盛んなグラウンドゴルフ

 鹿屋市は笠野原台地という有名な火山灰土の丘が広がっているせいで、河川による浸食地(谷間と崖地)以外は比較的平らな土地が広がっており、芝を張り付ければゴルフ練習場やグラウンドゴルフ場が出来上がる。

 さすがに市街地の真っただ中にゴルフ練習場は作れないが、グラウンドゴルフの適地は至るところにある。小学校区単位で持っている広い都市公園も、行政の許可を得ればグラウンドゴルフの大会会場に早変わりする。

 鹿屋市の田崎地区と下堀地区との境目にあるグラウンドゴルフ場「健康の森・蔵」は自分のよく行くところだが、今日は個人戦とかで、昼過ぎから競技が行われた。

 車のオイル交換とCDプレイヤーの不調で、購入したディーラーへ行かなければならなかったので、参加はしなかったが、車のことが終わっての帰り道に見ると、まだ競技の最中だった。

 朝練習に行ったとき、昼からの競技には30チームほどがエントリーしているということだったので、150人前後の参加だったようだ。

 16ホールすべて終わった知人が腰を下ろしていたので聞いてみたら、16ホールのうち一度もホールインワンがなく、スコアは40を超えてしまったという。

 この人は以前に練習では16ホールで三つのホールインワンを成し遂げ、わずかスコア6で上がったこともあるのだが、「本番に弱い」のが玉にキズらしい。まだ始めて半年くらいだからこれからも修練を積んで平常心でできるようになれば、相当に伸びる人だ。

 もっともこの競技は老若男女を問わず、同じ道具、同じルールで行われるので、まさに男女共同参画を地で行くような競技なのだ。

 競技場内からは時折り黄色い歓声や笑い声が聞こえてくる。和気あいあいの有酸素スポーツで、2時間もやると5000歩くらいは軽く超える歩数になるから、高齢者にはうってつけの運動だ。

 

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サフランもどきの開花

 これもまた遅れに遅れた。
 
 「サフランもどき」というサフランによく似た花弁とめしべを持つ花が、昨日から今日にかけて一斉に咲いた。

 この花は球根植物で、いったいどういう仕組みで違う球根が同じ時期(というか日)に揃って咲くのか、いつもながら感動をおぼえる。(写真は例によってホームページ『鴨着く島おおすみ』に掲載)

 例年なら4月中には今年の第一花が揃って咲き、その後は2か月ないし1か月ごとに咲くのだが、今年は2か月近く遅くなった。

 まあそれでも咲きそろうのを見ると心がなごむ。


 趣味のグラウンドゴルフ場でいつも一緒になり同じコースを回ることの多いS氏は、今日は奥さんの実家のある高隈町へ田植えの手伝いに行くとかで早々に切り上げて帰ったが、コメの普通作はちょうど今頃の田植えだから格別に遅れたというわけではないようだ。

 高隈地方は標高が高く、清冽な水の得られる所なのでコメが美味しいと評判である。

 秋の取入れまで仲良くホールを回っていたら、ひょっとして美味しいコメが手に入るかもしれないゾ。

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異例の梅雨入り

 昨日の6月6日、鹿児島気象台は鹿児島地方の梅雨入りを発表した。例年より6日、昨年より13日遅かったそうである。

 今日は一気に四国中国地方から関東までが梅雨に入った。

 タイトルからすると、「今年の梅雨は異例だ」ととられるかもしれないが、梅雨入りが異例だったわけではなく、梅雨入り前に必ずある「とある出来事」が全くなかったことを指している。

 その出来事とは我が家の愛犬「ウメ」の衣替えのことである。

 例年ならゴールデンウィークあたりから5月半ばくらいまでかけて、冬毛がモワモワと外側に湧き出てその毛を手で引っ張って抜いたり、ブラッシングしたりしてかなり目立たなくなったころに風呂に入れて完全に衣替えを終えてさっぱりするのが恒例であったのだが、今年は全くと言っていいほど冬毛が湧き出てこないのである。

 ブラッシングしてやれば抜けることは抜けるが、例年のようにブラシの歯に大量の毛が巻き付いて通らなくなるようなことは全くない。

 春先から4月いっぱいくらいまでは確かに気温が低く、桜の満開やバラの満開が2週間以上遅れたほどであったが、それならウメの冬毛も2週間遅れでモワモワしてもよさそうなものだが、そのような気配が見えない。

 そうこうするうちに昨日から梅雨に入り、これからもしばらくは気温は低めで推移するだろうから、ウメの衣替えが果たしてあるのかないのか、気にかかるところである。

 今年で6歳になったウメもそろそろ高齢犬への仲間入りか、そういえば最近は散歩に出るのを逡巡するそぶりを見せるようになったが、これも加齢現象なのか、ウメちゃん頑張ってな!(最新のウメの写真はホームページ「鴨着く島おおすみ」に掲載)

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満開の桜の下で

 全国的に見ても規模の大きい「鹿屋市田崎グラウンドゴルフ場」では、植栽された桜が見ごろを迎えている。

 このグラウンドゴルフ場は海上自衛隊鹿屋航空隊基地のすぐ近くにあり、騒音や安全かれこれについて防衛省から助成金がふるまわれ、その結果造成されたグラウンド度ゴルフ場だ。西日本最大規模だという。さもありなん、8コース(ダブル)が設けられており、5人一組の団体戦では最大80チーム程度が同時にゲームができる。

 グラウンドゴルフ発祥の地は鳥取県の何とかいう小さな町だが、グラウンドゴルフが日常的に盛んに行われているのは鹿屋市ではないだろうか?このグラウンドゴルフ場のほかにも民間のがあったり、各市町村の大きな公園では子供たちが遊び回るより、むしろ高齢者グループがグラウンドゴルフを楽しむ姿を多く目にする。

 朝8時頃に仕事への道すがら田崎グラウンドゴルフ場を横目に通ることがあるが、もうその時間帯に大規模な大会が行われていることがある。しかも真冬の相当に冷え込んだ朝でも、また雪の降った明くる日でも開催されていることがあってこれには驚かされる。

 15日に仲間でグラウンドゴルフをやろうということになり、下見を兼ねてプレイに行ったところ、ここら辺はグラウンドゴルフ場を含めてサッカーや少年野球のできる公園なども桜が相当数植えられていて、いま7分咲きといったところであった。

 西風が強かったため、満開を待たずに散り始めている桜もちらほらあり、それはそれで見事で、仲間と来て楽しんでいる人たちの無心な姿に花を添えているようだった。

 

 

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桜の開花(吾平山陵の桜)

 鹿児島気象台は昨日の午後、標本桜に5輪以上の開花を確認して「開花宣言」を出した。

 遅れに遅れた開花は昭和28年(1953年)に開花宣言を開始して以来最も遅い記録になったという。

 東京では昨日が満開だったそうだから、南北が反対だ。開花には休眠打破のある程度の真冬の冷え込みが必要だが、鹿児島も2月はかなり寒かった(東京より寒かった)のに、桜を揺り起こせなかったのか? いまいちよく分からない。

 しかしまあ、咲いたと聞いて行かねばならぬ場所がある。

 それは鹿屋市吾平町の山麓にある吾平山陵だ。正確には「吾平山上陵」だが、地元では「あいらさんりょう」もしくは「さんりょう」で通っている。

 我が家からちょうど10キロ東南に走ると、山紫水明の吾平川支流に洗われるような清流の奥深くに山陵はある。神武天皇の父に当たる「ウガヤフキアエズの尊」と、母である「タマヨリヒメ」が洞窟の奥津城に祀られている。

 駐車場と川べりに20本程度の桜が並び、数は至って少ないが、どの桜も枝ぶりが良いのが特徴で、とても見応えがある。見たところ、早いので2分咲きだろうか、今度の日曜日には満開に近くなるだろう。花見には最適だ。

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高隈山の雪景色

 今冬最大の寒波襲来との報道の通り、2月9日から始まった北西よりの強い寒波が南九州まで南下し、一昨日から今朝にかけて山岳地帯に冠雪をもたらした。

 1月にも一度は冠雪があったが、今回は鹿屋の中心部からでもはっきりと真っ白な稜線が望まれた。

 あと2,3日は寒い日が続くので、遠目にも雪を被った高隈山の冬景色が楽しめそうだ。

 (※このブログでは画像をアップできない。ホームページ「鴨着く島(かもどくしま)おおすみ」の「鴨着く島ブログ」リンク画面で確かめてもらいたい。)

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謹賀新年(2017)

 当ブログを見に来てくれるみなさん、明けましておめでとうございます。

 平成も29年目に入り天皇陛下の「生前退位」が日程に上りましたが、皇太子徳仁殿下がしかるべき時期に高御座に就かれ、無事に皇位を継がれることを日本国民として、また一世界市民として願いたいと思います。

 何といっても日本は少なくとも奈良時代の初めに天皇制の律令法治国家を形成してからかれこれ1300年余、全国津々浦々にわたる米作りとともに世界に名だたる文化国家としての歩みを続けてきました。


 幕末以降は欧米列強の世界分割競争の中に投げ入れられ維新運動を起こすことで世を一新し、不平等条約を結ばされたことに苦慮しながら「欧米何するものぞ」の気概を奮い立たせ、「敵を知らずんば始まらない」といわゆる脱亜入欧により欧米の文明文化をどん欲に取り入れて「富国強兵」に成功し、日清戦争勝利によって治外法権の撤廃を、日露戦争勝利によって関税自主権を勝ち取って、欧米列強と肩を並べるまでになったのです。

 しかしながら欧米の有色民族差別は根強く、日本が国際連盟設立前夜のヴェルサイユ条約制定に付随する会議において全権副使(大使は西園寺公望)の牧野伸顕が「人種差別撤廃案」を主張して会議場の採決で賛成多数であったにもかかわらずその会議の議長であったアメリカのウィルソンは「全会一致でなければ採択しない」と言い張って反故にしてしまいました。


 アメリカは当時、リンカーンの奴隷解放宣言によりアフリカ黒人の売買はしていなかったのですが、南部では特に黒人は農奴として基本的人権の枠外にあったので、すべての人種を平等にするなどもってのほかだったわけです。怒って帰ってしまったウィルソンもですが、アメリカ議会も「そんなことを主張する日本人が加盟する国際連盟には加盟しない」と、自分で立ち上げようとした国際連盟にそっぽを向いたのです。

 その後、アメリカは反日に大きく舵を切り始め、同じ年(1920年)の11月にはカリフォルニア州で「排日土地法」(カリフォルニアには日本人移民で農業者が多かった)を制定して日本人農業者への土地の売買斡旋を禁じ、実質的に日本人を締め出しました。


 国家間でもワシントン会議(1921年)では日本の軍艦の数を制限し、ロンドン軍縮会議(1930年)でも同様に日本の軍事力を規制しています。これらに通底するのは有色(黄色)人種へのあからさまな警戒感なのです。


 何しろ日本でいえば江戸時代末期頃にアジア各国には欧米列強が次々に進出して植民地とするか、または各国と不平等条約を結び、いわばやりたい放題をして来たわけですが、日本に来てそれにブレーキがかかった。日本では江戸幕府は鎖国政策と言いながらも長崎の出島で対オランダ交易をしており、欧米の文明については予備知識があったので、そう易々とは欧米に飲み込まれはしなかった。

 しかしそれでも不平等条約は結ばされてしまった。いわゆる黒船4隻による「脅し外交」の前に幕府は苦渋の選択をせざるを得なかったが、これを不満とする国論と幕府に抑圧されてきた外様大名の藩士が中心となって倒幕運動にまで発展し、ついに江戸幕府は幕を下ろしたわけです。

 明治維新とは何も幕府対志士による単なる国内的な革命劇ではなく、いかに素早く国家を衣替えさせアジアに進出してくる欧米列強に対抗できるか――が極めて大きな運動だったのです。

 そして富国強兵を維新後の30年ほどで成し遂げ、不平等条約締結後約40年で治外法権の撤廃と関税自主権の獲得に至ったことは上で述べたとおりです。

 このことから鑑みるに、戦後70年、いかに日本が敗れたからといっていまだに「日米安全保障条約」「日米地位協定」を結んで戦勝国アメリカの言いなりになっているのは全くおかしなことです。明治維新の元勲たちはじめ、多くの明治の人々は泉下で泣いているに違いありません。

 今年を日米安全保障条約を基軸とする日米同盟の撤廃元年としたいのは私だけだろうか?

 

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台風16号の上陸

 台湾と西表島の間を通過してそのまま中国大陸へ上陸かと思われた台風16号は、速度を遅くしつつ急激に東へと舵を切り、東北東に丸二日かけて東シナ海を横断し、ついに19日の真夜中に鹿児島県の大隅半島南部に上陸した。

 ちょうど上陸したかと思われる時刻の午後11時半ころ、ブログを書いている最中に突然停電し、今日(21日)の午前11時にようやく通電した。その間ちょうど一日半(約36時間)、数年前に太陽光パネルを設置しオール電化になったことで困ったことが多々あった。

 一番困ったのが通電しないと水が流れないトイレだ。
 水道だけは出ていたので風呂にいっぱい溜めておき、使用する都度バケツに汲んで来て流したが、たった一日半だったのに結構厄介なことだった。

 炊事はガスボンベ仕様の卓上コンロ、風呂は一度は貯湯タンクにあった分で済ませたが、二日目は銭湯へ行った。鹿屋市全体でまだ数万戸が停電中というわけで、銭湯の込みようは半端ではなかった。「千客万来」とはまさにこのことかと思ったくらいだ。入る方からすれば「芋を洗う込みよう」だったが・・・。

 夜中に風速40メートルは吹いたようだが、被害は瓦が2枚落ちたのと庭木が根っこから傾いてしまったのが数本、それに10日ほど前にタネを播いて本葉が出かかった大根などが風雨で完全に横倒しになったくらいで軽微なものだった。

 自分は気づかなかったが12時半ころから1時間くらい風雨が止まったそうで、その時に台風の目に入ったと思われる。ということは台風の直撃にあったことになるが、台風の直撃は実に久しぶりである。

 記憶をたどると23年前、平成5(1993)年の9月初めにやって来た台風13号が当地での直撃台風で、この台風のすさまじさは今でも語り草になっている。
 
 何しろ上陸寸前の気圧が910ミリバール以下(当時はヘクトパスカルではなかった)で、その頃肝属郡田代町大原に住んでいたのだが、上陸して数時間後の午前中に最大の風雨に見舞われた。
 十分な戸締りをして家で息をひそめていたが、猛烈な風と共に玄関わきの雨戸が吹き飛び、慌てて家族4人で裏口から出て隣家にたどり着いてほっとしたのも束の間、今度はその隣家の玄関の横のガラス戸が割れて強風が吹き込み出した。
 こりゃいかん、と、外に出て避難所になっている小学校までまさしく這う這うの体で行き着いたのだが、その頃すでに多くの人が避難していた体育館の屋根がめくれ上がったそうで、皆急いで一階の長い廊下に移って来るところだった。

 午後も3時ころになると急激に風雨が衰えたので、廊下にひしめいていた人々は三々五々家路につき、我が家と数件の家族はそのまま小学校の廊下で一夜を明かしたのだった。家族一同ずぶぬれに近かったがまだ真夏の陽気であったため幸いにも風邪をひかずに済んだ。

 翌日帰ってびっくりしたのが納屋が全壊していたことである。また借家の屋根の瓦もだいぶ飛ばされていたので、手持ちのブルーシートに寅ロープを括り付けて屋根を覆って雨をしのいだ。瓦不足のためにどの家も2~3か月はブルーシートを乗せたままだった。ひそかに「難民キャンプ村」と名付けたものである。

 電気は一週間、電話は二週間は通じなかった。

 思えばあの23年前の台風こそ「スーパー台風」の走りだったろう。最大風速は役場の屋上に取り付けた風速計では最大で70mを超えていた(そこまでは測れたが、あとは針が吹っ切れていたそうだ)。

 地球温暖化はもうその頃から深刻化していたのだろう。時間雨量が100ミリを超えたのもやはりその頃からだった。省エネは待ったなしだ。

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アイガモの活躍

 我が家から1キロ半ほど行ったところの池園の田んぼはコメの普通作地帯だが、6月に植え付けられたイネがすくすく育ち、もう間もなく開花・受精が始まろうとしている。Cimg2081_1
 広い池園田んぼの一角では何年か前から「アイガモ農法」を実践している田がある。Cimg2079_1
 コンパネで作られたアイガモの小屋は畳半分ほどの面積。
 その前庭はちょうど畳一枚くらいで、全体が天敵除けのネットでがっちりと囲まれている。Cimg2074_1
 近くに寄って覗いたらすぐに「ガァ、ガァ」と大声をあげて小屋からぞろぞろと逃げ出した。Cimg2075_1
 よく見るとまだ羽が一人前ではない。背中から10センチ程度伸び始めたに過ぎないから、鶏でいえば大雛というところだ。Cimg2077_1
 そのまま脇目もふらずにイネの間の水の中に逃げていくのもいれば、立ち止まってこっちの様子を見守るのもいる。
 アイガモは田んぼの中の餌だけでは足りないから小屋のそばに人間が麦の圧片などの飼料を置いてやる必要があり、人間から餌をもらうことで次第に人馴れしてをしてくるのが常で、見守る時に一斉に首を伸ばしたり傾けたりするのは可愛いものだ。Cimg2080_1
 もう花を開きめしべを出しているのが見える。この状態だと9月末から10月初めころが刈り入れだろう。
 田植えしたころは梅雨の真っ最中で、今年は去年ほどではないが毎日のようによく雨が降ってやや日照不足が心配されたが、梅雨明けの7月18日以降は梅雨の悪天が嘘のようによく晴れて気温も上がり、成長にプラス材料が多かったから作柄はかなり良好と思われる。
 あとは台風が来るか来ないかにかかっている。
 大迷走台風10号はどうやら関東の南に引き返していくようなので心配ないが・・・。


 

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薩摩藩敷根火薬製造所跡

 幕末の一時期、霧島市敷根に薩摩藩が洋式の火薬製造所を設けていたというので、昨日(8月20日)仲間7人で探索に出かけた。
 9時に鹿屋市の北田無料駐車場に集合し、2台の車で敷根に向かう。
 敷根は旧国鉄大隅線の敷根駅があった町で、垂水(正確には垂水駅の次の海潟温泉駅)からの鉄道延伸で昭和47年に新たに敷設された海潟温泉駅~国分駅間(11駅=33.5キロ)の途中にある。
 せっかく敷根までその鉄路沿いの道を行くのだからと、途中にある「大隅麓駅」「大隅辺田駅」「大隅二川駅」「大隅境駅」「大廻駅」「大隅福山駅」のそれぞれの跡を見て回り、敷根の火薬製造所入口に着いたのは10時15分。Cimg2021
 (小さな橋の上から川の上流を望む。火薬製造所は右手の小山のような尾根のさらに奥にある。)亀割峠から敷根に下りすぐに右折をするとその道は旧鉄路の跡で、小さな川(高橋川)に架かる橋をUターンするように渡る。Cimg2003
 きれいに舗装された田んぼ道を約500メートルで「火薬製造所跡」と彫り込まれた花崗岩製の説明板が見える。Cimg2008
 昭和53年にここを調査した国分市教育委員会の手になるもので、一読してあらましが分かる。文久3年というから1863年に薩摩藩(当時の藩主は島津忠義)がここに洋式の火薬製造所を設けたそうだ。Cimg2013
 案内板からさらに50メートルも行くと駐車スペースがあり、そこからわずかに望まれた疎水の出口らしい滝があるところまで行ってみる。
 高さは3メートルほどで水が激しく落ちているが、これは水車の動力用の滝で、ここにかなり大きな水車が仕掛けられていたのだ。
 火薬の原料である「硫黄」と「木炭」それと「硝石」が石臼で挽かれたりつかれたりして粉砕されて混合されると火薬が出来上がる。Cimg2015
 滝の上部に上がってみて疎水の引き込み口は100メートルくらい上流にあるのが分かった。かなりの谷川で灰色の平らな石がゴロゴロしている。建物の基礎部分に最適な石だ。Cimg2020
 滝口の最初の水車を経た水はいくつかの用水路に分岐させられ、木炭小屋、硫黄小屋、硝石小屋に引き込まれてそれぞれの水車を回した。写真右手奥の方にそのような作事小屋が点々と並んでいたらしい。Cimg2025
 午後から「縄文の森」の会議室で行われた説明講演では、そのような作事小屋は明治10(1877)年に官軍によって破壊される直前には全部で22棟もあったという。
 ちなみに敷根と同時の文久3(1863)年に山川の成川(鳴河)にもその水力を利用した火薬製造所が設けられたが、山川のは4年後の慶応3(1867)年には廃止されている。おそらく山川のは人目に付きやすく、したがって幕府や敵の目に留まりやすいからだろう。その点、敷根の火薬製造所は錦江湾の最奥の山峡なので秘密の製造に適していた。
 薩摩藩で最初に洋式の火薬が作られたのは「滝ノ上火薬製造所」(1849年=藩主・島津斉興)で、これも湾奥である。疎水も稲荷川の最上流部から引かれていたからここも人目には付きにくい。
 講演の資料を見ると、火薬製造関係は斉興・忠義(孫)の時代が主で、カノン砲や砲台等の国産銑鉄による製造はその間に藩主となった斉彬の時代が主である。
 先見の明はひとり斉彬の身にあったのではなく、すでに斉興にも萌してはいたが、あらゆる点で幕府の要路と良い関係にあったのは斉彬の人徳だろう。

 さてこの人目に付きにくく秘密裏に火薬の製造ができた敷根火薬製造所だが、明治維新後は藩を離れて陸軍省や海軍省に移管され、その後民間の業者によった。しかし西南戦争の時に官軍(海軍)方の指揮官であった伊東祐麿少将によって反乱軍の手中に落ちることを恐れて破却されてしまった。
 伊東少将は薩摩人であったから、敷根の山中に火薬製造所があるのを熟知していたからできたことで、薩摩藩指折りの火薬製造所が、同じ薩摩出身の指揮官の手によって壊滅させられたのは皮肉な話だ。


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