人吉紀行

 人吉という所はいつも九州高速道の通過点として道案内だけはよく見ているのだが、降り立って市内見物などしたことがなかった。

 そこでこの20日に「いさぶろう。しんぺい号」という特別列車に乗って初めて街の中に入ってみた。

 人吉というと鹿児島と並んでそれぞれの藩の同一支配者(武家)が長きにわたって変わることなく続いたことで有名で、人吉の相良氏は1198年から明治維新の1868年まで670年(およそ700年)で、これは鹿児島藩島津氏の下向統治期間(4代・5代目の頃のいわゆる元寇=文永・弘安の役から明治維新まで)の600年より長い。

 もっとも島津氏の方は初代の惟宗忠久が日向荘(宮崎県都城市)の総地頭に補任された1185年あたりで、最初の地頭館の置かれた地の地名から島津の姓を持つようになったから、姓の長さでは島津氏の方に軍配が上がる。

 しかし薩摩の野田郷へ下向して実質支配がはじまったのは5代目の貞久からなので支配期間の600年は動かせない。

 相良氏は出身地の遠州榛原郡の相良(現在の静岡県牧之原市)にちなんで人吉に入部してからすぐに相良姓を名のり、中世の一時期に上相良・下相良に分かれて抗争があったが、おおむね相良氏一族が他氏を圧倒して支配し続けた。

 島津氏はというと南北朝から室町期にかけては数々の抗争(お家騒動)や他氏との戦闘を繰り返し、ようやく三州統一がなされたのは1570年代であった。統一までの戦乱期間の長さを差し引けば、島津氏のみによる実質的な安定支配は300年である。

 その安定的な支配という点では相良氏の方がはるかに勝っている。

 しかし支配領域の圧倒的な広さの差を勘案すれば、島津氏の方に領国支配の巧みさが生まれるのは当然と言える。何しろ四周を海に囲まれ、交易の広がりや領土防衛、そして外様である故に徳川氏との付き合いにも智謀を尽くさねばならなかった。

 「島津にバカ殿なし」と言われるのは、そういう領国の置かれた「地政学的」な面に負うところが大きい。

 今でも(明治維新後150年だが、それはさておくにしても)、〇に十字の島津の紋章が焼酎にも菓子折りにも至るところでふんだんに使われているのは、島津氏支配の根っこの奥深さをよく表している。


 話は本題へ・・・。

 吉松駅から乗った「いさぶろう・しんぺい号」はまず真幸駅ホームの「幸福の鐘」で一時停車し、さらにスイッチバックの解説で長く停まり、肥薩線最高標高駅である矢岳駅(540m)でもホームの先にあるSL(D51)の展示を見るためにやや長く、そして極めつけはループ線路とスイッチバックの両方を持っている大畑(おこば)駅だ。

 大畑と書いて「おこば」と読ませるのは、山の畑のことを「こば」(たいていは木場と書く)ということから来ているそうで、かっての「焼き畑による耕作地」の大きい(広い)場所だったことを示しているのだそうだ。

 人吉は九州山地の真っただ中にある盆地で、標高は高いと思われがちだが、わずかに100m余り(人吉駅で107m)と低い。矢岳駅が540mだからその差は440m。手元に時刻表がないので分からないのだが、矢岳駅と人吉駅間の距離は10キロか15キロほどのものだろうから、確かにループとスイッチバックを併用しないと登り切れまい。

 熊本県境の矢岳を挟んで反対側の吉松駅は標高が213mあるそうで、そうなると矢岳駅との標高差は220m余り、これならスイッチバックだけで済む。


 1時過ぎに人吉駅に到着したが、改札を出てその暑さには驚いた。近くにいた売店の従業員らしき人に聞くと「人吉は暑いところです」という。盆地だから暑いのは覚悟していたが、周囲の山の高さから比べて相当な低地(標高100m)なので、まるで鍋の底なのだ。

 しかし、街のど真ん中に満々とした流れの球磨川があるせいで、鍋の底に溜まった暑い空気が若干は冷やされるのだろうか、コンクリートの歩道から離れて「青井阿蘇神社」の境内に入ったらかなり暑さが和らいだ。

 青井阿蘇神社は大同年間の806年に創建されたという阿蘇神社の勧請で、大神(おおが)氏が宮司を務めていたという由緒を持つ。

 拝殿・幣殿・楼門は重厚なかやぶきで、本殿と回廊を含めてすべてが国宝になった。慶長18年(1610年)に改修されて今見るようになった。


 青井阿蘇神社からは球磨川を渡り、道なりに行くと右手に「幽霊の絵」でゆうめいな「永国寺」がある。ここは薩南戦争の時に熊本城を攻めあぐねているうちに大軍送って来た官軍と田原坂で戦い、敗れた西郷軍が退却して本営を置いた寺である。約30日いたがここでも官軍に追い詰められ、日向方面に逃れることになった。


 永国寺からほんの2,3分の所に「旅愁」「故郷の廃家」を訳詞した犬童球渓(いんどう・きゅうけい)の生家がある。

 人吉に来た時に一番見たかったのが、犬童球渓のこの史跡だった。

 なぜ球渓なのか。

 それはひとえに「旅愁」という歌にかかっている。

 旅愁というタイトルもそうだが、訳詞の内容が原作者のアメリカ人作詞・作曲家J・P・オードウェイの原詩と大きく違っているからだ。

 原詩ではタイトルが「故郷と母を夢見て」で、内容は、故郷にいたころの母と自分(おそらく作詞者本人だろう)とがいかに濃密であったか、今でも母が自分の傍に来て自分をかわいがってくれる夢を見るんだ――というもので、マザコンここに極まれりといった内容なのだ。

 原詩にの興味ある人はインターネットで調べられるからここでは省略するが、一方で人吉生まれで東京音楽学校を出て各地の中学校や高等女学校などで教鞭をとっていた球渓はこれを

 「更け行く夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む 恋しやふるさと 懐かし父母 夢路にたどるは里の家路」

 と意訳した。

 まず原詩では「旅の空」(旅行中)での感慨ではなく、また、恋しいのは「故郷の家と、そこでむつまじく過ごした母」だけなのである。父などは一言も出てこないのである。つまり「母あればこその故郷の家(ホーム)」で、トーンからするとオードウェイという作者は「No mother, no life」(母がいなければ、生きていてもしょうがない。母こそ人生のすべて。)と謳っているのだ。すごい母親賛歌なのだ。

 今の世でも直訳したら「軟弱な奴だ。男のくせに」などと言われるのが落ちだろう。

 そこを球渓も分かっていて、唱歌に見るような訳詞にしたのだろうが、これには曰くがあって実は球渓も原詩通りに訳したかったのだが、当時(戦前)の文部省当局が「あまりにも軟弱な詞だ。戦争遂行の妨げになる」というような指導を受けて大きく原詩の解釈を変えてしまった(変えざるを得なくなった)――という経緯もあるらしいのだ。

 太平洋戦争の真っただ中の昭和18年に球渓は47歳で自ら命を絶つが、球渓の心の中にはこの訳詞(他にも「故郷の廃家」など)が原詩を大きく逸脱してしまったことへの苦しさ、そしてそうせざるを得なかった戦争というものへの憤りがあったのでは、とも思われる。


 この話は、原詩を引き合いに出してまた論じる機会もあろうからここまでにして先を急ぐ。


 さて球渓の生家を辞して、また酷暑の中を西へ歩くこと7分、人吉城の大手門口を抜けると「人吉歴史館」がある。ここは人吉市の教育委員会の歴史文化担当課に所属しており、外観はコンパクトながら外観内容のぎっしり詰まった展示施設である。

 十分に見ておきたかったが、なにしろ暑さのせいで頭の中身がうだっていて身に入らないので、種々のパンフレットを貰って家に帰ってから読むことにした。

 それによると、人吉城の原型は相良氏が当地に下向した初代長頼の頃に築造されているが、その後、秀吉の全国統一(九州征伐)の後に諸国で戦国大名による領国支配が完成し、相良氏もその例に洩れず、本格的に居城の築造に取り掛かっている。

 慶長年間に始まり寛永年間の1640年頃までに近世の人吉城が成ったようである。

 この城址の一角に相良護国神社があるが、入口は当時の掘割りに架けられた石橋で、堀はびっしりと蓮で埋め尽くされていた。

 この神社の筋向いに「元湯」という看板の銭湯があったのでこれ幸いと浸かることにした。指宿にも元湯があり、道路からやや低い所に湯舟があるが、ここのもその通りで、10畳くらいの広さの洗い場の真ん中に2坪くらいの湯舟が掘られていたのはひなびていて懐かしい感じがした。

 泉質は単純なアルカリ泉のようで、石鹸の泡立ちよく、ややぬるっとしていた。

 聞けば人吉にはあちこちに単独の温泉銭湯やホテル・旅館内の銭湯があり、その数は20以上あるという。


 人吉といえば歴史の相良氏・球磨川下り・球磨焼酎が有名だが、泉都でもあることをもっと宣伝してもいいのかもしれない。


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葉桜の吉野山と大阪造幣局

 仲間8人と『吉野千本桜と大阪造幣局通り抜け』というツアーに参加した。

 志布志港発のフェリーさんふらわあに乗って行く船中二泊のいわゆる「弾丸ツアー」である。

 往路と復路に全く同じフェリーきりしまを使用するので、ツアー客のほかに一般客が乗らなければツアー客によるチャーター船だが、そういうわけにはいかない。

 一般乗客の中にはトラックの運転手や乗用車・バイクの人がいるが、たいていは前者のトラック便が多いようだ。

 鹿児島から大阪まで高速道路を利用したら15~6時間はかかるし、高速道料金もそれなりに高額だから、ほぼ同じ時間で大阪まで来ることのできるこのフェリーはまさに「寝ている間に大阪に着いてしまう」ので楽で重宝だ。

 往路も復路も天候に問題はなかったのに、どちらも30分から1時間の遅れが出た。往路の1時間遅れは痛かった。おかげで吉野山の滞在時間が1時間半になってしまった。

 そのうえ今年の桜は開花が例年より早く、吉野山でも下千本は完全に葉桜となっていた。中千本まで足を延ばすには1時間時間が足らない――ということで肝心の「花の吉野山」は見ることができなかった。

 国宝の蔵王堂と山門あたりまでで歩き終えたのはちょっと残念だったが、雰囲気は味わえたし、下千本駐車場からの遊歩道沿いからは下千本の桜が遠くの稜線まで連なっている様子がよくわかった。

 また、意外にも紅葉の古木が多く連なり、今年は紅葉の新緑も早いとのことで、諸処に見事な並木となって実に眼福、かつ、さわやかこの上なかった。

 西行がここに庵を結び3年ほどを過ごしたとされるが、その時の歌

  【吉野山 木末の花を見し日より 心は身にも添はずなりにき】

 というほどの桜の咲きそろった光景を想像しながら下山した。皆、お土産をたくさん手に持って。


 大阪造幣局の『通り抜け』は、今年は11日から17日の一週間だったので、12日はどんぴしゃり。こちらは満開だった。

 360本ほどある桜はすべて八重桜で、枝垂桜というのはここにはないが、ぼってりと豪華に花開いた八重の花びらの重さで、まるですべてが枝垂桜かと見まごうほどだ。

 造幣局の建つ土地は旧津藩(藤堂藩)の大阪屋敷跡で、母方の曽祖父の代まで藤堂藩の家老職にあった川喜田氏の家来だったと聞いているのでやや感慨はあった。

 藤堂藩大阪屋敷跡などという標柱か何かあるのかどうかは確認できなかったが、もう何もないのだろう。


 ここから大川を挟んで向こうにそびえる太閤秀吉創建の大坂城は徳川氏が勝利を収めたあとは取り壊され、石垣から何から何まで10年かけて造作し直したそうで、それも明治維新時の争乱の中で壊滅し、昭和天皇の御大典(即位式=昭和3年)を記念して府民の寄付によって三代目が造られた。

 いま見える城はその際に最初の城を模した日本で初の鉄筋コンクリート製なので、歴史的価値は著しく劣るが、大阪らしい進取の気性が思われる。

 それはそれで、都心のど真ん中にある「大阪城公園」は市民・府民にとって貴重な憩いの場所になっている。

 大阪城は上町台地の北の先端部で、ここには昔、仁徳天皇の「難波高津宮」があったと言われ、淀川に臨んだ要衝の地であった。また大化の改新(乙巳の変)の時の女帝・皇極天皇の弟の孝徳天皇の営んだ「難波長柄豊碕宮」は大阪城のすぐ南・法円坂町にあったとされる。

 その他にも天武天皇時代と聖武天皇時代にも難波に行宮が造られたが、いずれもこの辺りに建設されたとされる。とにかく難波というとこの辺り一帯がその中心だった。今は「森ノ宮」なる地名に面影を残している。

  
 天候には恵まれ、暑からず寒からずの旅行日和だった。船中二泊も夜はおいしいバイキング料理で酒も弾んで楽しかった。

 フェリーさんふらわあでは5月に一隻、夏にもう一隻の新造船が就航するという。皆は新造船にも乗ってみたいというので、秋になったらまた利用するという案も出ている。どうなることか。

 

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観音池公園の桜

 都城市に住むふた従姉夫婦に会いに行ったついでに、高城町にある「観音池公園」まで足を延ばした。

 観音池公園は合併前の北諸県郡高城町時代から桜の名所として知られていたが、都城市と合併したこの12年間で行政の手が加えられ、総合的なレジャーランドに生まれ変わった。

 今は観音池公園というより「観音さくらの里」というような名称が定着しつつある。現に公園の入り口看板には「都城高城健康増進センター」なる文言が付記されている。

 おそらくレジャー施設の拡大・増設に当たっては、国または県の予算の中から厚生的な分類に当たるものを引っ張ってきたのだろう。

 単なるレジャー(遊び)では「民間に任せればいい」と予算の確保が難しかったに違いない。こういうところは市当局や議会の知恵の絞りどころで、今回出かけてみて「観音さくらの里」はうまく事業ベースに乗ったと見えた。

 何しろ広大である。面積を聞くのを忘れたが、南北に1キロ程度はあると思われ、東西はその半分かやや少ないかに見えたから、単純に計算すると40ヘクタールにも及ぶような広さである。

 今回は桜の観賞がメインであったから、肝心の「里」に当たる資料館と名品・土産物などが展示されている建物の方は見ていない。今度また行く機会があろうから、その時は立ち寄ってみたい。

 さて、桜の方だが、ちょうどまさに満開で、大木の一部の桜がはらはらと花を散らし始めているという具合であった。

 大小3000本という桜は、広大な園地全体にまんべんなく分布しているので、一箇所に100本などという集合的な見事さは無いが、行けども行けどもそこかしこに10本くらいな感じであり、また車の通れる道路沿いは見事な並木となって見飽きさせない。

 もともと観音池の周辺に植えられ始めたのが最初だろうと思われるが、確かに池のほとりには途切れない桜がその姿を池の水面に映し出していた。これはまたこれでいいものである。

 3月31日には「桜まつり」が開催されるようだ。大変な人出だろう。桜をゆっくり観賞するならばそれまでの平日がお勧めだ。

 ※観音さくらの里には、従来の観覧車や池のボートのほかに展望の丘の上まで上がれるリフト、丘の上から滑り降りるスライダー、丘の途中から滑る草すべりなどの施設があるので、家族そろって楽しむことができる。
 リフトからの眺めはホームページ『鴨着く島おおすみ』の表紙に掲載した。

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美作(津山市)と大隅

 岡山に住む息子の長女が小学校に、次女が幼稚園に入るというのでお祝い方々三泊四日で出かけた。

 息子の所の住所は浅口市でかっての備中国に属するが、もともとは吉備国から備前・備中・備後の三つに分かれたものである。

 ところが吉備国が三つに分かれるより遙かに昔の和銅6年(713年)に古吉備国から分立した国があった。それが「美作(みまさか)国」である。

 実はこの美作国が古吉備国から分割された同じ時に、鹿児島と宮崎を併せた広大な古日向国から独立したのが「大隅国」なのであった。(これともう一つの国「丹後国」も同時に丹波国から分立しているが、以上の三ヶ国建国のことは『続日本紀』の和銅6年4月3日の条に記されているので史実として100パーセント間違いないことである。)

 さて、岡山に出かける前に、向こうにいる間に序に見物しておきたい場所として「岡山城・後楽園」と「津山城」、それから行きか帰りかに「尾道」に立ち寄ることを計画し、調べていたら滅法面白い事実が浮かんできた。

 それは津山について調べている時の事、津山の秋の祭りを別名で「だんじり祭り」と呼ぶことがあるが、このだんじりは市内の三つの神社の境内から曳き出されるらしいが、神社名とそれぞれの神社の御祭神を見てびっくりしてしまった。

 三つの神社とは「徳守神社」「高野神社」「大隅神社」の三社であるが、まず大隅神社という社名に驚いたのである。

 大隅神社の御祭神は「オオナムチ・コトシロヌシ」で出雲系の神様だということが分かるが、何故に「大隅神社」と名が付いたものであろうか? 創建は和銅年間で、美作国建国時代と同じであるから、おそらくその時に出雲から勧請したのだろうが、それなら「出雲神社」とか「出雲明神」とするのが順当というものだ。

 津山市の城東地区に鎮座する大隅神社を訪れたが、境内に由緒書きされた立て看板の類は全くなく、残念ながら確かめようがなかった。創建はやはり和銅年間のことらしいのだが・・・。

 徳守神社は津山市の宗廟で、訪れてその社殿の大きさで納得するが、ご祭神は「オオヒルメムチ」である。伊勢神宮の地方版といった待遇の神社であり、この神社を中心にだんじり(秋)祭りが施行されている。

 最後の「高野神社」は「たかの神社」と呼ばれているが、本当は音読みで「こうや」「かうや」と言って来たらしい。ここの御祭神が「ウガヤフキアエズ」と知った時は、さきの「大隅神社」という社名に驚いた以上に驚いてしまった。吾平町の「鵜戸神社」そのものではないか!

 これは何か因縁があるに違いないと思う他なかった。

 この美作二宮と呼ばれる高野神社の創建は上記の二社よりもっと古く、安閑天皇の2年(西暦534年)だそうで、さらにその創建の前から「(神社発祥の地は)吉井川原のおのころ岩と伝えられます。遠い祖先はここを磐境として敬虔な祭祀を行っていたものと思われます。」というように、『高野神社略誌』には書かれている。

 おのころ岩は伊邪那岐・伊邪那美時代つまり神代の話なので話半分に受け取るしかないが、そのくらい古くから敬虔な祈りが捧げられてきたということを強調したかったのだろう。

 大隅神社といい、高野神社の祭神ウガヤフキアエズといい、同時期に行われた大隅国建国との関係を思わざるを得ないが、いったいどう理解して良いものやら。

 次のようなストーリーはどうか?

 まず、高野神社の創建の安閑天皇2年には、九州から中国・四国・近畿・関東の上毛国にまで26か所の屯倉(みやけ)が置かれたと日本書紀にあるが、美作国が属したと考えられる「吉備後国」では5つの屯倉が設置されている。

 津山市に該当する屯倉がどれかは分からないが、この時に朝鮮半島南部の「カヤ」から移住してきた人々(半島倭人)が、その屯倉に定着した。そこで彼らがわが祖先「ウガヤフキアエズ」を祭った。上で触れたように「高野」はもともと「こうや」あるいは「かうや」と呼ばれていたのであれば、「かや」の転訛と考えられなくもないではないか・・・。

 大隅神社の方は、和銅6年(713年)に大隅国が朝廷側の圧力のもとある種の強制力を伴って、つまり武力的な衝突が勃発した際に、敗れた大隅隼人の集団が逃げ延びて同じ頃に建国された美作国に入った。そしてそこで祭祀の場所として社を創建した。それが「大隅神社」なのかもしれない。

 古来、大隅や薩摩にはいわゆる「落人」が多い。物部守屋も落ちて来たという伝承があり、垂水には宇喜多秀家が来ている。また谷山には秀吉の子・秀頼の来住伝説が残る。

 最大の落人伝説は何といっても安徳天皇だが、このように都方面からの落人ばかりが取り上げられる一方で、、逆に南九州から北へ落ち延びたケースは無いのか。一つ疑問を呈しておこう。

 津山市は人口が10万余りで、吉井川という大きな川がその中心を流れている風光明媚な町である。かってはこの川を利用した水運が盛んだったそうで、瀬戸内からの物資の搬入、こちらからの米・木炭などの搬出に欠かせなかった。

 こうした水運を支える船頭(水手=かこ)衆の祖先に南九州から朝鮮半島を往来していた鴨族がいたのかもしれない。そう思うと親近感が湧いてくる。

 ※ホームページ『鴨着く島おおすみ』のトップページに「高野神社案内看板」の写真を掲載した。

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西郷どん(せごどん)終焉の地

 鹿児島市内に用事があったついでに、これまで行ったことのなかった「西郷隆盛終焉の地」を訪れた。

 西郷の生まれた場所は何回も行っており、また西南戦争最末期の明治10年9月に宮崎から郷里の城山に戻った際にしばらく過ごした「西郷洞窟」もかなり昔だが訪れている。
 
 だが、洞窟を出た直後に官軍側から発射された鉄砲の弾が太ももに当たり、動けなくなった西郷が行動を共にしていた別府晋介に介錯を頼んでこの世を離れた場所にはまだ行ったことがなかった。

 その場所は西郷洞窟から直線距離にして300メートルくらいな所で、城山行きのバスで「西郷洞窟前」で降りたらそのままバス道を戻り、最初の信号を突っ切って左手に高層マンション「anabuki](穴吹工務店の所有か)を2棟見送って数十メートル下った左側にある。

 すぐ下を日豊本線が走っており、線路を渡る踏切のたもとといった位置具合である。

 幅の広い石段が10段ほど、階段を上がったところに「西郷隆盛終焉の地」(昭和49年建立)の木柱が立つ。
約5メートル奥に御影石の碑が立ち、木柱とは違い「南洲翁終焉地」と親しみの込められた文字が刻まれている。

 西郷どんの終焉の日は明治10年(1877年)9月24日。死亡時刻は午前7時ころ。亮年、満49歳。(注)文政10(1827)年の12月7日生まれなので、単純に引き算して50歳としている本もあるが、文政10年12月7日は太陽暦で1828年1月23日なので、満年齢では49歳と8か月となる。

 同じ頃、官軍に突撃していった桐野利秋や村田新八も戦死。

 西郷どんの首級は下僕が隠したので見つからなかったという説もあったが、実際には見つかっている。

 波瀾に満ち満ちた西郷どんの生涯はこの洞窟近くの岩崎谷で終わるが、生まれも同じ鹿児島城下の加治屋町であるから、「人間、至るところ青山(せいざん=終焉地・墓所)あり」といえども死を郷里で迎えたのは幸いというべきか。

 翌年の5月14日朝、政府へ出仕の途中、維新時代の盟友大久保利通は紀尾井坂で斬られて絶命したが、大久保の墓は青山墓地にある。大久保はまさにこの格言を地で行ったわけである。

 大久保利通も維新から新政府で十分に活躍したのだが、西郷どんが鹿児島で今なお他を寄せ付けず圧倒的な存在感を得ているのは、天下無双の全国を股にかけて活躍した英雄なのに生地と終焉地が同じ場所であるという親近感が相乗しているに違いあるまい。

 

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宇佐神宮

 岡山の息子の家に家内と3日間滞在した帰り、4日目の朝、早目の7時過ぎには家を出て山陽道を下り、九州に入って北九州JCT から東九州自動車道に入って約1時間、宇佐インターチェンジで自動車道を下り、宇佐市郊外にある宇佐神宮に到着したのが12時半であった。

 すぐに近くのとり天(唐揚げではなく衣はてんぷら仕様)の定食屋で昼食をとり、神宮専用の駐車場に車を置いて境内を歩き始めた。

 広壮な境内の中の参道は折からの焼けるような日差しだったが、参拝客は三々五々途切れることはなかった。

 駐車場からは10分ほどのだらだら上りで本殿のある一角に至った。朱塗りの勅使門がまず目を射た。その前に平成になってから皇室の勅使参向の立て札が披瀝されており、奈良時代からという宇佐神宮と皇室の深い関係を明示していた。

 皇室との関係で最も初期のドラマチックな出来事は奈良時代にあり、一つは聖武天皇の東大寺大仏建立に、ご神意により足りなかった金箔用の金の産出を言い当てたことと、もう一つが称徳天皇に取り入っていた弓削道鏡の皇位簒奪に対して天皇側近であった備前出身の和気清麻呂がやはり神意を伺いに下向したことである。

 後者は戦前は小学校などで徳目として必ず教えられたというが、道鏡が称徳天皇からの寵愛をいいことに天皇位を求めたが、和気清麻呂が宇佐神宮の神に祈ったところ「皇位はとうの昔から天孫に決められており、血筋ではない無道の者が就くことはありえない。そのような者は掃除(そうじょ)せよ」というもので、復命した清麿は道鏡の怒りを買って大隅国に流された。

 しかし目の覚めた称徳天皇により、道鏡は下野国(栃木県)の薬師寺に流され、清麿は許されて京に帰り、その後は順調に出世して最後は「造平安京長官」(平安京を造成する中心人物)にまでなっている。

 宇佐神宮は全国に4万社はあるという八幡社の総本山で、中古以降は宇佐神宮の分社である石清水八幡宮(男山八幡)のほうが都に近いためむしろここからの分祠のほうが多いようであるが、とにかく欽明天皇の時代(西暦550年のころ)に大神の比義という神官が「広幡八幡童子」の示現を体験し、その童子を祭ったのがこの八幡様総本山のいわれである。

 いま宇佐神宮の本殿は「一之御殿」「二之御殿」「三之御殿」と三社があり、大神の比義の祭ったのが「一之御殿」の「八幡童子」で、これは応神天皇のこととされている。また「三之御殿」は応神天皇を産んだ母神の神功皇后である。

 そこで不可解なのが「二之御殿」の祭神・比売之神で、普通なら応神天皇の皇后であろうかと考えられるのだが、この神は実は他の二殿の祭神より古いのだそうである。

 この神は神代に宇佐神宮の南東6キロにそびえる「大元山(御許山)」に降臨された神で、社伝では天照大神と須佐之男尊との間の「うけひ」によってそれぞれ身に着けていた物実(ものざね)から生まれた神の一つ(一グループというべきか)であるいわゆる「宗像三女神」であるという。

 しかし宗像三女神であるとするとその奉斎する氏族はれっきとした航海民「宗像氏」であり、大神の比義やのちに宮司家となる宇佐氏とは筋が違う。このあたりを宇佐神宮で入手した≪宇佐神宮由緒記≫ではぼかしており、結論としては八幡童子が祭られる前から宇佐地方で祀られていた土地神ではないか、ということにしてある。

 結局のところ「二之御殿」に鎮座する「比売之神」の素性についての判断は保留されているのである。

 そこで私見が登場する。

 私見ではこの「比売之神」とは卑弥呼の後継者であった「台与」(トヨ)である。台与の時代に邪馬台国(八女市域)は南の狗奴国によって併呑され、トヨは矢部川に沿って逃れて豊後に入り、さらに豊前の宇佐に至り、そこに辛くも邪馬台国の王統を継いだと考える。

 大元山に天下った女神(比売之神)とはこのトヨのことで、そのために今の大分県の古名は「トヨの国」すなわち「豊国」(古事記の国生み神話)となった。

 崇神天皇の時代には「トヨスキイリヒメ」として登場するが、この比売は天照大神を祀ることができたのだが、それも当然のことで、卑弥呼の後継者だった所以であろう。

 詳細は省くが、卑弥呼の後継者であった「台与」(トヨ)が豊前まで落ち延び得たのは、その250年後に八女を本拠地としていた当時九州最大の前方後円墳「岩戸山古墳」をt築いた勢力「筑紫の君・磐井」が継体朝から派遣された物部アラカビの軍勢によって侵攻されたときに、「磐井は山中深く逃げて、豊前の上膳県(カミツメノアガタ=大分県中津市)に行ったが、そのまま行方知れずとなった」(筑後国風土記逸文より要旨)とあることからも想像できる。

 卑弥呼の後継者「台与」(トヨ)が狗奴国に侵攻されて西暦280年頃に落ち延びたのが「大元山への降臨」で、宇佐に祀られたトヨが「比売之神」で、祭られたがゆえに「豊国」という名が生まれたーーという考え方には非常に整合性があると思うがどうだろうか。
 

 

 

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安芸の多祁理宮

 岡山の息子一家のところに行ったついでに、安芸の多祁理宮のあったという府中町を訪れた。「安芸の多祁理宮(あきのたけりのみや)」といっても知らない人の方が圧倒的だろう。
 Cimg2163
 広島県安芸郡府中町本町に鎮座するこの「多家(たけ)神社」を中心とするあたり一帯が「多祁理宮」のあった場所で、南九州からの神武東征軍(船団)がここに滞在したというのが記紀の伝承である。

 ただし、古事記では「多祁理宮」だが、日本書紀では「埃宮(えのみや)」という名称であったとしている。この神社では社名を古事記の「多祁理」の「たけ」から「多家」と名付けたものの、社名の脇にはカッコして「埃宮」を追記してある。要するに古事記と日本書紀どちらの記載からでも分かるように、「神武東征の途次に滞在したのは安芸国ではここ多家神社である」と両論併記してあるのだ。

 実はこの「たけ」も「え」も南九州には共通の地名が見られる。
 「たけ」は古事記で南九州熊曽国を「建日別(たけひわけ)」と言っているように南九州そのものを指し示し、また薩摩川内市にある皇祖ニニギノミコトを祭る山陵を「可愛山陵」と書いて「えのさんりょう」と読ませているように、「え」が使われているのである。Cimg2173
 立派な鳥居をくぐって80段ほどもある石段を上がると広い境内で、その先に社殿が見える。社殿の近くには両脇に花崗岩の標柱が立ち、漢文から取られた句が彫られている。(この字を書したのは江戸時代の広島藩主(42万石)であった侯爵浅野氏。)
 御祭神は神武天皇で、相殿に安芸国の祖「安芸津彦」が祭られている相当に由緒のある古い神社である。Cimg2161
 多家神社とは小さな流れを挟んで反対側にあるのが、「府中町歴史民俗資料館」だ。

 ここの館長さんに話を伺うと、神武天皇の腰掛石などの史跡もあるが、神武東征となるとほぼ懐疑的であった。館長さんは自分と同世代か少し上と見えたが、さもありなんで、我々世代からは戦前の「記紀神話はすべて真実」という太平洋戦争遂行上の「皇国民教育」は完全否定されて教えられたので無理からぬことである。

 しかしだからといって「記紀」は怪しげな書であるからと無視するのでは元も子もない。私はよく「汚れた水だけを捨てればよいのに、赤ん坊まで捨ててしまった」という比喩を使うのだが、「戦争遂行上の皇国民教育による記紀解釈」という「汚れた水」だけを捨てればいいのであって、記紀まで捨ててはいけないのである。

 館長さんは、この付近には「安芸国府跡」があり、「総社跡」も存在するから非常に重要な場所であったことは史実であると太鼓判を押された。
 
 自分としては古代から府中町でも要枢の地であればこそ、神武船団もここに船舵を休ませたのであり、もしかしたら水先案内人の世話でここにしばらくの行宮を建てて住んだのかもしれない。その名残が「多家神社」となったのではないかと考えることができるだろう。

 神武東征船団は古事記ではここに7年滞在したとし、日本書紀ではわずか3か月ほどしかいなかったように記載するが、どちらを取るにしてもそれだけ長期の滞在期間を支える現地豪族の受け入れ態勢が大きくものを言ったのである。(同じ東征上の滞在期間で古事記と日本書紀で大きく食い違うのは何故か? これについては二度の「東征」―神武と崇神―があったのだろうと拙著『邪馬台国真論』(2003年)で論じた。)

 「たけ」と「え」という南九州由来と思われる名称の他に、もう一つ「神武東征」の史実性を窺わせるのが、「鹿籠」という地名である。
 
 この地名を館長さんに言うと即座に「それはコゴモリと読むんですよ。ええ、ここから南にある地名ですよ」と、私が「かご」と読んでいたのを訂正して教えてくれた。

 薩摩半島の有名なカツオ節産地である枕崎市に全く同じ字を書いた地名がありましてね――と返すと、ほほう、と驚きを隠さなかった。
 
 コゴモリはもっと海に近い所で、何でもそこでは鹿を飼っていて宮島からの平家の密書を鹿の角に付けて遣り取りをしていた、という伝承があるそうだ。
Cimg2164
 そこで多家神社のすぐわきの道を南に向かった。Cimg2185
 「空城山」(あきしろやま)の麓を通ってちょうど2キロほどにもう一つ小高い丘があり、そこに「鹿籠神社」が鎮座していた。Cimg2188
 参道を3~40メートルも進んでいくと正面に社殿が見えた。と、その手前が池になっているのに気づく。池を覗き込んでいた保育園児と思しき女児を連れ赤ちゃんを抱っこしていた母親に尋ねると、池の中に錦鯉がいるのでパン屑をあげていたところだそうだ。

 池の向こうに社殿があるといえば、神様は海の関係だな――そう思いながら境内の掃除をしていた神主さんに問うと「宗像さんの女神で、イチキシマヒメですよ」とのたもうた。

 海の神様には違いないが、宗像大社の御祭神であるのなら北部九州の胸形族との関連なのか。
 神主さんもさっきの史料館館長のように宮島との連絡に使った鹿の伝承を話してくれたが、話しながら腑に落ちないようでもあった。

 この神社は昭和29年に再建されるまで、しばらく多家神社の摂社・貴船神社に合祀されていたが、地区民の霊夢により多家神社から引き離されたという経緯を持つ。

 神社の裏手は小高い丘で、その湧水で池が満たされていたのだが、高いマンションが建設されてから水が乏しくなって汚れが目立つようになった――と神主さんは諦め顔であった。
Cimg2240
 これは多家神社から鹿籠(こごもり)神社までの都市地図で、多家神社を含む一帯が古代からの要衝の地で、そこから南へ約2キロの鹿籠神社界隈はほぼ古代の海岸線である。

 ここに宮島との間を密書を角に付けて往復する鹿が飼われていたというのは漢字の「鹿」からくる連想で、応神天皇の13年条に注記として「南九州から鹿の皮をかぶった船団」があって彼らが船を着けたので「加古(鹿子)川」(兵庫県加古川市)という地名になった――とあるように、鹿とは実は「鹿子(かこ)」すなわち「舟子」のことではないだろうか。

 つまり府中町の地名「鹿籠(こごもり)」とは本来、薩摩半島の枕崎市にあるように「かご(鹿籠)」(かこ)なのであり、舟子(航海交易業者)の多く住んでいた場所のことを指すとした方が合理性があろう。

 この鹿児島(このカゴも鹿子すなわち舟子だろう)に由緒のある地名を持っているからには、やはりそこにいた航海交易民も鹿児島由来としてよく、航海交易を業とするからには海の女神「イチキシマヒメ」を祭っていて何らおかしくはない。

 以上、「たけ」「え」「かご」というように南九州由来と思われる地名・名称が府中町の狭い地域にあることを示した。
 神武東征と言い切ってよいか判断は分かれるが、少なくとも南九州からの相当な数の人々の移住の跡が古代安芸国の中心地であった府中町に見られることは確かである。

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南九州最古の水田跡

 縄文時代にさかのぼる水田の跡が見つかったという都城市横市町にある「坂本A遺跡」を訪ねてみた。Cimg1763_2
 かっての北郷氏(都城島津氏)の居城「都之城」址に築かれた都城歴史資料館(上の写真)に立ち寄って坂本A遺跡について教えてもらい、その場所を確認した。坂元A遺跡からは縄文晩期(弥生早期)の水田跡と初期稲作の証拠品である「擦り切り孔のある石包丁」が出土したそうだ。Cimg1767
 説明を受けたあと歴史資料館駐車場から北に200メートルほど行ったところの「岳下橋西」信号を左折、そこからは県道31号線を道成りに5キロ行くと右手に「児湯食鳥」の工場があり、そこの信号を左折してもう一度左折した先に「坂本A遺跡はある。Cimg1768
 平成8年度からの圃場整備事業の際にこのあたりの横市川流域で20余りの遺跡が確認され、特にこの田んぼの下からは縄文水田が2500年余りの長い眠りから覚めた(真正面に見える小高い丘は「母智丘(もちがおか)」)。Cimg1774
 縄文水田の近くを流れるのは横市川で、この川の流域の沖積層に田んぼが広がっている。Cimg1772
 母智丘橋から眺めた「坂元A遺跡」のある田んぼ地帯。真ん中の母智丘橋のすぐ上辺り。右手には野球用の夜間照明灯の建つ市民広場がある。
 歴史資料館で受けた説明では、この田んぼの用水は横市川からの導水ではなく周囲にある小高いシラス台地から湧き出る水だったろうということであった。そのシラス台地からは時おりがけ崩れによって田んぼにシラスが流れ込んだらしいことも発掘の結果わかっている。
 いまのところ南九州で最も古い水田だが、もうそのころから大雨等による災害との闘いだったことを明らかにしたことになる。南九州特有のシラスはやはり大昔から手ごわい相手であったのだ。Cimg1798
 橋から北へ2キロほど行くと桜並木で有名な母智丘公園で、その一角には「母智丘神社(祭神・トヨウケヒメ)」がある。江戸時代末期に都城の地頭であった薩摩藩士・三島通傭が神社の衰微を放っておけずに整備・寄進(桜並木もその一環という)して今日の隆盛に導いたという(三島は明治維新後に福島県令を務めたことがあったが、その時に有名な「安積疎水」を完工させたことでも有名である)。
 幅の広い階段を200段も上がっていくと神社。裏手一帯は巨石群で巨岩を稲荷神社として祭ったりしているが、その奥に展望所がある。Cimg1788
 母智丘展望所から見下ろした「坂元A遺跡」の辺り。真ん中に母智丘橋。横市川が右から左へ流れている。Cimg1787
 展望所にある説明版。都城盆地はかっては湖だったという。さもありなん、国道10号線を宮崎方面に向かっていくと高城町あたりから大淀川は次第に隘路に入り、轟ダムでは峡谷(ボトルネック)となっているのである。

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日南線で串間へ

 志布志市内に用事があったついでに日南線に乗ってみたくなって串間まで行った。

 串間へは以前に「串間今町の農夫・佐吉が自分の畑である王之山(おうのやま)で、周王朝代の諸侯への賜与品である玉壁を発見した」という伝承に興味があって、「王之山」とはどこだろうか――と訪ねたのを含めて3度ほど行ったことがあるが、今回は平成20年に国の重要文化財に指定された「旧吉松家住宅」を訪れた。Cimg0321 出発駅志布志。ここは昭和62年までは志布志線の起点であり、大隅線の終点であった。

 両線が廃止になり、残ったのは日南線。つまり志布志駅は3つの路線が交わる鉄道の要衝だった。駅前のだだっ広い広場は鉄路が縮小した分、駅舎が東に移動した(というか、押し込められた)名残りである。Cimg0320 駅舎に向かって左手の隅のほうに「大水害復旧記念碑」なるものがひっそりと建っている。

 昭和13年10月13日から三日間台風がらみの豪雨で志布志線も大隅線(ただし当時は志布志から古江までしか開通していなかったので、正確には古江線)も線路土手をはじめ鉄橋も流され、まだ国鉄化して間もない両線に大打撃を与えた。

 しかし九州管内からの保線要員などの応援を受けて、突貫工事で10日後くらいにはおおむね復旧のめどが立った。その後も補修に追われたが、この石碑が建てられた12月までにはほぼ完全復旧を果たしたらしい。(こういう応援協力体制があったのは国鉄化していたお陰だろう。民営ではこんな早い全面復旧は不可能だったはず。おそらく倒産した?)Cimg0324 出発時刻前にトイレに入っておこうとトイレ前まで行くと「あれ?」。一瞬風呂場と勘違いする暖簾がかかり、しかも「男子」「女子」ではなく「男志」「女志」と書かれている。ここまで志布志は「志」にこだわっている。何しろ志布志市の旧志布志町宛のハガキなり封書なりを出すとき、「志布志市志布志町志布志○丁目」と書く場合が多く、宛先の住所には何と「志」が6回も出てくるのだ。

 こうなったら志布志では「し」に当てる漢字はすべて「志」にして、新しく「志布志語」を作ったら面白い。「志ばらく」とか「志りません」とか・・・。Cimg0325 南宮崎行きのディーゼルカーがぽつんと一両待っていた。車体は「キハ40-8099」だったか・・・。Cimg0328 運転手一人のワンマンカ―なので乗り込むときに整理券を取るのは市電でもバスでも同じだ。Cimg0331 整理券は切符ではないが、久しぶりのJRチケット。Cimg0342 車窓風景。大隅夏井駅を過ぎて見えてきた志布志湾。右手の奥の島状の半島は「ダグリ岬」で、ど真ん中に海を見下ろす全長50メートルくらいの前方後円墳があったのだが、取り崩されて国民宿舎が建てられた。泉下の豪族は地元の航海交易族(5世紀代)であったと思われるが詳細は不明だ。海の中にぽつんと浮かぶのは枇榔島。ここの枇榔は平安京に送られた。Cimg0351 大隅夏井―福島高松―福島今町と来て、いよいよ串間に到着。15キロほどの旅。電車賃は290円。柱の「運転中は話しかけないで下さい。」がユーモラスだ。最後に句点が付くと意思表示としては強い。

 機械に投げ込むべく290円を財布から出そうとしたら、駅員にやってください――と。駅員が居たんだった。確かにホームで待っていた。Cimg0354 串間駅。外観は造りといい色といい若干チャラい感じがしたが、隣りに「道の駅」的な店舗が続いていて、なるほどそっちの方がメインな仕組みらしい。(帰りに寄ってみたが内部は食事ができないこと以外は道の駅そのものだった。)Cimg0357 串間駅に着く直前にある踏切から駅方面を写そうとして行くと、何と市電(しかも広島電鉄の宇品行と表示)がでんと置かれていた。撮影後に寄ってみたら、そこは観光総合案内所であった。実家は志布志だという中年女性の係員から数種類のパンフレットをもらい、吉松家住宅への行き方を教えてもらう。Cimg0361 その吉松家は何と駅からわずか2分、郡元という信号を右折してすぐの旧志布志街道筋にあった。Cimg0362 石段のある表玄関の先に車が入れるようにコンクリート舗装をした通用口があるが、そっちからの方が観光的な入口に近い。真っ白い土蔵の反対側が見学者用の入口になっていて、引き戸の傍らには旧吉松家入口という墨書の案内板が掛かっている。

 案内のパンフレットによると、この住宅は明治から昭和にかけて串間の政治・経済に大きく貢献した吉松氏によって大正時代に建築されたそうで、再来年に建築後100周年を迎えるという。

 吉松氏は串間を飛び地として領有していた日向高鍋藩(藩主・秋月氏)の重臣で、明治維新後は代々串間村長を担ってきた家柄だということである。Cimg0372 屋敷の造りは「崩れコの字型」とでも言うのか、基本はコの字型なのだがコの字の先に付属して離れが付いていたり、大広間が突出していたりする。一階だけで部屋数は大小15部屋。二階に二間あるから全部で17間と台所や風呂・便所など延べ床面積は197坪(約600平米)。

 この母屋が建てられたのは大正8年(1918年)だが、ほぼ当時のままの造りは頑丈そのもので、張り巡らされた廊下の板一つとっても分厚く、今なお歩いてもミシリとも しないでいる。Cimg0368 手前が10畳、奥が15畳、ぶち抜きで25畳という大広間。百人くらいまでなら集会は可能だろう。ここもぐるりを廊下がめぐっていて、とにかく明るい。床の間には「鶴と松」の巨大な扇(直径2メートル)が飾られている。Cimg0371 洋間が一つだけあってガランとしていたが、ここは書斎だったという。床と天井はまさに洋室そのものだが、出窓風の大きな窓さえなければ、外目から洋室であるとは誰も気づかないに違いない。Cimg0388 コの字の一方の角にある「台所」はずいぶん広く、種々の道具類はまるで民俗資料館のようだが、驚いたのが屋敷内なのに井戸が掘られていたことだ。これは便利だったろう。かまども四つあり、使用人を含めて相当な人数が暮らしていたことを偲ばせる。Cimg0376 台所のある方のコの字先端(西)に和室が二間続きになっていて、そこには各種資料が置かれている。右手には仏壇と神棚があるからもとは仏間だったのだろう。手前のガラスケースには例の串間王之山出土の玉壁があったが、これはレプリカであった。

 帰りに事務室にいた若い職員に、王之山について最近何か分かったことがあるかどうか尋ねたが、無いらしい。今町の農夫・佐吉がどこを「王之山」と言ったのか、いまだに謎のままだ。Cimg0399 帰りは14時27分の志布志行だが、その前に油津・日南(飫肥)方面の上り列車が到着し、ホームにいた10人余りの人たち、中に5,6人は高校生だったが、その列車に乗り込んでいった。Cimg0403 帰りの列車は「快速」だった。どの駅を通過するのかと思っていたら、大隅夏井駅にだけ停まらなかった。ほんの1,2分早く志布志駅に着いたかな・・・。

 線路の継ぎ目のガタンゴトン、ディーゼルエンジンの変速音、ブレーキの軋み――これらは居眠りを誘うに十分なのだが、たったの20分ではね・・・。






















 




























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西都原古墳群研修会

 大隅史談会の3月月例会は宮崎県西都市にある「西都原古墳群」で行った。Cimg8488 朝の7時に鹿屋市北田にある城山下公園駐車場を4台の車で出発し、笠野原インターから弥五郎インターに抜けて国道269号で都城市内を走り、都城インターから東九州自動車道の二つ目の西都インターで降り、途中、講師の柳澤一男宮崎大学名誉教授も加わり、西都原古墳を案内していただいた。

 写真は最初に古墳群の概要を説明する柳澤先生(右端)と参加者(16名)。Cimg8490 天気を心配したがまずまずの日和となり、各古墳を見て回るjことができた。これは46号墳(墳長83.6m)である。

 先生の説明によると、西都原古墳群のある台地は南北4キロ余り、東西が2.5キロほどの広さで、ここに史跡としての古墳の数は約330基。そのうち著名な男狭穂・女狭穂を含む前方後円墳が30基もあるという。

 前方後円墳は首長墓であり、それら大小の首長墓は実は複数の系列に分かれて同時並行的に築かれているという。西都原古墳群では谷筋が区画(支群)を仕切る役割をはたしていて、そのような「支群」は5つに分かれ、それぞれが同族的な首長墓を築いていたようである。

 今登っている46号墳は西都原台地の最南部に位置し、第一支群のA(先生はA群でよいと言う)における最大の前方後円墳でA群の最後を飾る首長墓である。概ね4世紀の末頃の築造で、その後前方後円墳は築かれなくなるそうだ。Cimg8497 後円頂上で記念撮影。

 前方後円墳の場合、後円の頂上部は平らになっているのが普通。その上で死者への葬礼が行われるためだという。そこが単なる円墳と違うところかもしれない。(「後円」という字から受けるイメージは頭のてっぺんまで丸いのだが、墳墓に限ってはそのイメージは誤りである。)Cimg8502 同じ第一支群にある13号墳は46号墳の直前に造られたそうで、周溝のはるか手前に葺石で覆われた築造当時の姿を再現した模型が設けられてあった。

 この13号墳は玄室の中に入って見学できるようになっていて、今日の研修の目玉といってよい前方後円墳だ(墳長は約80m)。Cimg8503 後円部のやや上部に開けられた狭い入口から入っていく。Cimg8505 素掘りの玄室の中はかなり広く、真ん中に細長い船のような形の屍床が丸みを帯びた漬物石くらいの大きなの礫で造られていた。

 この中におそらく一本の大木を刳り抜いた「舟形木棺」が置かれていたという。その長さは6メートルを超えるというから相当なものだ。Cimg8507 「舟形木棺」はすっかり腐っており、その中に置かれていた遺体は無論だが、骨も酸性土壌によって溶けてなくなっている。ただお棺の中や遺体に塗られていた赤いベンガラ(酸化第一鉄)だけは消失せずに残され、玉砂利の敷石を赤く染めている。

 また副葬品はネックレスのような玉製品と三角縁神獣鏡が1枚、そして短い鉄剣があった。

――被葬者は女性でしょうね?

と質問すると、

「いや、一概にそうとは言えないが、可能性は高いでしょう」

とのことであった。

 このあと「第2支群」などを見る予定だったが、この第一支群だけで2時間を費やしたので,このあとは「酒元ノ上横穴墓群遺構保存覆屋」を足早に見学した。Cimg8515 酒元ノ上横穴墓の羨道と玄室。いま先生がしゃがんでいる辺りに窪みがあるが、これは地上から竪穴を掘った名残りという。つまりこの横穴墓群は南九州独特の「地下式横穴墓」と普通の「横穴墓」との折衷で、古墳時代も末期の様相を見せているそうだ。


 考古博物館内の食堂で昼食をとった後は博物館内を見て回った。Cimg8523 宮崎県内でも縄文時代早期の「壺」(右)が発掘されている。

 鹿児島県の上野原遺跡で7400年前の鬼界カルデラ由来の火山灰「アカホヤ層」の下から二個の「壺型土器」が発掘されたことで「縄文早期の壺」が作られたことが判明し、それに伴って宮崎県で過去に発掘されていた写真の壺が弥生時代のものではなく、縄文の、それもとんでもなく古い早期(11000年前~7500年前)のものであると訂正された、いわく付きのものである。Cimg8527 これは教科書でもおなじみの舟型埴輪で、西都原170号墳(前方後円墳)から採取された。170号墳は「男狭穂塚」と同じ台地上に築かれており、その陪冢とされている。子持ち家形埴輪とともに重要文化財だ(ただし考古博物館のものはレプリカで実物は東京上野の国立博物館にある)。

 博物館のボランティア案内氏によると、船底は一本の大木のくり抜きでその上に側舷やら波切やらを付加して完成された「準構造船」だそうである。側舷には片側に六つの櫂を固定するための突起があり、12人で漕いでいたことが分かる。人間の歩く速度よりは早く、ジョギングの速度よりは遅く、おそらく時速8キロ程度は出たであろうから、一日に8時間漕いで64キロは最低でも稼げたはずだ。日が長ければ、10時間漕ぐのも無理ではないので80キロ。これは対馬から朝鮮半島南部までの距離である。

 そう考えると、朝鮮海峡は天気さえ安定していれば三日で渡り切れる。鴨族や宗像族や安曇族はそうやって朝鮮海峡を往来していた、おそらく「定期便」のような形で・・・。

 南九州と南方海域や中国大陸南部とのつながりこそ密接だったという人は、この朝鮮半島との「定期航路」の濃密さを評価しないきらいがある。中国南部から日本列島(沖縄・奄美を含む)への航路はかなりの危険を伴う賭けの要素の強い潮路だった。8世紀から9世紀ですら遣唐使船の遭難・座礁が相当な確率で発生しているのである。


 1時半過ぎに次の目的地「生目古墳群」に向かった。

 生目古墳群は宮崎市跡江丘陵にある古墳群で、柳澤先生によると「4世紀代(古墳時代前期)の100mを超える前方後円墳が3基もある日本でも最古級の大首長墓築造地」だそうで、丘陵上に他に5つの前方後円墳を含めて約50基の高塚が確認されている。Cimg8534 写真は「葺石」を完全再現した生目5号墳(墳長57mの前方後円墳)。発掘された遺物(壺型埴輪=土師器)から4世紀末頃の築造と比定されているが、時代が下がるほど葺石は省略されていくという。

 ここには傍らに「地下式横穴墓」が作られているが、写真前方部のさらに向こうに横たわる7号墳(墳長46mの前方後円墳)は生目台地で最後の前方後円墳だが、それには地下式横穴墓が10基も周囲に作られているという意味で特異な古墳である。中でも後円部の周溝内に掘られた18号地下式横穴墓はレーダー探査の結果玄室の向きが後円部中心に向かっており、しかもその長さが5メートルもあるという。この7号墳を築いた主が埋葬されているかもしれず、そうなると日本で唯一の事例となるそうだ(生目古墳群の地下式横穴墓の総数は56基)。Cimg8532 5号墳からは宮崎平野が遠望される(大きな常緑樹の左手)が、縄文の海進のころ(早期~前期始め)は海であった。また弥生期から古墳期でも海は相当入り込んでおり、入り江と干潟が広がっていた。


 さて、この古墳群とほぼ同じ時代に築かれた西都原古墳群の最古級の首長墓系列の古墳群よりひと回り大きな古墳が続々と築かれたその背景には何があったのか――。

 柳澤先生によると古墳の大きさだけからみれば、4世紀代は生目古墳群の首長のほうが西都原古墳群を残した首長よりも格が上だった可能性が大きいそうである。

 しかし、生目古墳群での首長級の「王墓」も4世紀代のうちに終焉を迎えるころ、西都原古墳群で「男狭穂」(墳長176m。日本最大の帆立貝型古墳)・「女狭穂」(墳長176m。前方後円墳)という九州で最大の古墳が5世紀初頭に築造されるが、実は西都原古墳群でも首長級の前方後円墳はその後、ほぼ築造されなくなる。

 最後に宮崎市埋蔵文化センター「遊古館」の職員が話してくれたのが、標高の低い丘陵の北側緩斜面には弥生中期の「環濠集落」があったということ。この環濠集落は後期ではないので、次の段階である古墳時代の人々とは考古学上の断絶があるようだが、やはり繋がってはいるのではないかと考えられると・・・。

 そうか、ここでも「弥生後期」の遺構なり遺物なりが出ていないのか――。東回り九州自動車道建設に先立って行われた鹿屋市や大崎町での発掘調査でも弥生中期はたくさん出ているのに「弥生後期」はゼロであった。

 宮崎も鹿児島と同じ「古日向」に属するが、同様な現象はここでも観察されている。古日向の「弥生中期人」はいったいどうしたのだろうか?

 自説の「1世紀前半(弥生後期)に古日向(投馬国)から列島中央への移住(東征)があった」という見解が再確認されたように思う。








 

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