える?

――天智天皇は亡くなられた場所が特定されていないので、こっちの方に落ち延びた。そして79歳の天寿を全うされたとも言われているんです。

 ははあ、これは一理ありそうですね。面白くなってきたなあ。今後もお話の方よろしくお願いします。

 それでは、今年も歴史の謎解きにご案内しますので、どうか・・・・・。

 

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慈眼寺公園(鹿児島市谷山)

鹿児島市の中世史研究会11月例会に発表することがあり、市内に行ったついでに晩秋の慈眼寺公園を訪ねてみた。

 そうめん流しがあるくらい水に恵まれた公園で、かって慈眼寺という寺が建っていた幽邃の地だ。谷山街道の繁華街の一角にあるカルカンの菓子舗「明石屋」の所を右折すれば、ほぼ道なりに「谷山護国神社」に出る。そこをさらに直進して高架道路をくぐるとすぐ右手に公園入り口が見える。1122jigenji_005

さしたる工夫も無い入り口を入ると、うっそうと樹木の茂った別天地となる。

 高齢者のグループがこれから付近を散策するらしく、何やら話しあっていた。

 残念なことにモミジの紅葉にはまだ時間が必要のようで、色づいているのはほんの数枝といったところだ。1122jigenji_011

右手の道を直進すると、突き当たりに真っ赤な建物が見える。「稲荷神社」で、島津氏の信仰厚き稲荷神(おいなりさん=ウカノミタマ)だ。石橋の手前にはなぜか「青面金剛」という庚申信仰の石像が建っている。

 橋を渡り参拝する。その橋の上からは、清流の上流部の小さな滝が見える。凝灰岩を見事にえぐっている。1122jigenji_008

滝を眺め、ふと反対側を見て驚いた。

 子供を抱いた観音様?1122jigenji_015

樹木の間に、聖母マリアと幼児キリストか、神功皇后とホムタワケ(応神天皇)か・・・。橋から戻って近くに行くも、それらしき説明板などは無い。

 マリアにしろ神功皇后にしろ「母子像」に違いはあるまい。目と目を見詰め合う母子の間にはゆるぎなき愛と信頼が通う・・・・・。1122jigenji_009

凝灰岩の積み重なった崖と流れの間の、石だらけの道を行くと清流が手に届くようになる。

 谷山地区の山手とはいえすぐそこに人家があるような場所にしては、水は清らかだ。

 慈眼寺という寺名は徳川の治世になって最初の島津氏当主だった島津家久(旧名・忠恒=義弘の子)の法名「慈眼公」に因むのだが、創建は1300年前の日羅上人だそうだ。

 当時から、水は今と変わらず滾々と流れていたのだろう。住み易い所だったに違いない。

 日羅と言えば、「敏達天皇紀」に登場する「葦北国造・アリシト」の子で、百済で人臣位を極めた「達率(と言う位)・日羅」を思い出すが、登場する年代は西暦583年だから、この日羅だと1400年前になるので、微妙に違ってくる。しかも政治家であって僧侶(上人)ではない。同名異人だろうか、だが1300年前の仏教と言えば百済もしくは新羅という半島仏教が導入されていた頃と重なるので、あながち別人とも言いがたい気がする。高位高官なら仏教への造詣も深かったと考えてみてもよい。・・・・・宿題が生まれた。1122jigenji_010

今回、紅葉には早かったのは残念だったが、苔の美しさに瞠目させられた。

 凝灰岩の間に撒かれたシラスっぽい砂地の地面を覆う、細かいビロード風な緑の苔には、流れるような美しさがある。

 この公園が京都か東京にあったら、国の特別名勝として登録されていたかもしれない。それほどの名園が「タダで下駄履きで」味わえるとは贅沢な話。

 ゆめ、ソーメン流しと両棒餅のみに価値を置くなかれ。

 慈眼寺を出て、上手にある「ふるさと考古歴史館」に行く。1122jigenji_017

 入り口のケヤキの黄葉が見事だ。入館料300円也を払って見学する。

 ここでもまずは「篤姫さま」だった。特別展示室に入ると例によって記念撮影コーナーがある。1122jigenji_018

一人だし、写真は撮らなかったが、小松帯刀愛用の甲冑が展示されていたのには驚いた。1122jigenji_020

しかも所蔵者が「自彊学舎」というのだからすごい。自彊学舎は鹿児島では有名な学舎で、藩政時代から子弟の自治教育機関のひとつだった。

 帯刀も同学舎育ちだったのだろうか、伝統の根強さがひしひしと感じられる展示物だ。1122jigenji_025

考古遺物では「草野貝塚」出土の「市来式土器」の多様性が目に付いた。

 市来式土器は日置郡市来町の市来貝塚出土の土器が指標になったのだが、どちらも貝塚で見つかったように、市来式土器人(縄文時代後期=4000~3000年前)はかなり海洋性に富んだ人々で、九州一円から沖縄までを交流圏としていた。

 私見では、周王朝が天下泰平期だったころに「暢草(チョウソウ=香り草)」を貢献した倭人とは、この市来式土器人だったとみている。

 海洋性に富むのであればもっと鹿児島に貝塚が多く発見されてもいいのでは――との批判が出るのはやむを得まいが(鹿児島には貝塚が少なく、これまでに6箇所くらいしか発見されていない)、遠浅の海岸が少なく、おまけに海岸近くまでシラス崖が迫っていることと、降り積もる火山灰に覆われてしまうこともその要因だと思われる。

 火山灰に覆われると言えば、指宿の「弥次ヶ湯古墳」の例があった。本来、高塚の円墳だったのが度重なる火山灰によって覆われ、畑の表土に紛れてしまっていたのだった。それで高塚なのに「1メートル以上も掘り下げて」ようやく円墳だと確認された――という国内では稀な発掘が行われたのである。

 ――鹿児島湾岸ではこれまで高塚(円墳・前方後円墳)は無い、とされてきたが、指宿ではそんな具合にして発見された。だから、この谷山地区あたりにも高塚があっておかしくない、ですよね。

 と、考古館の学芸員に聞いてみたところ、「無いとは言えないですが、なにしろここは行政組織なものですから、ありそうだから掘ってみる、というわけには行かないんです」と逃げられてしまった。

 

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