鴨着く島(かもどくしま=肝属川河口)

出水の荒崎新田地区には今年も「万羽鶴」が越冬にやって来ている。越冬鶴はもとは九州各地や山口県の熊毛郡あたりにはよくやって来たそうだが、何時の頃からか鹿児島の出水平野に集中して冬を過ごすことになってしまった。

 マナヅルはわずかでナベヅルがほとんどだが、世界のナベヅル生息数のかなりの部分が出水に飛来しており、万が一伝染病などに罹ったら絶滅の危機に瀕するとかで、毎年話題になっている。その対策は難しいようで、なにしろ下手に分散処置など取れば、ツルにはストレスとなり生態系に悪影響を及ぼしかねない。

 さりとて、荒崎新田のツルへは人工的に餌が与えられているため(補助的にという名目だが・・・)、それも不自然(非生態的)と言えないこともない。これまでそのようにして一度もトラブルがなかった――ということで、慣例的にずっと続けられているのだが、常に伝染病と生態系の改変という一種の後ろめたさが付きまとっているのは事実だろう。

 そこへ行くと、肝属川に飛来するカモ族は生態系の想定内にある。「万羽鴨」かどうかは分からないが、結構な数は来ているようである。今朝、肝属川河口まで見に行ってきた。しかし、この頃は想定外の事態が起きている。桜島の灰が北西の風に乗ってやって来ているのだ。1219kamotohai_001

 高山川が肝属川に注ぐ直近の「下之園橋」から上流を眺めると、国見山系は春霞に覆われているように見えるが、あれは桜島の降灰である。

 今度は下流を見ると、左1219kamotohai_002 に国土交通省 河川管理事務所・高山出張所があるが、そのすぐ左手から薄黒い霧のような物が近づいているのが分かる。

 あれの正体は桜島の灰である。1219kamotohai_009

 「波見大橋(第2)」から見る肝属川河口のランドマーク「権現山」(320m)も降灰の霞の中にあった。1219kamotohai_004

 強い北西風を避けるためだろう、護岸用のテトラポット近くに10羽ほどのカモの群れが浮かんでいる。1219kamotohai_006

 頭の色がやや赤い種類のカモだ。1219kamotohai_007

 肝属川と、大崎町から流れてくる「汐入川」との間を仕切る中州の葦原は、カモ族の格好のねぐらに違いない。(遠方の連山は大姶良山系)1219kamotohai_008

 中州は左岸の船溜り近くまで伸びており、そこにもカモがたくさん憩っていた。1219kamotohai_010

 肝属川河口からの帰り道、串良町下小原(しもおばる)にある「下小原池」に寄ってみた。河口から5キロほど、広大な肝属平野の中を北西に走った岡崎台地の南にある池で、元は水田用の溜め池だったのを、平成8年に改修して公園にしている。1219kamotohai_011

 公園化したときに、奥の方にバンガローを造り、キャンプやボート遊びができるようにしたというが、キャンプはどうか分からないが、もう5,6年近くを通るたびに注意しているのだが、ボートが浮かんでいるのを見たことがない。1219kamotohai_012

 その代わりと言っては何だが、カモが浮かんでいる。それもかなりの数である。下小原池というより「鴨池」だ。

 そう言えば、鹿児島市の鴨池地区も、昔は冬になると鴨が飛来するような池(汽水域)があったのだろう。1219kamotohai_013

 カモ族は足に広い足掻きを持っているので、その水力で水の上をスイスイ動き回ることができる。

 それになぞらえたのが「オールで力強く水を掻いて進む船子」通称「カコ(水手)」で、そのような生業を我が物とした航海民を「鴨族(加茂族)」と呼んだ。

 鹿児島の語源は「鴨島」で、要するにはるか昔から「鴨族の島(地域)」だったのだ。

 薩摩半島もだが、大隅半島もこのような「鴨族」の蝟集する地域だった。しかも鴨が朝鮮半島を経由して満州や沿海州方面に渡ったように、ここの「鴨族」も満州までとは言わないが、少なくとも朝鮮半島へは渡っていたに違いないのである。

 鹿児島の鴨池地区は埋め立てられてのちに飛行場(「鴨池空港」)になるが、鴨は泳ぎが上手なばかりではなく、本来は鳥であるから飛ぶことはお手の物だ。まさかそれをなぞったわけではあるまいが、そんな歴史を念頭に入れてみると、飛行場の名として悪くはない。少なくとも「溝辺」よりはましなのではあるまいか。

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赤いイリュミネーション(鹿屋市田崎町)

いま鹿屋地区では、あちこちでクリスマス用のイリュミネーションが飾られている。それはそれなりに綺麗なのだが、自然界も負けてはいない。1216oosumisen_026

 鹿屋市の田崎運動公園にはかなり大きなサザンカが植えられているが、赤い花が鈴なりに咲き輝いている。1216oosumisen_029

 並んで植えられているイチョウがすっかり葉を落としたのと入れ替わるように、多量の花を着けたサザンカ。今年は例年に増して花の着きがよい。1216oosumisen_027_2

 この公園はサッカーコートが一面取れるほど広いが、昼間、高齢者がグラウンドゴルフをする姿を見るだけで、家族連れや若者の利用はとても少ない。

 鹿屋はシラス台地ではあるが、平坦地が多い土地柄で、このように整備された公園がむやみに多い。1216oosumisen_028

 公園を利用する人々が少ないのももったいないが、こんな美しい花を愛でる人が少ないのはもっとmottainai!

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晩秋の野の道(鹿屋市野里町)

すっかり秋が深まり、霜月も今日で終り。

 鹿児島では常緑広葉樹がほとんどを占めているため、晩秋・初冬の木の葉を落とした寂しげな、しかし、味わい深い風景は少ない。

 だが、ここだけは違う。黄葉のイチョウがはらはらと舞い散り、その向こうにカラマツに近い樹林帯がすっかり紅く葉を染めている。1129hirakikijinja_031

ガードレール(と電柱)が無ければ、ヨーロッパのどこかを思わせないだろうか?1129hirakikijinja_032

 惜しむらくはやはりガードレール。

 しかしここは通学路。さらさらと流れる用水路に小学生が落ちては危ないのだろう。

 

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市成(いちなり)界隈(鹿屋市輝北町市成)

東京からやって来ていた姪を鹿児島空港まで送ったあと、帰り道に輝北町の市成地区を巡ってみた。

 まずは高みからの見物ということで、登見ノ丘(どげんのおか)に上ってみた。登見ノ丘は市成麓を通る国道504号線の信号から右へ(鹿屋からだと左へ)折れ、200㍍ほど行くと右手に急な坂道があるので登って行く。輝北天球館への道である。

 ちょうど1キロほど登ると、右手に丘に到るという案内表示があり、100㍍ほどで丘の頂上に着く。ここからの眺めはよい。1017nanatoichinari_018

 標高556mからの展望。

 手前の杉木立の合間に展開する集落が、藩政期まで機能していた麓集落で、ここに市成郷の仮屋(郷の庁舎)があった。

 真ん中を右上から左下へ走るのが国道504号線で、鹿屋方面では俗に「空港道路」と呼んでいる。

 現在の市成地区の中心地はこの国道沿いに集中している。1017nanatoichinari_023

頂上の西のはずれに、石塔が並んでいた。(右の鳥居の奥には「早馬社」がある。馬頭観音の神社版だ)1017nanatoichinari_021

近くへ行くと、一基が抜きん出て高い。説明板によるとこれは「市成領主・土岐姓・敷根忠頼の墓」で、石塔の分類では<宝篋印塔>だそうである。

 台座まで入れると2㍍近い、堂々たる作りである。

 忠頼は父が初代・敷根久頼、母は島津家18代の家久の娘であり、若くして亡くなったその死を惜しみ、このように立派な石塔を建てた――とある。

 (敷根氏の前身は土岐氏であるが、戦国時代末期に曽於郡の敷根郷を領有したため姓を改めている。)

 市成における本城は「垂野城」で、そこを居城としたのが市成氏であったため、ここが市成と呼ばれるようになった。鎌倉時代初期のことらしい。

 この石塔群はもとからここにあったのではなく、垂野城近くの寺にあったのを廃仏毀釈による損壊をおそれて移されたのだそうだ。

 登見ノ丘を下り、道をさらに輝北天球館方面に向かう。1017nanatoichinari_024

1キロちょっとで奇抜なデザインの「輝北天球館」に着く。

 馬にまたがった現代のドン・キホーテが何やら「宇宙へのメッセージ」を送っている姿――に見えてしまうから不思議だ。

 向こうに見える三基の風車は「地上のメッセージ(風)」を受けているが・・・。1017nanatoichinari_026  

天球館の道を下り、市成の麓地区を通ると、石垣と石段の鉤型の入り口を見つけた。

 中世・現代・未来を眺め、今度はまた近世に逆戻りする。1017nanatoichinari_017

郷士屋敷から再び国道504号線の信号に戻ると、道の向こうに広がる下方(しもほう)墓地の中に<六地蔵塔>が建っている。

 薩摩における六地蔵の起源は朝鮮の役(1592年・1596年)の戦没者を供養するためだが、これは江戸時代中期のもので完形の珍しいものだそうである。1017nanatoichinari_013

信号から南へ(鹿屋方面へ)向かうと500㍍ほどで手押し信号機のある小さな交差点があるからそれを左折し、300㍍走ると、左手に「市成小学校」が見える。

 明治の<郷校制度>時代からある古い学校だ。昭和30年代には300名ほどいた生徒も、昨今は50名いるだろうか。来年度からは同じ輝北町内の百引小学校に統合されるようだ。

 小学校からさらに2キロほど行くと、県道<仮屋―宮園線>にぶつかる。それを左折して朝倉集落に向かう。

 「朝倉の隠れ念仏洞」を見るためだが、途中で道を聞いた農家の子牛が可愛かった。1017nanatoichinari_004

おそらく昨日かおとといくらいに産まれたのだろう。まだ人見知りをしないようで、近寄ってカメラを向けても動じないでいた。1017nanatoichinari_007

隠れ念仏の洞の入り口は、朝倉公民館前の集落道を南へ200㍍ほどの所にあった。立派な説明板が建つ。

 そこから谷に向かって下ること200㍍で洞に到る。1017nanatoichinari_006

ひと一人がかがんでやっと入れる程度の入り口が、ぽっかりと開いていた。

 中は意外に広く8畳ほどの広さがあるという。

 灯明を持ち込み、入り口を柴の束や茣蓙むしろで厳重に閉じた中、「南無阿弥陀仏」の声がくぐもって聞こえただろう。

 ふたたび朝倉公民館前に戻り、そこから県道に出て右折し、もと来た道を引き返す。1017nanatoichinari_012_2

さっきのT字路の前方にこのあたりの高原状にフラットに広がる一帯(八重山台地)には似つかわしくない丘が見える。

 地図には「二子塚」とあるので行ってみる。

 今、稲刈りの真っ最中だ。こんな高原のような所で水があるのかと思ったが、二子塚のそばまで行くとちゃんと「開田の碑」というのが建っていた。先人の米作りへの執念が伝わってくる光景だ。1017nanatoichinari_010

丘のすぐ下の道路に車を停め、蜘蛛の巣を払い、腰の辺りまで茂った草をかき分けながら山道を登る。

 比高で25㍍くらいか、頂上は150坪位の平坦地になっていたが、ここも草ぼうぼうだ。1017nanatoichinari_009

二子塚というからには、何らかの墓だと思うのだが、何しろ草だらけでよく分からない。

 傍らに小さな石の祠が二基あるので、間違いはないだろう。1017nanatoichinari_016

二子塚を調べたあと、再び国道504号線に戻り、手押し信号の所を左折し、鹿屋方面に走る。

 300㍍ほどで左手に神社の赤い屋根と鳥居が目に入る。

 標柱に「太玉神社」とある。1017nanatoichinari_014

「太玉命」は天孫降臨の五伴緒(いつとものを)の神々の一人で、忌部(斎部)氏の祖神とされている。

 市成郷の郷社というわけではないようだが、ここを開拓した最初の領主である「市成氏」の祖先であるとすれば、市成氏は忌部氏の出自ということになる。1017nanatoichinari_015

由緒があるということは、鳥居を入った左右に随身宮(摂社)があったり、石の灯篭が寄進されていることからも分かるが、「太玉命」がここに祭られている理由は謎と言ってよい。 

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小さい秋見つけた(ホトトギス)

昼の2時間ほどしか日の差さないわが家の西の一角、隣家との境に、今年もホトトギスが咲いた。1012hototogisusaku_001

朝の11時頃、ちょうどそこへ日が差し、けっして鮮やかとはいえないが、独特の花弁が見えた。

 ちょっと芸がなく、ただ単に広げた感じの葉っぱの列の真ん中に、今年はよく密集して花を付けている。1012hototogisusaku_002

ホトトギスとは、花弁の中の模様が鳥のホトトギスの首から腹にかけての紋様にそっくりなことから名付けられたそうだが、面白いのは花弁の真ん中から飛び出したおしべ・めしべにも同じ模様があることだ。1012hototogisusaku_003

地面に近い一枝にはこれ一輪しか咲いていないが、目一杯に大きな花を咲かせている。1012hototogisusaku_004

隣家の垣根に向かって四、五本の長い茎が伸び、それぞれが多数の花を咲かせている。

 今年は少雨乾燥が続いたので、葉っぱが黄ばむのではないかと心配したが、どうやら杞憂だった。例年よりむしろ青々としている。

 ホトトギスの花は、高隈山が有名で「タカクマホトトギス」という固有種があるくらいだが、これは肝属郡旧田代町の大原地区に自生していたのを採取して、持ってきた。今年で10年目の株だが、ようやく鹿屋の平地の気候に合ったのだろうか。

 彼岸花と同じ時期に咲き始め、秋を告げる可憐な花である。

 「小さい秋」見つけた。

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どこも運動会(鹿屋市大姶良町・南町・飯隈町)

鹿屋市では今日、ほとんどの小学校で運動会が行われている。おとといまで不順だった天気も昨日から持ち直し、今朝は最低気温17度、薄く雲がかかってはいるものの、絶好の運動会日和となった。

 わが家から2キロ圏には三つの小学校がある。午前中、読みさしの歴史本を読み終えてから、その三校を回ってみた。1004undoukaidarake_003

まずは家から真東にある「大姶良小学校」。

 県道<佐多・鹿屋線>沿いにある生徒数400人台の中規模校だ。1004undoukaidarake_002

 紅白の飾り門がいい。1004undoukaidarake_001

 栴檀の木の下はちょうどよい木陰になっている。

 応援の保護者が多数、我が子の活躍を見守っていた。

 次に行ったのが「南小学校」。1004undoukaidarake_004

大姶良から南小へは、県道<佐多・吾平線>を通るが、南小のすぐ手前には今年完成した「新西南でんぷん加工場」(JAきもつき所属)が巨大な姿で建っている。1004undoukaidarake_005

 県道沿いの校門にはかわいらしい案内が立っていた。

 運動場は校舎の向こうなので、道路を反対側に回る。

 校庭の入り口で目にしたものは・・・・・1004undoukaidarake_006  

・・・入場門だが、何とも不思議な門だ。と思ってよく見ると・・・・・1004undoukaidarake_007

 ・・・本物の稲の束が架けられていた。

 しかも、モミが着いたままだ。いやはや驚いた!日の丸のような赤丸の中には「実りの秋 大運動会」と書いてある。

 なるほど、そうか。もしかしたら「学校田」で採れた稲か。「脱穀競争」なんて種目があったりして・・・。

 最後に訪れたのは飯隈町にある「西俣小学校」。1004undoukaidarake_010

 ここの入場門はすごい。立派な「杉門(緑門)」だ。なぜ杉の葉が使われるのか、その理由は分からないが、杉の葉で仕立てる学校が結構多い。1004undoukaidarake_008

 ここは生徒数100人足らずの小規模校だ。

 今、種目は障害物競走のようだ。走るのを待っている生徒の塊に比べて、校庭がえらく広く感じられる。1004undoukaidarake_009

 保護者の応援席にはブルーシートが隙間なく敷かれている。

 おまけに日除けの「永野田 敬老会」の横断幕が垂れ下がる。至れり尽くせりだ。

 小学校の運動会は地域の一大イベントで、ちょっと大げさに言えば、一族郎党が子どもの応援にやって来る。

 昼食時などは、まるで宴会のように話が弾む。

1004undoukaidarake_011 おっと、こちらでは生まれたばかりの赤ちゃんまで連れてきて、はや「飲ん方(宴会)」が始まっているようだ。

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"友愛”がこんな所に!

一週間ほど前に所用で訪れた「鹿児島県立鹿屋農業高校」。このとき、「あれ!何でこんな所に?」と目に入ったのが”友愛の碑”であった。鳩山新首相のキャッチフレーズではないか・・・!
 
 その時はカメラなど持っていなかったので、今日の午後、改めて訪ねてみた。
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 鹿屋市を通り抜ける国道269号線の農高前信号の先から左側に校門があり、それを入るとロータリーの向こうに本部棟が建つ。
 
 件の”友愛の碑”はロータリーの左の奥にある。近づいてみると、不思議な色合いと模様の石に彫り込まれていた。
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 下に別の石(プレート)に細々と文字が刻まれている。
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 建立者は「台湾同窓生卒業記念碑建立委員会」で、平成10年11月11日とある。「ほう、台湾からの留学生がいたんだ」というのが率直な感想で、ほとんど念頭になかった事柄であった。

 よく読んでいくと――農高は平成10年までの卒業生は2万2千人を数える伝統校だが、昭和7年から21年まで台湾からの入学生が34人おり、その台湾同窓生は現在でも農高への絆が強く、各界で活躍しているが、本校関係者が台湾に行ったりすると非常な歓迎を受ける。その「友愛の精神」を称えて平成10年に建立した――というような内容である。
 
 そう言えば、今年の何月だったか、そんな同窓生の息子(といってもかなりの年配者だ)が、日本を訪れた折に父親から折に触れて聞いていた農高に足を運んだ、というニュースが流れていた。

 使われていた石は台湾産の原石とあるから、もしかしたら台湾同窓生の寄贈なのかもしれない。たぶん間違いないだろう。碑文の中に「台湾同窓生」とあって「台湾留学生」としていないが、これも親日だからだろう。実際、彼等が農高にやって来たときは、台湾は日本の一部だったのだから、「台湾留学生」はあり得ないのである。

 これがもし「朝鮮同窓生」だったらどうだろうか? おそらく「同窓生」は使わないはずで、使ったら<朝鮮は日本の一部だった>という「忌まわしく、忘れ去りたい過去の日韓併合」を認めたことになってしまう。しかし、その前にまず「朝鮮出身者」が学んでいたのかどうかが不明だが・・・。
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 入り口のロータリーの反対側には農業高校らしく<農魂>の碑があり、隣には<創立100周年記念碑>(平成7年建立=幅約2㍍)がでんと建っている。

 鹿屋農業高校の歴史は古い。何と明治28年(1895)に「県(立)農学校」として設立されている。県営の就学施設としては鹿児島県で最も古いものである。面白いことに、他県でも県立では農業高校の歴史が一番のようだ。明治の殖産興業政策の一翼を担っていたのだろう。

 卒業生は多岐にわたり、どうも古い卒業生ほど優秀な人材が多かったようで、今の鹿屋市長(74歳)はこの学校の出身者であるし、知人の伯父はここを出て東京に遊学し、今は弁護士として活躍していると聞く。

 
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 ロータリーの中心の円形花壇には巨大なソテツの株がある。

 "友愛”は何も台湾同窓生のものだけではない。この農業高校にともに学び、ともに汗し、ともに過ごした3年間は何にも替えがたい友情の期間で、卒業後は懐かしい”友愛”に恵まれるだろう。

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稲刈り(鹿屋市池園町)

わが家から1キロちょっと行った大姶良川沿いの田んぼ地帯。

稲刈りのちょうど終わった田んぼと、今まさに稲刈りの最中という田んぼの両方があった。

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ここはもう掛け干しが終り、あとは屋根のビニールが飛ばないように黒いビニール紐で結わえているところ。920higanbanatoinekari_006

少し行った道路の反対側の田んぼでは、今まさに稲刈りの最中。

 夫婦ではなく、母と息子が 粛々と仕事をしていた。920higanbanatoinekari_007

「バインダー」という刈り取りながら同時に紐で括っていく機械で、田んぼの手前から向こうへ。920higanbanatoinekari_008

ぐるっと一周して来た。短冊状に刈り取り、それをくるくる回りながらゼロの状態にして行く。

(要するに、長方形の田んぼの端から、細切れに刈り取って行く)

 お母さんに今年の出来を聞くと「虫が入ったが、収量はまあまあ」ということだった。

 「虫」とは「カメムシ」のことで、実が入る初期の頃に中身を吸いに来るので、モミにに茶色の斑点を残し、一等米にはならなくなるのである。

 しかしまあ、雨が極端に少なかったこの夏にしてはまずまずの出来ではなかろうか。

  

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彼岸花(鹿屋市池園町・萩塚町)

昨日、秋の彼岸入りをした。

彼岸といえば、律儀にこの頃になると花を咲かせるのが「彼岸花」。稲刈りが行われているかどうか、大姶良川沿いの田んぼを見に行ったら、途中の集落道で彼岸花を見つけた。920higanbanatoinekari_003

田園地帯では、彼岸花は主に田んぼの畦に咲いている。

 ここは集落の中道だ。

 赤いのが普通だが、ここでは白花も黄花もある。三種混合。920higanbanatoinekari_002

赤い花ばかりだとちょっと毒々しいが、白の清楚と、黄色の明るさが観賞を誘っている。

 白は赤の突然変異から生まれたが、黄色の花は欧米に持っていかれた彼岸花の改良種らしい。

 だからもともとは日本に無かった種類なのだが、園芸好きの人によって各地に球根が普及したのだろう。920higanbanatoinekari_001

その改良種がお好みなのか、カラスアゲハが一匹、さっきから黄色の花に顔を突っ込んでいる。

 赤い花のほうが似合うと思うのだが、こっちのほうが甘いのか。

―池園町にて―920higanbanatoinekari_009

田んぼ地帯をぐるっと回っての帰り道。

 萩塚町の通りを走っていると、通りに面した住宅の車庫の脇に彼岸花が明るい。

 車庫の近くには「ダチュラ」という珍しい花も咲いている(テッポウユリのように長い花が下向きに垂れ下がっている。ここのはクリーム色)。920higanbanatoinekari_010

なんと、ここのも三種混合で咲いている。

 よく見ると黄花のほうが茎も太く、花びらもこってりしている。蜜も甘くこってりしているのだろうか。

 欧米から逆輸入された黄色種に取って代わられるのはつまらない。

 緑の田園には、毒々しくても赤が似合う。別名が曼珠沙華だから・・・

 ・・・北原白秋のあの

   「ゴンシャン、ゴンシャン 何処へゆく

    赤い お墓の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

     きょうも 手折りに 来たわいな」

とうたわれた花のイメージが無くなってしまうわいな。

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案山子(かかし=鹿屋市名貫町・川東町)

「かかし」というと、さだ・まさし世代なら名曲「案山子」を思い浮かべるだろう。

 中学か高校を出た我が子を、都会へ進学または就職させた親(特に母親)の気持ちを切々と謳い上げていて、ジンと胸に迫る歌だ。カラオケに行ったときには、欠かせない持ち歌でもある。

 『 銀色の毛布着けた 田んぼにポツリ 置き去られて 雪をかぶった 案山子がひとり 

 お前も都会の 雪景色の中で ちょうど あの案山子のように 寂しい思い してはいないか 身体を壊しては いないか―― 

 さだ・まさしは南国長崎の出身で、雪をかぶった案山子など見たことがなかったろうが、たしかに上信越や東北の雪深い田園では、その昔、よく見られた光景であった。たぶん彼も学生時代などに冬の東北などを旅して、雪に埋もれたような田園地帯で、こんな風景を目の当たりにしたに違いない。

 今の東北や信越地方に現実にあるかどうかは知らないが、仮にあるとして、「案山子」が活躍するのは実りの秋たけなわの頃だろう。そのにぎやかな季節を唄わずに、置き去られ忘れられたような「冬の時代」に焦点を合わせたその着眼は、さすがにセンチメンタリスト「さだ・まさし」の面目躍如たるものがある。

 さて鹿児島の案山子やいかに――。912kakashikumoimo_001

 いやはや、何がセンチメンタルだ。

 おやおや左手には何やら・・・ゴルフでもしようってえのかい?

 まあ陽気でいいわな。

(名貫田んぼで)912kakashikumoimo_003

 定番のオヤジ案山子。でも最近のは顔を書かないんだ。

 昔は「へのへのもへじ」だったがね。

(川東田んぼで)912kakashikumoimo_002

 最近増えたように見える「おっかさん案山子」。

 そういえば、田んぼによく来て、草取りなんかに精を出しているのは、農婦のほうが多いような気がする。スズメにはにらみが効くんだろう。

 案山子は、遠い昔、「山田の曾富謄(そほど)」と言った、と古事記にある。

 もっと古くは「久延(くえ)ひこ」と言ったらしい。クエヒコは「足は行かねども、天下の事を、ことごとく知れる神」だそうだ。(『古事記・上巻・出雲神話』より)

 現代なら情報通信の神と言ったらいいだろうか。 畏るべし、米を守る「案山子」。

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