オウム真理教教祖の死刑執行

 昨日、オウム真理教教祖で地下鉄サリン事件の首謀者だった松本智津夫死刑囚の死刑が執行された。

 オウム真理教の幹部13名が死刑判決を受けていたが、そのうち教祖を含む7名が同じ日に刑死した。

 残りの6名の処刑もいずれ実施されるが、識者の中には「黙秘を通し続け、わけのわからないことを言い張る教祖松本を、なぜ他の高学歴の死刑囚(幹部)が盲目的に指導者と仰いだのか、そしてなぜあのような事件を引き起こしたのかが解明されないまま幕を引いてしまうのはいかがなものか」というようなことをコメントする人がいる。

 後者について言えば、直接的には松本をはじめ幹部連中が衆議院議員に立候補したが惨敗を喫した(教祖松本はわずか1800票しか得ていない)ことに対する憤りが引き金になったことが言われており、私もその見方を支持する。

 だが、そもそも松本個人の極度の自己顕示欲(人から認められたい)が根底にあってのことだ。

 この自己顕示欲が人並外れて強いのには原因がある。

 それは生い立ちにあった。
 
 熊本県の非常に貧しい家で5男2女の下から二番目に生まれた松本は、目の不自由な長兄が盲学校に入って家計の負担が少なかったこともあり、同じように目の不自由な松本も小学校から全寮制の盲学校に入学させられたという。

 ただ、松本の場合、目が不自由と言っても長兄のような全盲ではなく、片目はよく見えたらしい。それなら普通の小学校でもいいのだが、貧しさもあって両親は経費の掛からない盲学校に入れたようだ。

 松本は非常に嫌がったそうだが、是非もなく6歳で両親の膝元を離れざるを得なかったわけで、この心の傷が彼の人生をあらぬ方向に導いてしまったのだ。幼少期の家庭ほど子供にとって重要なものはない。


 松本の7人兄弟で下から二番目という家族構成に似た人物に歌手の田端義夫がいる。

 バタヤンこと田端義夫は大正8年の生まれで9人兄弟・姉妹の下から二番目だった。

 ところが3歳の時に父が亡くなり、バタヤンと末子の弟だけは母のもとに置かれ、他の兄弟・姉妹は養子・子守奉公・丁稚などに出された。

 母は人形の内職で生計を立てたが、極貧は変わらず、満足な食事や学校の遠足への参加も出来ず、昼食の弁当にも事欠くありさまで、とうとう片目の視力が失われてしまった。これも松本に似ている。

 そんなバタヤン、13歳でどこかの商店に奉公に出たが、数年後にたまたま姉が歌のうまいバタヤンを今で言う歌のオーディションに出るよう勧めたところ、運よく採用され、20歳頃にはデビューすることになり、その後はスターへの道をたどることになった。

 この歌のうまさだが、生まれつきではなく、いつも母と夕方になると「夕焼け小焼け」などの唱歌を一緒に歌ったことがきっかけとなった。

 バタヤンは歌のとりこになり、近くの河原に出ては大声で何度も何度も歌ったそうである。正式な歌唱法など学ぶよすがもなく、自己流で声の限り歌い続け、たぶん母やたまに帰省する兄や姉から褒められてますますもめり込み、上で触れたように姉の勧めでオーディションを受けることになり、音楽家の目にとまったのが、運の開き始めだった。

 戦前の昭和12,3年のころだが、当時支那事変が勃発するころではあったがまだそういったオーディションなどが民間で行われていたようだ。

 支那事変から引き続いて太平洋戦争がはじまると芸能人は戦地慰問に出るようになり、バタヤンも例外ではなくあちこちに駆り出されたが、そのことはまた一流の芸能人(歌手)という評価を定めることにもつながった。

 バタヤンの戦後の活躍はわれわれ団塊世代にとっては耳目に新しい。

 バタヤンは幼少期に貧しさに覆われつつも、母とのきずなが強く、心にも太い根っこが張ったのだろう。そして貧しいながらも一生懸命に内職をして自分たちを支えてくれた母親に、いつかは恩返しをという思いが湧き上がったはずで、後年よく母への想いを口に出すようになっていた。


 この母への思いの少なかったのが松本智津夫だったのではないか。

 6歳とは言えまだ母親への甘え・依存が必要だったのに、全寮制の盲学校に心ならずも入れられ母親との絆を断ち切られたのは、松本にとっては「母親から捨てられた」感がぬぐえなかったはずだ。

 それほど母親の存在感は子どもにとって大きいものである。

 なにしろ子どもは母親から生まれてくる。母親の胎内にいる時、胎児はへその緒というチューブで母親からの栄養を摂取しなければ育たない。胎児はまさに「母親のヒモ」だ。

 家庭に生まれ落ちてからも授乳・下の世話・言葉の学習など数年間はほぼすべてを母親に依存して成長する。この間もやはり「母親のヒモ」だ。

 そのような母親は子どもにとっては神仏に等しい。

 松本智津夫はおそらく母親への感謝などなかったに違いない。気の毒な生い立ちからすれば当然かもしれない。

 教団の幹部はじめ信者の多くも松本と似たような家庭的な貧しさ(経済的貧困と言うより心理的な貧しさ)を抱えていたのではないか。

 オウム真理教はヨガをよりどころとしてその貧しさを克服しようとしたと思われるが、家庭的な面での被害者である松本智津夫がたまたま持って生まれた(先天的な)極度の自己顕示欲を開示しようとしてうまくいかなかったがゆえに、被害妄想と攻撃性を募らせた挙句が1995年3月の地下鉄サリン事件だったのだろう。

 
 秋葉原のあのトラック突っ込み殺人事件も、犯人は家庭的に両親から正当な扱いを受けなかった恨みが原因だったが、最近は似たような動機による自己否定的な「やけのやんぱち」な事件が多くなっている。

 オウム真理教よりホーム(家庭)真理教が欲しいところだ。

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15年を経た我が家

 平成15年の4月に鹿屋市池園町に家を建ててから丸15年が経った。

 このあたり一帯に採卵用の鶏舎があり、そこが倒産したので差し押さえられて競売にかけられたのを、とある不動産会社が購入し、宅地として造成して売りに出したのを買ったのが、この土地である。

 前年の11月に契約し、家の方は12月中に設計を済ませて地鎮祭を行ってから基礎工事が始まり、翌1月から建築工事にかかり、3月20日ごろに完成した。

 その頃はまさに一大畑地帯の一軒家で風当たりが強く、3月末に引っ越してからはシラスを土地造成に使用してある我が家の庭から巻き上がるシラスホコリで難渋したものだ。

 何しろ大ぶりの窓ガラスにこびりつく砂ホコリのひどいこと、業を煮やして砂利会社に大型ダンプカー1台分の砂利を依頼し、庭のど真ん中にザ―ッと降ろしてもらった。

 それから建物以外の更地という更地に一輪車を使い、一日かけて厚さ5センチ程度に敷き詰めた。

 そうしたら効果覿面で、その後は窓の汚れが気になることはなくなった。


 あれからすでに15年、二人の子供は巣立ってそれぞれの家庭を営み始めている。

 夫婦二人になり、猫一匹、犬一匹を伴に過ごす日々。

 庭もようやく8年生、10年生の見ごたえのある樹木や草花、菜園が日常の中に溶け込むようになって来た。


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日米同盟リセットの勧め

 ロシアのプーチンが、「もし北方領土が日本に返還されたときに、そこに米軍の基地が置かれるのは滅相もないことだ」と、拒絶反応を示したらしいが、当たり前のことだろう。

 別の見方をすると、「日米同盟(安全保障条約)が結ばれているままで北方領土返還もくそもない」ということなのだ。

 そのことで明らかになるのは、「日米同盟があることで日本の安全が保障される。高額かつ高度な防衛体制をとらなくて済んでいるから日米安全保障条約は無くてはならん」と考えている連中は、実は「売国奴」ということである。

 ロシアが、中国が、日本に対して高圧的かつ無礼な態度をとるのも、根本はそこにある。

 1951年に日本が国際社会に復帰した際に、同時に「日米安全保障条約」という「二国間同盟」も結ばれたが、国連憲章では「地域的な取り極めは、当該国が国連に加盟して国連の目的及び原則と一致することを条件とする」(第8章「地域的取り極め」第52条)とあり、平和条約締結により日本が敵対していた英米の意向を完全順守した以上、日米独自の二国間の取り極め(条約)は本来は無効なのだ。

 ところが、時あたかも中国共産党政権が誕生(1949年)し、朝鮮動乱(1950~1年)に影響を与えて東アジア情勢がアメリカの最も嫌う方向に傾斜し、日本国内自体も共産化への危険性があったのでやむなく米国に押し切られる形で「日米安全保障条約」が結ばれたのである。

 日本国内的にも武装警察予備隊(保安隊)がマッカーサーの意向で創設され、もともと憲法九条に明記された「一切の軍事力を持たない」という内容が変更された。マッカーサーは「個別的自衛権までは否定されていない」と解釈改憲を行っている。

 その後は自衛隊の創設まで一気に進んだわけだが、現実に国家・国土を守っている自衛隊を、国防軍(国土防衛隊)として憲法に明記するのが筋なのは言うまでもない。

 ただ、日米同盟は1979年の米中共同宣言以降1989年のベルリンの壁崩壊及びソ連邦の解体(ロシアの誕生)によって変質を遂げ、「日本及び東アジアの共産化のおそれを阻止する」という役割は終焉し、むしろ米国にとって日本国内の米軍基地は、日本の経済発展とそれに伴う軍事力の伸長による脅威を抑えるためのものとという認識が強まった。
 
 これを一言で「瓶のふた」という。日本が暴発しないように抑え込んでいるのが米軍基地の存在意義というわけである。

 日本が米国に盾突いてまたあの大戦をおっぱじめはしないかという危惧が米国側にあるそうだが、そんなことは現実にはあり得ないことだろう。それは米軍基地を手放したくないアメリカ(国防省)の言い訳に過ぎない。

 アメリカの危惧の最大のものは、日本が米国との同盟を離れ中国と今以上に接近することだろう。日中が手を携えたら共産化へのおそれ以上に米国をはるかに上回る超巨大勢力がアジアに誕生するからだ。世界通貨を握っているからこそ行われる都合のよい「ドル防衛」という手段も不吹っ飛んでしまう。

 と言って、日本はアメリカを離れて中国につくこともやめるべきだ。大戦後これまで最大の平和的な世界貢献国家である日本はやはりその独自の路線を貫き、アメリカの外交的・軍事的「忖度」から自由になるべきだ。

 「安全保障関連法」によるアメリカの軍事的下請けは、かってのベトナム戦争における韓国軍派兵と重なる。韓国は朝鮮動乱の際に米軍を中心とする国連部隊に守ってもらったということへの「恩返し」的なベトナム戦争加担だったので仕方がない面もあるが、「日米同盟のおかげでこれまで日本の安全が守られてきた」というタイプの人間が、「恩返しをしなければ」と「忖度」して、軍事的下請けにのめり込む危険性は大いにある。

 トランプが大統領になってからのアメリカは「リセットの時代」に突入した。環境問題一つとっても京都議定書にサインをしなかったのもアメリカなら、パリ協定をも離脱しようとしている。

 日本もこんなアメリカとの関係をリセットすべきだ。目標とするのは、憲法九条に「個別的自衛権に基づく国防軍(国土防衛隊)の存在」を明記(加憲)し、日米同盟を卒業して「永世中立国」となることである。

 

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鹿屋市への提言

 鹿屋市に住んで丸14年、今年で15年目。

 その間10年前の平成の大合併が最も大きな変化であった。

 鹿屋市がついに10万都市の仲間入りをしたのである。

 10万の人口では政令指定都市になるわけではないので、合併のメリットはほぼ行政関連費用の削減に限られる。

 4市町の合併であったから、首長層(市町の執行部)が原則で4分の一になり、議員定数も半分以下になったので、これに掛かる経費は相当な削減になった。

 しかし市町の職員に関しては被合併町の旧役場が「支所」として生き残っているから、さほどの削減にはなっていない。

 何でも削減すればよいというものではないが、この首長層の削減で浮いた予算を市民サービスに有効に使おうという議論があってよい。


 ここからは提言になるが、市民サービスとは市民のためになるサービスのことで、鹿屋市では次にあげるサービスが最も欠けており、

 1、短大・専門学校・大学等の高等教育機関がない。
鹿屋体育大学・鹿屋市看護専門学校などはあるが、多くの鹿屋市民の子弟・子女は結果として対象から除外され、県外の高等教育機関に送り出し多額の教育資金を他県に送っているような状況である。

(解決策)高等教育機関の誘致または新設。
→具体的には、県立大学・短大の新設・誘致。または、市立女子高の専門学校(高等専門学校)への格上げ。

 2、レジャー施設が極めて少ない。
特に、家族が一緒になって楽しめる施設は皆無に近い。
→具体的には、遊園地の建設だが、3番目の「道の駅」との複合施設として考えてもよい。

 3、「道の駅」がない。
東九州自動車道の鹿屋乗り入れと、それとつながっている「大隅縦貫道」が整備されつつある。その入り口が鹿屋市笠之原町である。これからは笠之原地区が鹿屋のみならず大隅半島全体の「へそ」的な観光的役割を担うだろうから、笠之原インターから東原インターまでのどこかに新設すべきである。

 2と3を複合させても面白い。巨大な観覧車や、ジェットコースターなど子供の遊べるレジャーアイテムが付設されれば、それだけでも人の出を誘い、道の駅としても極めてユニークな施設として全国から、少なくとも九州圏からの集客は相当に見込めるだろう。観光客の絶対数増加こそが活性化のすべての原点なのだ。

 また、ちょうど30年前の3月に大隅半島から鉄道がすべて撤去されてしまっているから、道の駅全体を取り囲むようにミニSL・電車を走らせるのもいいかもしれない。子供を喜ばせること。これは市民サービスの重要な目録である。


 今どこの過疎地でも定住促進の諸施策を試行錯誤しているが、まずは現住の市民(子弟・子女)がこの街で学べ、家族そろって楽しめるという「自足感」を満たさなければ外に出ていくばかりだ。

 現在住んでいる市民の切実なニーズに応えること、つまり「市民ファースト」の視点が欲しい。10万都市なのに短大がない・遊園地がない・道の駅がない・歴史資料館(博物館など)がない・・・・・――とないない尽くし。これはこれで逆の意味で非常にユニークなのだが、これを積極的なユニークさに変えていかないと市民からそっぽを向かれるのではないだろうか。

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森友学園問題

 瑞穂の国――と聞いて誰しも日本の伝統と平穏とを思い浮かべるだろうが、森友学園理事長・籠池氏の国会での証人喚問発言はそれと真反対のドロドロしたものだった。

 何といっても今度の喚問では安倍首相の関与があったかどうか、たとえ夫人の昭恵さんであってもこの学園とのつながりが取り沙汰されている以上、同理事長の発言は注目に値するに十分だった。

 昭恵さんはこの理事長の要請で何回か講演に行っている。その中で「昭恵さん自身が100万円の入った封筒を渡したというのだから事は穏便ではない。

 安倍昭恵さんが一時は名誉校長に就任した小学校だったため、大物人寄せパンダによる寄付金集めの一環だったと思われるが、それにしても証人喚問で堂々と当時の様子を再現して見せたのだから、昭恵さんからの100万円はあったとしてよいのではないか。


 この理事長が経営する幼稚園では園児に「教育勅語」を暗唱させるらしい。そのことも含めて「立派な日本人」を育てるというので、昭恵さんもある程度信奉していたのかもしれない。夫の安倍首相も満更ではなかったのではないだろうか。

 教育勅語は明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が公布された翌年の23年に出されている。欧米列強に追いつくべく近代国家にふさわしい諸制度が整備され、その総仕上げとして対外的に謳ったのが大日本帝国憲法であるとすれば、対内的(国内的)に国民をむやみに近代化(欧米化)させないように作り出されたのが教育勅語であるといってよい。

 東洋的日本の精神的な教えを国民に忘れさせまいとする内容で、忠と孝による愛郷・愛国心に基づく道義国家を目指そうとするものであるから、たしかに近代的欧米的合理主義・個人主義とはかけ離れているが、普遍的なものを持っている。

 ただ、そのことと森友学園の幼稚園でやっている幼児に教育勅語を暗唱させることとは別物だろう。


 迂遠なようだが、また「風が吹けば桶屋が儲かる」的に聞こえるかもしれないが、今日の日本人の多くが失っているか失いかけている教育勅語的な感性、つまり親への孝行、兄弟の相和、朋友への信――というような道徳性を復活させたければ、日米同盟を廃棄して素の日本になることだ。

 対米お追従外交を強いられている日米同盟こそが、日本人本有の徳性を失わせている最大の障害だということに気づき、早く自動延長を停止すべきなのである。

 アメリカのような「すべてが金」「スポーツも金」「芸術文化も金」というライフスタイルこそが、人間の徳性を失わせている最大のルーツである。家庭すら無残にも崩壊の一途をたどっている。


 戦後の日本は戦勝国アメリカこそが日本のモデルだとして「お追従を交えながら」そのライフスタイルを真似てきたが、トランプが大統領になって何もかもが明るみに出始めている。

 日米同盟においても「米軍の駐留経費をもっと払え。さもないと引き上げる」と、実に率直である。「上等だ、もう日米同盟は解消だ、自動延長はしない」と言えばいいだけのことだ。

 日米同盟が無くなれば、日本人は人任せではなくもっとまともに国を守ろうという愛国心が出てくるし、ちょうどあの菅原道真が遣唐使を廃止したことによって「国風文化」(大陸文化の日本化)が花開いたように、欧米の文明・文化とくにアメリカの文化が和風化され、金でごたごたした(ちゃらちゃらした)油っこさが抜けてさわやかな文化に生まれ変わるだろう。

   

 「日米同盟が無くなれば、さあ待ってましたと中国が、いやロシアが攻めてくる」というような手合いが多いが、いったい何を根拠にそういうのだろうか?

 たとえば中国が南シナ海で不法に軍事基地を造作しているが、あれと日本を攻めてくるなどということとはまず無関係である。そんなことなら、尖閣諸島には民主党の野田政権が国有化する前に中国が占領していただろう。自民党政権は国有化に及び腰で、そのためにあの石原慎太郎元都知事が「やらないなら東京都が買うぞ!」と自民党のへっぴり腰に愛想をつかしていたのだったが・・・(石原氏もあの頃は元気があったよな。今は豊洲問題ですっかりしょげている・・・)。

 ある国を侵略するためにはちゃんとした理由がなければならないが、中国は何を理由にして日本に攻めてくるのだろうか? またロシアは何を理由にして日本を攻めるのだろうか?

 全く思い当たらないではないか。単なる米軍依存症の裏返し心理ではないか!

 共産圏諸国は何をするかわからない――というのは既に過去のこと、ベルリンの壁崩壊で新しい時代に入っている。

 ただ「専守防衛」の自衛隊は絶対に必要で、日米同盟解消後には「国防軍」に改称して万が一の備えはおさおさ怠らないようにしなければなるまい。


 森友学園問題から尾ひれがついてしまったが、意外と根の深い問題なのである。

 

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高校の同期4人来る

 同期というのは同じクラブ活動をしていた5人組で、その部活とは、何と、いま(特に女子では)超トレンディなスポーツ「バドミントン」である。

 風貌からすると自分などはだれが見ても屋外の野球・サッカーのタイプだ。

 実は山岳部に入りたかったのだが、あの頃は結構雪山などで遭難するニュースが多く、特に父親から反対されて仕方なく屋内に転向して剣道かとも考えたが、剣道部の部室を覗いたら空いたドアから流れてくる汗のすえた臭いに顔をしかめ、たちまちUターンしてしまった。

 そこで体育館の一階フロアの周りに部室はなく、着替えは二階部分にあるちょっとした観覧回廊でやっていたバドミントン部がいやでも目についたので、そこに決めたのだった(ただし女子には別室があった)。

 と、まあ、あっさりと決めたわけだが、本当言うと、中学校の3年生の時に2学期から何の理由だったかは当時は解らなかったのだが、美しい女性体育教師が赴任してきて、体育館でバドミントンをして見せたのである。

 今から思えばそれまで在籍していた女性体育教員が産休か何かで休職したために、若い彼女が臨時雇用でやって来たのだろうが、何しろ若くて綺麗、その上スタイルも抜群であった。

 体育館に蝶が舞うといった風情で、男にしろ女にしろスポーツは今でこそ白い歯を見せリラックスしてやって見せるのが当たり前だが、当時は奥歯を噛みしめながら顔をこわばらせて演技するのが当たり前の時代、そんな中、彼女は時に笑顔を見せながら実に伸び伸びと白い羽(シャトル)を追っているではないか。

 多感な15歳が、魅せられないわけはない。

 山岳部→剣道部→バドミントン部という一見して不可解な部活選択の航跡をたどったのもむべなるかな、だろう。

 
 その高校の時の同期4人が、今度は鹿屋に集まったのが11月5日の土曜日。
 
 皆は首都圏内に暮らしているのだが、面白いことに東京・神奈川・千葉・茨城とすべて都道府県違いである。そこからそれぞれが別行動で鹿屋にやって来た。 
 
 車で来たのが二名。一人は奥さん同伴だ(犬も3匹)。途中、広島やら熊本やらに立ち寄りながら遠路約1600キロをどこ吹く風の気まま旅だったようだ。

 あとの二名は飛行機だったが、大分空港で降りて湯布院の○○岳に登ってきたとか、霧島に一泊したとかで話を聞くだけでも面白かった。

 ともあれ、鹿屋市内の某ホテルで宴会し、宿泊。

 去年はこちらから東京に行って会って飲んでいるが、やはり宿泊となると違う。66,7歳の押しも押されもせぬ一押しのおじさんたちが、50年前の青春時代に戻った。


 翌日6日は、午後の便で鹿児島空港から帰る二名にせめてここだけは案内しようと、吾平山陵へ。他の車組も同行したが、いずれも初めての訪問であったから、「へえ(いいところだね)!」の連発。

 次に案内したのが神川大滝だ。

 吾平山陵から中央線を南下し、大根占の街に下り、そこからもうわずかで大滝に――と神川沿いの道を大滝入り口の先まで走っていくと道路に大きな石や土砂が溢れており、完全な通行止めに!

 大滝入り口の案内板(というよりかアーチ)の手前に「通行止め」の表示があればいいのに、と(一人の土木技術士が)ぶつぶつ言いながら道を引き返し、さてどうしようかと思案をしたがすぐに大滝を上から見下ろす「吊り橋」があったことを思い出し、直ちにそちらへ向かった。

 大根占の中心部に着く手前に、左折してスズシロの里という老健のある高台への道をとると5分ほどで平たん部の4差路に差し掛かり、そこを左折してさらに100メートル先を右折。(「青山荘」(高齢者施設)の看板あり)。

 200メートルほど行くと高齢者施設を右に見て、道は急に細くなってやや下って行くが、どうか倒木や土砂の障害がないようにと願いながら、約1キロを無事に通過して「吊り橋」のたもとへ。

 吊り橋は10月の台風でもびくともしなかったようだ。平成2年に建設されており、件の土木技術士は「鋼鉄のワイヤーなら100年は持つよ」と我々を安心させた。

 吊り橋は神川の川面から約70メートル。わずかに揺れる橋からは高さ25メートル、幅40メートルという端正な「神川大滝」がまさに手に取るように下に見える。皆、感嘆これ久しうしたようで、ここまで案内できてよかったと思った。

 再び大根占の町中まで戻り、ここで佐多岬方面組の車二名(奥方まで入れて3名)と鹿児島空港組の二名に分かれた。

 空港組の二人は送ることにし、大根占から古江、垂水、そして「道の駅たるみず」。ここで休憩を入れ、さらに二川、福山、敷根までの長ーい海岸線をひたすら走り、鹿児島空港着が13時45分。

 さらば、同期の桜。また逢う日まで、元気でな。

 (※写真は多々あるのだが、当ブログでは「ディスクの容量が不足しているので、アップはできません」と表示されるゆえ、文章から画像を想像して下され。)

 

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日韓併合の一場面

 残念なことに途中から見たので詳しいことは書けないが、NHKのファミリーヒストリー番組でフォークグループとして一時代を築いたチューリップのCimg2281代表・財津和夫(昭和23年生まれ)の祖父の代からの歴史を紹介していた(画像は父母の苦労話に改めて涙する財津和夫)。
 祖父は民平と言い、明治の初めに福岡県で生まれ、併合された朝鮮に渡り、息子の国平(財津和夫の父)は農業を手広く経営した。Cimg2278_3父・国平は熊本から同じように朝鮮に渡って農業に従事していた娘(母)と知り合い結婚し、和夫には兄が4人生まれたが、上の二人は幼いうちに亡くなっている。Cimg2280
 終戦後は何もかも手放して福岡県福岡市に引き上げ、そのころ当たり前だった引揚者を対象とした開拓事業に入り、ほどなくして近くにあった米軍のキャンプ地から出る「残飯」を集めて養豚事業を始めて軌道に乗りかかった。
 しかし開拓農場に博多競輪場が造られることになって土地を手放し、今度は食堂を始めることになったそうだ。(上の写真はその食堂でのもの。昭和31年。)
 結構繁盛したようだが、財津和夫は地元でフォークグループを結成後の4,5年後には東京に出ることになった。そのことを父母には内緒にしていたようで、出て行く当日に東京行きを告げたという。
 
 そんな昔を思い出して涙をこらえきれなかったのだろう。
 
 しかしこのヒストリーの中で、朝鮮半島で農場経営をする際に、二人の朝鮮人(当時は日本人だった)を雇い、家族同様に毎日を暮らしたことや、終戦で本土に引き上げるときにはそのうちの一人にすべてを託して来たというのには驚く(金品は持ち出せたが、土地や家屋は無償で手放すほかなかったのだろう)。
 その二人の朝鮮人の子供や孫も探し当てたが、財津家の農場と家屋を引き継いだ人には1男4女がおり、うち生存している4人姉妹は口々に「財津さんの残してくれた家と農地があったので生活に困らずに育った。ありがたいと思う。ぜひ財津さんの子供たちに会いたい」と言っていた。
 極めつけは財津家で一緒に働いていた人の後を引き継いだ長男(故人)が、水墨画家に頼んで描いてもらったという当時の財津家の農場と家屋の絵であった。
 それほどまでにして財津家との良き思い出を残しておこうとした故人にもだが、朝鮮の地で温かい交流を持った財津家の人々にエールを送りたい。Cimg2277
 財津和夫の母は老人ホームで亡くなったようだが、死ぬまで朝鮮での良き思い出に浸っていたらしい。所望する歌はアリランだったそうだ。
 
 台湾と朝鮮はかって日本の領土だったことがあるが、台湾人は今でも日本の統治を感謝している人が多い。
 その一方で朝鮮人はどうも一筋縄ではいかない。朴槿恵大統領の妹のように「日本の統治は悪くなかった」という人も出てきているが、多くは「挺身隊=従軍慰安婦」というような間違った情報に振り回されている。
 日本人の中には食い詰めて朝鮮に渡り、悪事に手を染める者もいたのだが、大方の日本人渡航者は多かれ少なかれ財津家のような交流を持っていた。そんなことが垣間見られたファミリーヒストリーであった。


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満開の高砂ユリ

 梅雨明け後10日、連日32~3℃の暑さが続く。

 そんな中、高砂ユリが満開になった。Cimg1652 梅雨明けと同時にそれまで伸びてきていた茎の先端につぼみがたくさん付き始め、晴天が続いているうちにつぼみはどんどん長くなり、3日ほど前から順次花が開き出した。Cimg1654 南側の花壇には高砂ユリとともにカンナが咲いているが、猛暑に最も強いはずのカンナにしては花付きがよくない。Cimg1651 そういえば今年はムクゲもつぼみが多く見えた割には花数が少なく、一番花はもう残りわずかだ。

 鶏頭の一種セロシアも自然落下の種子でたくさん芽を出しているが、直径が5センチにもなるような抜きんでて大きな株は皆無に近い。

 総じてどうも今年の真冬の氷点下8℃を記録した寒さ、そして3月の25,6日に桜の満開を迎えたあと同じ状態が10日も続いて入学式に想定外のうれしい贈り物をしてくれた4月中旬までの寒さ――等が大きく影響したのだろう。Cimg1634 しかしその寒さも、孫の成長にまでは影響を及ぼしていない。Cimg1632 9月で満1歳の誕生を迎える娘孫。Cimg1631 女の子だからかと思うが、ハイハイをするのが遅くてちょっと心配もしたが、今やつかまり立ちをするまでになった。

 娘のほうは初めての子。二学年上の息子のところは3人いてそっちも女の子だけなので、今のところ孫4人は全部女。日本の人口を増やす方向に行っているのは間違いなさそうだ。

 




 


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奇跡の復活!

 近所のDIY量販店にコンパネを買いに行ったついでに花苗のコーナーで「コデマリ」を見つけたので、今年の例年にない寒波で枯れてしまった「ヒメネム」の代わりに植え替えようと引っこ抜きに行ったら、なんと――Cimg1027 枯れ切ったと思われたヒメネムの一番下の地際にCimg1029 若葉が見えるではないか!Cimg1031 地際の根に近いところから、3本の枝が伸びてきてネム独特の切れ込みのある葉っぱがたくさん出ている。

 驚くと同時に嬉しさが込み上げてきた。あのマイナス8度というこれまでに経験したことのない冷え込みでたぶん枯れてしまったのだろうと思っていた。

 なにしろほかの花木が4月を迎えるころから目立って新芽を吹き出し、5月になれば青葉の競演という趣きで庭が一斉に浮き立ってきても、ヒメネムからは一切の新芽はなかったのだ。

 それがどうした風の吹き回しか、きょう引っこ抜きに行って初めて新葉が噴き出していたのに気づいたのである。奇跡の復活といっていい。

 当然もう引っこ抜きはしない。新葉の出た部分のすぐ上を鋸で切るだけにした。Cimg1036 地際から15センチほどのところの幹を切ったが、中身の芯はまだ枯れ切ってはいなかった。

 これでしばらく様子を見よう。Cimg1038 ヒメネムとは別種といっていい当たり前の合歓(ネム)はもう花の盛りは過ぎているが、この時期には見えない花木の花として鑑賞に値する。




 

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納屋の増築

 去年の夏の台風で車庫兼用のプレハブ倉庫が倒壊し、その後は車は露天、ミニバイクと自転車はブルーシートパイプ車庫で何とかしのぎ、その他の道具類や露天では保管できない物などは軒下の犬走りに置いて雨露を避けて来た。

 だが、梅雨の到来と台風シーズンを控えて「どげんかせんといかん」状況が目に見えて来たので、梅雨入り前に完成させるべく家の裏側に壁片流れ納屋を敷設することにし、5月22日頃から工事にかかり、今日ようやく扉の取り付けと、一部の床にモルタルを流して完成した。Cimg0831_2 東側から見たところ。Cimg0832 西側から見たところ。Cimg0833 昨日ようやく取り付けた西側のドアを開けたところ。真ん中のあるのは古いタンスで、大工道具置き場として奥の西壁に貼り付ける予定。奥行きは約3メートル、高さは低い方が1.9メートル、家の壁側で2.4メートル。幅は1.3メートル。面積は4㎡(1.2坪)。勝手口から出入りすれば雨にぬれずにゴミなどの類を一時保管できる。

 壁に鉛管が取り付けてあるが、あれはオール電化の前に使用していたプロパンガス用の引き込み管だが、取り外していいものか判断保留した。さして邪魔にはならない。Cimg0835 中から扉の向こうを見る。

見た目では分からないが、実はこの出入り口の幅、最下部と最上部の格差が3センチもある。

 それで柱に穴埋めの板材を貼り付けようと考えてみたが、上に向かって3センチも狭くなるよりは―と、扉そのものを出入り口のゆがんだ幅に合わせて作った。結構うまくできて、今のところ開閉に全く支障はない。

 だいたい基礎を作る際に垂直(鉛直)も出さず、角々でも直角を計測もせずにほぼ目分量でやったのだからどこかにしわ寄せがくるのが当然だ。Naya6 出入り口の上部など、とてもじゃないが人様にお見せできる造作ではないが、まあ、見た目よりかは台風にも負けない丈夫さを追求したその結果だと自己満足している。

 5月の20日過ぎに見取り図を描いて諸材料の買い出しにかかり、5月いっぱいまでには何とか完成と取り組んできたが、素人大工の何とやらであれが足りないこれも足りないと買い出しを繰り返すこと7,8回。

 7キロ先の街の中心部にあるキタヤマと、2キロのところにあるコメリにとっては常連客になった。ああいう大工道具や材料を並べてあるDIYショップの陳列を見て歩くのは楽しいもので、店舗の一角にコーヒーショップでも併設したら高齢男性客の憩いの場になること請け合いだ。

 














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