熊襲・隼人シンポジウム(黎明館)

鹿児島市の黎明館で開催中の『古代のロマン~三内丸山vs上野原』の案内チラシに24日(土)「熊襲・隼人の時代を語る」というシンポジウムがあったので出かけてみた。

 桜島フェリーに行く道中で目の当たりにする桜島は、ずうっと灰を噴き出していた。1024reimeikan_001

 垂水市の早崎大橋から望む桜島。

 折からの北寄りの強い風で、灰は南へ流れていた。これはちょっとまずいな、と思った。何となれば、桜島港へはまさに桜島の南側の道路を通って行くからだ。1024reimeikan_002

 「有村熔岩展望所」まで走った。ここはもう桜島の南部だが、噴煙はやって来ていなかったので、ほっとした。時間は十分あるので、珍しく降りて、展望所を歩いてみる。

 展望所の最高点には高野素十の句碑があったのだった。

 初蝶の 熔岩につき当たり つき当たり

という句だが、初蝶とは春になって初めて目にする蝶だろうが、その初蝶が「熔岩につき当たりながら飛んでいる」という風景は、思い描きにくい。場違いに過ぎる。・・・それがかえってこの句の狙いなのか。

 確かに、逆に桜島の持つ荒々しさと原始の無骨さが、可憐な蝶を配する事によって、より一層際立ってくる。――「熔岩」をここでは「ラバ」と読む。1024reimeikan_006

途中、東桜島町あたりで降灰に遭ったが、さほどのこともなく無事フェリーに乗り込み、鹿児島の桜島桟橋まで15分。

 桟橋を出て、黎明館のある鶴丸城跡まで歩く。10分ちょっとで着く。歩いて黎明館に来たのは初めてというわけで、東側の西郷さんが最期を迎えた「岩崎谷」に通じる道路沿いに行ってみた(写真の右手の道路)。1024reimeikan_008

 東入り口のすぐ上に以前はなかった(と思う)薩摩義士前バス停と観光スポットの案内表示があった。

 向こうに見える石灯籠の階段を上がった所には、江戸時代の宝暦年間に、遠く岐阜の木曽川・長良川分水工事に幕府厳命の「お手伝い普請」として駆り出され、向こうで命を落とした「義士」が50数名祭られている(ただし石塔のみ。実際の墓は向こうのいくつかの寺に分かれて存在する)。1024reimeikan_014

 まずは黎明館の2階で開催されている「三内丸山遺跡と上野原遺跡」の比較展示をゆっくりと時間を掛けて見た。

 三内丸山は縄文中期(4000~5000前)であり、上野原は縄文早期(7000~10000前)で、時代はかみ合わないのだが、ともに比較的新しく発見されてその古さ・巨大さ・先進さが耳目を集め、即座に国指定の遺跡になったという似た経緯がある。

 また、たまたまどちらも日本列島の最辺縁部に位置するという共通点もある。1024reimeikan015

 遺物の点ではやはり上野原遺跡の「縄文早期の先進性」が際立っている。

 何しろ縄文早期の7500年前にすでに「壺(型土器)」が作られていたのだ。

 写真は右が上野原と同じ7500年前のもの。宮崎県でも出ている。左は栃木県で明治大学の調査で発掘された2100年前(弥生中期)の壺(優品で重要文化財だそうだ)。

 とても5000年古いようには見えないのが、上野原を代表とする土器群だ。唖然とする他ない。桜島と硫黄島起源の降灰の堆積のおかげで年代が明確になり、南九州の縄文時代の先進性が明らかになったが、同時にこの降灰こそが弥生時代になって米作りを滞らせた主な原因であり、ために南九州が「遅れた野蛮な熊襲の国」として「記紀」で貶められる元になってしまったのは、まさに歴史的な皮肉というほかない。(館内は撮影禁止ということで、上の写真はチラシから写し撮ったもの)1024reimeikan_013

 午後1時半からのシンポジウムの登壇者は、写真向かって左の二人目が隼人研究の第一人者・中村明蔵氏、右へ考古学者の橋本達也氏、そして埋蔵文化財センター次長の池畑耕一氏で、まずそれぞれ20分ずつ持論を展開したあと、会場参加者の質問用紙に基づいて発言がなされた(左端は司会者の永山修一氏)。

 中村氏のは図表を交えた説明が多く、数々の著作も読んでいるので分かり易かったが、橋本氏のは「南九州に特有の地下式古墳を隼人・熊襲の古墳とし、前方後円墳は畿内からの派遣統治者のもの、と色分けするのはこれまでの発掘の結果から見ておかしい。これからの古墳研究に熊襲・隼人という概念は必要ない」というもので、これにはやや驚かされた。

 シンポジウム後の茶話会でも、橋本先生はそう強調していたが、「熊襲はどうもいかんが、隼人はいい」などと洗脳(?)されて来た歴史愛好家には耳が痛いかもしれない。

 センター次長の池畑氏は発掘の専門家として鹿児島のあらゆる埋蔵文化に通じている人だが、今回は奈良時代以降の役所・官道・木簡などに限定して話を展開していた。橋本氏の南九州古墳研究への上述の提言をどう思っているのか、もう少し聞きたいところだった。

 なにしろ時間が少なかったように思う。三人の専門的な講演をそれぞれ別個の日に設け、その上で改めてシンポジウムを開催することはできなかったのだろうか・・・。でも、今日はその糸口だったのだと思えばよいかもしれない。

 

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谷山・清泉寺跡

指宿の義父を見舞った帰り道、鴨池フェリーを使ったので、途中、谷山に残る「清泉寺跡」を訪れた。

清泉寺は文字通り「清らかな泉が湧く」場所であった。922seisenji_012

四角く切り取った泉からは、滾々と清水が湧き出して流れ、それを汲みに来ている人がいた。

 サンダル履きだから近所の人に違いない。昔はこの水を焼酎の原料として使っていたそうだ。922seisenji_011

清水の湧く所から、奥の方へ行くと100メートルくらいで川(野頭川)に出る。

 振り返ると左手のうっそうと茂った森が清泉寺跡の入り口で、道路を挟んだ反対側のコンクリートの建物は「鹿児島市清泉寺水源地」。

 この水は市の水道に一役買っているのだ。

 でも水道になってしまうと消毒液が入ってしまう――というわけで、近くの人たちはポリタンクで原水を汲みに来る。手間ひまはかかるが、美味しい上に安心して飲めるというわけだ。

 この清泉の場所は、七ツ島交差点から山手方向にに、わずか1キロかそこらしかない。はるか昔は、ほとんど海岸べりに湧き出していたことになるだろう。船人にはありがたい湧水だったに違いない。922seisenji_007

史跡地には似つかわしくないコンクリート製の「清泉寺水源地」の向かい側が、清泉寺跡の入り口だ。

 金属製の塀が入場を拒んでいるかに見えるが、左手の門扉に錠前はかかっていないので、貫きを外して開け、見学させてもらった。922seisenji_006

よく手入れされた見学路を30メートルも行くと左を流れる小川の対岸に、「ミニ磨崖仏」が見える。

 さらに同じくらい行くと、向こうに石段があり、その奥は竹林になっている。922seisenji_004_2

 昼なお暗い竹林の階段を上がっていくと、ようやく竹が途切れ、少しの空間が見えた。手前には禅寺ではよく見かける「無縫塔」という僧侶の墓が2基建っている。

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ここが清泉寺の本堂があったところだろう。

 今は真ん中に巨大な五輪塔が建つ。922seisenji_002

高さ優に2mはあるこの五輪塔墓の主こそは、新城島津家初代当主「島津久章」である。

 新城は大隅半島の垂水市の一部だが、その領主の墓がなぜここにあるかと言えば、話は少し長くなるが・・・

――時代は江戸の初期の寛永16年(1639)、島津本家第19代・光久が新しく藩主となり、23歳の久章が江戸の将軍家へ報告方々使者にたった。

 久章が田舎者だったせいもあるのだろう、御三家の一つ紀州家に挨拶に行った際、篭に乗ったまま玄関先につけてしまった。それは非常に無礼なこととして叱責を受け、捕縛されて本国送還になった。

 本家でも藩主光久の怒りは大きく、久章は、はじめ川辺の寺院に蟄居させられ、後にこの清泉寺へ幽閉された。数年後の正保2年(1645)、今度は遠島処分を言い渡されたが、久章は反抗し、派遣された来た本府の執行役人の前で自害して果てた。(あるいは斬り合いになって殺された、とも言う)――。

 これが、ここに新城島津家の久章の墓がある理由である。久章の死の背景には、17代義弘の子孫である本家と垂水家(16代義久の娘が室に入っている)との内紛があったという説がある。久章の父であり垂水家4代目の久信が、青年期に2度にわたって徳川方へ人質として立てられたことによる本家への恨み感情が解けなかったことも大きかったのかもしれない。その久信は鹿屋へ隠居の末、久章の死に先立つ8年前の寛永14年(1637)に毒殺されている。

 東軍の徳川氏に敗れた西軍の島津であったから、島津家の内紛は下手をすれば「お家取り潰し」の口実になる。今度の久章の不手際はその糸口になりかねないので、厳しく罪をかぶせたのではなかろうか。

 しかしながら、新城家そのものは断絶されず、一応、嫡男の忠清が継ぐが、島津姓から「末川」に改められ、その後には藩主・光久の七男が養子入りして本家のコントロール下に組み込まれる。922seisenji_010

清泉寺跡を出て、水源地の向こうの川崖に「金剛力士像」が彫り込まれているが、軍配のようなものを持ったその姿は、そんな時代の是々非々を裁く仁王様のように見えた。

(清泉寺跡の説明板に「清泉寺は百済の僧・日羅上人が建立した」とあるが、日羅は正確に言うと倭人の父が渡海した先の百済で生まれ、百済官僚の最高の地位「達率(たっそつ)」に就任した人物で、僧侶ではない。

『敏達天皇紀』によると、百済から日本に呼ばれ、任那再興の建策を与えようとしたが、同行の百済人に妨害され殺されそうになった。その度に強い炎のようなオーラ状の物が体から発して殺されなかったが、ついに大晦日の日にオーラが小さくなり殺害されてしまった、とある。

 この「強い炎のようなオーラ」を発したということで、よく修行した僧侶であるかのように勘違いされたのだろう。実際には日本で言えば左大臣クラスの高官であった。)

     清泉寺付近の地図

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沖縄の旅②―波上宮と首里城

1月12日、沖縄最後の日の朝は、まず沖縄総鎮守と言われる「波上宮(なみのうえぐう)」を参拝した。111okinawa_130

ユイレールという空港と首里城を結ぶモノレールの旭橋駅を少し北へ行ったところに5差路があり、斜め左に入って行って1キロ弱、前方に大きな鳥居が立っている。ねずみ色の鳥居というのはかなり珍しい。それでもすっきりとした見ごたえある鳥居だ。

 まだ初詣での客も多いのだろう、いくつかの露店が朝の眠りをむさぼっていた。111okinawa_128

30年前に来たときは、コンクリートに白いペンキを塗ったような寒々とした社で、本殿の向こうに海が見えるような、何にもなかった境内だったように記憶するが、今は本殿、拝殿は無論のこと、手水舎までがなんとも立派になっている。

 木立までが往時とは全く違う。

 波上宮は熊野神社と同じ神々を祭る

中心は「イザナギノ命」で、日向の橘の小戸のアワギ原でいわゆる三貴神「アマテラス・ツキヨミ・スサノヲ」を生んだ神だ。配神が「速玉男命」と「事解男(コトサカヲ命」で、熊野本宮では「速玉男」こそが「イザナミ」であるとしている。

 また「コトサカヲ」は神格不明のようだが、私見では「コトシロヌシ(事代主)」で、いわゆる「えびすさん」の別名のある航海民の神だと考えている。

 神社に向かって右手に降りていくと、すぐに海岸でサンゴの砂浜が美しい。111okinawa_132

宮はサンゴ礁由来の琉球石灰岩の真上に鎮座するが、まさにその名にし負う波の上にある。

 この岩礁そのものを「御嶽(うたき)=聖地」とみる見方もあるが、なるほどと思わせる。

 左手の建物は社務所だが、立派な大したものだ。壁に「琉球大相撲の歴代横綱」として50年位前からの横綱名を書いてあったのが沖縄らしかった。111okinawa_050

総鎮守を参拝後、いよいよ世界文化遺産「首里城」に向かった。

 守礼の門の前では、新婚さんらしきカップルが琉球王朝衣装を着て、カメラに収まるところだった。

 (男性の被っているのは帽子ではなく実は「鉢巻」である。)111okinawa_053

王城の入り口「歓会門」

この辺りを裏側の高い所から見ると111okinawa_148

王城の壁は一部として直線的に造られていない事が見て取れる。

もちろん技術的に造れなかったのではなく、造らなかったのだ。というのは、大きく見せるためだろう。

 首里王府は大陸王朝の冊封体制下にあり、冊封使をしばしば迎えることがあった。その際に使者を大いにもてなすのだが、王城は大きく立派であるに越したことはなかった。111okinawa_136

瑞泉門などいくつかの門を経て、奉神門という深紅の建物をくぐるといよいよ王宮の前の広場だが、その奉神門の真ん前にぽつんといった感じで石垣に囲まれた小さな「森」がある。

 これこそが聖地を表す「御嶽(うたき)」で、ここは「首里森御嶽(すいむいうたき)」と名付けられている。

 首里城内には昔は10余りの御嶽があったというが、はっきりその場所を特定できたのは2ヶ所くらいしかない。111okinawa_055

奉神門を抜けると「宮殿」が華やかに広がる。

 首里城は昭和20年3月から6月までの沖縄戦において、灰燼に帰したが、アメリカからの施政権返還後の1974年に再建された。

石垣くらい残っていそうだが、それさえ全面的に造り直したのだそうだ。111okinawa_058

琉球王の玉座

「中山世鑑」によれば、沖縄最初の王統の始祖は「舜天王」で、かの鎮西八郎為朝の子だという。

 為朝は保元の乱の後、伊豆に流され、五島に至り、さらに沖縄まで渡ったと言われている。

それなら琉球王統は1180年代に始まったことになる。

 だが、三山(北山・中山・南山)を統一したのは尚氏の王統で、その名を「尚巴志」という人物だった(王位は1421~1441)。この王が即位したとき、すでに首里城はあったと言われているので、首里城は少なくとも450年の歴史を持つと言ってよい。111okinawa_138  

800円也を払い、靴を脱いで首里王城内を見学したあと、折りよく琉球舞踊の出し物を見ることができた。

 正月だけの催し物なのかどうか知らないが、入場券売り場の反対側の無料休憩所と書かれた建物の平入りの20畳ほどの座敷が舞台になっていた。

 最初はおなじみの「四ツ竹」111okinawa_140

次は「本貫花(むぅとぅぬちばな)」

愛する人に花を捧げようとする女心を切々と踊ってみせる。これは見ものだった。111okinawa_144

「浜千鳥」

船旅に出た恋人の無事を祈る踊り。111okinawa_147

「加那よー天川」

加那はかわいい娘といった意味で、相思相愛の男女の踊り(ただし踊り手はすべて女性)。

 間近で本場の琉球舞踊を見られるとは予期していなかったので、大変よい土産となった。

 ただ帰りの飛行機の時間が迫っていたので、もう一曲あったのだが、振り切らざるを得なかったのは惜しかった。

 しかし、まあ、サービス満点だったと思う。さようなら、沖縄。

                         (沖縄の旅②終り。完)

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沖縄の旅①―南部戦跡と斎場御嶽

姪の結婚式に参列したついでに、二回目の沖縄旅行を楽しんだ。今度は一回目と違い家族4人と実姉を連れた旅であった。

 沖縄と言えば、まず思い浮べるのが教科書で習った「ひめゆりの塔」に代表される沖縄戦末期のすさまじい「鉄の暴風」だろう。

 その次が、優に500年は続いた、日本本土とは別の王朝「琉球王朝」の首府で世界文化遺産にもなった「首里城」であろう。

 ひとによってさらには「エメラルドの海」「ダイビング」などがランクされるだろうが、上記の二つだけは動くまい。

 今回、やはりその定番の見所を中心に、レンタカーの旅となった。

那覇から南に国道331号線を行き、糸満市を通過して4キロほどの国道沿いに「ひめゆりの塔」がある。

入るとすぐ巨大なガジュマルがわれわれを迎える。111okinawa_013

ひめゆりの塔」は観光オフシーズンのこの頃でも、訪れる人はかなり多い。

111okinawa_016 碑の前には献花台があり、皆で花束を供えた。

 千羽鶴を供えて吊るしているお堂などもある。111okinawa_017

いわゆる「ひめゆり部隊」とは、沖縄師範学校女子部および第一高女の女学生百数十名の、おもに傷病兵を措置する「陸軍病院第三外科」に配属されたいわば急ごしらえの看護婦団であった。

 3月から始まったアメリカ軍の沖縄上陸作戦の南下に伴って、第三外科も那覇南部の南風原から、最終的にここまで南下してきたが、米軍の猛攻すさまじく、ついに焼夷弾、手榴弾の犠牲になって命果てた場所である。生き残りは十余名。90数パーセントの16歳から20までのうら若き女性たちが未来ある命をここに捧げた。

 洞窟(がま)が見えるが、あんな息詰まる所で最期を迎えた心中はどんなだったろう。111okinawa_022

ひめゆりの塔から1キロ余りで「平和祈念公園」(平和の礎=へいわのいしじ)に着く。

 喜屋武(きゃん)岬に造られた公園では、毎年6月23日の沖縄県平和祈念日に慰霊祭が行われるが、その時に使われる会場でもある。111okinawa_029

公園の一角には「沖縄県平和祈念堂」がある。

 入館すると、真ん中に巨大な仏像が鎮座している。

 沖縄独特の赤漆で仕上げてあるこの平和祈念像の製作者は「山田真j山」といい、地元沖縄出身で芸大卒の彫刻家だ。

 この像の周りにも千羽鶴が所狭しと供えられている。修学旅行生の心尽くしだろう。111okinawa_032

館内には「平和の礎」の碑に刻まれた戦没者の名簿が備えてあり、見ることができる。

 上巻・中巻は沖縄県民専用だが、下巻には他の都道府県出身者の戦没者名が載る。

 ところが、よく見ると最後の方に米国・英国・大韓民国・台湾・北朝鮮の戦没者が記載されている。

 自国のみならず、沖縄で戦没した人たちを平等に載せているのだ。敵味方を問わぬ世界平和、への力強い後押しと思われた。111okinawa_034

平和の礎

戦火に散った人たちは実は「平和への礎」であったのだ――という崇高な理念で建てられた。

 後ろの方には各市町村ごとに亡くなった人の名を刻んだ黒御影石がどこまでも立ち並んでいる。

 3ヶ月の激戦(3月27日~6月23日)で戦没した沖縄県民は14万9000余名。他県人は7万7000余名。併せて22万6000余名。軍民でなく一般民までが巻き込まれて死んだ数としては、その時点ではおそらく戦史最高の数だったろう(東京大空襲は12,3万)。終戦直前の広島・長崎原爆死者20万に匹敵するすさまじさだ。

 ちなみに件の米国軍民は14000余名。英国軍民82名、韓国364名、北朝鮮82名、台湾34名とのことである(「平和の礎」パンフレットによる)。111okinawa_033

修学旅行生が必ず訪れ話を聞く「平和祈念資料館」の前庭には、不発で引き上げられた艦砲弾や高射砲などが、赤さびたまま展示されていた。

沖縄戦は20年6月23日未明、陸軍沖縄総司令官・牛島満中将と副司令官・長勇中将の自決により降伏終戦となったが、その17日前の6月6日に現地入りし状況をつぶさに観察していた海軍沖縄陸戦隊司令官・大田実海軍少将の次の電文の末尾は大変有名であり、沖縄県民の塗炭の苦しみと真心が伝わる一文である。

  発信者:大田実少将

  受信者:海軍省次官

   『・・・。沖縄県民、斯く戦へり。県民に対し後世、特別の御高配を賜らんこを。』

いくら県民の心が素直で一途に戦争に協力したとはいえ、もう二度と戦火が訪れることのない沖縄であってほしいものだ。111okinawa_039

恒久平和祈念の地を後にして、次に向かったのが、沖縄最東南部に位置する「斎場御嶽(せーふぁうたき)」だ。

 最初に沖縄に降りて来た「あまみきょ」が、ここを聖地として祭った場所という。

「斎場(せーふぁ)」は漢字の沖縄読みで、和語では「いつき・ば」となる。伊勢神宮などの大社で今も残る「斎宮」を思い出す。

 いや、思い出すどころか、この聖地では国王の神女の最高官「聞得大君(きこえおおきみ)」の代替わりの「御新下り(おあらおり)」神事や、その他一年を通じての祭事がここで行われたのだから、「斎宮」とほぼ同じ働きをする所と言ってよい。

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「三庫理(さんぐーい)」

聖地「御嶽(うたき)」の施設(自然物だから施設とは言えないが)の一つで、巨大な琉球石灰岩の断烈により人型の通路ができている。

 通路の向こうからは、晴れていれば海の中の最高の聖地「久高島」が望まれる。祭りの日には久高島の白砂が御嶽一面に散布されるそうだ。

                                     (沖縄の旅①―終り)

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元旦の指宿にて

ブログを見てくださっている皆様、明けましておめでとうございます。今年も気に入る、気に入らないは別にして、どうぞ暇な折にはお付き合いください。

 さて、31日の昼過ぎまでに正月の準備を終え、家内の実家、指宿へ渡航、大晦日から元旦を過ごしたのだったが、あいにくの荒天で、楽しみにしていた指宿国民休暇村の海辺からの初日の出は厚い雲に阻まれてしまった。101ibusuki_009

7時10分ごろに初日が出るだろうと、行ってみたのだが、30分待っても雲に覆われたままの向かいの大隅半島から、お天道様はついに現れなかった。

 冬至に近いので、おそらく根占港かその南に聳える辻岳あたりから太陽が顔をのぞかせるはずだったのに・・・。

 気を取り直して、すぐそこの松林の中にある「旧海軍指宿田良浜航空基地跡」を訪れる。101ibusuki_012

指宿に住んでいた20年近く前、この休暇村の田良浜には子供をつれてよく遊びに来ていて、標柱か何かでその存在は知っていたのだが、今度初めて来てみた。

 直径30㍍ほどの円墳かと見まごう防空壕の上に慰霊碑が厳かに建てられていた。101ibusuki_011

「円墳」の頂上には清潔な白砂利が敷きつめられ、奥に慰霊碑、観音像そして戦没者刻銘碑が建っている。

 後ろには自然生の黒松が見事で、さらにその背景には「魚見岳」の切り立った凝灰岩の巨大な岸壁が迫る。巧まざる造形美の中にあると言ってよい。

 正面碑文には、当基地からは82名の若者が不帰の客になったと書かれていた。101ibusuki_001

霙が混じっているような小雨の中、二月田の近くまで戻ってくると、二反田川沿いにある「殿様の湯」が、なんと元旦から営業している。

(写真の遠方の山は魚見岳)101ibusuki_008

驚いた。寒いので入りたかったが、夕べも入りに来たのでやめておく(朝風呂はなんとやら)。

 何しろ、熱い湯なのだ。源泉の温度は52度で、湯船にはそのまま入ってくる。それを湯船に付いている水の蛇口をひねって調整するのだが、きのう漬かった時には誰も水を加えていなかった。

 慣れがあるのかもしれないが、血圧の高い自分にはきつい。101ibusuki_007

裏手に回ると、殿様湯の名前の由来が分かる。幕末近くの1800年代当時のままの姿が残されていた。

 この湯殿は天保年間に、27代藩主島津斉興が別の場所に豪商浜崎太平次(5代目)に作らせたのを、ここに移築したものだそうだ。

 少し塩気のある温泉で、傷、凝り、皮膚病、冷え性によく、飲用すれば胃腸病に効くという。101ibusuki_006

すぐそこには「湯の権現」が祭られている。

祭神は「オオナムチノ命」と「スクナヒコナ命」。

 たしか道後温泉でも同じ神々が祭られていたと記憶するが、温泉にも命が通っているととる感性は日本人特有だろう。101ibusuki_014

殿様の湯の前を流れる二反田川をさかのぼっていくと、300㍍で「揖宿神社」に突き当たる。

 小雨の中だが、すでに露店が並び、参拝客もかなり多い。

 石の鳥居は大隅花崗岩製で、大根占の港から運んだという。その石工は鹿児島市内にあった五大石橋の製作棟梁「岩永三五郎」というから大した物だ。

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駐車場口から入るとおおぜいの参拝客。

手水舎にある手水鉢も三五郎の作で、寄進者は大河ドラマ『篤姫』では平幹二郎が好演した幕末薩摩藩財政改革家老職「調所笑左衛門」その人という。

 幸野宮司にちょっと質問してみる。

 このお宮は「開聞新宮」と呼ばれるが、どうして?

――貞観年間に開聞岳が噴火し、向こうがやられたので、ここへ避難して新たに祭ったからですよ。

 その前は何か祭られていた?

――天智天皇を祭り、「葛城宮」と言ってました。西暦706年の2月10日に創建したという記録があります。ただ、向こうが再建された時に、開聞神社の祭神が元に戻されたという記録は無いんです。

 じゃあ、再建された開聞神社はもぬけの殻?

――いえ、あちらはもともと開聞岳を神と祭る神社ですから・・・。

 天智天皇は志布志でも祭っている神社があるけれど、どう考える?

――天智天皇は亡くなられた場所が特定されていないので、こっちの方に落ち延びた。そして79歳の天寿を全うされたとも言われているんです。

 ははあ、これは一理ありそうですね。面白くなってきたなあ。今後もお話の方よろしくお願いします。

 それでは、今年も歴史の謎解きにご案内しますので、どうか・・・・・。

 

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慈眼寺公園(鹿児島市谷山)

鹿児島市の中世史研究会11月例会に発表することがあり、市内に行ったついでに晩秋の慈眼寺公園を訪ねてみた。

 そうめん流しがあるくらい水に恵まれた公園で、かって慈眼寺という寺が建っていた幽邃の地だ。谷山街道の繁華街の一角にあるカルカンの菓子舗「明石屋」の所を右折すれば、ほぼ道なりに「谷山護国神社」に出る。そこをさらに直進して高架道路をくぐるとすぐ右手に公園入り口が見える。1122jigenji_005

さしたる工夫も無い入り口を入ると、うっそうと樹木の茂った別天地となる。

 高齢者のグループがこれから付近を散策するらしく、何やら話しあっていた。

 残念なことにモミジの紅葉にはまだ時間が必要のようで、色づいているのはほんの数枝といったところだ。1122jigenji_011

右手の道を直進すると、突き当たりに真っ赤な建物が見える。「稲荷神社」で、島津氏の信仰厚き稲荷神(おいなりさん=ウカノミタマ)だ。石橋の手前にはなぜか「青面金剛」という庚申信仰の石像が建っている。

 橋を渡り参拝する。その橋の上からは、清流の上流部の小さな滝が見える。凝灰岩を見事にえぐっている。1122jigenji_008

滝を眺め、ふと反対側を見て驚いた。

 子供を抱いた観音様?1122jigenji_015

樹木の間に、聖母マリアと幼児キリストか、神功皇后とホムタワケ(応神天皇)か・・・。橋から戻って近くに行くも、それらしき説明板などは無い。

 マリアにしろ神功皇后にしろ「母子像」に違いはあるまい。目と目を見詰め合う母子の間にはゆるぎなき愛と信頼が通う・・・・・。1122jigenji_009

凝灰岩の積み重なった崖と流れの間の、石だらけの道を行くと清流が手に届くようになる。

 谷山地区の山手とはいえすぐそこに人家があるような場所にしては、水は清らかだ。

 慈眼寺という寺名は徳川の治世になって最初の島津氏当主だった島津家久(旧名・忠恒=義弘の子)の法名「慈眼公」に因むのだが、創建は1300年前の日羅上人だそうだ。

 当時から、水は今と変わらず滾々と流れていたのだろう。住み易い所だったに違いない。

 日羅と言えば、「敏達天皇紀」に登場する「葦北国造・アリシト」の子で、百済で人臣位を極めた「達率(と言う位)・日羅」を思い出すが、登場する年代は西暦583年だから、この日羅だと1400年前になるので、微妙に違ってくる。しかも政治家であって僧侶(上人)ではない。同名異人だろうか、だが1300年前の仏教と言えば百済もしくは新羅という半島仏教が導入されていた頃と重なるので、あながち別人とも言いがたい気がする。高位高官なら仏教への造詣も深かったと考えてみてもよい。・・・・・宿題が生まれた。1122jigenji_010

今回、紅葉には早かったのは残念だったが、苔の美しさに瞠目させられた。

 凝灰岩の間に撒かれたシラスっぽい砂地の地面を覆う、細かいビロード風な緑の苔には、流れるような美しさがある。

 この公園が京都か東京にあったら、国の特別名勝として登録されていたかもしれない。それほどの名園が「タダで下駄履きで」味わえるとは贅沢な話。

 ゆめ、ソーメン流しと両棒餅のみに価値を置くなかれ。

 慈眼寺を出て、上手にある「ふるさと考古歴史館」に行く。1122jigenji_017

 入り口のケヤキの黄葉が見事だ。入館料300円也を払って見学する。

 ここでもまずは「篤姫さま」だった。特別展示室に入ると例によって記念撮影コーナーがある。1122jigenji_018

一人だし、写真は撮らなかったが、小松帯刀愛用の甲冑が展示されていたのには驚いた。1122jigenji_020

しかも所蔵者が「自彊学舎」というのだからすごい。自彊学舎は鹿児島では有名な学舎で、藩政時代から子弟の自治教育機関のひとつだった。

 帯刀も同学舎育ちだったのだろうか、伝統の根強さがひしひしと感じられる展示物だ。1122jigenji_025

考古遺物では「草野貝塚」出土の「市来式土器」の多様性が目に付いた。

 市来式土器は日置郡市来町の市来貝塚出土の土器が指標になったのだが、どちらも貝塚で見つかったように、市来式土器人(縄文時代後期=4000~3000年前)はかなり海洋性に富んだ人々で、九州一円から沖縄までを交流圏としていた。

 私見では、周王朝が天下泰平期だったころに「暢草(チョウソウ=香り草)」を貢献した倭人とは、この市来式土器人だったとみている。

 海洋性に富むのであればもっと鹿児島に貝塚が多く発見されてもいいのでは――との批判が出るのはやむを得まいが(鹿児島には貝塚が少なく、これまでに6箇所くらいしか発見されていない)、遠浅の海岸が少なく、おまけに海岸近くまでシラス崖が迫っていることと、降り積もる火山灰に覆われてしまうこともその要因だと思われる。

 火山灰に覆われると言えば、指宿の「弥次ヶ湯古墳」の例があった。本来、高塚の円墳だったのが度重なる火山灰によって覆われ、畑の表土に紛れてしまっていたのだった。それで高塚なのに「1メートル以上も掘り下げて」ようやく円墳だと確認された――という国内では稀な発掘が行われたのである。

 ――鹿児島湾岸ではこれまで高塚(円墳・前方後円墳)は無い、とされてきたが、指宿ではそんな具合にして発見された。だから、この谷山地区あたりにも高塚があっておかしくない、ですよね。

 と、考古館の学芸員に聞いてみたところ、「無いとは言えないですが、なにしろここは行政組織なものですから、ありそうだから掘ってみる、というわけには行かないんです」と逃げられてしまった。

 

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指宿の史跡を巡る(指宿市)

指宿の研修会に出席したあと、翌24日は休みを取り、一日を史跡巡りに当てることにした。家内の実家に一晩厄介になり、翌朝墓参りを済ませてから出かけた。

 指宿と言えば、今は篤姫ブームで大いに沸いているが、それには目もくれず、どうしても史的に確認しておきたいことが3つあった。

 1 縄文時代草創期に属する「水迫式土器」「岩本式土器」の出土地の様子。

 2 日本最南端の「弥次ヶ湯古墳」の発掘地の状況、および、やはり日本最南端の「円     形周溝墓」の発掘地の状況。

 3 幕末日本最大規模の海運業者「濱崎太平次」の造船所跡などの確認。

 1は、最古級の土器2種類に、指宿の土地名(字名)が冠せられていること。つまり最初の発見地であったのが指宿だったという驚きが根底にあって見ておきたかったし、

 2は、鹿児島(錦江)湾岸に限れば、古墳も周溝墓も初の発見であるということで確認したかったし、

 3は、一般的に言って、日本は四界環海の列島だと強調されながら、その海を舞台に活躍した海運(業者)については、歴史上取り上げられることが少なく、遺構も残っていないことが多いが、濱崎太平次の件ではどうなのか、

 そんな理由があってのことだ。このどれもが大きなテーマであって、とても一日のスケジュールに収まるものではないが、うれしいことに指宿には「自遊館coccoはしむれ」という調査の便宜には貴重な考古学博物館がある。1024ibusukinosiseki_084

古代ローマの円形建造物を思わせる博物館には、昨日の研修会後に学芸員の渡部氏にいろいろ質問し、場所や概要などを聞いておいた(このあとに登場する土器などの展示物の写真は、同氏の撮影許可を頂いたものである。無理をお願いしてしまったが、感謝申し上げたい)。1024ibusukinosiseki_052

史跡めぐりの第一歩は、何と言っても「橋牟礼川遺跡」

 博物館からほんの1分ほどの南寄りにあり、真ん中に小川が流れる史跡公園だ。折りしも篤姫で有名な今和泉小学校の3年生が遠足に来ていた。

 ここは、ここで発掘された土器の地層の上下関係から、弥生式土器と縄文式土器の時代的な区分がついた、という、考古学的には貴重な遺跡なのだ。1024ibusukinosiseki_005

橋牟礼川遺跡から、どう回ろうかと思案したが、時代順がよかろうということで、まずは最古級の土器が発掘された「水迫遺跡」を目指した。

 指宿市街地を貫く国道225号を北へ、二月田駅を過ぎて1キロ余りで田口田交差点を左折し、道なりに行くと、どんどん上り坂になっていく。2キロも走ると右角に大きな民家のある四辻に出会うからそれを左折する(写真では軽乗用車の向こうに入って行く)。1024ibusukinosiseki_002

四辻から標高差にして100メートルくらいは登っただろうか、前方左手に牛小屋が見えると、その手前30mくらいの所に杉が5,6本固まって生えているが、そのすぐ下手が遺跡だ。最初は道の遺構(人工の道)が発見されたらしい。

 その後の調査で、15000前の住居跡が見つかり、さらに土器も確認された。1024ibusukinosiseki_064

水迫式土器(破片だが、Ⅰ類とⅡ類に分類されている。Ⅰ類の方がより古い。おおむね11400年前あたりに比定される。)

 (写真はCoccoはしむれの許可を得て写した物。以下、展示物については同様なので断り書きは省略する)1024ibusukinosiseki_072

完形のレプリカはこれ。

 (解説カードにある11400年前というのは、桜島由来の薩摩火山灰噴出の年代で、水迫式土器はちょうどその火山灰層に包含されていた)

草創期、早期の縄文土器はほとんど水迫のような山の中(標高170m)や尾根のような所で見つかっている、というが、そういう所は火山灰の層が薄くて発見され易くなっているためなのか、それとも人が住み着き易く多かったのか、海水面が上昇していたのか、・・・そのあたりがよく分からない。1024ibusukinosiseki_008

次に向かうのは水迫式土器よりは1000年くらい新しいとされる「岩本式土器」の最初の発見地・岩本地区だが、その通り道にある「横瀬遺跡」を見ておこうと立ち寄る。

 水迫から元の四辻に戻り、そのまま広い道路を横切っていく。やや下り坂になり、別の四辻を突っ切るとそのあたりが横瀬地区だ。そこにいた高齢者に聞くと「横瀬は確かにここだが、遺跡は知らん。遺物が出たとも聞いておらん」と言う。「鏡の破片が出たそうで、何かお宮のような物がありませんか?」と訊くと、「ああ、そいなら、そこに神社があっど」

 畑に上がると、確かに青い屋根の倉庫の横に小高い丘がある。そこが神社で「秋葉神社」だそうだ。行ってみると直径15メートルほどの、どう見ても人工的な丘である。畑の真ん中だから古墳の可能性は少ないと思うが、大隅半島の大崎町の内陸部に原田古墳という周囲が100mもある大きな円墳が実在するから、あながち否定はできない。1024ibusukinosiseki_066

横瀬遺跡から出土したという「変形過文鏡の破片」と朝鮮半島の「漁陰洞遺跡」(慶州)出土の「過文鏡」(右)。

 とてもよく似ており、半島との繋がりが想定できる遺物だ。ただ、弥生時代の鏡であるから、今しがた述べた古墳状の「秋葉神社」とは時代が違うので、別個に考えねばなるまい。1024ibusukinosiseki_022

横瀬からは北へ北へと集落の間を抜けてようやく、今和泉のお寺の前の国道に出た。国道をさらに北上すれば、観光客がちらほら見える今和泉駅前を通り過ぎ、右手に指宿商業高校を見て進む。

 と、立派な松林が点々と続くうちに、前方に「道の駅・観音崎」が見えてくる。そこの信号の一歩手前に左へ上がる道があるので、左折する。少し行くと指宿・枕崎線の踏切に出るから、渡ってなおも登っていく。1024ibusukinosiseki_017

登りついた所が「岩本台地」だ。広大、と言うほどではないが、かなりまとまった平坦地が展開する。指宿の温暖地らしく、ソラマメ・オクラ・レタス・キャベツ・絹さやインゲンなどなど、作られている野菜の種類は豊富である。

 「岩本式土器」はここの灌漑工事中に見つかった。10000年前の縄文早期でも早い段階の土器で、水迫式土器に続く物か、とされる。1024ibusukinosiseki_073

完形のレプリカがこれ。

 平底で上縁部に凹凸と貝殻施文があるだけのシンプルな模様で、ちょうどバケツの形をしている。

 鹿児島では一様に出土しているが、平成10年頃、錦江町田代川原の鶴園地区の山中で、狭い範囲に一度に十個体が発掘された時は、唖然としたものだった。1024ibusukinosiseki_014

台地から同じ道を国道へ降り、今度は南下(右折)して「弥次ヶ湯古墳」「南摺ヶ浜遺跡」を目指す。

 ところが途中通過する宮ヶ浜地区がすごいことになっていた。と言うのも、国道沿いの旧商店街が「登録有形文化財(国)」に指定されたというのだ。

 確かに、文化財級の古民家が多い。1024ibusukinosiseki_011

丸十百貨店などはいまだに現役だ。店の右隅の郵便ポストが、例の古いタイプだったら、まさに絵になったろうに、惜しい、と思うのは私だけか。1024ibusukinosiseki_012

左の農機具店は、よく磨かれた木製のガラス戸の中に、デパートの食堂のメニュー見本よろしく、トラクターから耕運機まで並べてあった。

 古いバイク屋なら、そんな光景がままあるが、トラクターがガラス戸越しに鎮座している商店など、見たことがないので驚いた。商店の気風か伝統か、奥ゆかしさを感じる。1024ibusukinosiseki_024

弥次ヶ湯古墳は指宿市役所の前の道を指宿駅方面に向かい、犬猫の「砂蒸し温泉治療」で有名な「黒木動物病院」の少し先を右折した所にある。

 新しく市営団地を造っている時に、火山灰堆積層の下から見つかったという。火山灰のパックがなかったら、水田耕作などでかく乱されてしまっていただろう。1024ibusukinosiseki_023

再び土で被覆し、古墳と分かるようにマウンド状にしてある。マウンドの上には説明タイルが置かれている。

 今の所、日本最南端の古墳(円墳)で、築造年代は5世紀後半から6世紀前半という事である。1024ibusukinosiseki_045

次に向かったのが、これまた日本最南端という「円形周溝墓」が発見された「南摺ヶ浜(すりがはま)遺跡」。

 摺ヶ浜と言えば、指宿温泉街でも最も賑わう、温泉地らしい界隈だが、そこに向かって岩崎観光ホテル入り口の信号から浜への太い道が造られつつある。この造成中に円形周溝墓が見つかった。1024ibusukinosiseki_046

周溝墓は弥生時代の墓で、薩摩半島では初めての出土。大隅半島なら志布志市松山町の京ヶ峰遺跡では、20基も見つかっているから、そことの関係だろうか?

 ただ松山町は内陸部の台地であるから、環境は大いに異なる。

 遺跡の向かいの秀水園はプロの選ぶホテル百選のトップクラスの常連だそうだ。1024ibusukinosiseki_030

さて、考古学の対象である最古級の土器出土地と、日本最南端の古墳および周溝墓の出現地の確認は終えたので、最後に、時代はぐっと新しく、幕末の偉人探索モードに切り替え、市街地中心部に向かった。

 偉人とは海運業者「濱崎太平次(8代目=1814~1863)」である。まずは生誕地。現在はNTT指宿局が建つ。1024ibusukinosiseki_026

生誕地碑の建つ筋を、NTT指宿局の壁沿いに行き、四辻を右折すると広い公園に突き当たる。旧専売公社跡地に造られた公園である。

 その公園の一本道路を隔てた左手に、「みなと児童公園」がある。人家が公園に迫る一角にあるのが「第八代太平次の墓」だ。案内板が無ければ、気がつく人は少なかろう。それほどの片隅に鎮座している。

 説明によると、濱崎家の代々の墓は片野田の市営墓地に移したが、第八代だけはこの地とのゆかりが強いので、一基だけ残したという。1024ibusukinosiseki_040

生誕地跡から、港へはほぼ一直線だ。きちんとした町割りは当時からのものなのか、歴史の香りのする町並みを抜けるとそこは指宿新港で、付け根に漁協のある新しい波止場。

 先端に行くと「太平次公園」になっており、大きな銅像が見下ろしている。銅像の立派さに比べると、墓のつつましさが気になるほどだ。1024ibusukinosiseki_041

新波止場から見る生誕地方面。

手前の海沿いの人家あたり一帯が濱崎家の「造船所」だったようだ。広さは7反(2100坪)あり、一度に三隻の帆船を造る事ができたという。

 一隻で最大が33反帆という。石数で言うと「千五百石」つまりメートル法では210トン積みの船ということになる。1024ibusukinosiseki_038

20万トンもある現代のタンカーとは比ぶべきもないが、推進力が帆と人力だけだった時代、200トンを荒波に沈めるわけには行かず、航海には大変な力量を必要としただろう。

 そんな海の交易が幕末の薩摩藩財政を大きく支えていたことは忘れられがちである。

(写真は潟口港。右手の石積みは当時の物。向こうの山は魚見岳)1024ibusukinosiseki_033

曽祖父「湊太左衛門」が建立した稲荷神社。

 濱崎家は江戸時代の初め頃は国分八幡神社の神職だったが、わけあって指宿に移住し、海運で名をなした。とりわけ太左衛門は、寛政年間に全国長者番付で西の大関になっている。

 こんな神社建立はお手の物だっただろう。1024ibusukinosiseki_036

神社の裏手に回ると、大きな記念碑が二基も建っている。

 右側のは由来書きで、内容は濱崎一族の海運の隆盛と、薩摩藩への貢献をうたったもの。撰者は大久保利通の孫・利武。昭和7年の建立とある。

 これだけでも確かに偲ぶよすがにはなるが、証拠の残りにくい海運は、弥生時代の昔からの活躍がありながら、歴史の表舞台から消える一方だ。心して記憶に留めておかなければなるまい。特に、鹿児島の歴史は、「海からの視点」を採り入れなければ、解明は困難なのだから・・・。

  

 

 

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鰻温泉(指宿市山川町鰻)

指宿で職場の研修があり、早く終わったので、鰻温泉まで足を伸ばした。20年近く前、指宿に住んでいた頃に、3回くらいは行った記憶があるが、このところとんとご無沙汰していたので、行ってみることにした。1023unagionsen_010

指宿からは国道225号線を開聞岳方面を目指し、成川トンネルを抜けて、県立山川高校を左に見たら、間もなくある信号を右折する。

途中から見えた竹山。独特のとんがり帽子だが、あそこには天狗が住んでいるという伝説がある。とんがり帽子を天狗の鼻に見立てたものか。1023unagionsen_009

いつ来ても神秘的に見える鰻池。

池田湖に怪獣「イッシー」がいるなら、ここには「ウッシー」がいてもおかしくはない。

白い建物の向こうに鰻集落がある。1023unagionsen_007

鰻温泉と言えば、西郷さん。征韓論に敗れた西郷は明治6年に郷里鹿児島に隠遁して以来、県内中の温泉に療養と狩猟を兼ねて出かけている。

鰻温泉での定宿は家村家で、湯治とうさぎ狩りに日を送ったらしい。1023unagionsen_008

維新の功臣の一人で、征韓論後に同じく下野して郷里佐賀に帰ったのが江藤新平だった。江藤は反政府の佐賀の乱を起こし、形勢不利となったので、西郷にも決起を促しにこの鰻温泉までやって来ている。

二日間の説得に、西郷は応じなかった。江藤はあきらめて日向路を逃げ延び、土佐に入ってから官軍に逮捕された。どうせ西郷も立った(西南戦争)のだから、その時一緒に行動すればよかった――という考えもあるが、もし立っていたら完全な内乱になり、国内は疲弊し、ただでさえ危うい欧米との関係の均衡が破れ、日本は彼らの草刈場になった可能性が高かったろう。1023unagionsen_004

こぢんまりとした「鰻地区区営温泉」。

西郷さんの逗留した家の3軒ばかり下にある。入浴料200円也を払って入り口を入る。1023unagionsen_001

脱衣所に張り紙がある。

何の小鳥だろう。青い鳥ならいいが、借金取りは困るぜ・・・。1023unagionsen_003

20年ぶりの浴室は総タイル張りでなかなかの物。

以前は床も湯船も総コンクリート製だったと記憶する。壁も木張りではなかったか。ただし湯船は二つあった気がするが・・・。

湧出温度は88.8度。pH6.4という高温の酸性泉で、皮膚病系にはよく効くようだ(もちろん適温にしてある)。1023unagionsen_006

湯を出てから、裏手の泉源に回ってみる。

硫黄のにおいと立ち昇る湯煙。右手が区営温泉の建物、奥の二階建ては湯治客用の民営の温泉だ。1023unagionsen_005

民家の庭先に引かれた泉熱の高温蒸気。

ここでは「スメ」と言っているが、ちょっとしたカマドとして利用されている。

電気・ガスのない時代には、さぞ重宝したことだろう。

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小松帯刀の私領「吉利(よしとし)郷」

 戦国末期に島津氏に降伏した肝付氏と並ぶ大隅の雄族「祢寝(ねじめ)氏」の移封地・日置郡日吉町吉利(よしとし)、現在の日置市吉利 を巡る歴史探訪ツアーに参加した(鹿児島中世史研究会主催)。0619yoshitoshigou_001_2

  曇りだが時々晴れるまずまずの日和。

 鴨池フェリー港から伊作峠経由で50分、早くも目指す吉利・小松氏の墓地に到着。墓地は日置市日吉支所(旧日吉町役場)の南1キロほどの所だ。周辺の畑より比高10mの高台の一角にある。

 ここは小松氏がまだ祢寝(ねじめ)氏だった時、発祥の地・南大隅町根占に建てていた曹洞宗・園林寺を移築し、明治の廃仏毀釈で潰滅した跡だ。0619yoshitoshigou_003

 案内役の日吉町史談会会長によると、この墓地には祢寝(ねじめ)氏が島津氏に降伏する直前の第16代「祢寝重長(しげたけ)」から、移封後に小松氏と姓を変えた後の32代「小松重春」までの墓があるという。

0619yoshitoshigou_011_2 入り口から約100メートル奥に、一族の墓が立ち並ぶ。

 目指す小松帯刀の墓は、10m下の畑に落ちないように仕立てられたフェンスに沿うようにあった。フェンスとの距離はわずか1メートル、人がひとりしゃがみこんで拝むと、その後ろは誰も通れないくらい狭い。

 写真、右端の灯篭は明治初期の名横綱「陣幕久五郎」の奉納。左手に屋根のある墓が三基並んでいるが、手前が義理の父であり、義理の兄でもある280619yoshitoshigou_009_2 代清猷(きよみち)の墓。次が27代清穆(きよあつ)、その隣が29代帯刀こと「小松清廉(きよかど)」の墓だ。さらに奥には帯刀の正室「おちか(近・千賀)」のがある。

 向こうに見える樹林を少し切り開いて、そこにこっち向きに建立すれば楽に参 拝ができたろうにと首を傾げる。もしかしたらすべての墓の正面方向が本籍地である根占なのだろうか。墓の向きを決める時によくある事例だ。

 特筆すべきは、正室おちかの他にいた第二夫人「琴(仙子)」の墓があることで、琴は帯刀が京都屋敷にいて薩長同盟を坂本竜馬の手配で結んだりして大活躍していた時に、鹿児島に居たおちかに代わって身の回りの世話をした祇園の名妓である。

 おちかには子が生まれなかったが、この琴にはのちに嫡子となる第30代清直が生まれた。明治3年に死んだ帯刀のあとを追うように4年後に琴も死ぬが、0619yoshitoshigou_013  

 ちかは帯刀ともども琴をもこの墓地に改葬し、遺児の清直を育てたという。

 千賀はその後10年ほどして亡くなっているが、姉さん女房の懐の深さには頭が下がる。

 次に行ったのは吉利郷の「御仮屋跡」。農業法人兼財団法人「小松吉利郷」の現地支配人事務所だったところだ。今は吉利小学校になっている。0619yoshitoshigou_014

校門から入って行くと、玄関の手前に何やら石造物。説明書きを見ると「根占から移封された時に持参した手水鉢」だそうだ。さほど手の込んだ造りとも思えないが、わざわざ持参したところをみると、よほど思い入れのある物なのだろう。

 根占からの転封は17代重張(しげはる)の時で、文禄4(1596)年、祢寝姓が小松になったのは25代清香(きよか・きよたか)の代で、江戸中期・宝暦のころとされる。0619yoshitoshigou_017

 御仮屋跡から少し南下し、左折して永吉川に架かる「永吉橋」が見えてくる頃、左に永吉島津家墓地「天昌寺跡」への道がある。

 入って30メートルも行くと墓地の入り口があり、タブの大木の向こうに大きな五輪塔が林立しているのが分かる。

0619yoshitoshigou_019_2  中で注目したいのが、島津久敬(ひさたか=天璋院篤姫の次兄)の墓で、久敬はこの永吉島津家に養子に入ったのだった。

(久敬の墓の後ろに、永吉島津家初代の墓が見える)

0619yoshitoshigou_023 このあたりの高台からは必ず「金峰山」が望まれる。

 (天昌寺跡を見た後は昼食をとったが、その前の国道越しに見たところ)

昼食後は、再び吉利小0619yoshitoshigou_028 学校に戻り、すぐ近くにある「清浄寺」に参詣した。

 この寺は、小松家墓地があった「園林寺」が廃仏毀釈でやられたあと、明治15年頃に開設された浄土真宗大谷派の「吉利説教所」が発展した寺で、今では園林寺に代わって小松家の菩提寺になっている。

 本堂の中に入って驚くのは「清浄山」という堂々たる扁額だ。

 これは帯刀の妻ちかの兄で28代当主だった「清猷(きよみち)」が、わずか13歳の時に0619yoshitoshigou_032書いたというから驚くほかない。

 本堂奥に祭られる「木造・阿弥陀如来像」は、平安中期の源信僧都の作とのこと。源信は『往生要集』を著し、浄土信仰を確立したと言われる名僧知識である。

 もし本当に源信の手になるものなら国宝級だが、この寺にやって来たいきさつはお千賀さんがらみで、寺の住職のはなしによると、夫・帯刀の死後の冥福を祈るため、鹿児島市内の不断光院に参詣を繰り返していたところ、本尊が余りに見事な阿弥陀像のため、是が非でもと懇願して譲り受けた。0619yoshitoshigou_034

それを持仏堂を作って安置し祈っていたが、やがてお千賀さんも他界し、その後、明治30年になって息子の31代清直がこの清浄寺に寄贈した、という。

 また、この寺の門前に「瀬野家」があるが、その先代は『幻の宰相・小松帯刀』を著わして、小松帯刀の維新における大功績を讃え、後世に伝えようとしたことで有名で、さらに鹿児島東郵便局にあったとされる小松屋敷跡の近くに立つ小松帯刀像(銅像)は、氏の尽力によって造立されている。

 すべてを巡回したあと、途中で出会った田の主。0619yoshitoshigou_038

このあたりは早場米の産地だとばかり思っていたが、今から田植えをするという。銘柄は「ひのひかり」だそうだ。

 金峰、吹上、日吉あたりの山田は、鹿児島で最も古い田園地帯だ。おそらく弥生時代前期にはすでに米が作られていただろう。

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指宿行き

 0502ibusuki_002 家内の曽祖母の50年忌と祖母の祥月命日の年忌とを兼ねて、年忌法要が行われるというので指宿に出掛けた。

 家内は昨日から泊りがけで行っているので、日帰りの自分は大根占港まで単車で行き、そこに駐車させて単身フェリーに乗り込んだ。

 「なんきゅうフェリー」と言い、5,6年前から指宿間を運行している会社だ。今回で3回目か4回目だが、自分はこの19トン(総重量60トン)フェリーが気に入っている。でも、家内は何時だったか、とても波の高い日に乗り合わせてひどい目にあって以来、もう乗らないと意地を張っている。現に昨日は根占フェリーで指0502ibusuki_001 宿に行った。

 大根占港の風景の良さは、錦江湾内でも指折りだと思うし、ここから出航してすぐ、甲板から右手に桜島、左手に開聞岳を海風と共に眺められるのも、小型フェリーの特典だ。

 今日はその上に、おまけがあった。0502ibusuki_008

 出航して20分余り、ちょうど中間点を過ぎたあたりだったか、前方に指宿の展望台「魚見岳」、陸繋島で有名な「地林が島」それに豆粒のようにかわいらしい「地林が小島」が並んではっきり見えてきたので、写真を撮った。

 ほんのわずかの後、「あれ、やけにカモメが海面すれすれに飛んでいるな」と思う間もなく、一条の大群へと変わった。すると同じ海面に黒っぽい物がジャンプしたではないか。

 イルカだった。イルカが三頭か四頭ほど、まるでカモメに追われるかのように時おりジャンプしながら、かなりのスピードで泳いでいく。0502ibusuki_009_2 

 最初あっけに取られていたが、デジカメ目一杯の望遠で撮ったら、やっと一枚のそれも左上の隅っこに写っていた。

 それもたったの一頭だけ、しかし背びれがくっきりと分かる。

 以前、根占フェリーで一度、高い甲板からお目にかかったことがあったが、間近に見るのは初めてだ。0502ibusuki_012

イルカたちが追っかけているのは、キビナゴか何かの小魚の大群のようだ。

 よく見ると、カモメの中には、海面にピチピチはねるその小魚をキャッチしているのもいる。

 何のことはないうららかな大海原で「食物連鎖の弱肉強食」が行われている――のだが、それを言っちゃあおしめえよ、で、ここでは「イルカウォッチングを楽しんだ」ことにしておこう。

 こういう特典つきで、船賃600円は、安いものだろう。

0502ibusuki_017 間もなく指宿港に接岸、45分の船旅がおわる。

 すでに5,6台の車が待っていた。15分後には再び大根占港に向けて出航するのだが、一日4往復のダイヤを組んでいる。

 (なんきゅうフェリーのホームページはこちら

 港の岸壁では、中学生たちがスケッチの真っ最中だった。0502ibusuki_018

家内の実家は同じ指宿でも、ここ指宿駅のある温泉地帯よりひとつ鹿児島よりの二月田駅の近くで、車で20分ほどかかる。

 法要は二月田の薩摩藩公がよく利用したという「殿様の湯」の近くの寺で行われた。0502ibusuki_025 浄土宗の寺で法然上人の銅像などがあったりする、静かな環境のところである。

 法要後の昼食兼「厄落とし?」の飲ん方で、しこたま腹に落とし込んでいたら、あっという間に帰る時間になった。帰りのフェリーは家内運転の車のため、なんきゅうフェリーはパスされ、山川(根占)フェリーのご利用と相成った。

 なんきゅうフェリーに乗るとき、夕方帰る時も利用するから単車を置かしておいてくれと頼んでおいたのだが、没。約束違反、ごめん。また利用するからさ、と心の中で言い訳をつぶやく。0502ibusuki_026

夏時間ではないので、根占行きの最終便は16:10と早い。

 「ぶーげんびりあ号」と名付けられた中型フェリーは、鳥羽商船の中古だというが、昔の根占フェリーより客船としての使い勝手はいいような気がする。

 何より、靴を脱いであがる畳(実際はカーペット敷き)の部屋があるのが良い。横になれる。

0502ibusuki_027 山川港は火山の火口に海水が入り込んでできた「噴火湾」であるゆえに水深が深く、地場産業としての造船が盛んだ。

 写真の造船所の陸側は急峻な崖になっており、海沿いの道路と崖の間から「崖葬の女性人骨」(弥生後期~古墳初期)が発見された。副葬品から女性シャーマンではないかと言われている。

 南九州のみならず九州は女性の首領が多かったのが特徴だ(景行紀など)。

0502ibusuki_033 出航して間もなく、寝そべっていた隣りに若い(いや中年かな)男性が荷を降ろし、しきりに地図を眺めている。

「どこから来たの?」から始まった会話は、篤姫から特攻隊まで切れることが無かった。聞けば北海道は小樽から来たそうだ。

 南九州を自転車で西から回り、今日(2日)は神川浜キャンプ場に泊まり、明日は鹿屋海上自衛隊航空基地史料館を見学し、志布志から日南あたりまで行くという。根占港に着いたところでワンショット。先々の無事を願って別れた。

 

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遠賀川を歩く(福岡県芦屋町・水巻町・飯塚市)

0328dazaifuongagawa_042 北九州の二日目に、かねてより実見したいと思っていた遠賀川式土器の最初の出土地を訪ねてみた。

 北九州市八幡西区から遠賀川に向かい、土手に突き当たるとその上は立派な道路で、県道73号線として活用されている。上った右岸を左に(上流方面に)行けば数キロで遠賀川式土器の発見された地点があるのだが、広々とした川を眺めているうちに、河口まで行ってみたくなった。0328dazaifuongagawa_041

1キロ余り下流に行くと「御牧大橋」があり、それを左折して対岸に向かう。向こう岸は地名が「島津」なのも何かの縁か、そこを右折してすぐに見えるのが「河口堰」だ。

 もう少しで橋を渡る。橋からは河口が望まれた。橋の名は「祗園橋」で完全に芦屋町の領域に入る。

0328dazaifuongagawa_035 橋を渡り、その名も船頭町の中を行くこと150メートル、神社の境内が見えてくる。これが仲哀天皇の8年条に登場する「大倉主・菟夫羅媛(つぶらひめ)」という夫婦神を祭った「岡湊神社」で、創建1800年というから最古に近いお社だ。

 何でも、崗の湊(遠賀川河口)を支配していた熊鰐(くまわに=熊襲の一種族か)が天皇一行に恭順し、ここへ来て天皇の船が進まなくなった時に、上の夫婦神の障りだと進言した。そう言われて祭ったところ、船は無事に動くことができた――それ以来、この夫婦神を祭り続けているという。0328dazaifuongagawa_039 船を動かせないのは船子(かこ)の支持を得なかったことを表しているのだろう。船子を差配する熊鰐が、心底からは恭順していなかったということか、それとも熊鰐ですら船子を支配しきれていなかったということか。

 (ここは芦屋町だが、「芦」は植物のアシではなく、航海民の「アジ(味)」つまり半島をも行き来する「アジカモ(味鴨)」のアシ(アジ)から来た名に違いない。)

 拝殿も本殿も銅板葺の瀟洒な造りであるが、ここでもらった由緒書きを見ると、何と天満宮本殿と同様、こちらまで攻めてきた島津軍による戦火で、天正14(1586)年に焼け落ちている。やはり西軍が負けるわけだ。

 天満宮の再建は、焼かれてから5年という猛スピードだったが、こちらは実に60年という時を必要とした(時の筑前領主は黒田氏であった)。0328dazaifuongagawa_050

熊鰐の本拠地「芦屋」からもと来た道を引き返し、再び遠賀川の右岸道路(県道73号線)を、今度はどんどん南下する。右手に見える川は広く、河川敷も相当な幅がある。土曜日とあって釣り人や、ウォーキングの人々が河川敷のあちこちに見える。

 行くこと4キロほどで、国道3号線と鹿児島本線の並んだガード下をくぐると、行く手に数本の大きなイチョウが立ち並んでいる。それが「遠賀川式土器発見地」の目印。0328dazaifuongagawa_057

川に近いほうのイチョウの木の下に、屏風状の風変わりな標識が立つ。発見地はそのすぐ下の河川敷らしい。標識には「稲作発祥の地」とある。発祥地は、教科書では同じ福岡でも博多の街中の「板付遺跡」となっているが、遠賀川式土器も板付式土器と同程度に古い(弥生早期・前期)ので、そのように説明できるとしたのだろう。

 水巻町では、73号線沿いに右の写真のような道案内を兼ねた遠賀川式土器のレプリカ付きの標柱をずらりと立てて、道行く者にアピールしている。出色だ。0328dazaifuongagawa_058_2 

この立屋敷遺跡は昭和6(1931)年に発掘された弥生時代の集落跡で、文様のある弥生式土器は当時珍しく、前期に位置するとして特に「遠賀川式土器」と命名された。遠賀川式土器は西日本全域に稲作文化波及の担い手とともに伝わったとされる。

 立屋敷地区は今でこそ立派な土手のある水田地帯だが、縄文時代早期後半から後期ごろまでは海中かもしくは汽水域になっていて、集落の営めるところではなかった(九州国立博物館のジオラマによれば、中流の直方市あたりまで海水が入っていたという)。縄文晩期からの寒冷で水が引き、この低湿地でも生活が営めるようになり、遠賀川土器人が活動を始めたのだろう。0328dazaifuongagawa_053 

 遠賀川式土器が広く普及した背景に、交易を担った航海民の姿を見てしまうのは筆者だけか? 

 それは措くとして、遺跡の100メートルほど下流側に、石の鳥居の神社が、やはり大きなイチョウを目印として建立されている。「八剣神社(やつるぎじんじゃ)」といい、祭神はヤマトタケルと当地で娶った砧姫(キヌタヒメ)である。0328dazaifuongagawa_055

ここのイチョウの巨樹が面白い。というのは、このイチョウと同じ遺伝子を持つ木が、何と、島根県の太田市と韓国慶尚北道の亀尾(グミ)市にあるというのだ(平成16年に確認)。最近の遺伝子研究の発展には驚かされるが、ただしそれによると樹齢は600年ほどらしく、神社がかねて伝承してきた「ヤマトタケルお手植えのイチョウなので、樹齢1800年以上」という説明に合わなくなってしまったのは残念だろう。

0328dazaifuongagawa_076_2 遠賀川右岸上の県道73号線は快適なドライブコースで、川を常に見渡しながらひたすら南を目指す。約20キロで直方市に到り、そこからは国道200号線に乗り換える。

 さらに15キロほどで筑豊・嘉穂盆地の一大都市・飯塚だ。ここにあるのが「立岩遺跡」で、弥生中期からの嘉穂地方の王者がいたという所、その証拠が「飯塚歴史資料館」に収蔵されている。0328dazaifuongagawa_065

展示室でとにかく目立つのが大小あまたの甕棺で、王者と思しき人物の埋葬も巨大甕棺になされていた。

 副葬品の前漢鏡が立岩遺跡群全体で10面発見されており、枚数では糸島地方の平原遺跡の30面以上や、博多地方の須玖遺跡の20数面には及ばないが、すべて完全な無傷の個体群であったということでは唯一無二であるらしい。0328dazaifuongagawa_073 

中でも、立岩堀田遺跡で見つかった甕棺には、銅矛とともに前漢鏡が6面もあり、飯塚いや嘉穂盆地全体の弥生前期の王者の墓とされている(左はそのレプリカ)。0328dazaifuongagawa_074_2

 

前漢鏡は優品がほとんどで、銘の入った物も三面あり、学術的にもすぐれた遺物になっている。

また、特筆に価するのが「平絹」と「貝輪」で、前者は副葬の鉄矛や鉄剣に付着して残されており、弥生中期に絹織物を生産していたという証拠になった。また後者は九州南部や南西諸島との交0328dazaifuongagawa_069_3 流・交 の史実の物証となるものだ。

 立屋敷遺跡もそうだが、やはり航海民による海を介した交易が行われていたはずで、このような交易活動の中心的交換価値品目が、立岩に特徴的な輝緑凝灰岩製の「石包丁」なのであった。前漢鏡や平絹を取り入れた王者はこの技術品の生産者でもあったのだろう。0328dazaifuongagawa_067

 玄界灘に注ぐ最大・最長の川である遠賀川。その流域は、水田農業の揺籃の地であったばかりでなく、航海を通じた交易の拠点でもあったということができよう。

(右の写真=多量の貝輪を腕に装着して葬られた人物は、祭祀を司る者とされる)

   マップ

 

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太宰府天満宮と九州国立博物館

 息子の転学で、北九州に送る途中、太宰府を訪れた。0328dazaifuongagawa_024

 天満宮はだいぶ以前に、一度来たことがあるが、今度は九州国立博物館の見学と併せることができた。

 途方もない大きさというのが第一印象の九国(略称)で、次の印象が何と変わった建物か、だった。ちょうどオリンピック仕様のドーム型競技場のようで、両面がブルーのガラス張りである。0328dazaifuongagawa_009

一般展示の入館料大人300円也を払って中に入ると、圧倒される広さと高さで、やはり巨大体育館を連想する造りだ。

 正面に土産物ショップがあり、その向こう、ガラス張り壁近くのエスカレーターで4階にある展示室に向かう。

0328dazaifuongagawa_007 一気に三階まで上がると、そこは特別展示室で今回は「王朝絵巻展」が開かれている。

 国宝級の絵巻がたくさん展示されているというが、1300円だか1500円だかの高額観覧料もさることながら、時間もそこそこしかないので、今回はパス。次のエスカレーターで4階に行く。

 0328dazaifuongagawa_002_2 入り口には大宰府を守るために築造された「水城(みずき)」の模型や、天満宮の楼門の模型などが展示され、九国がこの地に建てられた理由をさりげなく伝えている。残念ながら写真撮影ができるのははここまで。

 展示のコンセプトは「海を介した交流」で、東アジアはもとより東南アジア、西アジアとのつながりを示す考古遺物、歴史遺物が、ほどよい照明の中で存在感を示していた。中に 愛知県豊川市の山間部にある「横田美術館」の紀元前タイのバンチェン彩陶土器が出品されており、30年近い空白を経ての再会に感激しばしであった

 今度来るときは、半日くらいの余裕をもって見学しないと、と思い方だった。0328dazaifuongagawa_018

博物館のむき出したアーチの並ぶ側面を行き、ちょっとした地下通路のようなところを抜け降りると、そこはもう天満宮の境内で、右手には天満宮動物公園が見える。

 しばらく梅林の中を行くと、参拝客でごったがえす参道に出る。正面に向かうと極彩色の楼門がある。高さは15メートルはあろうか、浅草の雷門のように大きな提灯がぶら下がる。0328dazaifuongagawa_014

本殿はこけら葺の古風なつくりで、天正19(1591)年に筑前領主・小早川隆景が再建したといい、重要文化財。向かって右に生えている梅の木は「飛び梅」で、菅原道真の故事に因む梅だ。

 今、再建と書いたが、それ以前の本殿を焼いてしまったのが、九州北部に攻め入った島津氏だそうだ。西軍0328dazaifuongagawa_021 から東軍に寝返った小早川秀秋(豊臣秀吉の正室ねねの実兄の子)は再建した隆景の息子で、そのために西軍が敗れたのも、元はと言えば天満宮焼き討ちの恨み?あるいは天神様の怒り?と考えると、歴史は面白い。

 再び楼門を出て、そのまままっすぐに参道を下ると太鼓橋があり、それを渡った池の中の小島に小さなお宮がある。「志賀社」といい、海人族安曇氏の奉祭する海の神をまつる。こんな所に?と思うが、同じ筑前国であることを考えると、遠いようで近いのが、航海民の存在だ。

0328dazaifuongagawa_022 参道も終わり、右手はにぎやかな土産物店の並ぶ通りの入り口。その反対側に、立派な屋形門の奥にどっしりとした造りの邸宅が見える。

 門の表札でそれと知れるこの家の主は「西高辻家」。天満宮の宮司で道真の子孫という人だ。1100年は続く家柄で、代々惣領相続なら40代にはなるだろう。京都の北野天満宮のほうが創建は古いが、あちらは道真の子孫ではない。 0328dazaifuongagawa_079

 博物館に停めておいた車に戻り、大宰府政庁跡に向かう。意外と距離はあり、10分ほどもかかって国道3号線「都府楼前」信号を右折して到着。

 国道あたりもかっての大宰府官庁街の一部で、東西・南北ともに約2,5キロほど0328dazaifuongagawa_080_2 の広さがあったとされる。その中心に建設されていたのが「政庁」で、都府楼という言い方もする。

 ところが政庁跡の正殿礎石の間に建つ石柱には「都督府古跡」と刻まれている。いったいどれが正式な名称なのか分からない。地図でも「大宰府政庁跡」というのと「大宰府都府楼跡」と二通りあり、ここではさらに「都督府古跡」だ。

 筑紫都督府というのは白村江の戦いで敗れたあと、唐によって置かれた0328dazaifuongagawa_082_2 「占領監視所」のはずである(天智紀6=667年11月条)から、「都督府古跡」では「唐による占領軍が置かれていた記念碑」になってしまわないか?

 古田史学では、大宰府こそが「九州王朝府」であるが、まだその方に理があると思う。

 宣化天皇の元年(536年)に置かれたとされる「那津の官家」(博多奴ノ津)が、移動して発展したのが大宰府とされているが、それより以前から何がしかの勢力の中心があった所に違いないと思う。0328dazaifuongagawa_083

政庁跡の西側の桜は3分咲きというところだが、大勢の花見客が繰り出していた

菅原道真が権帥として流されてきたのが延喜年間(901~903年没)、かの島津荘を拓いた(万寿3=1026年)平季基がこの政庁で大監という四等官として勤めていたのは千年代の初期であるから、道真没後100年ほどのこと。時代は、藤原摂関家の全盛時代になっていた。

 マップ

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島津荘の中心地(都城市早水町)

 大河ドラマ『篤姫』で、ちょっとした歴史論争が起きている。

 島津氏発祥地は鹿児島県出水市か、それとも都城市か、というものだ。

 出水市の野田町「感応寺」には、初代の島津忠久以下5代までの墓があるので、まずそこが島津氏発祥の地といっても差し支えないだろう。少なくとも、当の島津氏がそこを「墳墓の地=青山」と認識しているわけだから、他者がくちばしを入れる必要はないだろう。

 折も折、都城に居る長男に用事があって出掛けたので、都城市が「こここそが発祥の地だ」とする「祝吉(いわよし)御所跡」を見ることにした。

Iwayosigosho  国道10号線を南から市内に入ると、ほぼ北に向かって繁華街を行くことになる。

 約2.5キロで平江交差点(看板あり、山之口町方面へ)を右折、1キロ弱で向こうにダイエーの見える交差点を今度は左折。

 高架を越えると右カーブになり、二つ目の信号(変則5差路)を右手の方にとると、1キロ余りで左手に早水公園が見える。そこの信号を過ぎたひとつ先の交差点を左に折れ、約500メートル北上したあたり、左手に入った所に「祝吉御所跡」がある。

2008217maturimeguri_013  奥に2基の立派な石碑のような物。その手前には白いタイル張りの「祝吉御所跡」の説明看板が建っている。看板というとトタン板を白塗りし、その上にペンキで字を書くのが普通だが、ここのはコンクリート製のい土台にタイルをはめ込み、青系の色で説明書きがしてある。

 それには「元暦2=1185年に、源頼朝によって島津荘の下司職に任命された惟宗忠久は・・・」とあり、さらに「この祝吉御所に赴任して、2年を過ごした・・・」とする。

 なるほど、確かに忠久は当時そのように任命されたが、本人は鎌倉の頼朝のもとにあって忠勤を励んでいた、というのが本当らしい。ただ当地には、家中の事務官僚や武士を派遣し荘園の政所(事務所)を建てたのは確かだろうし、惟宗姓を捨てて島津姓を名乗り始めたというのも事実であったろう。2008217maturimeguri_032

 2基の大きな石碑のうち、右の「祝吉御所旧跡」碑は「祝吉政所旧跡」ととれば問題ないとしても、左の「島津家発祥地」はちょっと拡大解釈が過ぎるのではないか。

 これが「島津姓発祥地」なら分かる。国内最大級の荘園「島津荘」の「島津」を姓に用いるというのは、大いに誇らしいことであったろうし、ここを本拠地として自己増殖を図っていこうという決意を感じ取れるネーミングだ。

2008217maturimeguri_071  島津荘の開発者は、忠久が関わりを持つ160年も前の平季基(すえもと)で、季基は大宰府の大監という高級官僚でありながらこの地に目を付けて開発させ、これを関白家(藤原頼通)に寄進して領主に納まった。

 当時の中心地は、市の南部・梅北町周辺であったが、160年の間に北へ北へと開発の手は延び、低湿地であった早水地帯周辺まで荘園化したのだろう。その主体は季基の後裔(入り婿」)である肝付氏だったらしい。市の東にある三股町にも荘園領が700町あったというが、そこは肝付氏の中世における重要な所領だったことからも判断できる。

 祝吉御所跡の南方には早水公園があり水の湧く池が広がるが、その池のほとりには早水神社が鎮座する。

 祭神は「髪長姫・仁徳天皇・牛諸井」で、髪長姫は仁徳天皇の后になった美女だという。牛諸井は髪長姫の父親で、都城周辺から志布志・大崎町までをも含む広大な諸県郡の当主だった人物である。境内のすぐ近くに沖水古墳という、小さいが都城では稀な円墳もあったりするところを見ると、この一帯は上代からの由緒ある土地だったとだけは言えよう。 2008217maturimeguri_070

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喜入肝付氏の仮屋跡

指宿の義父を見舞いがてらの新年の挨拶に出かけた。

 義父は去年9月に「喉頭がん」の全摘手術を受け、声を失ったが、わずか三週間で退院したあと、大好きな焼酎が飲めるまでに回復した。今度の2月で満88歳という高齢にもかかわらず、その恢復振りに誰しも驚いている。

 根占ー山川フェリーを使い、着いたのは11時少し前だったが、恒例のお屠蘇のあとはそのまま飲ん方(酒宴)になった。お互い三倍に薄めて飲むという通常の倍のお湯割だったが、こっちは5杯ほどで「もう結構」と眠くなる。だが、義父は顔色がますます良くなった上、ケロリとしたもの。

 これか、これだな、と納得させられた。俗に言う「焼酎はくすり」だということを・・・(注意:人によってはそうでないことがあります)。

 揖宿(いぶすき)神社参拝と墓参りをすませたあと、四時過ぎに辞し、帰りは鹿児島の鴨池ー垂水フェリーを使う。

 途中、どうしても見ておきたい所があった。Ibusuki109_013

 それは喜入肝付氏の史跡「御仮屋跡」で、喜入小学校がそこに建てられていると聞いていた。喜入に行く前には、もちろん、通り道でもあり、篤姫ゆかりの指宿市立今和泉小学校を見物したが、篤姫については当面、NHKの大河ドラマ「天璋院 篤姫」を固唾を呑んで見守ることにして(ただし、今和泉小学校の裏手の海岸近くに亭々と立つ直径1メートルはあろうかという黒松の並木は感動ものだ=右写真)、ここでは小松帯刀について若干の視点を書いておきたい。

 ドラマでも「小松」姓が日置郷(現・日置市)の吉利(よしとし)領主である小松氏に養子に入ったから小松帯刀になったこと、また生まれは喜入領主の肝付氏で本名は肝付尚五郎(なおごろう)であったことは、当然触れられるだろうが、私の言う視点とは、実は小松帯刀とは島津氏以前の大隅の2大氏族「肝付氏」と「祢寝(ねじめ)氏」両方のエキスだということである。Ibusuki109_021

 (左の写真は喜入小学校の立派な校門――といっても扉はない)

 というのは、まず、喜入肝付氏だが、肝付氏であるから明らかに大隅の大族・肝付氏の流れで、肝付氏本流第12代「兼忠」の三男「兼光」が始祖である。兼光は本家から分かれ(分家というような穏やかなものではなく、分裂と言った方がよい)、曽於郡大崎郷の領主となった。この時からどうやら本家よりも、島津氏にくみし始めたようで、そのため、次代の「兼固(かねもと)」は溝辺領主として島津側に付く(文明18=1486年)。Ibusuki109_022 

(校門を入ると中は広い。400メートルトラックが取れそうだ。少年野球の部活が始まっていた。裏山は高野山で、中世には愛宕城があった)

 次の「兼演(かねのぶ)」になると更に島津氏の覚えめでたく、加治木という大郷の領主となった(天文3=1534年)。その子の4代目「兼盛」には伊作島津家当主・忠良(日新公)の娘がめあわせられ、名実共に島津氏のコントロール下に組み入れられた。Ibusuki109_025

(校門下から見る石垣。下の四段と上の五段は明らかに積み方が違う。おそらく下は、御仮屋創建当時=1653年という=のもので、上は明治になって喜入小学校開校の際、積み上げられたのだろう)

 5代目「兼覚(かねさと)」の時代になって、高山の肝付本家が島津氏の軍門に降って廃絶すると、今度は喜入に移されることになった。喜入は加治木よりは小郷なので、改易に近いが、それでも本家と運命を共にしなかったのは、溝辺以来、島津氏に一切反旗を翻すことなく忠義を貫いたためである。Ibusuki109_023 

(学校の前は旧馬場の跡。4~500メートルの直線道路が続く。手前からその先まではいわゆる麓(ふもと=府の下)で、仮屋勤務の在地=外城の郷士たちの屋敷が軒を並べる)

 兼覚に嫡子がいなかったので6代目には伊集院忠棟という戦国末、近世初頭においては稀代の外交家の二男「兼三」が養子に入るが、父と兄(忠真=ただざね)が、島津本家に叛意があるとして殺害されたあとに、やはり抹殺され、その跡に兼覚の弟「兼篤」が入って継ぐ。この時がまさに承応2=1653年で、以降は一国一城制のもと、領主は鹿児島城下に本宅(原良屋敷)を持ちつつ、仮屋へ代官を置いての統治となった

 肝付尚五郎の父は喜入肝付家幕末最後の当主で、肝付本家から分裂した兼光から数えれば16代目の「兼善」である(喜入郷から鹿児島へ移り、そこから「遙任統治」(代官による支配)となった兼篤から数えれば10代目)。

 そしてこの尚五郎が養子に入った先こそが旧祢寝(ねじめ)氏で、当時、小松姓に変えていたゆえ、彼も「小松帯刀」(これは通称で、本名は小松清廉=きよかど)と名乗った。この「小松」だが、祢寝(ねじめ)氏は自説として始祖を平重盛としていたので、重盛の俗称「小松殿」から採った名だという。郷土史家の研究によれば祢寝(ねじめ)氏は建部氏が本宗であることが判明しているので、これは合わないのだが、島津氏さえも自説では源頼朝の庶子だというのであるから(本宗は惟宗氏)、似たようなものだ。

 いずれにしても、小松帯刀はルーツをたどれば大隅の古族・肝付氏であり、入り婿先がこれまた元をたどれば大隅の名族・祢寝(ねじめ)氏なのであった。

 極めて若くして(26歳)家老に抜擢されたが、彼を見出したのは島津忠光で、忠光は島津氏嫡流ではなく卑賤の娘・お由羅(江戸の大工の娘とか八百屋の娘とか言われるが、素性は不明)の子であったから、忠光のその屈折した心理が、島津氏の滅ぼした大隅の名族のエキスのような小松帯刀を取り立てたのかもしれない。あるいは彼に自分を重ね合わせたのだろうか。

 そんな視点を持ちつつ、今度の大河ドラマを楽しみたいと思う。

 マップ(スクロール型=喜入は鹿児島市の最南部)

 

 

 

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玉名と八女歴史紀行

 一泊二日(7月15日~16日)で熊本県玉名市と福岡県八女市を訪れた。

 どちらも筆者の邪馬台国探求上、はずせない、というより八女市こそが邪馬台女王国の比定地としているからだ。

 まずは玉名市。筆者はここを女王国連盟27ヶ国の内の奴国と考えている。ただし、この奴国は伊都国の隣にある佐賀奴国とは別の奴国である。玉名奴国は菊池川を挟んで狗奴国(熊襲の一国。今日のおおむね熊本県)と接していた。

 玉名といえば銀の象嵌で「ワカタケル大王」と刻んでいた太刀の発見された「江田船山古墳」で有名だ。Tamanoyame_002江田の地は、高速道路「菊川インター」で降り、すぐ右折したあとは標識にしたがって玉名市方面を目指していけば、2キロ足らずで到着する。確か「縄文の森公園」と言った中にある。

 全長61メートルというから小規模古墳に属するが、副葬品がすごい。上の太刀のほか、金銅製冠帽・純金製耳飾(ペア)・金銅製靴など朝鮮半島のみならず大陸系の副葬品が出土している。

 横穴式石室の中には家型石棺(長さ2,9m、幅1,1m、高さ1,5m)が安置されており 、室内は自由に見学できる。Tamanoyame_007

 寄棟式家屋の形で、妻入り。材質は阿蘇凝灰岩で、親子三人が十分に入れる大きさである。ダンボールハウスやテントより、はるかに過ごしやすそうだ。

 一角に資料館がある。飾ってある副葬品はすべて模造だが、よくもこれだけの物が眠っていたものだと思う。Tamanoyame_021 Tamanoyame_020

 圧巻はなんといっても銀象嵌銘の入った太刀だろう。復元されたものが展示されているが、反りが無いことを除いては中世以降の刀と変わらない。

 埼玉の稲荷山古墳からは金の象嵌入りの同じワカタケルに使えていたオワケノ臣の墓に埋納され、あちらが杖刀人(武人)の頭領だったのに対して、こちらは典曹人(文官)であった。文官とはいえやはり刀を差していたのだろうか、ワカタケル大王の5世紀後半の時代相が垣間見える。

 江田から南へ7キロほどで玉名市中心部だ。その少し手前にある玉名市歴史博物館を訪れる。Tamanoyame_028

 この中で一番興味をそそられたのは、古墳時代の阿蘇凝灰岩製の「舟形石棺」分布図である。九州は今の熊本県、東隣の宮崎県を中心に分布し、九州以外では、瀬戸内地方から河内地方の海岸部に及んでいる。

 玉名市には中世以降栄えた「高瀬津」があり、戦国期にはその名が宣教師によって海外にまで宣伝されたという。

 また阿蘇凝灰岩の一種「ピンク石」は宇土地方の特産だが、継体天皇陵と言われる「今城塚古墳」(大阪・高槻市)の石棺に使われていたことで有名である。石棺は熊本から海路大阪まで運ばれており、6世紀当時も水運が盛んであったと読み取ることができる。

 翌日は早朝から八女地方を回った。Tamanoyame_043

 最初に行ったのが「童男山(どうなんざん)古墳群(十二基)」だ。ここの一号墳は国の指定だが横穴式石室の入口がむき出しになっており、自由に中に入ることができる。

 石室の石積みは見事で、近くを流れる星野川河原の石(粘板岩)を利用しているようだ。全長(奥行)は5m余り、内部の高さは大人が立って歩けるほどのものだ。二室になっていてTamanoyame_038 奥の一室が玄室(遺体安置室)で、そこにはさらに天井付きの石のベッドがしつらえてある。

 内部の壁はベンガラで赤く彩色されて、暗いイメージは全くない。

 一号墳の下の広場からは星野川に沿う家並みが見える。比高は20メートル弱だろう。

 この「童男山」という名は「徐福の渡来」に基づくという説がある。Tamanoyame_047 現在発掘された被葬者は6世紀以降の人物だが、実はその前にすでに墳墓があったのを取り壊し、新たに造った墓に合葬したのだという。

 たしかに右の写真のように足元に見える水田地帯はお世辞にも広いとは言えない。こういうところに十二もの高塚を造るというのは、権力者の墓としてはどうも常識的ではない。何かそうせざるを得ないものがあったのだろうか。

 徐福一行の童男・童女にゆかりの豪族が、荒れていた墳墓を整備がてら自らの墓に造り変え、そこに合葬したという構図だろうか。これは一見考えやすい。

 だが筆者はそうは思わない。これに対して、卑弥呼の墓ではないかという仮説を掲げたいと思う。卑弥呼の女王国を筆者はこの下流域、すなわち星野川、矢部川合流によってできた広大な扇状地にあったと考えている(八女市郡域)。卑弥呼の死は不可解であった。倭人伝からはどうやら帯方郡使・張政の告諭により殺害されたようなのだ。

 すると墓(径百余歩)は当然、統治している平野のど真ん中に堂々と造るわけには行くまい。山奥にひっそりとという感じで造られるのではないか。この古墳群は今でこそ車の通る道路から、5,60メートルという至近距離にあるが、当時は辺鄙な所だったろう。

 しかし殉死者が「百人」もいたという。百人はオーバーだろうが、14,5人はいておかしくない。となると一号墳を盟主として、十数基の小古墳群はそのような殉死者のものと考えてよくはないか。横穴式石室にしたのはもちろん後の時代の豪族である。彼等は卑弥呼の苗裔なのかもしれない。

 Tamanoyame_064  以上は、妄想的仮説だが、童男山古墳群の前を流れている星野川のすぐ南側を流れる矢部川に沿って上流に行くと、不思議な伝説地に至る。そこは「日向神社」である。

 黒木町月足(つきたり)地区の中心に鎮座する日向神社は、祭神アマテラス大神、ニニギノミコト。おもしろいのはここが天孫降臨の地だとの伝承で、一説によるとニニギノミコトはこの地で三人の皇子(ホアカリ、ホスセリ、ホホデミ)を生んだが、ホスセリ、ホホデミは日向に下り、ホアカリだけが現地に留まったという。Tamanoyame_057_1

 正面の鳥居をくぐると広場があり、広場には拝殿だけを置き、本殿は比高十メートルの小山の上にある。頂上はさして広くなくどこにでもありそうな正木造りの古びたお宮だ。

 だがこの小山、たしかに広場からはわずか十メートルほどしかないが、広場の反対側は日向峡と呼ばれる取水ダムサイトになっていて、Tamanoyame_060 頂上からそこを覗くと、優に三十メートルはあろうかという高さだったのである。

 右の写真は神社の小山の下の棚田から写したものだが、ダムサイト水面から小山の比高は30メートルだが、まだダムができていない頃は、川面は少なくとも十メートルは下だから、比高はさらに大きく40メートル以上あったはずだ。

 十二、三階建てのビルに匹敵する高さの断崖だ。川を覗いたら足元がすくんだろう。月足地区の周囲にはピラミッド型の尖峰がやたらに多い。こんなのも神話の里をつよく印象付ける。八女邪馬台国の天孫降臨神話の現場ではないだろうか。

 Tamanoyame_067 ここから再び下流方面に引き返し、今度は黒木城(猫尾城)に行く。  

 城山学園という看板を見て上っていくが、頂上の城の標高は240mということなので、かなり登る。途中に広い野球場があり、ちょうど少年野球の大会が行われていた。

 山頂に城跡を偲ばせるものは石組みくらいしかなかった。今はそこに英彦山神社が建っている。Tamanoyame_068 石組みの上の平坦地には城の説明板がある。

 それによると1160年代に大蔵大輔・源助能(すけよし)が瀬高荘(筑後国山門郡)を統括するため、大隅国肝属郡根占北俣(大根占)から、現地に移りここに城を築いたと言う。

 大根占のような大河のないところから矢部川の轟々たる流れのある当地に来て、源助能もさぞひったまがった(おどろいた)事だろう。以後黒木氏を名乗り、連綿400年余り、この地に根を張ったという。

 黒木から再び童男山古墳群の下を抜けて、今度は岩戸山歴史資料館を目指した。Tamanoyame_143_1

 資料館への狭い道をたどると、ちょうど神社の祭礼準備に出くわした。老人が多いが、みんなで手分けして清掃やら何やら忙しそうだ。この神社「吉田大神宮」といい、立派なお宮だ。しかも建っている場所がいい。こんもりとした小山を背景に、森閑として清々しい。

 聞くと、何と後の小山こそが「岩戸山古墳」だという。道理で資料館がすぐ目の前だ。

 中に入って入館料を払い、入場者の記帳を終えるとネクタイ姿の老紳士が案内すると言う。願ってもないことで、早速付いて回る。展示室は40畳くらいの一室だが天井が高く、真ん中のほか、壁のぐるり全部に展示してあるので量的に少なくはない。Tamanoyame_146

 何といっても石人、石馬が八女地域の古墳群の特徴だ。加工しやすい阿蘇凝灰岩が豊富にあったからだろう。現在の八女市・黒木町の特産が石灯籠というのももっともなことだ。

 八女地区の古墳は、筑後市の石人山古墳を西の端として、東はさっき紹介した童男山古墳に至る7~8キロに及ぶ洪積台地上にずらりと並んでいる。古墳の数およそ300。うち前方後円墳は11あるという。

 最も大きいのが資料館の目前に横たわる岩戸山古墳で、全長177メートルは6世紀半ばの築造では九州一、全国的にもその時代としては最大級だろう。 

 さて展示品の圧巻は「立山古墳」出土の「金製耳飾り」だ。Tamanoyame_149

左の写真で青い敷物の上にあるのが「金製耳飾り」(写真をクリックすると拡大。他の写真も同様)

 全国的に見ても稀有なもので、おそらくは朝鮮との交易によって手に入れた物だという。筑紫はもともと白日別と言われていたくらいだから(古事記・国生み神話)、さもありなん。

Tamanoyame_151  乗場古墳という岩戸山古墳とは国道3号線を挟んだ位置にある小さな古墳からは、環頭太刀の立派なのが出ている。また短甲も二領出土した。

 初期須恵器類も上質なのが出ているし、埴輪なども種類が多く大きなものが出ている。

Tamanoyame_148  案内氏は館長の太郎良(たろうら)さんで、筆者が邪馬台国八女説を出すと、怪訝な顔をされた。

 邪馬台国九州説では一昔前は筑後の山門郡説、特に女山(ぞやま)を持つ瀬高町説が強かったのだが、甘木市説、吉野ヶ里説に押されて今や見る影もなくなった。惜しいことだ。

 一時間ほど見せてもらって、館を後にした。

 巨大な岩戸山古墳の周囲を歩き、反対側(東北)までくると、古墳の一角がソフトボールのできそうなくらいに広い芝生だ。遠くに石人だろうか5,6基並んでいるのが見える。説明板には「別区」と書いてある。Tamanoyame_152

 筑後国風土記逸文によると、そこは裁判をする場所で、「解部(ときべ)」という役人が豚を盗んだ者を裁いているのだという。

 律令制が布かれる170年も前に筑紫君イワイはそんな進んだ制度を整備していたのだろうか。そうするとやはりイワイは大王にも匹敵した者だったのだろうか。別区は余りにあっけらかんとして広く、何も語ろうとしないが・・・。

     マップ(マピオンで。熊本県玉名市および福岡県八女市)

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