市成(いちなり)界隈(鹿屋市輝北町市成)

東京からやって来ていた姪を鹿児島空港まで送ったあと、帰り道に輝北町の市成地区を巡ってみた。

 まずは高みからの見物ということで、登見ノ丘(どげんのおか)に上ってみた。登見ノ丘は市成麓を通る国道504号線の信号から右へ(鹿屋からだと左へ)折れ、200㍍ほど行くと右手に急な坂道があるので登って行く。輝北天球館への道である。

 ちょうど1キロほど登ると、右手に丘に到るという案内表示があり、100㍍ほどで丘の頂上に着く。ここからの眺めはよい。1017nanatoichinari_018

 標高556mからの展望。

 手前の杉木立の合間に展開する集落が、藩政期まで機能していた麓集落で、ここに市成郷の仮屋(郷の庁舎)があった。

 真ん中を右上から左下へ走るのが国道504号線で、鹿屋方面では俗に「空港道路」と呼んでいる。

 現在の市成地区の中心地はこの国道沿いに集中している。1017nanatoichinari_023

頂上の西のはずれに、石塔が並んでいた。(右の鳥居の奥には「早馬社」がある。馬頭観音の神社版だ)1017nanatoichinari_021

近くへ行くと、一基が抜きん出て高い。説明板によるとこれは「市成領主・土岐姓・敷根忠頼の墓」で、石塔の分類では<宝篋印塔>だそうである。

 台座まで入れると2㍍近い、堂々たる作りである。

 忠頼は父が初代・敷根久頼、母は島津家18代の家久の娘であり、若くして亡くなったその死を惜しみ、このように立派な石塔を建てた――とある。

 (敷根氏の前身は土岐氏であるが、戦国時代末期に曽於郡の敷根郷を領有したため姓を改めている。)

 市成における本城は「垂野城」で、そこを居城としたのが市成氏であったため、ここが市成と呼ばれるようになった。鎌倉時代初期のことらしい。

 この石塔群はもとからここにあったのではなく、垂野城近くの寺にあったのを廃仏毀釈による損壊をおそれて移されたのだそうだ。

 登見ノ丘を下り、道をさらに輝北天球館方面に向かう。1017nanatoichinari_024

1キロちょっとで奇抜なデザインの「輝北天球館」に着く。

 馬にまたがった現代のドン・キホーテが何やら「宇宙へのメッセージ」を送っている姿――に見えてしまうから不思議だ。

 向こうに見える三基の風車は「地上のメッセージ(風)」を受けているが・・・。1017nanatoichinari_026  

天球館の道を下り、市成の麓地区を通ると、石垣と石段の鉤型の入り口を見つけた。

 中世・現代・未来を眺め、今度はまた近世に逆戻りする。1017nanatoichinari_017

郷士屋敷から再び国道504号線の信号に戻ると、道の向こうに広がる下方(しもほう)墓地の中に<六地蔵塔>が建っている。

 薩摩における六地蔵の起源は朝鮮の役(1592年・1596年)の戦没者を供養するためだが、これは江戸時代中期のもので完形の珍しいものだそうである。1017nanatoichinari_013

信号から南へ(鹿屋方面へ)向かうと500㍍ほどで手押し信号機のある小さな交差点があるからそれを左折し、300㍍走ると、左手に「市成小学校」が見える。

 明治の<郷校制度>時代からある古い学校だ。昭和30年代には300名ほどいた生徒も、昨今は50名いるだろうか。来年度からは同じ輝北町内の百引小学校に統合されるようだ。

 小学校からさらに2キロほど行くと、県道<仮屋―宮園線>にぶつかる。それを左折して朝倉集落に向かう。

 「朝倉の隠れ念仏洞」を見るためだが、途中で道を聞いた農家の子牛が可愛かった。1017nanatoichinari_004

おそらく昨日かおとといくらいに産まれたのだろう。まだ人見知りをしないようで、近寄ってカメラを向けても動じないでいた。1017nanatoichinari_007

隠れ念仏の洞の入り口は、朝倉公民館前の集落道を南へ200㍍ほどの所にあった。立派な説明板が建つ。

 そこから谷に向かって下ること200㍍で洞に到る。1017nanatoichinari_006

ひと一人がかがんでやっと入れる程度の入り口が、ぽっかりと開いていた。

 中は意外に広く8畳ほどの広さがあるという。

 灯明を持ち込み、入り口を柴の束や茣蓙むしろで厳重に閉じた中、「南無阿弥陀仏」の声がくぐもって聞こえただろう。

 ふたたび朝倉公民館前に戻り、そこから県道に出て右折し、もと来た道を引き返す。1017nanatoichinari_012_2

さっきのT字路の前方にこのあたりの高原状にフラットに広がる一帯(八重山台地)には似つかわしくない丘が見える。

 地図には「二子塚」とあるので行ってみる。

 今、稲刈りの真っ最中だ。こんな高原のような所で水があるのかと思ったが、二子塚のそばまで行くとちゃんと「開田の碑」というのが建っていた。先人の米作りへの執念が伝わってくる光景だ。1017nanatoichinari_010

丘のすぐ下の道路に車を停め、蜘蛛の巣を払い、腰の辺りまで茂った草をかき分けながら山道を登る。

 比高で25㍍くらいか、頂上は150坪位の平坦地になっていたが、ここも草ぼうぼうだ。1017nanatoichinari_009

二子塚というからには、何らかの墓だと思うのだが、何しろ草だらけでよく分からない。

 傍らに小さな石の祠が二基あるので、間違いはないだろう。1017nanatoichinari_016

二子塚を調べたあと、再び国道504号線に戻り、手押し信号の所を左折し、鹿屋方面に走る。

 300㍍ほどで左手に神社の赤い屋根と鳥居が目に入る。

 標柱に「太玉神社」とある。1017nanatoichinari_014

「太玉命」は天孫降臨の五伴緒(いつとものを)の神々の一人で、忌部(斎部)氏の祖神とされている。

 市成郷の郷社というわけではないようだが、ここを開拓した最初の領主である「市成氏」の祖先であるとすれば、市成氏は忌部氏の出自ということになる。1017nanatoichinari_015

由緒があるということは、鳥居を入った左右に随身宮(摂社)があったり、石の灯篭が寄進されていることからも分かるが、「太玉命」がここに祭られている理由は謎と言ってよい。 

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小さい秋見つけた(ホトトギス)

昼の2時間ほどしか日の差さないわが家の西の一角、隣家との境に、今年もホトトギスが咲いた。1012hototogisusaku_001

朝の11時頃、ちょうどそこへ日が差し、けっして鮮やかとはいえないが、独特の花弁が見えた。

 ちょっと芸がなく、ただ単に広げた感じの葉っぱの列の真ん中に、今年はよく密集して花を付けている。1012hototogisusaku_002

ホトトギスとは、花弁の中の模様が鳥のホトトギスの首から腹にかけての紋様にそっくりなことから名付けられたそうだが、面白いのは花弁の真ん中から飛び出したおしべ・めしべにも同じ模様があることだ。1012hototogisusaku_003

地面に近い一枝にはこれ一輪しか咲いていないが、目一杯に大きな花を咲かせている。1012hototogisusaku_004

隣家の垣根に向かって四、五本の長い茎が伸び、それぞれが多数の花を咲かせている。

 今年は少雨乾燥が続いたので、葉っぱが黄ばむのではないかと心配したが、どうやら杞憂だった。例年よりむしろ青々としている。

 ホトトギスの花は、高隈山が有名で「タカクマホトトギス」という固有種があるくらいだが、これは肝属郡旧田代町の大原地区に自生していたのを採取して、持ってきた。今年で10年目の株だが、ようやく鹿屋の平地の気候に合ったのだろうか。

 彼岸花と同じ時期に咲き始め、秋を告げる可憐な花である。

 「小さい秋」見つけた。

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どこも運動会(鹿屋市大姶良町・南町・飯隈町)

鹿屋市では今日、ほとんどの小学校で運動会が行われている。おとといまで不順だった天気も昨日から持ち直し、今朝は最低気温17度、薄く雲がかかってはいるものの、絶好の運動会日和となった。

 わが家から2キロ圏には三つの小学校がある。午前中、読みさしの歴史本を読み終えてから、その三校を回ってみた。1004undoukaidarake_003

まずは家から真東にある「大姶良小学校」。

 県道<佐多・鹿屋線>沿いにある生徒数400人台の中規模校だ。1004undoukaidarake_002

 紅白の飾り門がいい。1004undoukaidarake_001

 栴檀の木の下はちょうどよい木陰になっている。

 応援の保護者が多数、我が子の活躍を見守っていた。

 次に行ったのが「南小学校」。1004undoukaidarake_004

大姶良から南小へは、県道<佐多・吾平線>を通るが、南小のすぐ手前には今年完成した「新西南でんぷん加工場」(JAきもつき所属)が巨大な姿で建っている。1004undoukaidarake_005

 県道沿いの校門にはかわいらしい案内が立っていた。

 運動場は校舎の向こうなので、道路を反対側に回る。

 校庭の入り口で目にしたものは・・・・・1004undoukaidarake_006  

・・・入場門だが、何とも不思議な門だ。と思ってよく見ると・・・・・1004undoukaidarake_007

 ・・・本物の稲の束が架けられていた。

 しかも、モミが着いたままだ。いやはや驚いた!日の丸のような赤丸の中には「実りの秋 大運動会」と書いてある。

 なるほど、そうか。もしかしたら「学校田」で採れた稲か。「脱穀競争」なんて種目があったりして・・・。

 最後に訪れたのは飯隈町にある「西俣小学校」。1004undoukaidarake_010

 ここの入場門はすごい。立派な「杉門(緑門)」だ。なぜ杉の葉が使われるのか、その理由は分からないが、杉の葉で仕立てる学校が結構多い。1004undoukaidarake_008

 ここは生徒数100人足らずの小規模校だ。

 今、種目は障害物競走のようだ。走るのを待っている生徒の塊に比べて、校庭がえらく広く感じられる。1004undoukaidarake_009

 保護者の応援席にはブルーシートが隙間なく敷かれている。

 おまけに日除けの「永野田 敬老会」の横断幕が垂れ下がる。至れり尽くせりだ。

 小学校の運動会は地域の一大イベントで、ちょっと大げさに言えば、一族郎党が子どもの応援にやって来る。

 昼食時などは、まるで宴会のように話が弾む。

1004undoukaidarake_011 おっと、こちらでは生まれたばかりの赤ちゃんまで連れてきて、はや「飲ん方(宴会)」が始まっているようだ。

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"友愛”がこんな所に!

一週間ほど前に所用で訪れた「鹿児島県立鹿屋農業高校」。このとき、「あれ!何でこんな所に?」と目に入ったのが”友愛の碑”であった。鳩山新首相のキャッチフレーズではないか・・・!
 
 その時はカメラなど持っていなかったので、今日の午後、改めて訪ねてみた。
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 鹿屋市を通り抜ける国道269号線の農高前信号の先から左側に校門があり、それを入るとロータリーの向こうに本部棟が建つ。
 
 件の”友愛の碑”はロータリーの左の奥にある。近づいてみると、不思議な色合いと模様の石に彫り込まれていた。
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 下に別の石(プレート)に細々と文字が刻まれている。
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 建立者は「台湾同窓生卒業記念碑建立委員会」で、平成10年11月11日とある。「ほう、台湾からの留学生がいたんだ」というのが率直な感想で、ほとんど念頭になかった事柄であった。

 よく読んでいくと――農高は平成10年までの卒業生は2万2千人を数える伝統校だが、昭和7年から21年まで台湾からの入学生が34人おり、その台湾同窓生は現在でも農高への絆が強く、各界で活躍しているが、本校関係者が台湾に行ったりすると非常な歓迎を受ける。その「友愛の精神」を称えて平成10年に建立した――というような内容である。
 
 そう言えば、今年の何月だったか、そんな同窓生の息子(といってもかなりの年配者だ)が、日本を訪れた折に父親から折に触れて聞いていた農高に足を運んだ、というニュースが流れていた。

 使われていた石は台湾産の原石とあるから、もしかしたら台湾同窓生の寄贈なのかもしれない。たぶん間違いないだろう。碑文の中に「台湾同窓生」とあって「台湾留学生」としていないが、これも親日だからだろう。実際、彼等が農高にやって来たときは、台湾は日本の一部だったのだから、「台湾留学生」はあり得ないのである。

 これがもし「朝鮮同窓生」だったらどうだろうか? おそらく「同窓生」は使わないはずで、使ったら<朝鮮は日本の一部だった>という「忌まわしく、忘れ去りたい過去の日韓併合」を認めたことになってしまう。しかし、その前にまず「朝鮮出身者」が学んでいたのかどうかが不明だが・・・。
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 入り口のロータリーの反対側には農業高校らしく<農魂>の碑があり、隣には<創立100周年記念碑>(平成7年建立=幅約2㍍)がでんと建っている。

 鹿屋農業高校の歴史は古い。何と明治28年(1895)に「県(立)農学校」として設立されている。県営の就学施設としては鹿児島県で最も古いものである。面白いことに、他県でも県立では農業高校の歴史が一番のようだ。明治の殖産興業政策の一翼を担っていたのだろう。

 卒業生は多岐にわたり、どうも古い卒業生ほど優秀な人材が多かったようで、今の鹿屋市長(74歳)はこの学校の出身者であるし、知人の伯父はここを出て東京に遊学し、今は弁護士として活躍していると聞く。

 
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 ロータリーの中心の円形花壇には巨大なソテツの株がある。

 "友愛”は何も台湾同窓生のものだけではない。この農業高校にともに学び、ともに汗し、ともに過ごした3年間は何にも替えがたい友情の期間で、卒業後は懐かしい”友愛”に恵まれるだろう。

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稲刈り(鹿屋市池園町)

わが家から1キロちょっと行った大姶良川沿いの田んぼ地帯。

稲刈りのちょうど終わった田んぼと、今まさに稲刈りの最中という田んぼの両方があった。

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ここはもう掛け干しが終り、あとは屋根のビニールが飛ばないように黒いビニール紐で結わえているところ。920higanbanatoinekari_006

少し行った道路の反対側の田んぼでは、今まさに稲刈りの最中。

 夫婦ではなく、母と息子が 粛々と仕事をしていた。920higanbanatoinekari_007

「バインダー」という刈り取りながら同時に紐で括っていく機械で、田んぼの手前から向こうへ。920higanbanatoinekari_008

ぐるっと一周して来た。短冊状に刈り取り、それをくるくる回りながらゼロの状態にして行く。

(要するに、長方形の田んぼの端から、細切れに刈り取って行く)

 お母さんに今年の出来を聞くと「虫が入ったが、収量はまあまあ」ということだった。

 「虫」とは「カメムシ」のことで、実が入る初期の頃に中身を吸いに来るので、モミにに茶色の斑点を残し、一等米にはならなくなるのである。

 しかしまあ、雨が極端に少なかったこの夏にしてはまずまずの出来ではなかろうか。

  

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彼岸花(鹿屋市池園町・萩塚町)

昨日、秋の彼岸入りをした。

彼岸といえば、律儀にこの頃になると花を咲かせるのが「彼岸花」。稲刈りが行われているかどうか、大姶良川沿いの田んぼを見に行ったら、途中の集落道で彼岸花を見つけた。920higanbanatoinekari_003

田園地帯では、彼岸花は主に田んぼの畦に咲いている。

 ここは集落の中道だ。

 赤いのが普通だが、ここでは白花も黄花もある。三種混合。920higanbanatoinekari_002

赤い花ばかりだとちょっと毒々しいが、白の清楚と、黄色の明るさが観賞を誘っている。

 白は赤の突然変異から生まれたが、黄色の花は欧米に持っていかれた彼岸花の改良種らしい。

 だからもともとは日本に無かった種類なのだが、園芸好きの人によって各地に球根が普及したのだろう。920higanbanatoinekari_001

その改良種がお好みなのか、カラスアゲハが一匹、さっきから黄色の花に顔を突っ込んでいる。

 赤い花のほうが似合うと思うのだが、こっちのほうが甘いのか。

―池園町にて―920higanbanatoinekari_009

田んぼ地帯をぐるっと回っての帰り道。

 萩塚町の通りを走っていると、通りに面した住宅の車庫の脇に彼岸花が明るい。

 車庫の近くには「ダチュラ」という珍しい花も咲いている(テッポウユリのように長い花が下向きに垂れ下がっている。ここのはクリーム色)。920higanbanatoinekari_010

なんと、ここのも三種混合で咲いている。

 よく見ると黄花のほうが茎も太く、花びらもこってりしている。蜜も甘くこってりしているのだろうか。

 欧米から逆輸入された黄色種に取って代わられるのはつまらない。

 緑の田園には、毒々しくても赤が似合う。別名が曼珠沙華だから・・・

 ・・・北原白秋のあの

   「ゴンシャン、ゴンシャン 何処へゆく

    赤い お墓の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

     きょうも 手折りに 来たわいな」

とうたわれた花のイメージが無くなってしまうわいな。

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案山子(かかし=鹿屋市名貫町・川東町)

「かかし」というと、さだ・まさし世代なら名曲「案山子」を思い浮かべるだろう。

 中学か高校を出た我が子を、都会へ進学または就職させた親(特に母親)の気持ちを切々と謳い上げていて、ジンと胸に迫る歌だ。カラオケに行ったときには、欠かせない持ち歌でもある。

 『 銀色の毛布着けた 田んぼにポツリ 置き去られて 雪をかぶった 案山子がひとり 

 お前も都会の 雪景色の中で ちょうど あの案山子のように 寂しい思い してはいないか 身体を壊しては いないか―― 

 さだ・まさしは南国長崎の出身で、雪をかぶった案山子など見たことがなかったろうが、たしかに上信越や東北の雪深い田園では、その昔、よく見られた光景であった。たぶん彼も学生時代などに冬の東北などを旅して、雪に埋もれたような田園地帯で、こんな風景を目の当たりにしたに違いない。

 今の東北や信越地方に現実にあるかどうかは知らないが、仮にあるとして、「案山子」が活躍するのは実りの秋たけなわの頃だろう。そのにぎやかな季節を唄わずに、置き去られ忘れられたような「冬の時代」に焦点を合わせたその着眼は、さすがにセンチメンタリスト「さだ・まさし」の面目躍如たるものがある。

 さて鹿児島の案山子やいかに――。912kakashikumoimo_001

 いやはや、何がセンチメンタルだ。

 おやおや左手には何やら・・・ゴルフでもしようってえのかい?

 まあ陽気でいいわな。

(名貫田んぼで)912kakashikumoimo_003

 定番のオヤジ案山子。でも最近のは顔を書かないんだ。

 昔は「へのへのもへじ」だったがね。

(川東田んぼで)912kakashikumoimo_002

 最近増えたように見える「おっかさん案山子」。

 そういえば、田んぼによく来て、草取りなんかに精を出しているのは、農婦のほうが多いような気がする。スズメにはにらみが効くんだろう。

 案山子は、遠い昔、「山田の曾富謄(そほど)」と言った、と古事記にある。

 もっと古くは「久延(くえ)ひこ」と言ったらしい。クエヒコは「足は行かねども、天下の事を、ことごとく知れる神」だそうだ。(『古事記・上巻・出雲神話』より)

 現代なら情報通信の神と言ったらいいだろうか。 畏るべし、米を守る「案山子」。

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だっきしょ(落花生)

落花生を鹿児島では「だっきしょ」と言うのだが、他県人が聞いたら何のことか分かるまい。

 鹿児島弁では「ラ」言葉が、「タ(ダ)」と発音されることが多い。「知らん(知らない)」が「シタン」と発音されたりする。したがって「らっかせい」が「だっきしょ」となる(「しょ」は「生」を「しょう」と呼んでいて、「う」が脱落したのである)。

 しかしそもそも「落花生」とは不思議な命名だが、実はこれは落花生というマメ科植物の風変わりな生態に基づく名前なのである。そこで、知人の畑で落花生を引き抜いてもらってその生態を観察してみた。912kakashikumoimo_008

一株の落花生。これを引き抜くと912kakashikumoimo_009

土の中から、見えてきた。912kakashikumoimo_011

鈴生りのピーナツ。

このピーナツはいかにも土の中から現れるので、実の成り始めから土の中にあったものと勘違いされる。

 実は・・・・・912kakashikumoimo_013

この写真の真ん中にぶら下がっているピーナツをよく見ると、へその緒のような管にぶら下がっていることが分かる。

 この管が出ている茎のところに、写真左上に見えているような黄色の花がまず咲く。

 それが受粉すると、受精卵を持った花から、するすると管が10センチも下の方に伸び、ついに土に中に入って行く。そこで光合成による養分を溜め込んで、一人前のピーナツになるという仕組みだ。

 その時、花が土まで落ちるように見えるので「落花生」と名付けられたのである。

 この落花生にまつわる面白い話がある。先日、花岡学習センターで頂いた『花岡郷土史』を読んでいて、ある箇所でふと思い出したのだ。むかし、まだ指宿に住んでいた時に、ある歴史に詳しい人から聞いていたことである。あの時は何のことやら分からなかったが、今は理解できる。

 『花岡郷土史』の中の「主な農産物とその由来」のところで、<花岡落花生>について書かれた中で、明治の終り頃と思うが、当時の村長の上村精之助が農産物の販売促進をしに東京に行った時、とある会合で、こう演説をぶったそうだ。

あたいげんむらん だっきその 生産は あばてんねもんごわす

と・・・。

 おそらく多くの人は「生産は」という部分だけは分かるだろうが、あとは「チンプンカンプン」に違いない。その会合には鹿児島県出身者が多数来ていたと思うが、鹿児島1世なら容易に理解できた演説も、東京生まれの2世たちには全く聞きなれない言葉だったろう。そのため後々まで、この演説は語り草になったそうだ。

 標準語に訳すと 「私の村の 落花生の 生産は 相当なものでございます」 だが、たしかに当時の花岡は「多い農家では5、6反(5~6000㎡)は耕作していた」とあるように、栽培は非j常に盛んであった。

 「だっきしょ」は掘り上げたあと、しばらく天日干しをしてから食膳にのぼり、「焼酎のシオケ」になる。「シオケ」とは「塩気」で、「酒の肴(つまみ)」のことである。秋の夜長の酒肴に、鹿児島独特の「煮ピーナツ」もいいもんだ。

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カライモの収穫(鹿屋市下堀町)

我が家の近くでもカライモ(サツマイモ)の収穫が始まった。

県道を隔てた道の向こうに機械の音が響く。イモを畝から堀り上げるトラクターの音だった。912kakashikumoimo_023

トラクターの後に装着した掘り起こし機で、走った後にはイモがごろごろ浮かび上がる。912kakashikumoimo_022

収穫作業に当たっているのは三人。いずれも高齢者だ。912kakashikumoimo_020_2

高齢者と言っても、身動きは素早い。生涯現役。

 イモの蔓と根をちぎりながらイモだけを箕に盛り、奥の別のトラクターの前にぶら下げた大きな袋に入れて行く。912kakashikumoimo_021_2

これは「マルチビニール巻き取り機」。イモの成長促進と雑草を抑えるために畝に張ったビニールを剥いでいく機械だ。

 昔は人間が剥いで行ったものだが、この機械だと剥ぎながら巻き取っていくので後始末が非常に楽で、おまけにそのまま再生処理工場に持っていける。

 しかし、何にしてもこの頃の農業は機械がフル稼働する。ここでもトラクターが2台とこの巻き取り機それにツル切り機と、機械のオンパレードだ。しかも高齢者が軽々と扱っている。

 いま収穫しているのは「コガネセンガン」といって、澱粉用のイモだが、これは最低価格が保証されているので、こんな機械の数々を導入できるのだろう。912kakashikumoimo_019

農業の楽しい時代になったものだ。

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はたけに船(鹿屋市田淵町)

「わたりに船」とは聞いたことがあるが、「畑に船」なんて見たことも聞いたこともない。

それがあった。905hatakenifune_004

わが家の愛犬ビータローが元気な頃は、このあたりまで散歩をしたことがあったが、久しぶりに通ってみたら芋畑の一角に船が置いてあった。905hatakenifune_003

後ろに回ると、れっきとした漁船らしく「かきゆう丸」と書いてある。

 これから農作業に出かけようと一輪車に道具を積んでいるおばさんがいたので聞いてみると、この芋畑の持ち主が船を修理するためにここへ運んだらしい。

「それにしても、長く放ってあるヨナ。いつ修理するんじゃろかいち思ちょったば・・・」

 と、首をかしげていた。

 港の近くでは、よく庭先にこんな状態で置かれているのを目にすることはあるが、海から5キロは離れていて、しかも台地の上である。

「渡りに船」は万事好都合に行くことのたとえだが、「畑に船」は何だろう? よかったら考えてみてね。

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新城麓界隈(垂水市新城)

鹿屋市から垂水市へは国道220号線を北西に走るが、鹿屋市花岡町から海岸のまさかり(地名)へ直接下りるバイパスが開通したので、古江町を通る車はめっきり減った。

 まさかり交差点をそのまま直進すると、200㍍ほどで「新城麓」交差点に差し掛かり、それを過ぎて100㍍余りで左にガソリンスタンドを見るが、その向かい側(山手)一帯が新城麓の中心だった「仮屋地区」である。828shinjoukaiwai_004

田んぼの中にビニールハウスの骨組みが建っているが、旧領主「新城島津家」の領主館はその後ろの方にあった。

 後方の岡には「松尾城跡」がある。828shinjoukaiwai_005

仮屋集落を流れるのが「馬形川」で、長さ数キロの小河川だが、新城麓の田園を潤す大切な川だ。(写真はその河口。錦江湾越しにうすく薩摩半島が見える)828shinjoukaiwai_006

「馬形橋」を渡り、ほんの50㍍も行くか行かない右手に細い路地が見える。

 これが「領主館」への道だ。(小さなコンクリート電柱の脇に白い道しるべがあるが、ほとんど用をなしていない)809shinjoukaiwai_002

150㍍ほど行くと、左手に石垣が並んでいる一角があるが、そこが領主館跡。(ただし案内板はない。真っ直ぐした道路は馬場を兼ねているようである。前面には田んぼが広がっている)809shinjoukaiwai_001

ただの空き地になっている領主館跡から、松尾城を望む。

 新城島津家が島津一門家の垂水島津家から分立したのは、江戸時代に入って30年ほどしてからだから、その頃、松尾城は廃城になっていた。

松尾城の建設者は島津氏に敗れた伊地知氏である。828shinjoukaiwai_007

領主館跡から元来た道を引き返し、再び国道に出て垂水方面に少し走ると、右手に二つの蔵のような建物が見えるが、その間の細い路地を入って行く。

後方の岡は松尾城の尾根の先端。またさらにうしろには高隅山系の白山が望まれる。828shinjoukaiwai_009

細い路地を抜けて行くと、きれいに舗装された道路に出る。これは旧大隅線の線路跡である。

 左手を眺めると左端に旧大隅線「新城駅跡」が見える。また写真の真ん中の墓地の一角には「新城島津家墓地跡」がある。

 さらに右手の岡の写真では切れているあたりには「新城様の墓」がある(後出)。828shinjoukaiwai_008

左手への道をとり少し行くと、「新城鉄道記念公園」の入り口に回る。ここに昭和62年まで「新城駅」があった。(大隅線開通から15年足らずの短いだお役目だったが・・・)

 公園の裏の山麓に、さっきの墓地がある。828shinjoukaiwai_010

墓地の入り口にちょっととまどったが、元来た道をやや引き返し、四辻に出たら左に細い墓への小道が見えたので上がってみる。

 仮屋集落の一般の墓地でもあり、墓石の間を縫うように行くと、島津家のは一番奥にあった。

 島津家とはいっても訳あって「末川姓」になっているが、ここは間違いなく新城島津家歴代の墓があったところである。828shinjoukaiwai_011_2

ここには「浄珊寺(じょうさんじ)」という寺が建っていた。

 例によって廃仏毀釈で壊されるが、寺があった証拠がこの石仏だ。文政9年(1826)に造られている。住職の供養仏だろう。809shinjoukaiwai_003 

墓地を出て、今度は「新城」の名の由来となった「新城様」の墓へ回る。

 さっきの墓地の後の岡の裏側にあり、約200㍍くらいで、左手に白い標柱が立っている。

 入っていくと比高にして7~8㍍の高さの所が、数百坪の広さで平らに開かれていた。

 新城様の墓の他に2基の大きな五輪塔が建っている。809shinjoukaiwai_005_2

この巨大五輪塔は歴代領主のうち二人のもので、「新城様」のは右手にロケットのように見えている。こちらのは「宝挟印塔(ほうきょういんとう)」である。

「新城様」とは初代新城島津家の当主「島津久章(ひさあき)」の祖母で、16代義久の次女であった。

 この姫が垂水島津家第3代・彰久(あきひさ)に嫁いだ際、「(化)粧田」(=持参金)3千石を持ってきたのを、子の第4代・久信にはやらずに、孫の久章にやって新しく家を興させたのだが、その「新城様」の居宅が新城島津家の領主館になり、当地も「新城」になった。浄珊寺も、かって亡き父・義久のために建てた「貫明寺」が改称されたもので、女性でありながら大活躍した人であった。809shinjoukaiwai_009

さっきの鉄道記念公園に戻り、正面から見て左手の山合いを入って行くと、石の鳥居が見え、石段を上がった所には、朱と白に塗り分けられた上品な感じの神社がある。

 これは「神貫神社(かみぬきじんじゃ)」で、新城地区の総廟と言われている。

 祭神は不明だが「神貫」とは「神主」のことだから、天孫降臨の「五伴緒(いつとものお)」の系統の神かと思われるが、不詳である。809shinjoukaiwai_008

境内の一角から、鹿児島湾の出口が望まれたのには驚いた。(左手が佐多岬方面。右手は指宿の魚見岳あたり)

 すぐ下は新城島津家墓地のある「浄珊寺跡」。びわの木が広がっている。828shinjoukaiwai_016

神貫神社を出て、田んぼの中を海岸へ向かうと再び国道220号線だ。

 右折して垂水方面へ少し行くと、右手に新城小学校がある。生徒数は少ないと思うが、今でも地域の中心の役割を果たしている(と思う。小学校はどの世代にとっても懐かしいので・・・)。809shinjoukaiwai_016

新城小学校の前をさらに行くこと100㍍弱、右手に消防団の建物があるが、その横の路地の奥に巨大な木が見える。

 アコウの大樹だ。高さは20メートルほどか。枝振りと言い、幹のよじれ具合と言い、なかなかの美樹である。樹齢はこれでも300年くらいで、大きさの割には若い。809shinjoukaiwai_013

そのアコウ樹とは目と鼻の先にあるのが「妙蓮寺」だ。この妙蓮寺も新城様が建立しているが、当時の宗旨は法華宗だったのだが、現在は浄土真宗である。

 廃仏毀釈で一度はつぶれたのを、明治以降、浄土真宗教団が再興したものだろうか。中身が違うからと言えば違うが、名だけは江戸の初期から続いていることになる。珍しい例には違いない。828shinjoukaiwai_013

妙蓮寺のある宇住庵を過ぎて、諏訪に入るとすぐ「小谷川」に差し掛かる。

 下を流れる小谷川は「松崎川」ともいい、新城ではしっかりとした流れである。

 川の周囲は比較的広い田園地帯になっている。828shinjoukaiwai_015

「新城諏訪」のバス亭付近からは、垂水方向に桜島の頭が少し見えていた(道路の延長に白い雲がまとまって浮かんでいるが、あれは桜島の噴煙)。828shinjoukaiwai_014

さらに行くと「宮脇のアコウ並木」だ。諏訪を過ぎて間もなく始まるアコウの並木は1キロほど続き、単調な国道の景観に、貴重な潤いを与えてくれる。(右手の国道の向こうは、垂水南中学校)

 並木を抜けた先は「柊原(くぬぎばる)」で、垂水地区に入って行く。

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ツバメの集団(鹿屋市下堀町)

朝6時頃に起きるのが習わしだが、庭に出てきのう定植した菊の苗に水をやり、愛犬ビータローに餌をやったあと寝室に戻り、北の窓を開けると、何やら向こうの電線に黒い小さな物がたくさん見える。

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どうやらツバメのようだ。急いでデジカメを取りに行き、4倍の望遠で写したが、ぼけてしまった。

 818tubame_002

仕方がない、あわてて家を飛び出し、県道の向こうの電線にとまっているのを写した。

 電柱から手前に伸びる5本の電線に、まるで「目白押し?」だ。

 朝日を正面に見て、ツバメは何かを語りあっているように見える。818tubame_003

朝夕がだいぶしのぎ易くなってきたためか、一族郎党で南へ帰る相談でもしているのだろう。

「子どもたちも大きくなったから、そろそろ帰らなくてはならんなあ」

と親ツバメ。

「とうちゃん、まだ早か! 3000キロも飛び続ける自信は、無か!」

 と鹿児島生まれの子ツバメ。

「それは飛んでみないと分からないよ。飛ぶうちに、どんどん羽の力もついてくるさ」

「そげんもんな。とうちゃんも去年はそげんじゃったとお?」

 と鹿児島っ子の子ツバメ。

「そうだったよ。なんくるナイサー(おっと、これは沖縄方言で、「なんとかなるさ」)」

 親ツバメは去年、鹿児島から沖縄を経て、海南島や台湾、ボルネオ方面に帰っていたので、沖縄方言も達者だったのだ。(???)

 秋冷とともに去ってゆくツバメたちよ。また来年おいで。

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浜田海水浴場(鹿屋市浜田町)

台湾へ上陸した台風8号の遠い影響か、日が差したり曇ったり、今にも雨が降り出しそうになったりと妙な天気だ。湿度が高いので、家の中で少し動いても汗をかく。

 昼飯に残り物のおかずでと思い、冷蔵庫を覗くと「なめこパック」があった。急になめこ汁が食べ(飲み)たくなり、高校野球をちらほら見ながら、鍋を用意して作ってみた。われながら「グー!」な出来栄えであった。

 しかしふうふう言いながら飲み終えると、汗だくになってしまった。それで高校野球の第一試合「常総学院対九州国際大付属」で、九州国際大付属が勝ったのを見届けてから、海水浴に行くことにした。

 浜田海水浴場は、わが家から15分ほどの錦江湾(鹿児島湾)沿いにある。

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今では珍しい黒松が海岸に沿って2~300メートルは立ち並ぶ、昔なつかしい海水浴場だ。808hamadakaisuiyokujou_001

北の方の湾曲した部分には「高須海水浴場」もある。車で5分もあれば行ける。

 よく見ると、海に突き出た岬の付け根のはるか向こうに、桜島が望まれる。南岳の噴煙が頂上を覆っているようだ。808hamadakaisuiyokujou_003

西の薩摩半島に目をやると、開聞岳が美しい。

 その右の台形の島は指宿の「知林ヶ島」で、干潮時には砂州で陸続きになることで知られている。808hamadakaisuiyokujou_004

帰省客が多いのか、単に土曜日だからか、結構な人の出だ。5,60人はいるだろう。

 これで多い方、と聞いたら湘南ボーイは「ひったまがる」(驚く)に違いない。

 夏休みとはいえ、週日だったら、まず15,6人が関の山だ。

 一時間ばかり、泳いだり、ぷかぷか浮いたり、時には規制ブイ近くまで泳いできた子どもに注意したり、とすっかり汗もひいたところで、松林に上がった。湯加減(?)はちょうどよく、塩湯の冷泉に入ったような気分だ。

 帰りに浜田地区の田んぼ地帯を通ると、ちょうど脱穀をしている光景に出くわした。808hamadakaisuiyokujou_006

農家の人は知るまいが、この田園地帯、1000年以上昔は「潟湖(ラグーン)」だった。

 さっきの黒松の海岸が波よけとなるうえ、浅いので、船を係留するには絶好の場所だったのだ。

 ここで船を捨て、向こうの7~80メートルの丘を越えると、そこは「大姶良平野」であり、南北朝時代の攻防の城「大姶良城」が築かれていた。

 島津家第6代氏久(陸奥守)の居城であり、子の第7代元久はそこで生まれている。808hamadakaisuiyokujou_007

ハーベスター(脱穀機)を操る田んぼの主に聞くと「早期米の実入り(収量)はまずまず」とのこと。

 盆の帰省者には、さっそくこの新米がふるまわれることだろう。

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獅子目ノ滝に行ったけれど・・・(鹿屋市獅子目町)

暑い! けさは朝からよく晴れ、9時過ぎに玄関口の温度計を見ると、もう29度近くなっていた。

 そうだ、あそこに行けば涼しかろう、と「獅子目ノ滝」(仮称)を見に行った。我が家から南へ約5キロ。一番近い滝だ。718takimi_012

獅子目集落の最奥の農村地帯。この左手から住宅裏の山腹をまいて登り、向こう側の谷筋を目指す(奥に見える平らな山頂は横尾岳=426m)。

 手前の畑はタバコで、上部から半分くらいの葉が既に収穫されている。718takimi_011

1キロも行かない所、ちょうど「皇太子殿下御成婚・記念造林碑」が建つあたりに軽トラックが停められ、手前には青いホース。そして、エンジン音が響いていた。

 ホースの先のガードレールまで行き、下を覗くと、ひとりの老人が何やら作業をしている。718takimi_010

―こんにちは!何をしているんですか?

いやあ、水を汲み上げているんだよ。田んぼの水が足らんので。

―そこから上にですか?

そうそう、道路脇の水路まで揚げるんだが、ホースが細(こま)んかでなあ、なかなかじゃ。

 

岩肌から湧き出ている岩清水をいったん青い容器に溜め、そこに吸い込み器を沈めて水を汲み上げる。

 道路まで比高にして10メートルは優にある。ホースは径60ミリほど。エンジンポンプも小型の部類だ。ホースの径の4分の一も出ているかどうかだった。それにしてもそんなに水が少ないのだろうか。しかし、あと300mくらいで着く「獅子目ノ滝」を目の当たりにしたとき、その真実に呆気に取られることになる・・・・・。718takimi_008

これがその「真実」。

いつもなら上の大きな丸い岩の横を豊富な水が白い筋となって落ちているのだが、一見したところ「岩のオブジェ」が姿をさらしているだけだ。

いつもなら激流のはずの下の流れも、水溜りのようにとろとろと流れるだけ。

 ここまで水枯れとは思いもよらなかった。718takimi_003

仕方なく早々に立ち去り、さらに上の「水場」に向かった。せっかく来たのだからおいしい湧き水でも飲まねば・・・。

 滝からさらに林道を上がること500メートル、道路の左手の崖下から水が流れ出ている所がある。

 しかしここも水量が極端に少ない。かねての10分の一といったところか。でも飲む分には十分だ。やれやれ。718takimi_007

 清水を飲んで、横の涼しげな苔の水すだれに目をやると、そこに住みついているサワガニが、水の滴り落ちる苔の間から、のこのこと姿を現した。

 涼しそうだなあ、サワガニ君は――。

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川東町界隈(鹿屋市川東町)

「川東」とは、鹿屋市の中心を流れる肝属川が、中心部を過ぎて東に流れを変えた辺りの広い田園地帯を言い、川東地区は川の東というよりはむしろ北側の左岸地帯を指す。

 これに対して川の南側(右岸)は「川西地区」と呼ばれている。川西地区は鹿屋市のベッドタウンとして人口増加がかなり見られるが、川東地区は川西地区と似たような条件を持つにもかかわらず、ベッドタウン化は進んでいない。それだけに古い町並みが残っている。709kawahigashi_004

川東と川西地区とを結ぶ「大正橋」からみた川東地区の町並み。

 手前に川東田んぼ、奥に笠之原台地。その間に「川東用水」が流れ、家々もそれに沿うように、左右に細長く伸びて広がる。709kawahigashi_003

大正橋から肝属川下流を眺める。

 江戸時代は波見の河口からこの下を通って、さらに3キロほど上流の田崎神社の高台を望む辺りまで、三里半(14キロ)の船運があり、川舟が往来していた。709kawahigashi_002

大正橋のたもとから眺める「川東田んぼ」。

 植えられてまだ2週間くらいの普通作田が広がっている。

 肝属川中流の和田井堰から取られた用水路「川東用水」の賜物である。

 そこに見える溜め池は用水が通じているときだけ現れる。709kawahigashi_001

そばに行ってみると「昭和14年建立の水神祠」(手前)と「文政五年建立の水神碑」とが仲良く並んでいた。

文政五年といえば1822年だから、ざっと200年近く、川東用水以前に造られ、田んぼに水を与えてきたこの小さな溜め池を見守ってきたことになる。709kawahigashi_005

笠之原台地のがけ下を縫うように流れる「川東用水」に沿って、人家が細長く立ち並ぶ。709kawahigashi_006

台地へ上がる道の途中、左手の台地からがけ崩れがあったらしく、応急措置がしてあった。

 おそらく1月近く前の入梅直後の豪雨でやられたのだろう。

 比高にして8メートルくらいか・・・。それにしても、この手当てには、うーん、と感心させられる。709kawahigashi_007

抉り取られた急峻な崖を4段で補強しているが、各段はこのようになっている。

 太い杉の丸太を打ち込み、それに真竹を切ってきて、互い違いに引っ掛けて壁にしているのだ。

 現代的な材料を一切使わず、村人が自ら切り出して運び込み、共同で必死になって造った有り様がひしひしと伝わってくる出来栄えだ。

 まさに昔の人の協同の智恵、そして汗の結晶が、今も生き続けている!

切り通しの急坂を登りきると岡の上にもいくらか人家があるが、その一角に「川東古墳群」という石柱の立つ所がある。709kawahigashi_009

狭い石段を上がると、中央と右手に直径6~7メートルの円墳が2基、目に飛び込む。709kawahigashi_010

左手手前には中央と同じほどの物、その奥にはやや小ぶりの物、さらに一番奥には頭しか見えないが、最も小さい直径3メートル位の物があり、都合5基の円墳が、ごろんごろんといった風情で並んでいる。

 本土では見られない南朝鮮型の円墳だ。おそらく半島の戦乱か何かで落ち延びてきた半島人または半島系倭人の一族のものだろう。

 詳細はもちろん分からないが、「鹿屋=伽耶」説を補強するものだと思う。

 古墳群の奥は林になっているが、木々がなければ川東の田園と母なる肝属川が望める好位置にある。しばし上古代を偲んでみるのも悪くはない。

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鴨着く島のアイガモ(鹿屋市池園町)

昼前、珍しく日が差してきたので、ちょっと川沿いに行ってみようかと単車で下りてみた。家から1.5キロほどの田んぼ地帯である。704aigamo_008

 このあたりは大姶良川の左岸で、上流の大姶良田んぼ、獅子目田んぼについで豊かな田園が広がっている。

 右手の土手の向こうの川が東へ流れ、飯隈田んぼに突き当たるまで、2キロ近くうねうねと田が続く。704aigamo_001_2

その一角になにやら青いネットを張り巡らした田んぼがある。

 アイガモ田だ。

 田植えしてから一ヶ月くらいだろうか、稲の高さは20センチを越えたくらいである。

 見渡したところ、アイガモの姿はないので、小屋をのぞいてみる。704aigamo_002

無人だった(いや、無鴨だった)。704aigamo_005

ネットに沿って歩いてみると、いたいた、10羽くらいが泳ぎ回っている。704aigamo_006

おそらく孵化後一ヶ月かそこらの幼鳥だ。

 もう一人前に頭を水の中に突っ込んで、餌をあさっている。704aigamo_007

 かれこれ併せると20羽くらいがせっせと「仕事中」。

アイガモはマガモとアヒルの合いの子で、飛ばないところはアヒルに、粗食に耐えるところはマガモに似ている。

 つまり、家禽として両方の役に立つ属性のみを活用するために、人間が作出した傑作である。

 アイガモがあさるのは水の中の小動物やプランクトンで、こうして水をかき回し、歩き回る(泳ぎ回る)ことで、雑草の繁茂が抑えられる。

 また糞が肥料になる。

 というわけで、除草の手間が要らず、肥料も少なくて済む。

 だが、それ以上に「アイガモが入っている以上、農薬や除草剤は使えないので、この田の米は安全・安心です」ということを消費者にアピールできるのが、価値としてはより大きい。 704aigamo_004

自分も実は昔、肝属郡田代町(現・錦江町田代)の大原地区で米を作っていたときに、アイガモ農法をやっていた。

 7,8枚の田でやっていたが、ある山沿いの田では猟犬がネットを越えて入り込み、噛まれたり追いかけられたりして5,6羽死んだことがあった。

 そんなことも、今となっては懐かしい・・・。

 この田はあと1ヶ月半くらいで水を落とすことになり(中干し)、その時にアイガモはお役御免になる。

 最初、田に放つ頃は500グラムもなかったのが、その頃には2キロくらいにはなっているはず。

 来年の繁殖用に4,5羽は残すが、あとは肉用に販売する。もちろん自家用にも食べるが、味は歯ごたえがあってさっぱりしている。なにより貴重なのが骨のガラで、鍋物の出汁としては最高だろう。残った出汁でラーメンの麺またはうどんを煮てみると、そのコクには誰しも驚くだろう。

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桜島と中世史研究会

土曜日(27日)の午後2時からの「中世史研究会」(黎明館3階会議室・主催同会代表・小園公雄先生)の発表に出かけた。

 途中、垂水市街地を過ぎ、海潟漁港にさしかかるあたりで桜島が正面に高く見えるようになるのだが、南岳火口にやけに水蒸気雲がかかっているなと思う間もなく、小噴火が起き、黒い噴煙が立ち昇った。627sakurajimatokenkyuukai_001

時計を見ると12時43分だった。

 150メートルほどの隧道を抜けたところで、左の小道に車を停めて写す。627sakurajimatokenkyuukai_003

500㍍ほど行った早崎大橋の上から見ると、噴煙はこちら(東)に向かっておらず、右手(北)方向へ流れているように見えた。627sakurajimatokenkyuukai_004

早崎大橋を渡ったT字路を左折して桜島の南側を走り、約10キロ、野尻川に架かる橋から見たら、北方向かと思っていた噴煙の向きは、西に変わっていた。

 桜島の西半分を覆い尽くすように流れる噴煙。627sakurajimatokenkyuukai_005

待つことなく乗れた櫻島フェリーから見ると、まさしくこっち(西)に向かっているように見える。

 しかし、乗り込む前に聞いたフェリーの係員の話では「姶良町方面に流れて行きますよ」―とのことだった。627sakurajimatokenkyuukai_007

黎明館には15分前には着いて、紹介を受けて2時きっかりには発表を始めることができた。

(写真は2番目の小園先生の講義)627sakurajimatokenkyuukai_006

総勢18名ほどのこじんまりとした研究会。

 例によって「中世史」ではなく「中性史」で、「古代史前史」の話を聴いてくれるだけでうれしい。

 さっき来るときの桜島小噴火を枕に話し始め、「95年前の大正4年1月に起きた桜島大爆発の結果、海峡が埋め立てられ、そこにできた道路を通ってすいすいとやって来ました」で、座が和んだ。

 話のテーマは「カヤ(鹿屋)考」で、大隅史談会会報『大隅52号』に寄稿したものをダイジェストした。

 大雨かと心配したが、行きも帰りも、雨にも灰にも降られずに済んだ、やれやれ。

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獅子目(ししめ)界隈(鹿屋市南町獅子目)

獅子目田んぼへ行ってみる。おそらく普通作の最後の田植えが行われているだろう、その様子が見たかった。

だが、すでに、田植えは終わっていた。県道の向こうには、志々目(ししめ)城をバックに、つい今しがた植え付けられたような田が広がっている。618sisimekaiwai_010

田んぼの向こうに見える丘は「志々目城跡」。志々目氏の居城だった。

 志々目氏は中世に下向した藤原姓「冨山氏」の一族で、同族には「大姶良氏」「横山氏」「浜田氏」がいる。

 この田園地帯は「大姶良川」が育んだもので、そう深くはない河谷なので、開拓しやすかったゆえ、平安時代の末頃にはかなりの田園となっていた。

 右手奥に見える山は「陣ノ岡」(482メートル)で、室町時代に繰り返された 祢寝(ねじめ)氏と肝付氏との戦いでは、祢寝(ねじめ)氏があの頂からこちらへ攻め入っている。618sisimekaiwai_008

県道から獅子目の小さな川沿いに入っていくと、田んぼで補植(ほしょく=田植え後に苗の抜けている所を補っていく)をしている光景に出会った。

 この人に聞くと、今日(18日)に植えたばかりだと言う。

 一番遅い田植えは20日だそうだ。618sisimekaiwai_007_2

300㍍ほどさかのぼると、何やら不思議なノボリ旗の立った田んぼがある。

 よく見ると「みんなの よい食 プロジェクト」と書いてある。

 さっきの人が言っていたのはこれだった。何でも新しいい品種で、試験的に一枚の田んぼで作付けしたらしい。

 ここも今日か、昨日植えたばかりだ。618sisimekaiwai_005

長く続く迫田の右手に見えてきた岡には「志々目古石塔群」がある。

 山道を上って、いったん岡の上に上がり、迂回してその遺跡を目指す。618sisimekaiwai_004_2

杉林を抜け、ようやくたどり着いた場所は、向こうに木立がなければ、さっきの迫田が見下ろせるような位置にある。

 ここには志々目氏の五輪塔から、祢寝(ねじめ)氏の逆修塔などがあり、618sisimekaiwai_002_2

とくに左の大きな石碑が目をひく。

 これは隣りの大姶良を治めていた「伊集院三河守」の慰霊碑で、三河守は豊臣秀吉の朝鮮出兵命令にさからったが、衆寡敵せず、捕らえられて斬殺された。

 その「たたり」がきつく出るというので、江戸初期に大姶良集落の総意により慰霊碑が造られることになった。

 ここは「大通寺」の跡といい、おそらく志々目氏の菩提寺だったと思われる。

 ところで「志々目(獅子目)」という名の由来は何だろうか? 同族の大姶良氏・横山氏・浜田氏はいずれも地名から来ている姓なので、獅子目も地名と見るのが順当だろう。

 私見では、播磨風土記や日本書紀の「顕宗天皇紀」に出てくる「志深里(しじみのさと)」と関連していると見る。雄略天皇に殺された「イチノベオシハ皇子」の遺児で志深里に逃れていた「顕宗・仁賢両天皇」が、時を得て赦され、都に上って皇位に就くという「目出度し、めでたし」のストーリーだが、この志深(しじみ)名こそは、唯一「志々目」を連想させるのである。

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百引(もびき)界隈(鹿屋市輝北町百引)

「百引」を「もびき」と読める人は、地元の出身者か、かなりの地理歴史通だろう。

 鹿屋市と合併する前に独立した自治体として存在していた輝北町(きほくちょう)の南半分を占める地域が「百引」である。

 輝北町は、昭和31年(1956)に、この肝属郡百引村と北に位置する曽於郡市成村とが合併して誕生した新しい町であり、平成の大合併でさらに新鹿屋市に統合した。

 今回、旧輝北町全域を回るには余りに広いので、南半に在り鹿屋市に近いほうの「百引」だけを歩いてみた。

 百引に行くには、鹿屋市の中心街から国分へ通じている国道504号線を北に向かって走ればよい。

 高隈ダムを過ぎ、鹿児島鹿屋ゴルフクラブを右手に見ると、道はようやく峠にさしかかる。そこの二股を右に取ると長い下り坂になり、約2キロで「坂下三文字」に突き当たる。605mobikitotanita_002

突き当りを左に行けば長い上り坂となり3キロほどで旧輝北町の役場に出る(今は鹿屋市輝北総合支所)。

 右折すれば大崎町方面で、志布志湾に至る。

 今回はまず、右手を取って行く。

 輝北町でおそらく最も古い神社「利神社(としじんじゃ)」が、宮元という集落にあると聞いていた。605mobikitotanita_005

坂下三文字から堂籠川沿いに下ること1.5キロ。このあたりだろうと思い、道路際の畑にいた老人に声をかけて聞くことにした。

 ところが不思議なことに、その老人というのが「上京さん」といい、「先祖は利神社を 奉じて、800年か900年前にここへやって来たのだ」と言う。

 畑の下には川が流れ、3~4メートルくらいの幅しかない 堂籠川には「宮元橋」が架かっているが、そこへ案内し、「後に見える平坦地が神社の跡なんだ」と、のたもう。

――あんな平らな所がですか?

「いや、明治のいつだったか、神社は百引小学校の隣りに移転し、神社跡はわしが子供の頃まで高さ5mほどの岡のまま残っていたが、戦後の農地整備で田んぼに変わってしまったんや」605mobikitotanita_006

行ってみると、岡どころか田んぼとして掘り下げられてしまっている。代かきが済んでいたので間もなく田植えが行われるのだろう。

 上京さんと別れるとき、メモしておこうと名前まで聞いて驚いた。

「登志(とし)というんだよ」

――利(とし)神社の「とし」じゃないですか。

「まあ、そうらしい」

おそらくお父さんが移転してしまった「利(とし)神社」を忘れまいと児に名付けたのだろう。

つい最近まで、その田で採れた米を、移転先の神社へ奉納していたらしい。ぜひまだまだ続けて欲しいものだ。605mobikitotanita_014

上京さんに教えられた現在の利神社へ向かう。

さっきの三文字に戻り、そこを通過して真っ直ぐな道を取る。

 その道は国道504号線で、坂下から200m余り行くと、のぼり坂道の途中左手に「丸山寺古石塔群」の標識が見えるので、下りて行く。

 3~40メートルほど下ると、平地に出る。すぐ右手に「巨大な五輪塔」と「月輪塔」が見る者を圧倒して立っていた。605mobikitotanita_020

高さ3、3メートルという巨大な五輪塔には江戸時代中期の住職・快運の名が刻まれている。

 また手前の「月輪塔」は非常に珍しいもので、こちらには「快如法印」の名と年号(享保5=1720年)が刻まれている。

 丸山寺は坊津一乗院(真言宗)の末寺である。605mobikitotanita_028

国道504号線の長い坂を上りきると、こぎれいな町が広がる。なおも行くと左に旧輝北町役場跡(現・総合支所)がある。

 役場の所は旧「般若寺(曹洞宗)」の跡に建てられたという。

 般若寺は中世に肝付方に属していた「図師氏」の菩提寺で、図師氏は平安時代の最末期にここに入部し、430年ほどこのあたりを治めていた。先祖は藤原氏だという。

 居城は総合支所の裏手に聳える山の頂で、「西原城(舞天城)」の名があった。

 支所からの比高は80メートルほどだ。605mobikitotanita_026

車で苦もなく上がれるが、頂上の本丸跡には五輪塔をはじめ6基の石塔が並んでいた。

 一角には東屋があり、そこからだけ周囲を眺め降ろすことができる。

 すぐ下の道路は支所から東方へ市成地区へと通じている。道路の左手の三つの鉄筋の建物は「百引小学校」だ。

 利神社はそのすぐ向こうの森の中にある。605mobikitotanita_029

百引小学校前を過ぎ、50メートルも行かない左手に石段がある。その上が利神社だ。605mobikitotanita_030_2

参道も拝殿・本殿も手入れが行き届いているとは言いがたいが、本殿の板壁に「虎」が色鮮やかに描かれていたのには驚いた。

 利神社は郷土誌によると祭神は「アメノコヤネノ命」で、藤原氏の始祖である。これは図師氏が藤原氏一族であるのと見事に対応している。

 だが「利神社」という名はどこから来たのだろう。ふつう藤原氏なら「春日神社」と相場は決まっているはずだ。

「利(とし)」が「歳」なら「五穀の実り」を意味するから、村社としてふさわしいのだが・・・。605mobikitotanita_032

百引の北の市成村との境に近いところに鎮座するのが「諏訪神社」だ。

 この神社は肝付氏16代兼続(かねつぐ)の建立であることが、棟柱に張られた棟札の存在ではっきりしている。

 永禄元年というから1558年、今からちょうど450年前のことである。

 そのことは神社入り口の鳥居のそばに聳え立つ「イヌマキ」「モミ」「イチョウ」の樹齢からも推測できるという。605mobikitotanita_035

いやはや、たいした迫力だ。とくに左のイチョウは落雷かなんかで枯れかかっていたのが、見事に復活したそうで、御神力とすれば霊験あらたかだ。

 いまいち元気のない人は、このイチョウの葉っぱでも煎じて飲んだらいいかもしれない。

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諏訪神社から国道504号線を少し戻り、JAの機械センターのところを左折して、今度はかの有名な「加世田城跡」に向かう。

 途中、大久保という集落を通るが、狭い河谷の川筋いっぱいにうねうねと谷地田が続いているのが見えた。

 1アール、2アール程度の広さしかない田が、横になり、縦になりして谷筋を埋め尽くしているが、このような不便な地でも米作りにかける情熱はまだ衰えていない。手を合わせたくなる。605mobikitotanita_050

羊腸の小径のようなくね曲がった道を行くこと5キロ。ようやく平房(ひらぼう)に出る。

 田んぼ地帯から望む「加世田城」は独立丘の上だが、意外に小さく感じた。

 左手の道を入ると、入り口がある。605mobikitotanita_039

高山本城と宮崎県三股町の三股城の中間に位置し、肝付氏にとってはきわめて重要だった「加世田城(加瀬田城とも)」も、元亀年間(1570年頃)には、肝付氏の手から島津氏の勢力下に陥り、10年を経ずして天正8(1580)年、ついに肝付氏は滅亡し、大隅から追われたのであった。605mobikitotanita_044  

城の造りは高山本城にそっくりだという。

 本丸へ上がってみると、シイの大木の下に肝付氏のものと見られる「宝鋏印塔」が2基と、その上の壇に「三宝荒神祠」がひっそりとたち、主なき城砦を守っているかのように見える。605mobikitotanita_051

城の南側は、大鳥川の開いた田園地帯で、江戸初期まではここに領主屋形、のちの仮屋があったという。

 建久図田帳(1190年頃)によると、百引郷は13町の田が開けていたというが、その多くはこの田んぼ地帯のことを指しているのだろう。

 13町といえば、肝付氏が滅亡して阿多地方に改易された時にあてがわれた田の面積が12町というから、同じくらいである。米の生産量で言うと当時の技術では1反で200キロ位なものだろうから、12町で24000キロ、石高では160石。

 肝付氏の実収は少なくとも10万石はあったろうから、実に0、16パーセント。ほとんどゼロに等しい。阿多に移った肝付氏の後裔で、のちに活躍した人物がほとんどいないのもうなづける。605mobikitotanita_060

中平房(なかひらぼう)生活改善センターの庭から望む加世田城跡(石碑のすぐ右手の丘)と善福寺跡(右端の丘)。

 善福寺跡は民家となっており、中をうかがうことはできなかったが、近くに元禄3(1690)年の作という「庚申地蔵」が、五差路の安全を守るかのように立っていた。605mobikitotanita_057

平房からは南へ丘を越えると平南小学校の脇を通って、再び利神社の旧跡のある堂籠川の筋に出る。

 坂下三叉路まで戻り、今度は国道504号線を上らずに、堂籠川に沿ってさかのぼる。605mobikitotanita_001

堂籠川沿いの田はちょうど田植え期を迎えていた。605mobikitotanita_010_2

2キロほどさかのぼり、「後堂橋」を渡って少し登ったところが「堂籠集落」で、藩政時代はここに平房から移ってきた「お仮屋(地頭館)」があった。

 それなりに風格の漂う家々が並んでいる。605mobikitotanita_012

堂籠地頭館跡の下に広がる堂籠川流域の田園地帯。605mobikitotanita_013

百引に来るたびに坂下三文字を通過するが、その時にいつも堂籠川を眺めて目に付くのがこの「木橋」だ。

 はじめて道路から川に降りてみて確かめたら、木ではなく竹製であった。

 いずれにしても、川岸に近い畑の持ち主が私的に架けた手造りの橋だ。

 何とも情趣を感じるたたずまい。

 下流には立派な坂下橋。右手から迫る丘は「百引本城跡」というが、築城の年代も城主も不明である。

 芭蕉ならずとも、戦国乱世の再び来ないことを祈る。

       夏草の 中に埋もれり 偲ぶ川

 

 

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普通作の田植え(鹿屋市高隅町)

輝北町に用事があり、高隅町を通ったが、いま、このあたりでは普通作の田植えが真っ盛りだ。605mobikitotanita_062

写真はちょうど「代かき」をしているところ。

 トラクターの後ろに丸たんぼうを付けて、水を張った水田の泥の表面を均一にならしている。605mobikitotanita_063_2

いつもは静かで人気のない田んぼに、今日は沢山の人が出て、田植えやその準備をしている。

 たぶん明日、あさっての土曜・日曜の連休が田植えの最盛期だろう。

品種は「ヒノヒカリ」で、普通作では鹿児島で最も多く作付けされている。

 普通作は秋の台風シーズンに受精・稔実が行われるため台風の被害に遭いやすいので敬遠され、だんだんと早期米に切り替えられて来たたのだが、このあたりでは昔ながらの「入梅ころの田植え」が継続されている。

 被害に遭わなければ実収が多いうえに、寒暖の差の大きい晩秋収穫の米は実がしまっておいしく、さらに翌年の梅雨期を越しても美味しく食べられるということで、自家飯米農家には「ヒノヒカリ」の方が人気がある。605mobikitotanita_064

高隅川(串良川)のすぐ脇の田んぼでも、明日の田植えに向けて、最後の仕上げに余念がない。605mobikitotanita_061

清流に向かって段差を見せる二枚の棚田。

 昨日かおとといかに植えつけられたばかりの田んぼだ。

 一枚が一畝(ひとせ=100坪)か二畝くらいの田だが、機械(田植え機)で植えられている。

 狭い日本の過疎地の山間の田もこうして文明の利器によって、かろうじて維持されている。

 しかしいつまでこれが続くものだろうか?

 「直接所得補償」の制度を取り入れなければ――という声もあるが、それには多大の予算が必要だ。それなら、いっそのこと江戸時代の「給地」制度を復活して、給料の一部を現金の代わりに「過疎地の田んぼの米」という現物を支給するようにしたらどうだろか。金はまったくかからないうえ、過疎地も潤い、永久に存立を補償されるではないか。

 

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飯隈山飯福寺跡を訪ねる(曽於郡大崎町飯隈)

京都の聖護院を本山とする修験の係累は全国に及び、各地にその地の、今で言う支部が設けられた。

 曽於郡大崎町にあった「飯隈山飯福寺」は西国では並びなきその修験の寺院で、この寺の別当「蓮光院」は「五ヶ国法頭」、つまり日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬のトップであったという。

 由緒はめっぽう古く、慶雲五年(708)の創建で、開祖はかの修験道の始祖・役小角(えんのおづぬ)の高弟・義学という人物であった。

 連綿、1160年余り、飯福寺はついに廃寺となった。明治初年、鹿児島の徹底した廃仏毀釈の嵐の前になすすべもなく消え去った。

 南北朝時代の正平年間、当地を治めていた救仁郷氏は島津氏久(第6代)に敗れて城を明け渡したが、当主の弟が出家して別当家を継いだといういわれがあり、その後、救仁郷氏は500年余りを蓮光院主として重きを成していたという。

先週の土曜日、肝付町を回り、大崎町へと出かけたついでに寺院跡を訪ねてみた。

 鹿屋から志布志へ向かう国道220号線が大崎町の中心部の信号「大崎上町」を過ぎ、いったん下りになったあと、登り返したところの信号「益丸」を左折する。

 ほぼ直線の道路を100㍍も行くと、あたりは閑静な屋敷が並ぶようになる。523uchinouraoosakikubotesan_021

もう少し行くとなにやら石造物と鳥居が見えてくる。523uchinouraoosakikubotesan_015

腕の部分があれば遠目でも即座にそれとわかる「仁王像」だった。しかも右側にも首のないのが一体。

 丈の高さには驚く。233センチあるというのだ。鹿児島にはこの仁王像は廃仏の騒動の中でも、大きすぎるゆえか今でも残されている所が多いが、こんなに大きいのは稀である。

 階段の上には鳥居が見えるが、仏教寺院になぜ?と思うはずだ。

 というのもこの飯福寺は別名「新熊野三所権現」とも言い、中世に始まった「本地垂迹説・反本地垂迹説」が支配するようにもなった。俗に言う「神仏混淆」の姿を留めているからなのである。523uchinouraoosakikubotesan_020

鳥居をくぐって約50mで粗末な作りの「本殿(本堂?)」に着く。

 間口2間、奥行き4間くらいの小さな建物だ。

 右側に屋根が延長され、そこには2体の仏像が安置されている。523uchinouraoosakikubotesan_017_2

観音像と薬師像かと思われるが、これらの仏像の由来は不明である。

 廃仏毀釈による打撃のないところを見ると、明治以降の作だろうか。

 いずれにしても昔を偲ぶよすがにはなる。523uchinouraoosakikubotesan_019

お堂を西から眺める。

 牧草や夏野菜の播かれた畑に取り囲まれてこじんまりとひっそりたたずむお堂に、かって五ヶ国修験の本山だったという面影はまったくない。

 もし廃仏毀釈にさらされず、そのまま1200年を数える歴史を今に伝えていたとしたら、あるいは鹿児島で唯一「世界文化遺産」に登録されていたとしてもおかしくはないだろう。

 今は1辺が100m余の矩形の小高い丘が残るばかりである。

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内之浦と藤原惺窩(肝付町内之浦南方)

このところ大隅史談会発行の新刊『大隅』52号の販売に忙しい。

 各市町村の図書館に納入するのに、公共施設ゆえ直接販売はわずらわしいので、図書館に納入している業者(地元の書店)に売りに行っているのだが、土曜日(23日)は肝付町と東串良町・大崎町を回ってきた。

 かっては大隅の各市町村から大隅史談会に対して助成金(1万円程度)が出ていたので、その御礼として1冊をそれぞれの図書館に寄贈していたのだが、打ち切られてからは販売することになった。一般会員などへの販売・発送に一区切りついたこの時期は、いつも電話で注文を取っては業者に納入に行くのが日課だ。

 一番遠い肝付町内之浦の書店に行くことになったので、ついでに藩政時代以前からあった旧内之浦港のあたりを見たいと思い、史談会前会長の江口先生をお訪ねした。旧内之浦港に慶長の頃、江戸朱子学の祖「藤原惺窩」が大陸(明王朝)に渡ろうとやってきた時に、そこに何泊かしたというので、それを確かめたいと思ったのである。

 先生曰く――私が起案した教育委員会の説明看板が、まだそこに建っているはずですよ。

 そこで、道を教えてもらい、2キロ弱南下することにした。町の中を走り、国道448号線が大きく右へカーブする所の信号をそのまま真っ直ぐに入り、二つ目の角を左折する。道は港に近い細い路地で、左右の人家は軒を連ねていかにも旧道の感じがする。200メートルほど行くと、とある民家の長い築地壁の一角にその説明看板が取り付けられていた。523uchinouraoosakikubotesan_001

説明板によれば、ここは「津口番所」の跡だった。

 津口番所とは薩摩藩の港を取り締まる役所のことで、藩内には24ヶ所あったという。

 そのほかに遠見番所というのもあり、それはちょっとした見晴らしのいい丘の上のようなところに建てられ、おもにあやしげな異国船を発見する役所であったが、ここにも向かいの津代半島の先端「火御崎(ひのみさき)」に設けられていたそうだ。523uchinouraoosakikubotesan_004

津口番所の通りの先の左手には「内之浦漁協・本所」の水揚げ場があり、右手には河口港がある。

(内之浦漁協)523uchinouraoosakikubotesan_006

ここが河口港というのは、左手奥の山々から流れてきた「小田川」の河口だったからだ。

 今の小田川は港の左手奥で仕切られ、右手を北上して街中を流れ、内之浦最大の川「広瀬川」と合流して海に注いでいるが、かってはここに注いでいた。

 この津口番所のある小さな「岬」は、小田川が形成した砂嘴(さし)に他ならない。

 藤原惺窩はこの砂嘴の一角にあった船頭の家に逗留したという。

時に慶長元年(1586)旧暦7月12日から18日までのことである。惺窩35か6歳の頃、まさに人としての盛りの時代であった。

 523uchinouraoosakikubotesan_008

さっきの小路にもどり、反対方向から津口番所を写す。

 路地のずっと奥に見える岡は「叶岳(かのうだけ)」。内之浦の平野のど真ん中に屹立する標高187mの一大展望台だ。

(注:道の真ん中に落ちている黒いものはカラスの死骸。カラスは賢い鳥でこんな醜態をさらすことはまず有り得ない。私も物心ついて以来、ハトやスズメの死骸は見たことがあるが、カラスに限ってはない。しかもつい最近どこでかは忘れたが、別の死骸を見ている。いったいどうしたことだろう?)523uchinouraoosakikubotesan_014

津口番所のある漁協本所から再びもとの道を行き、役場の手前を左折して橋を渡り、すぐ右折して山すそを走ると、やがて「叶岳入り口」の表示を見、登ること5分、頂上直下の展望台に出る。

 そこから東を眺めるとさっき居た漁協のある港町が見下ろせる。(右の杉と左の照葉樹の間に展開するのが港町だ)

 藤原惺窩は津口番所近くの船頭の家に滞在している間、琉球の話を聞いたり、ルソン(フィリピン)到来の珍品を見たり、渡航記録などを読んだりしている。

 慶長元年(1586)7月18日には肝付町の波見港に行くが、途中、明船に出会い、蘇州や泉州人の商人と筆談をしている。同日正午に波見港に到着、あたりの風景を絶賛してもいる。

 その後、吾平(相良)を経て高須(高洲)港から指宿の山川港に渡った。

 山川港で大陸渡航のための船待ちをしているとき、正竜寺(しょうりゅうじ=臨済宗)で新訓の「論語」が学ばれているのを知り、これなら大陸に渡らずとも、四書五経を学び教えることができると悟り、京都に帰って広めた。これが江戸儒学(中でも朱子学)の始祖・藤原惺窩の誕生であった。そして直弟子で将軍府の学頭となった林羅山が、幕府教学の中心としての朱子学を確固たるものにしたのである。

 その論語の新訓を大成させた儒者こそが加治木安国寺住持「南浦文之(なんぽ・ぶんし)和尚」であった。文之を含む鹿児島の薩南学派の開明性や推して知るべし、ではないか。

このことは幕末の国学徒も認識しており、ために、かの本居宣長の弟子をして『襲国偽僣考(そのくにぎせんこう)』(鶴峰戊申著。邪馬台国は襲国=クマソ国であり、大陸王朝とは通交があって文字=漢文を知っており、その女酋だった卑弥呼はそういう文化の中で、かってに大和王朝を偽称して魏に使者を送っていた―という要旨)を書かせたのだろう。

 内之浦を「内裏」と書いて「だいり」と読ませ、景行天皇の「筑紫巡幸」に付会させる説が地元にあるが、景行天皇は実際には来ていない以上、それは文字通りの付会であろう。「内」を「ウチ」ではなく「ウツ」とする私見では内之浦は「ウツの浦」であり、「ウツ」とは「すべてが整っている、完全な」という意味であるから内之浦は「浦としては完全な、つまり停泊の安全も、水も、食料もすべてが整っている港」となり、歴史的にも上述のように異国船までがやってくる良港だったことで証明されよう。

(注:藤原惺窩の大隅滞在については『高山郷土誌』を参照した)

 

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県内最古の板碑と祢寝(ねじめ)氏累代の墓(南大隅町諏訪上・北之口)

肝付郡の文化財審議委員会総会が旧根占町で開催された。

案内を受けていたので、大隅史談会として5月21日の午後、史跡めぐりに参加した。

上諏訪地区にある紀年銘のある物としては県内の「宇都の板碑」と「宇都のやぐら」が、やはり圧巻であった。521nejimesisekimeguri_002

「二つ(並び)鳥居」で有名な諏訪神社に向かって右手、5~60㍍行った所に、小さな標識があるからそこを左手の崖に向かって登って行く。521nejimesisekimeguri_004

比高にして12~3m、距離にして100メートルほど登った先に、高さ1メートルくらいの板碑が立つ。

 これが県内最古の正応6(1283)年に建立の板碑だ。

 正面には「キリーク」という梵字で仏の種類を表した文字が刻まれている。

梵字は「カーン」と読むそうで「阿弥陀仏」を表しているという。521nejimesisekimeguri_006

正応の板碑から少し上がった所には2基の板碑が立つ。

 手前のは80センチくらいだが、奥のは180センチ近い長身だ。こちらは正応の板碑に遅れること11年、永仁2(1294)年に造られている。

 合計で3基の鎌倉時代の板碑が至近距離に三基もあるのは珍しい。

 供養の対象は祢寝(ねじめ)氏初代清重から3代までだそうだ。

 「やぐら」はさらにその上の凝灰岩で造られた比高25メートルの断崖絶壁の場所に掘り込まれていた。521nejimesisekimeguri_008

凝灰岩の崖が間口2.7mm、高さ2m、奥行き1.8mくらいにくり抜かれている。

 左右と奥には、棚状の仏像を安置するくり抜きがある。521nejimesisekimeguri_009

天正年間(1573~1591)の銘のある五輪塔。

 山川石製だ。もちろん指宿市山川から切り出され、船で運ばれたはず。

 旧根占ではこのような石造物の多くが「山川石」で作られている。

「やぐら」は鎌倉の凝灰岩の崖にも数多く造られ、その役割は「墳墓説」と「中国伝来説」に分かれるが、特に鎌倉に多いとなるとやはり中国から招聘された禅宗の僧侶の持参した文化と見るのが自然だろう。521nejimesisekimeguri_012

諏訪神社から北へ400mほど行くと、右側に「北之口公民館」(勝雄寺跡)を見るが、そのすぐ横に珍しい「月輪塔婆」がある。521nejimesisekimeguri_013

向かって右が「月輪塔婆」。県内ではここに一つあるだけという。

 向かって左は「逆修五輪塔」で、天正年間の作。

 どちらも「山川石」製である。521nejimesisekimeguri_016

 北之口公民館の左の入り口からは「祢寝(ねじめ)氏累代の墓」に至る。

 墓地の奥は草原で、その向こうは照葉樹林の丘である。521nejimesisekimeguri_018

ここには佐多に墓のある3代までを除く、4代清親から島津氏に降った16代重長(しげたけ)までの墓がある。

 主人には宝きょう印塔、正室には五輪塔が建てられ、350年の星霜を凝縮させている。521nejimesisekimeguri_021

最後に辺田海岸にある「砲台跡(台場跡)」を見学。

 ここは文久3年夏に行われた「薩英戦争」に備えて作られ砲台で、ここから鹿児島湾に入ってきたイギリス軍艦を狙い撃ちしたが、成果はゼロだったようだ。

 だが、鹿児島市の祇園洲台場に据えつけられたこれと同じガトリング砲からぶっ放された弾は、見事にイギリスの旗艦「ユーリアラス号」に着弾し、艦長はじめ9人もの戦死者を出したという。

 しかし敵艦の射程4キロというアームストロング砲の威力はすさまじく、鹿児島城下の下町一帯は焼け野原になった。

 さらに薩摩藩の秘蔵の戦艦が拿捕されるに及び、戦闘を中止して和議を結ぶことになった。これ以降、鹿児島は西洋列強の強さに目覚め、ひたすら富国強兵の道へと舵をきり、維新の立役者となっって行った。その生き証人が砲台跡に他ならない。521nejimesisekimeguri_024

史跡めぐりが済んだあと、ひとりで南大隅高校のグラウンド横にある「磯長和泉守の墓」に行ってみた。

 この墓の主は海運にすぐれ、根占から琉球まで往来していた江戸初期(慶長年間)の人物で、裏山が崩れて埋もれていたのを、最近になって当地の文化財審議委員のM氏が掘り起こし復元したものである。

 (同じ場所に後裔の磯長得三(根占書籍館の創立者=九州でも2番目にできた図書館)が、埋没した墓の代わりの「磯長家歴代墓」を建立している)

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あふちの木(鹿屋市西原町・川東町)

万緑の5月。

照葉樹がわが世の春を謳歌している大隅で、落葉樹だけれど、今、負けてはいないぞという木がある。

「あふち」の木だ。現代仮名遣いでは「おうち」だが、「あふち」の方が語呂も見た目もよい。いま、花が真っ盛りである。かわいらしい薄い藤色の小花を群生して付けている。強い光の中では目立たぬ花だが、それもまたよい。512afuchinoki_009

小枝ごとに先端を放射状に広げ、藤に似た葉と、着生ランに似た小花を無数に咲かせている。

レンギョウ、木蓮、吉野桜、八重桜と春の高木の花が一巡した後、やっと出番が来たかと学校や公園で主役を演じている。512afuchinoki_003

鹿屋市の西原小学校(西原町)の校庭では、樹齢100年近いような大きな「あふち」がずらりと並んで花を咲かせていた。512afuchinoki_001

近くの墓地には、新緑鮮やかなシイの間に2本の「あふち」がまざっている。512afuchinoki_002

通りがかりの畑でも、大きな「あふち」の木が、畑の境界を示すが如く立っていた。

 上の学校、墓地、畑にある「あふち」はそれぞれ人が目的を持って植えたに違いないのだが、「あふち」はもともとは自然木なのである。

 この頃は山の方を見ると、鮮やかな万緑の中につつましく花を咲かせているのが眼に入る。そんな「あふち」はなかなか被写体になってくれない。

 ところが、あったのである。何と川岸に。それも2本。512afuchinoki_007

肝属川の左岸に3~40㍍おいて、二本の「あふち」が日差しの真っ只中、風にそよいでいた。

(鹿屋市川東町を流れる肝属川)512afuchinoki_008

高さ8メートルくらいか。この木は植えた物ではなく、自然生だ。

 なぜなら、大きな洪水が来たら根こそぎ持っていかれそうなこんな川岸に植栽するはずはないからだ。

 植栽するならどんな洪水でも安全なもっと土手の上の方にするだろう。512afuchinoki_010

この「あふち」を栴檀(せんだん)と呼び習わしているが、「双葉より芳しい(双葉=子供のころから優れている)」と言われる栴檀は、実は白檀(びゃくだん)のことで、この木のことではない。

 昔の中国で本当は「白檀」だったのを「栴檀」と名付け、その「栴檀」が何を間違ったか日本では「あふち」の木に付会させられ広まってしまった――という。

 一度かぶせられた「ぬれぎぬ」がなかなか解消できないのに似ている。

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照葉樹林の森を歩く(肝付町)

午後から暇ができたので、『大隅照葉樹林原生林の会』の事務局長の角田さんから案内を貰っていた「金弦橋~二股林道縦走路」を歩いてみた。

「金弦(かねつる)橋」は高山ー岸良線県道を高山川沿いに上って行き、川上小学校・中学校を見てから4キロほど上流にある。金弦橋を渡ると県道は急にジグザグの登り道になり、高度をかせぎながら3キロ弱で二股川キャンプ場に至るが、縦走路は橋を渡らずに手前から左手に入っていく。510kinturubashishouyouju_024

歩き出すとすぐに高山川の清流で、花崗岩の間を縫って流れる川の水はまろやかで美味い。

 巨岩のせり出す右岸を100㍍も行くと、左手に登山路がある。

 手を加えられていない照葉樹林の中を登ること25分ほどで、小さな尾根筋に出るので楽になる。

 巨木が現れるのもこのあたりからだ。510kinturubashishouyouju_004

「スダジイ」「イスノキ」「タブノキ」が巨木の代表で、珍しいのがこのアベック。

 左は直径60センチほどのスダジイ。右隣りは直径40センチくらいのイスノキ。

 根元を共有するかのように仲良く並んで立っている。510kinturubashishouyouju_005

さらに行くと今度はタブノキにヤマフジが絡み付いている。きつく巻いているのではなくゆるく垂れ下がっているので、タブは安泰。

 よく見るとタブの幹には「サルノコシカケ」が寄生している(上の方)。直径20センチはあろうかという大きな腰掛けだ。

 大隅半島全域にニホンザルが生息しているが、こんな木はサルの遊び場にもってこいだろう。510kinturubashishouyouju_009

珍しい「カゴノキ」もあった。

「カゴ」は「鹿児(子)」で、鹿の子(バンビ)は体に斑点を持つが、この木の幹の模様がそれにそっくりだから名付けられた。

 昔むかしは猿とともに鹿もかなり生息していたようだが、南九州特産の「鹿の皮」が奈良時代以降「貢納品」に定められたため乱獲され、激減したのではなかろうか。

 大隅を歩いていて、猿はよく見るものの鹿にお目にかかったことは全くない。510kinturubashishouyouju_011

巨大な「オガタマノキ」があったのにも驚いた(手前の右の木)。オガタマは神木で、別名が「イチイ」。九州では余り見かけないが、本州以北ではよく神社の境内にあったりする。

(向こうはタブノキ)510kinturubashishouyouju_014

原生林の中の巨木は、どれも板根が発達していて圧倒される。

 これはイスノキ。510kinturubashishouyouju_018

スダジイの板根。510kinturubashishouyouju_016

タブノキも負けてはいない。

どれも板根の周囲を測ったら3メートルは下らないだろう。

510kinturubashishouyouju_019

二股川キャンプ場方面からの縦走路入り口。

「自然の環境を 百年後まで 維持しましょう」という看板が立つ。『原生林の会』の手作りだ。

 ここまで約4キロほどか、2時間半の道のりだった。510kinturubashishouyouju_021

帰りは県道・高山ー岸良線を歩く。3キロあるが、下る一方だから楽だ。

 途中から見る照葉樹林帯は、いま一年中で一番輝いている。

 新緑というには余りにエネルギッシュに見える。510kinturubashishouyouju_020

いま歩いてきた所かと思われる山腹。

 森の中は日が当たらずにほの暗いのだが、外から眺めるとこの明るさ。

 エネルギーの爆発にも見える照葉樹林の春は今たけなわである。

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打馬(うつま)町界隈(鹿屋市打馬町・王子町)

鹿屋市中心部の大手町信号から、鹿屋城とは反対の寿町方面への広い坂道を上がると200メートルほど行った左手に「市営緑山墓地」がある。墓地の中の道はそのまま打馬方面へ下っていくので入ってみる。506utsuma_002

入って最初の墓を過ぎるとすぐに見晴らしがよくなる。打馬地区の展望台といってよい。

 手前の田んぼは県立鹿屋農業高校の田で、毎年6月に田植えされた後、アイガモを放して無農薬栽培をする。

 その田んぼの家並みの向こうを肝属川が流れ、対岸には鹿屋小学校が見える。

 小学校の左手奥の高いビルは旧県立病院で、今は札元地区に移転して「鹿屋健康増進センター」の医療部門として統合発展した機関だが、廃ビルを撤去する予算が無かったかとか、地元の反対があったとかで、廃墟のまま放置されている。

 ミステリーの舞台にならなければよいが・・・。506utsuma_003

視点を右に(東に)ずらすと、打馬の中心地区が広がって見える。

 小学校の右手方向には裁判所、法務局、県の合同庁舎などが、国道504号線沿いに立ち並ぶ。

 そして家並みの中に一つの森がこんもりと茂っているのが分かる。506utsuma_005

撮影場所を変え、ズームアップして見ると、森の真ん中に社殿のような建物がある。

 あれは打馬地区の総鎮守「春日神社」だ。

 墓地公園を下りて、正面に回ってみる。 506utsuma_015

大手町に戻り、信号を右折して国道504号線を北に向かう。

 約400メートル先の二つ目の信号を右折し、100㍍も行くと鳥居が目に入る。506utsuma_012_3

鳥居から拝殿まではほぼ一直線で、周囲の道路からは少しずつ登り坂となり、拝殿の手前で一段高くなる。506utsuma_014_2

拝殿の奥に鎮座する本殿は千木を乗せた立派なものだが、そこはさらにまた一段高くなっている。

 どうも円墳の上に乗っかっているようなのだ。手前の鳥居からの一直線の高みは前方後円墳の「方」の部分ではないだろうか。

 以前からそんな気がしていたのだが、今回、緑山墓地から眺めてみて、いよいよその感を深めた。

 因みにこの神社は祭神は奈良の春日大社と同じ「タケミカヅチ神、アメノコヤネ命」で、再建の棟札に「天文3年(1534)藤原忠吉」とあるそうだ(『鹿屋市史』による)。506utsuma_011

春日神社を後にして、左手の道を進むと100㍍余りで肝属川に出る。そこに架かるのは「山中橋」で、橋から下流を見るとすぐそこで川が二手に分かれる。

 右手は本流だが、左手は分水路だ。

 これは昭和51年に起きた鹿屋大水害を教訓に、災害対策を立てた時に考え出された放水路計画の中の「トンネル(隧道)案」が実現したもので、珍しい対応策だったといえる。

 肝属川が右に大きくカーブをするその一角を切り裂き、向こうに見えるシラス台地の下をくぐらせたもので、全長2,7キロ、うちトンネル部分は1,6キロ強。平成12年に完成を見て以来、たしかに水害は発生していない。506utsuma_007

鹿屋分水路の入り口。ぶち抜くシラス台地の高さは比高で40メートル弱。506utsuma_001_2 手前を横切るコンクリートは川東用水路。こちらは鹿屋中心部を迂回し、分水路の出口(新川町)の前を通過して川東地区の田んぼ地帯まで通じている。

 トンネルが無い分、分水路より2キロ以上は迂回して流れることになる。506utsuma_010

鹿屋の中心部を通る川東用水の取水口がこれ。「和田井堰」といい、分水路の分岐点より500メートルほど上流にある。506utsuma_009_2

和田井堰の下流左岸には「和田井堰公園」がある。

 広い芝生広場と、右手のシラス台地からの湧き水を引いた人工の流れと池が、憩いの場を提供している。

 9月になると川東から水神祭りの踊り連がやって来て、感謝の踊りを奉納する場所でもある。

 

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後期高齢者御一行さま御案内(あちこち)

一週間前に鹿児島市内に住む義理の叔父から突然の電話があった。

「6月1日に老人会の一日旅行でかのやばら園に行く予定だが、老人会の役員で下見をしておきたい。ついては案内を頼めぬか」――という内容であった。ばら園だけでなく、他にも見所があったら行ってみたい、というので2、3箇所の候補地を頭に入れて、今日を迎えた。

 まずは本命の「かのやばら園」。428kyakujinannai_005

鹿児島市某老人会の三役。

―右から75歳(義理の叔父=前事務局長。現在は何とか部長)、81歳(会長)、72歳(事務局長)、平均年齢76歳だが、いまどきの高齢者は若い―

 聞けば40人の参加だという。それも大型バスを借り切ってだそうだ。

 ずいぶん豪勢な旅行だと思ったら、何と鹿児島市ではバスを無料で提供するという(ただしフェリー代は自己負担)。

「それだと、弁当代に飲み物代併せてひとり千円も徴収すればいい」そうだ。老人会自体からも補助が出るので、そういうことになるという。結構な話だ。428kyakujinannai_003

「ばあさんたちは喜ぶだろうな」

全体の3分の1ほどしか回らなかったが、そこここに鮮やかに咲き乱れるバラを見渡して、事務局長はそうのたもうた。

 ただ、問題があった。というのは予定の6月1日まで果たしてこの鮮やかな開花状態が続くものだろうか――ということだ。

 「まあ、そうなったらそうでもいいさ。公園の中の芝生の木陰で、みんなで弁当を広げるのが楽しみなんだから」428kyakujinannai_006

ばら園を出て、肝付町の国見トンネルを抜けた北方にある「銀河荘」まで走って昼食をとり、再びトンネルをくぐってから「二階堂住宅」(国指定文化財)を見学。

 「おもて・なかえ」のL字型萱葺き住宅よりも、奥にある二階堂家の墓前に建てられた「献辞」碑に興味深々の三役。

 「献辞」の主はカミソリの異名を取った故・後藤田正晴代議士だ。

 そこには「対米戦に絶対反対を貫いた二階堂進氏」の文脈が踊っている。

428kyakujinannai_008

続いて行ったのが「吾平山上陵」。神武天皇の父であるウガヤフキアエズ命の墓所である。

 川向こうに見える鳥居の奥に大きな洞窟があり、その中に円墳がある――と古書には記されている。428kyakujinannai_010

吾平山上陵から鹿屋市街地へ向かう途中、鶴峰小学校に立ち寄る。

 この小学校は義理の叔母が、戦後間もなくのころ初めての教員生活を送ったところだという。60年も前の話だ。

 学校はずいぶん立派な建物になったが、肝心の生徒の数は当時の5分の1もいないだろう。過疎地の小中学校はどこもそんなものだ。

 まったく「隔世の感あり」だ。

 一行は桜島周りでかえると言う。途中の「鹿屋航空隊基地史料館」入り口まで案内してから別れた。

 6月1日の天気がよく、また、まだバラが鮮やかに咲き続けていることを願いつつ・・・。428kyakujinannai_004

  

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エコ・ビル発見(鹿屋市本町)

鹿屋市の中心部を流れる肝属川が、昨日からの雨で水かさを増していた。水量の少ない時は川幅の半分くらいに水草が生えているのだが、今日はほとんどが水の下になっている。425ecobiru_010

真ん中上に見える3階建てのビルの右手にかっては大きな病院が建っていたのだが、最近取り壊されて隙間ができた。

 そのためこれまで見えなかった密集地域の中身が垣間見えるようになった。

 川沿いに入って行って驚いたのが「エコ・ビル」だ。425ecobiru_002

レンガ造り風の外壁と屋上の小部屋が、ツタに覆われている。

 裏手に回るともっと驚く。425ecobiru_003

まるでツタのカーテンを垂らしたようだ。

 いったい何年経っているのだろう?

 肝属川沿いのこのあたりは水害の常襲地帯だった。特に昭和53には大水害があり、人や建物に大きな被害が出た。

 おそらくそのころ被害に遭い、新築されたビルだろう。したがってツタは最大で30年生ということになる。

 しかし驚くのはまだ早かった。向こうにも「エコ・ビル」が見える。425ecobiru_004

駐車場の向こうに、ここよりもっと大きなグリーンモンスターがあった。425ecobiru_008

大通りから少し入った所にあるスナック・居酒屋の入居したテナントビルであった。

 壁一面に密生したツタは、飲み屋街で夜な夜な焼かれる串焼きや焼き魚の出す二酸化炭素を吸収してくれているはずだ。

 それで「エコ・ビル」と名付けてみた。425ecobiru_006

 

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かのやばら園(2009)

明日(4月25日)から6月7日(日)まで開催される2009・かのやばら祭りに一日先んじて出かけてみた。

ここ二年続けて購入している年間パスポート(カード)が、今日で期限切れだったこともあり、入場口の券売機で「パスポート更新券」を1200円で買う。これを持ってパスポート発行窓口へ行くと、更新の日付を入れてくれて一年延長になるのだが、カードが汚れているとのことで新しいカードを発行してくれた。テレホンカードと同じ大きさである。

424kanoyabaraen2009_001 去年は記録的な遅咲きで、ゴールデンウィークが過ぎてからようやく見頃を迎えたのだが、今年は早い。

 4月24日現在で、おおむね3分咲きといったところだ。もう十分観賞に値している。424kanoyabaraen2009_004

どこかのカトリック修道院のシスターが三人、ツルバラの棚の下のベンチで休憩している前を、トロッコ花車が通り過ぎて行く。

 今日は子供連れはほとんどいないので、乗っているのは高齢者ばかりだが、園内を3分ほどで一回りして300円だったか、もし子供が「乗りたい」と駄々をこねたら、たいていの母親は「あんたには足があるんでしょ。立派な足が!」とどやすに違いあるまい。

 (それとも「ソフトクリームとどっちがいいの!?」とうまいこと関心をそらす母親もいるだろう。こっちのほうが子供にとっては絶対的だ)424kanoyabaraen2009_005_2

ドイツ作出の花の色はこんな色が多い。オーソドックスで、そういう意味では最もバラらしいバラ。424kanoyabaraen2009_010

しかしやはりバラといえば真紅だよな、と言う向きにはこれ。424kanoyabaraen2009_012

いや、もう、あまり濃厚なのは胃が(?)受け付けない、と言う手合いにはクリームイエローなんてのもある。424kanoyabaraen2009_014

そうだよな、でも、可憐でなくちゃいけない、というおじさん好みだったらこれだな。424kanoyabaraen2009_007

あれもいい、これもいいと品定めにきょときょと歩き回っているうちに、昔のバラ園に出た。

 昔の、といっても今もバラ園の一部で、現在の「かのやばら園」がグランドオープンする前は、展望所のすぐ下に2~3ヘクタールの広さしかなかったのだが、4年前にここを含めて全体が8ヘクタールに拡張され、名実ともに西日本一のバラ園となった。424kanoyabaraen2009_008

同じ場所から目を少し東に転じると、バラ園の向こうに「横尾岳・陣ノ岡」の山系が望まれる。

 陣ノ岡(482m)は南北朝時代後期から室町時代にかけて、大隅半島南部を二分して争った「肝付氏」と「祢寝(ねじめ)氏」の境界線で、祢寝(ねじめ)氏はしばしば南からあの陣ノ岡を越え、肝付側に攻め入ってきたという。424kanoyabaraen2009_016

歴史に浸りつつ、鮮やかな余りにも鮮やかな色とりどりのバラたちの間を逍遙していると、その可憐さにはっとさせられるバラがあった。

 これは日本の作出で、作出は「京成バラ園」とあった。例によって名は覚えないのだがたしか「(何とか)の舞」であった。名なぞどうでもよい。ほのかに立ち昇るピンクが何ともいえない可憐さだ。

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ばら園をぐるっと回ってきて最後の花園にあるのが「プリンセス・かのや」。

 赤白のコントラストが愛らしく、また気品をも生んでいる。424kanoyabaraen2009_019

それでも、プリンセス――と呼ばれるのはこの花くらいまでか、今年のプリンセスはどれも花がとても大きいように思われた。424kanoyabaraen2009_018

こうなると王女様ではなくて皇后様、いやそれを通り越して皇太后様か。

 メタボリックは人間様だけではないようだ。424kanoyabaraen2009_022

今日ひと通り回って見た中で、色合い、形ともに揃った最高のバラと感じたのがこれ。ただし例によって名は覚えられなかった。

 ただ、一株だけ忘れようにも忘れられぬ名の持ち主があった。それは・・・・・424kanoyabaraen2009_021_2

「チンチン」だった。

フランスの作出だからフランス語だと思うが、何という意味だろう。

まさかおなじみのあのチンチンではあるまい。

<かのやばら祭り案内>

期間 4月25日(土)~6月7日(日)

開園 9:00~18:00

入園料 大人600円

年間パスポート 1800円(初回のみ。更新は1200円)

※期間中は特別バスなど運行される模様。また、イベントも多い。かのやばら園のサイトはここ

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大塚山公園(鹿屋市串良町大塚原)

串良町の旧役場付近から北へ2キロ、平和公園からは南東に3キロほどの所に「大塚山」がある。410kushiraheiwakouen_009

大塚山は、広大な笠野原シラス台地が肝属川支流の串良川によって抉り取られた崖っぷちにそびえる小さな丘である。

 標高は108m、台地の高さはこのあたりで60メートルはあるから、差し引き比高50mほどの丘で、頂上までは舗装された道があり、5分ほどで登ることができる。410kushiraheiwakouen_002

頂上に着くとその先には、かなり大きな石碑が3基建っている。奥の2基はよくある「開墾碑」と公園の由来碑だが、一番手前のは余り例を見ない石碑だ。

 その名を「献穀碑」といい、宮中の祭祀である「新嘗祭」の時に使用するお供物である「粟」を当地から献上した――ことを記念している。

 新嘗祭は内容的には「五穀豊穣感謝際」で、その歳に収穫された米・粟・麦などの穀物をお供えして行われる、平安時代からわが国に連綿として伝えられた祭事である。410kushiraheiwakouen_001

献穀碑の反対側を振り返ると、12,3台は停まれる駐車場越しにさらに小高い部分がある。

 駐車場からは比高5mほどで、以前は開けられていた研修棟にいたるが、途中左手に祠がある。410kushiraheiwakouen_007

410kushiraheiwakouen_006 この祠の前面に三つの神名が刻まれているが「秋葉神社」は分かるが後のは判然としない。

 秋葉さんは「火の神」であるから、ほかは「水の神」と「土の神」あるいは「木の神」「金の神」だろうか。このどれかであることは間違いないだろう。

 いずれにしてもこの大塚山がもし大都市の近くにあったら、この祠は立派な社殿にちんと収まり、老若男女の参詣ひきもきらぬ名所となっていたかと思われる。410kushiraheiwakouen_004

 頂上の研修棟には屋上があってそこまであがると、展望は素晴しい。東はこのシラス台地を串良川が抉り取った広大な水田地帯で、今まさに早期米の田植えの真っ盛りで、きれいに四角く整備された田に水が張られているのが見える。

 ここから眺めると水田とは「天然の太陽電池」ではないかと思われてくる。直接の電気エネルギーは発生しないが、太陽光による光合成で稲が実を結ぶと米になり、われわれの胃の府に収まって生命活動のエネルギーとなる。電気も何かを活動させるエネルギーである点で、結果的には全く同じ仕事をしていることになる(誰かこの理論を定式化してくれぬものか・・・)。

 閑話休題――さてこの「大塚山」。大塚と言うからには「大きな塚」すなわち「古墳」ではなかったろうか。

 古墳はその主が開いた田んぼを見下ろす小高い丘に築かれるのがほとんどだ。丘陵の尾根筋を切り取って(整形して)造るにせよ、平らな所に土を盛り上げて築くにせよ、どちらにしても古墳の主は死後いつまでも開発した田園とそこに暮らす子孫たちを見守っていたいものだ。村の「鎮守さま」もたいてい集落を見おろす小高い丘の上と決まったものだが、あれも鎮守(神社)になる以前はそのような古墳だったのではないだろうか。ひとつの方向性はあるだろう。410kushiraheiwakouen_008

頂上から引き返すと、途中に「稲荷神社」というのがある。

 道路からは比高5m弱で祠が鎮座するが、これも見立てでは古墳くさい。

 研修棟のあるマウンドが下場の水田を切り拓いたこの大塚原地区の首長の古墳。対する稲荷神社はその妻か子供の古墳としたらどうだろうか。

 現在の5万分一地図では実感できないが、明治37年発行の古い地図からは、この大塚山のすぐ下に(東に)田んぼ地帯が串良川を挟んでうねうねと広がっているのがよく分かる。420ootukayamatizu

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玉泉寺の藤(鹿屋市吾平町上名)

いま玉泉寺跡の藤が見頃を迎えている。

玉泉寺跡は吾平町の小鹿酒造工場の南東200㍍ほどのシラス崖の下、地下水がこんこんと流れ出る所に開基された「清池山・玉泉寺」の寺域の跡で、現在は公園となって開放されている。416gyokusenjinofuji_001

中福良橋付近jから望む「玉泉寺公園」。

 4月10日頃に植えられた早期米の田園の向こう、真ん中の森の中に公園がある。416gyokusenjinofuji_002

公園口を入るとすぐにうねうねと長く横に伸びた藤が目に飛び込む。

 手前は蓮の池、蓮と藤との間は花菖蒲の一群だ。416gyokusenjinofuji_004

長さ20メートルはあろうか、一房の咲き残しもない完全満開で、 ミツバチやクマバチがせわしげに飛び交っている。416gyokusenjinofuji_006

反対側の池の方から写すと、池の中にも姿を映し出ている。416gyokusenjinofuji_007

池の源は比高20メートルほどの崖の下だ。その出方はちょろちょろなどという生易しいものではない。崖下から出てくるなり、もういっぱしの渓流の音を立てて流れて来る。

 左手に見えるのは最近新設された丸太の階段で、上がっていくと玉泉寺代々の住職の墓と供養塔がある。416gyokusenjinofuji_008

墓と供養塔それにお地蔵さんが一基、都合14基の石造物が立ち並んでいる。

 墓(供養塔)といっても曹洞宗(禅宗)だから質素なもので、丸い部分(無縫塔)に飾りは全く無く、ただ示寂の年月と出家名が刻まれているだけである。

 刻字で分かる最も古いものは「寛保三年」で、これは西暦1743年にあたる。416gyokusenjinofuji_005

池の回遊橋から、寺が建っていたであろう東屋付近の丘を望む。

 玉泉寺は下野国(今の栃木県)の那須にあった「曹洞宗・泉渓寺」の末寺として、応永二年(1395)に建立されたという。

 開基は源翁(げんのう)和尚という人で、70歳の時にはるばるやって来たそうだ。どんな経緯だったかは「吾平町誌」などを見ても分からない。土地の有力者の招きだったろうとは思われるが、誰がどうだったかなどは不明である。なにせあの廃仏毀釈の嵐の中、開基以来470年に及ぶ証拠文書類の一切が灰燼に帰してしまったのだろう。

 今は「玉泉」と名付けられた湧水と、廃寺跡に残された趣のある庭園が、往時を偲ぶよすがとなるばかりである。

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串良平和公園(鹿屋市串良町)

午後から休みが取れたので、串良平和公園に行ってみた。410kushiraheiwakouen_010

桜の咲き残りを期待したのだが、ほとんどが葉桜となっていた。

 その代わりに咲き始めたのがツツジで、桜まつりの旗や提灯をを尻目に、見ごろをむかえているのが多い。

 今度の日曜日(4月12日)まで「くしら桜まつり」だが、言い替えて「ツツジまつり」としてもおかしくないほど見事だ。410kushiraheiwakouen_011

剪定の行き届いたツツジの群落の間には、旧海軍特攻隊の部隊ごとの慰霊碑が建ち、特攻に命を散らした隊員の名が刻まれている。

 その間を抜けて向こうにそびえる「慰霊塔」に行ってみる。410kushiraheiwakouen_012

平和公園のシンボルタワー「慰霊塔」。

 円墳のようなマウンドの頂上に、最上部にハトをあしらった白亜の塔が建つ。

 斜面には「平和」と刈り込まれたツツジが見事だが、ようやく咲き始めたばかり。あと十日もすると全面的に開花し、目もまばゆいほどに咲き誇るはずだ。410kushiraheiwakouen_013

塔に刻まれた「慰霊」という字は、建設時の内閣総理大臣「佐藤栄作」の文字である。

 日本人でただひとりノーベル平和賞を受けた政治家だ。

 沖縄施政権返還交渉に力を発揮し、ついにアメリカから返還をもぎとった。戦後日本ではアメリカと対等に渡り合えた数少ない政治家と言ってよい。

 昭和20年3月に沖縄への米軍上陸が始まったが、それに打撃を与えるべくアメリカ艦船への体当たり(特攻)を実施するために各地から集められた勇士のうち、360余名が帰らぬ人となった。その名が慰霊塔の基台部分にぐるりと刻み込まれている。

 大隅半島から特攻して散華した隊は、霧島市・曽於市・志布志市・鹿屋市・垂水市とほぼ全域にわたり、帰らぬ人となった隊員が飛び立った基地のある市町村では、鹿屋と旧串良町をあわせた1200余名というのが圧倒的に多い数字だ。知覧の陸軍航空隊基地からの900余名より多いにもかかわらず、あちらほど有名でないのは、ひとえに県都・鹿児島市から遠いからだろう。観光ツアーの対象から外れるほかなかったのは致し方ない。

 もっとも特攻隊員に「有名だ、無名だ」などと言うのは失礼かもしれない。「どっちでもいいさ、日本が平和であるのなら・・・」という隊員の声が聞こえてきそうだ。

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田んぼ二景(鹿屋市寿8丁目・同名貫町)

早期米は鹿屋市吾平町が有名だが、こんなところでも作っている。408tauenoato_001

鹿屋市寿といえば、鹿屋市の笠野原台地上では繁華街の代名詞だが、その8丁目の道路際に結構な広さの田んぼがある。

 今日植えたばかりで、手前には田植え機が道路から出入りした轍が生々しく残っている。

 広さは推定だが40m×30mで1200平方メートル、坪数では360坪ほどだろうか。

 笠野原台地の上の標高60メートルくらいのここに水が引かれたのは、昭和42年に串良川上流の高隈町に「高隈ダム」が完成してからだから、この田んぼは新田中の新田だ。

 ここはそれまではサツマイモや麦、ナタネなどの畑作物しか作付けができなかったシラスの台地で、下場の串良川流域や肝属川流域が米の大きな産出を誇っていたのに比べ、価格の安い畑作物からの脱皮を何とか図りたい――という台地農民の悲願がやっと実ったのである。

 ところが皮肉なことに、そのころから全国的に米余りが続くようになり、ついには「減反」政策が始まってしまった。笠野原台地農業の方針転換の先が、生産性の高いお茶や酪農・畜産であった。それはそれで進展し、大規模農家がどんどん生まれてきたが、上の田のように小さな土地はその方針転換から取り残されて行った。408tauenoato_002

(すぐそばには住宅が迫り、アパートもある)

地主が、せっかくの導水を利用しない手はあるまい―と考えたのか、せめて自分の米ぐらいは作りたい―と考えたのか、あるいはそのどちらもかは憶測しかねるが、このあたりの土地は仮に売買が成立したとしたら最低でも「坪7~8万」だろうから、この田んぼは時価相場で3000万近い資産価値がある。

 つまり3000万の土地で、白米にして約400キロ、販売価格約16万の品物を年に一回だけ作っている――という勘定になる。土地生産性からいうと愚の骨頂という訳だが「自分だけのオリジナル米を作り、自分だけ(と家族や親類)が味わう」というのは、もしかしたら究極の「貴族的趣味の園芸」かもしれない。

 ため息をつきながらシラス(笠野原)台地を下り、帰宅途中、昔から豊富な「名貫湧水」で知られる「名貫川」沿いに行ってみた。まだ全体と言うわけではないが、そこここに早期米が植えられている。408tauenoato_004

右手に写る名貫川の土手は真っ直ぐに改良され、両側の田んぼもそれに合わせて基盤整備はされているが、なにせ狭い河谷ゆえ規模拡大も制限され、昔ながらの田んぼの風景が展開している。

 たぶん、販売するというより自家消費用の米作りではないだろうか。408tauenoato_003

やはりまだ田植え機の轍のあとが生々しい。おそらく昨日の田植えだったろう。

 今年の田植えは例年より10日くらい遅れているが、あと4ヶ月、八月の旧盆の前には刈り入れとなる。

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クス若葉は紅葉?(鹿屋市横山町)

今朝はえらく冷え込んだ。午前六時半、いつものように負荷付きのラジオ体操をしようと庭に出るとき、玄関口の温度計を見たら1.5度。庭には至極うすいが霜が降りていた。大寒ッ!!

それでも風は無いので日が昇るとどんどん温かくなった。横山町にある最寄りの郵便局に自転車で行く途中、畑の向こうの高隅山が春霞に全容を見せているのを写すと・・・402kusuwakaba_010

春なのに紅葉が見える。

 正体はクスなのであった。近づくとクスの森・・・というより林が畑の中に古墳か浮島のように茂っている。402kusuwakaba_001

土地の主が園芸用か街路樹用に売ろうとして植えておいたのだろうが、もう売ろうにも大きくなり過ぎているようだ。

 こんなタイプのクスの林は横山町ではよく見かける(笠野原台地の方にも多い)。

 植えた主の思惑をよそにクスはすくすくと育った(笑)。402kusuwakaba_005

道路際のクスが最も「紅葉」していた。

 「黄葉」しているのもある。402kusuwakaba_006

正体はクスの新葉だが、こちらの赤はアカメガシワの血の様な紅色ではなく、抑えたパステルカラーの赤色で、結構、品のよい色合いだ。

 少し日が経つと、下の葉のように黄色味を帯びてくるので、まるで「黄葉」。

 ひとり二役、あたかも秋の紅葉・黄葉の極く少ない南国人へのプレゼントの如し。402kusuwakaba_007

横山町の里山(頂上の平坦地には、ばら園がある)「霧島が丘」の山腹にも、杉や椎などの常緑樹に混じって、クスの若葉が燃え立って見えるようになって来ている。

 杉もクスも『書紀』の神話によれば、高天原で狼藉を働き、追放されたスサノヲノミコトが「韓郷之嶋」に渡る際に無くては困るからと作らせた「浮宝(うきたから=船)」の材料の木だ(「一書の五」による)。

南九州に圧倒的に多いのがこのクスであり、杉も屋久島をはじめ巨木・古木が多い。スサノヲはどうもやはり南九州と関係が深いように思える。

 『後漢書』安帝紀に見える「帥升(ソッショウ)」は倭語の「そつしお」で、意味を漢字化して表すと「曽津之男」、つまり「曽の王者」であり、私見ではこれがわがスサノヲのことではないか――と考えるのだが、如何?

 閑話休題・・・・・今年は春一番までの厳寒と、春一番から一ヶ月近くの暖冬、そして3月半ばからの冷え込みで、早春の花は遅れて咲き、陽春の花や若葉は早まっているので、早春と陽春がごちゃ混ぜになっている感じがする。

 同じ横山町の街中では、ソメイヨシノが満開を過ぎてもなかなか散らずに残り、一方ではもう八重桜が満開になった。402kusuwakaba_008

また、いつもは4月半ばくらいから咲き始め、ゴールデンウィークの直前ごろに満開になる大ぶりのツツジが、鮮やかな花を見せている。402kusuwakaba_009

これだと、あと4、5日で来る小中学校の入学式の時、児童・生徒たちは咲き残ったソメイヨシノと満開の八重桜、それに見ごたえのある鮮やかなツツジの群れに迎えられるだろう。結構なことである。

 

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桜咲く(鹿屋市中央公園=新生町・向江町)

一昨日の昼時に鹿屋の市役所に近い中央公園を歩くと、桜がほぼ満開であった。325sakurachuuoukouen_012

やや肌寒くなってきたせいか、その二日前に見たときは人がちらほら来ていたのだが、一昨日は全くいなかった。

 いきなり6、7度も気温が下がったためだろう。325sakurachuuoukouen_013

鹿屋市中央公園は東を肝属川に、西を下谷川で挟まれた舌状台地で(標高30~50m)、先端は両川の合流点に向かって先細りになり、市役所(旧大隅線鹿屋駅)を過ぎたあたりで低地となり消滅する。325sakurachuuoukouen_001

西の高台(シラス台地)にある市営「八ッ尾墓地」から見た中央公園舌状台地。

 真ん中に見える建物が公園内にある武道館。その右の白いのが体育館。

 武道館の左手に照葉樹林帯(舌状台地の西のへりを縁どっている)が高隈山系の南麓のシラス台地へと続くのが見て取れる。

墓のある台地と中央公園舌状台地の間には「下谷川」が流れ、その谷あいには新生町の住宅街が写真上方へと展開している。325sakurachuuoukouen_007

市営・八ッ尾墓地からその下谷川に下り、両台地を結ぶ道路に架かる「曽原(そはら)橋」の上から中央公園の台地を見る。

 台地へは信号を過ぎて真っ直ぐ登っていく。

「曽原」とは新生町内の小字名だが、「曽」に注目しなければならない。「曽の国」の「曽」であるとしてよい。と言うのも、実はここから台地に上がり、そのまま台地を横切って下りた所には肝属川沿いに「曽田」という小字があるのだ(町名は白崎町)。

 つまりこの中央公園舌状台地は、小字ではあるが、西を「曽原」、東を「曽田」という「曽」地名に囲まれているのである。「曽」は「熊曽(くまそ)」の「曽」であり、「熊曽国」は広く古代南九州をカバーした国名であるから、その中心地のひとつ「鹿屋(カヤ)」のさらにまた中心地がこの「曽」に囲まれた地域だったろう。

 中央公園舌状台地は、二本の川に挟まれた熊曽国の一つの中心「鹿屋(カヤ)」の聖地だった可能性が高い。325sakurachuuoukouen_008

信号から台地へ上がっていくと、平坦になった先に 鳥居と満開の桜が見える。

 鳥居の奥は熊野神社だ。325sakurachuuoukouen_014

参道の奥に鎮座する熊野神社。熊野神社の本宮は和歌山である。

 祭神は「イザナギ、イザナミ、コトシロヌシ」だそうで、コトシロヌシはオオクニヌシの兄弟で親はあのスサノヲとされる。つまり出雲系でもある。

 和歌山にしても出雲にしても共に南九州とは「黒潮とその分流」でつながっている、ということも視野に入れておかないといけない。

さて、この熊野神社。創設の年代は不明だが、伴姓(肝付氏流)の鹿屋兼言の応永35年(1428)の建造棟札と、肝付兼続(かねつぐ=高山本家15代)の永禄6年(1563)の棟札があったとされるから、少なくとも580年前にはあったことになる。

現在の社殿はコンクリート製で、最近塗装しなおして明るくなった。社殿の左手に大きな木が柵に囲まれているのが見えるが、あれは「イヌマキ(ひとつば)」の大木で、県下でも最大級だろうと言う。325sakurachuuoukouen_015

根回り8メートル、高さは25メートルあり、根っ子近くの幹は、太い筋肉がむき出したようになっていて見ごたえ十分だ。

 これで樹齢300年だそうだが、本当にそんなものかと疑わせるほど迫力がある。325sakurachuuoukouen_010

熊野神社を出て、武道館前を通過すると「護国神社」がある。こちらはもちろん明治以降の創立である。

 社殿はやはりコンクリート製だが、鳥居は赤く塗られていない。

 (今日のブログの最初の写真は、護国神社の奥にある芝生広場で撮った桜)325sakurachuuoukouen_011

護国神社に向かって右手の道路際には「秋葉神社」がつつましく建っている。

 これは「火除け」の神様で、愛宕神社と同じくたいていは見晴らしの良い台地上にあるが、これも立地条件に適っているからおそらくは江戸時代からのものだろう。

 道路の先は下り坂で、鹿屋の中心部「北田、向江」につながるが、今日は秋葉神社と道路を挟んだ反対側にある急坂を下る(初めは階段になっている)。こっちの方が古くからの道なのである。325sakurachuuoukouen_004

下りきった所にある「安養寺」。

 曹洞宗・池上山・安養寺は慶長2年(1597)に、当地の領主となった島津久信によって建立された。

 久信は元垂水島津家当主だったが、肝付氏が滅亡したあとに代官として入部した島津一門の伊集院忠棟が、都城に栄転したあとを襲い入ってきた。

 だが、精神に異状をきたして肝属川上流の祓川に永蟄居させられ、そこで空しくなった人物である。その後鹿屋には島津氏腹臣の平田・伊地知・野田の三氏がはいって統治することになった。

 武士の信仰厚かったこの安養寺も、明治維新後の廃仏毀釈で灰燼に帰している。325sakurachuuoukouen_005

安養寺の隣りには鹿屋幼稚園があり、幼稚園の正門の奥の方に「八坂神社」が鎮座する。

 ここは鹿屋の六月灯の皮切りの神社で、鹿児島弁で言う「おぎおん(祇園)さあ」だ。

 八坂神社は「午頭(ゴヅ)天王」こと「スサノヲノミコト」を祭っている。

 「午頭天王」は「朝鮮半島由来の神で、さらに「祇園」は「シオン」であるから、八坂神社こと「祇園社」は朝鮮半島経由のユダヤ系の神を祭っている――などという「トンでも説」を唱える研究者のいる「おぎおんさあ」でもある。

 だがさっき指摘したように、公園台地上にスサノヲの子を祭る「熊野神社」つまり「黒潮つながりの紀伊と出雲」の元締めのような存在があったことを考慮すると、この八坂神社は同じく紀伊にも出雲にも縁を持つスサノヲを祭っているわけだから、その首尾は一貫している。

 これらを祭っていたのが南九州の熊曽こと隼人の前身である航海民「鴨族」であったろう。コトシロヌシは琉球国一ノ宮といわれる「波の上宮」の祭神「事解男(ことさかお)」と同じで、スサノヲの子孫でもっとも航海民性が強い。

 その西を「曽原」とし、その東を「曽田」として鹿屋中央公園舌状台地を聖地としてあがめていた「曽人(そびと)」は、鴨族としては朝鮮半島まで往来するほどの航海民でその首長「カモタケツヌミ」(京都・下鴨神社の祭神)は船団を率いて、いわゆる「神武東征」の以前に大和入りしている(『山城国風土記』)。

 (私見では次の「神武東征」の主は、魏志倭人伝に載る「投馬(そつま)国」の王「ミミ」であり、記紀の記す「タギシミミ」がまさにその本人であると考えている。詳しくは自著『邪馬台国真論』に記してある)

 日本の春の象徴である桜を観賞するだけのはずが、「とんでもない所まで」行ってしまった――。だが、春の戯れ言と思ってもらっては困る・・・。

 

 

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肝属川とカモ

2月がバカ陽気で、3月に入ってからはやや平年並みに推移している気温も、このところ寒の戻りで肌寒い。今朝は庭に軽い霜が降りていた。

 昨日は、花粉症対策(?)で、久しぶりに高山温泉「やぶさめの湯」へ行ってみた。ただし温泉だけ入りに10キロ余りの道中はもったいないので、途中寄り道をして肝属川べりを探ってみた。

 カモをはじめとする冬鳥がまだいるかどうか、見ておきたかったのである。

 我が家から一番近い肝属川で水鳥が見られるポイントといえば、吾平町を流れる姶良川と肝属川との合流点「流合橋」のあたりで、行ってみると、いた、いた、まずは姶良川側の笹竹の叢林の下が、一群の集合場所のようだ。314kamo_004

その距離6~70メートルくらいに近づき、デジカメでは目いっぱいの4倍ズームにして撮ろうと構えると、カモは用心深いのか、目がいいのか、危険を感じて飛び立ち始めた。

この川面で、おそらく200羽は群れを成していたと思う。314kamo_007

同じ場所から見て対岸の藪の下を泳いでいたのは、カモよりひとまわり大きいクロガモ(?)。真っ黒な全身にくちばしだけが明るい黄色だ。

 近くにはカモの夫婦らしいのが餌を探している。この夫婦カモはクロガモの護衛(?)がついているので逃げようとしない。314kamo_015

流合橋の下流100メートルほどの対岸のケンチブロックの斜面には、カモの大群が日向ぼっこしていた。

 斜面の100㍍以上にわたって、その数300羽は居るのではないだろうか。

 カモとりごんべいならずとも、投網で一網打尽にしたら面白かろうと思ったが、許されるはずもなく、デジカメで「カモ撮り」。314kamo_027

次に高山川と肝属川の合流地点に下ってみたが、そこには見当たらなかったので、最下流の肝属川河口近くまで下る。

 土手から秀麗な「権現山」と「第二有明橋」とを望むが、いま海は引き潮らしく川の中に砂州が浮き出ているのが見える。

 カモの群れは、そこに居た。314kamo_024

うっすらと水に覆われた砂州の砂の中に首を突っ込んでは餌をあさっている。

しばらく見ていると、時おり何羽ずつかが羽根を広げてパタパタ動かすしぐさを繰り返す。そろそろ遠い北国へ帰るためのウォーミングアップだろうか。

 カモは朝鮮半島経由でさらに北の満州・沿海州方面に行き、春夏を過ごしつつ繁殖したあと、家族と共に再び日本列島を越冬地としてやって来る。

 このカモの習性と、水に浮かんですいすい泳ぎ回る能力になぞらえたのが「航海民」の姿で、鹿児島はもとより熊本・長崎・九州北岸に多数蝟集し、九州島と半島とを往来していた。これを「鴨族」といい、「鹿児島」は「鴨島」つまり「朝鮮半島までを交易圏としていた鴨族の本貫の地」ということから名付けられた、とみる。314kamo_028

肝属川河口に北から流れ入る「汐入川」にも葦の茂る10㍍余りの川幅いっぱいに、カモの群れが羽を休めていた。こういう群れ毎に一団となり、北帰行を開始するのだろう。

 カモが満州方面への2000キロ近い長旅を間違えずに行き着くその能力は、一体何に拠るものか。地磁気センサーが脳内に組み込まれているから、というようなもっともらしい説明がなされるが、やはりしたたかな「眼力」ではないかと自分なんかは思う。そうでなければ、突発的な敵の襲来や天候の激変に対応はできないに違いない。 314kamo_030

神武東征の出発地とされる柏原から、対岸に渡る「第一有明橋」の下に、さっき姶良川では二、三羽しか見なかったクロガモが10羽ほど泳いでいた。314kamo_038_3

第一有明橋から中州島に渡り、さらに300m近くある第二有明橋を渡ると旧高山町の波見地区だ。

 その岸辺近くの中州にはカモメの一群が寝そべっていた。どうやら午後の昼寝らしい。

こちらは留鳥で、人間様には馴れているようで、かなり近づいても飛び立つ気配はない。

 向こうに見える土手など鴨族が蝟集していた頃にはなく、一面の潟(ラグーン)であった。また、こちら側の権現山を最西端とする肝属山地はクスや杉の一大宝庫で、鴨族が必要とする船材はふんだんにあり、しかも船工場として使用する入り江のすぐ間近に迫って生えていた。航海民たる鴨族にとってこんなに便利な所はない。おまけに北から延びる柏原砂丘が巨大な砂嘴となってこのラグーンの防潮・防波堤の役割を果たしていてくれた。

 神武東征の大船団がここで編まれたとしても、そう奇異なことではないと思われるが、如何ぞや。

 

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岩ツツジ(鹿屋市萩塚町にて)

鹿屋市の南部、野里―西俣線(鹿屋市環状道路)が、大姶良川に向かって下降して行く手前の台地に萩塚町が展開する。

通りすがりの人家の庭からは、今ちょうど満開に近い岩ツツジの明るいレンゲ色の花が顔を見せている。306iwatsutsuji_008

よく刈り込まれた庭園樹(多くはイヌマキでビャクシンなども見える)のまだ新葉を出していない暗いみどり色の中に、思い切ってそこだけ明るい。

 思わず足を止めたくなる。306iwatsutsuji_012

岩ツツジ、別名はミツバツツジで、南九州以外ではふつう4月中旬ごろに咲く。

 南九州のこのミツバツツジは一亜種「ハヤトミツバツツジ」と命名され、平地の早い所では2月の半ばくらいから花を咲かせる。

306iwatsutsuji_006

とある花壇の中のミツバツツジの前と横には、大小の石をあしらっていた。

 原産地の山中の岩場の雰囲気を模したものだろう。306iwatsutsuji_011

ある家の庭の奥には、この辺りでは最大と思われる岩ツツジが満開だった。

 高さ2メートル50センチくらい。上へ行くほど花数が多いのは見事だ。306iwatsutsuji_013

萩塚町は笠野原の壺屋の分かれ、すなわち文禄の役(1592年~3年)の時に島津義弘が朝鮮半島から連れ帰った朝鮮人陶工の分住の地で、彼らの尊崇した「玉山神社」がここにも祭られている。

 そのお宮ならもっと大きな岩ツツジでもありはせぬかと行ってみた。

 残念ながら岩ツツジは植栽されてなく、その代わりに高さ・幅共に7、8メートルはありそうな大きな石鳥居の前の桜が1~2分咲きであった。306iwatsutsuji_015

拝殿まで上がっていくと、たまたま宮司さんが所用で来ているところだった。306iwatsutsuji_016

挨拶をして中を覗くと、何と木製の牛車がある。

――お田植え祭があったのですね。

「いやいや、もうだいぶ前からやっていないのですよ。なにしろ人がいないので」

――そうですか。もったいないですね。

「ええ、何とか復活したいと考えてますが、そもそもお宮は荒れ放題だったんです。拝殿のサッシの窓枠や網戸なんか、私の祖母の家のお古を再利用しています。拝殿の周りの板壁も、30万かけて私が一人で塗り直しました」

 そういえばぐるりの板壁はまだ赤味が生々しく目に映る。

 鹿児島以外の神社ではこのように真っ赤に塗るのは「毒々しい。清々しさがない」として採用しないが、古来の熊襲・隼人といわれる南九州人は赤(というより朱・紅)には霊力が宿り、悪しき霊を寄り付かせない力があると信じていたようで、その証拠が石棺の内部に塗る朱の存在だ。

 他所から来た私にも、当初はなかなか馴染めない風習だったが、少なくとも古墳時代からはある習俗――として容認できるようになった。

 さて、宮司は河野さんといったが、「少しずつ、皆に呼びかけて、何とかしたい」そうである。頑張ってほしいものだ。

 玉山神社の祭神はというと、朝鮮開闢の始祖「檀君(ダンクン)」で、明治時代になってからは「スサノヲノミコト」という事になった(日本書紀に、スサノヲノミコトは子のイソタケルと共に韓国=からくに、に渡り・・・云々――と書かれている)。

 また、三国史記の「新羅本紀」によれば、新羅始祖・赫居世の重臣は倭人であり、同じく4代目は倭国の「多婆那国」の出身ということになっている。案外、史実を語っていると言えるのではあるまいか。

 

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日木山の宝塔(姶良郡加治木町里)

国指定史跡「南浦文之の墓」のある安国寺から東へ直線にして1キロほどの所には、県指定史跡「日木山宝塔」がある。

県道<栗野・加治木線>が九州道と隼人道路の高架をくぐってから約300m、左手に加治木工業高校があるが、その手前の信号を左折し、工業高の裏手を目指すと日木山川に架かる橋を渡る。渡るとすぐ右折し(案内板あり)、約100メートル先のТ字路を左折(案内板あり)。200メートルも行くと前方に石塔が見えてくる。215hatuumasaitohikiyama_040

そばまで行くと、その大きさには驚かされる。

 台座の上の部分だけで150センチはあるだろう。どちらも重さ500キロは下らないのではないだろうか。215hatuumasaitohikiyama_038

大きさも大きいが、古さも古い。

 かっては読み取れていたと言うが、現在は薄れてよく分からなくなっている年号は「仁治3年(1242)」と「寛元元年(1243)」である。

 これだけ古い宝塔は鹿児島では2番目、九州全体でも6番目だそうだ

 地元の伝承ではこれを「ウバカサア」と言っている。「ウバカ」とは「大墓」のことである。

 以前は「供養塔」だとされていたが、丸い部分から遺骨が発見されたことから墓であることが確実となった(宝塔に並んで石柱が立っているが「昭和六年・改修」と彫り込まれている。この時のことだろう)。

 では誰の墓かと言うと、決定打はないが、当地を古くから治めていた「加治木氏」のもので、その主は八代・加治木親平夫婦か、その甥である木田信経夫婦のものとされている。

 加治木氏は大蔵姓であり、大蔵姓は応神天皇に仕えていた帰化人「阿知使主(あちのおみ)」の後裔である。阿知使主は後漢の霊帝(168年~188年)の三世孫であるという(『新撰姓氏録』)。漢文文書に詳しい大蔵氏はおそらく太宰府か鹿児島神宮の事務官僚で、加治木に所領を持ち、土着したのであろう215hatuumasaitohikiyama_041

ただし、明応年間(1492~1500)に島津氏との戦いに敗れ、薩摩半島西部の阿多地方(現在の金峰町)に移封されている。

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南浦文之の墓(加治木町城)

加治木町営温泉「龍門ノ滝温泉」から網掛川沿いを下り、橋のある所を左折して約400メートルほど行くと、道の左に上水道用と思われるカラフルなおおきなタンクが見えるからその手前の細い道を左折し、人家の間をうねうねと200メートルで「安国寺」に行き着く。215hatuumasaitohikiyama_048

この寺の墓地に、戦国期にこの寺の住職だった「南浦文之(なんぽぶんし)和尚」の墓がある。

 宗旨は臨済宗であり、今日でも座禅会が行われている。215hatuumasaitohikiyama_045

立派な追悼碑の斜め奥にブロック状の切石で囲まれた、禅宗ではよく見られる僧侶の円柱の墓塔が文之和尚の墓である。

 昭和11年に国指定の史跡になったが、こんなこじんまりとした墓が指定になったわけは、やはり文之和尚の文化的業績の大きさの故だろう。

 文之和尚は弘治元年(1555)日向飫肥南郷の生まれで、13歳で出家の後、修行を積んだあと、特に朱子学に優れ、有名な和訓訓読法「文之点(ぶんしてん)」を発明した。

 朱子学と言えば戦国期以降の武士のたしなみ、とりわけ為政者の政道の中心的な教義でもあったから、朱子学に明るい文之は当時の島津氏3代(義久・義弘・家久)にわたって重用された。加治木のこの安国寺の住職になったのも、島津義弘の招聘による。215hatuumasaitohikiyama_043

示寂(逝去)は江戸時代に入ってからの元和6年(1620)、66歳であった。

 文之墓以下の墓群は大きな杉の木の下。

 また、裏山は急峻な崖で、比高90メートルほどの崖の上には「加治木城」があった。

 龍門ノ滝のある網掛川と、東を流れる日木山川とに挟まれた難攻不落、絶好の丘の上である。

 加治木は加治木氏、伊地知氏、肝付氏(高山本家12代兼連からの分流)と治世が続き、戦国末期に島津氏が抑えて江戸期を迎えている。一国一城制のもと、加治木城も廃城となった。

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龍門ノ滝と竜門司坂(姶良郡加治木町)

2月15日の鹿児島神宮初午祭の帰り、少し足を伸ばして加治木町の町営「加治木温泉(龍門滝温泉)」に入りに行った。24,5年前に一度来たきりでようやくの再来となった。

 国分からは国道10号線でJR日豊線・加治木駅入り口の信号から二つ目を右折する。これが県道加治木・栗野線で、直進2キロ強で高速道の高架を二つくぐってすぐの信号を左折。1キロちょっとで「網掛川」にぶつかるから、橋を渡らずに右折して川沿いに500メートル先が目指す温泉だ。215hatuumasaitohikiyama_051

網掛川に架かる「龍泉橋」から望む加治木温泉。泉質は塩素系のナトリウム泉で「リュウマチ・神経痛」に良いとある。

 2キロほど先の泉源から引いているが、沸かしではない。53度もあるという。ただ、途中で冷えて来るのはやむを得ず、厳寒の時期は「湯がぬるい」と来客から苦情を言われることもあるという。

 しかし川のすぐ奥に日本の滝百選に選ばれた「龍門ノ滝」という名勝を控えた天然温泉の入湯料がわずか250円はないだろう。文句は言えまい。

 それより驚いたのが、温泉の構造だ。2階建ての一階が男湯、二階が女湯なのである。どちらの湯船からも、向こう奥の滝つぼに落ちる滝の一部を見せるというのがその理由らしい。けっして「加治木町は女上位だから」と言うわけではないようだ。215hatuumasaitohikiyama_050

入浴後、火照った体を冷やしがてら、玄関口とは反対の展望台に行き、滝の全容を目にする。

 高さ46メートル、幅43メートルという堂々たるものだ。ただし水量がさほど多くないので迫力が欠けているのは否めない。

 「布引の滝」などという繊細な滝が全国的に多くあるが、その布引の滝を三つ四つ合わせた規模の滝と思えばよい。215hatuumasaitohikiyama_052

温泉の内部の壁に地図が貼ってあり、見ると「竜門司(たつもんじ)坂」のことが書いてある。

 平成18年に同じ姶良郡内にある「白銀坂しろかねざか)」とともに江戸期の古道を異存しているとして、国指定の文化財になったという。

 温泉からは500メートルとあったので行ってみる事にした。道なりに北西を目指すと、「高井田バス亭」の所に看板が見えた。

 三叉路の真ん中が竜門司坂だ。少し登ってみる。215hatuumasaitohikiyama_053

幅は平均して4メートルというところか、大小さまざまな平らな石が敷き詰めてある。たぶんさっきの網掛川で採取した砂岩だろう。

 今日から見れば「なんだでこぼこじゃないか」というような道だが、当時としては先端的な道だった。215hatuumasaitohikiyama_055

右カーブの谷側の低くなっている部分には、かなりの厚さで石が積み上げられている(1メートル近い)。

 これなど重機のない時代、大変な労力を要したろうと思われる。それが300年以上もびくともしないでいるのは、当時の技術がいかに優れていたかを示すものだろう。215hatuumasaitohikiyama_054

竜門司坂の途中から望む加治木平野。

 小さな山の麓には、鹿児島神宮初午祭で御神馬を最初に奉納する木田地区がある。

 また、その延長線上6キロほどの所に、竜門司坂とともに国指定となった重富の「白銀坂」入り口がある。「白銀坂」を登って行くと吉野台地から鹿児島城下へ、この竜門司坂を登ると溝辺台地から栗野を経て人吉方面へつながる当時の幹線道路であった。

 

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ミュージカル『ヒメとヒコ』(鹿屋市リナシティホール)

2月14日バレンタインデー、鹿屋市リナシティで高校生による『ヒメとヒコ』というミュージカルが開催され、見に行く機会があった。

「素晴しい」のひとことだった。214himetohiko_001

どうせ高校生のやることだから――と高を括って見に行ったのが恥ずかしかった。

 予想の3倍は面白かった。

 生演奏も、舞踏も、台詞も、そして照明も、堂に行っていた。

 作・演出の松永太郎氏は鹿屋高校出身。生演奏の唄者兼ギタリストでもあった。214himetohiko_003

 鹿屋女子高、志布志高、国分中央高校の合計50名近い出演者たちは、半年以上の訓練を経て舞台に上がっているという。

 大隅の古墳の主も喜んだであろう見事なミュージカルに仕上がっていた。

 仕事場の関係で2000円也の前売り券を買った(買わされた)のだが、6000円分楽しめたな。

 フィナーレの挨拶で、松永太郎氏は

 「大隅発の大隅でしか作れないこのミュージカルを、大隅回帰・見直し・発展につなげていきたいと思います」

 などと言っていた。次回、さらなる進化を楽しみにしたい。

 

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この木なんの木、気になる木(鹿屋市田崎町にて)

いま満開を迎えている梅を写しに出かけたところ、不思議な木に出会った。205hikaruhatoume_027

鹿屋市の田崎町から下堀町へ抜ける道路沿いを走っていると、凝灰岩製の赤い塀越しに満開に近い梅が目に入った。

 隣りにはサザンカもまだ白い花を残している。対比が面白いので写したのだが、その向こうに何だこれは、という形のまん丸い不可思議な木が見える。205hikaruhatoume_028

近寄って写したのがこれ。

 万歳をした裸の人間が、巨大な丸い物を頭の上に載せているようにも見える。

 よく見れば、ヒトツバの木だった(手前の生垣もヒトツバ製である)。

 ヒトツバは鹿児島独特の命名で、イヌマキのことだ。イヌマキはもちろん槙の一種だが、本槙とされるコウヤマキに対して、それより劣るもの(亜流のもの)という意味で「イヌ」が冠せられたという。言わば「差別用語」。

 もっとも本槙(コウヤマキ)は、記紀のスサノヲノ命の段によればスサノヲによって「棺おけに良い」とされた木であるあるから、今日風に考えれば「縁起でもない木」だろう。

 だが、本来、人生最期に身を入れる棺おけは「聖なる物」であったから、「縁起の悪い木」ではない。

 話が少しそれたが、このおそらく百年は経とうという木がかくも見事に刈り込まれるには、少なくとも50年はかかっているのではあるまいか。何とも気の長い話ではある。205hikaruhatoume_029

鹿児島では、庭園樹としては普通このように刈り込まれる。

 ヒトツバが一番利用されるのは防風林としての垣根である。この木は風にめっぽう強く、台風銀座鹿児島にはなくてはならない存在となっている。

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照葉樹・常緑樹(鹿屋市東原町で)

鹿屋市の北半分は笠野原台地が大部を占めている。

名高いシラス台地だが、台地上の道路はどれも真っ直ぐで、北部から南部に位置する鹿屋市街地まで、最長で12キロの直線道路が走っている。

よく晴れた今日(2月5日)の午後、直線道路の一つ「水道線」を走っていると、道路沿いの生垣がやけに明るい。205hikaruhatoume_003 単調な走りで眠くなりそうなのを覚ましてくれる明るさだ。

ちょうど午後の太陽光が、生垣の葉に反射してこちらに照り返している。205hikaruhatoume_002

まるでイルミネーションだが、近くで見ると2種類の照葉樹で、手前のはおなじみの「サザンカ」だった。

 むこうのも照葉樹には違いないのだが、名前は分からない。205hikaruhatoume_005

一本東寄りの直線道路では、瀟洒な生垣の一部がてかてかと光り輝いていた。

 これは椿のたぐいだろう。石灯籠と明暗を分けているようで面白い。

 庭の内部に通じる道があったので、単車を停めて入ってみた。205hikaruhatoume_007

広い庭で、道路から20㍍もある先の植え込みに、白梅と紅梅が5~6部咲きで見事なものだ。どちらも高さは8㍍くらいの結構な古木だ。

 おまけにその間にはミカンの木もある。下の方は既にもいだのだろう、天辺に近い部分にだけたくさん実が残っている。

 剪定が行き届いていないのだろうか、野生化しているような樹勢だ。

 昔、垂仁天皇の時代、但馬出身のタジマモリが常世国に渡り、苦節十余年の末についに「トキジクノカグノ木の実」を手に入れて、天皇に献上しようとして帰還したが、肝心の天皇はもう亡くなっていた。それでタジマモリは天皇の御陵の前で「おらび泣きして自死した」という伝承があるが、その手に入れた「トキジクノカグ(常に光り輝いている)」の木の実こそが、ミカン・橘のたぐいだと言われている。

 1700年ほどして、こんな風に野生化するまで日本で繁殖していようとは、タジマモリもびっくりだろう。205hikaruhatoume_011思えば、ミカンも常緑樹で、照葉樹とともに冬でも太陽さえ出れば「光合成」を行い、われわれに酸素を供給してくれる。

 実も有り難いが、常緑樹・照葉樹のそういう能力は、われわれを裨益すること甚大ではなかろうか。

納屋の柱ごとに繋がれた3匹の茶色系の犬たちが、「怪しい奴め」とばかり吼えていた。

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高隈連山を望む(鹿屋市川東町)

ブルっと冷え込んだ今朝。県内は軒並み零下を記録。この冬一番の寒さだったそうだ。

午前七時の我が家の玄関口で氷点下2.5℃、は確かに厳しい。昨日よりさらに1度下がっている。

 昨日から見学に行っている肝属郡錦江町池田の「旗山神社」の正月神事「柴祭り」の帰りに、肝属川の土手を走ってみると、清澄そのものの大気の中に、高隈連山が余す所なくその全容を見せていた。103hatayamajinja_016

鹿屋市川東と川西の間を結ぶ「大正橋」の上からは、高隈山が山岳信仰のメッカだった頃に登る対象とされた「高隈七岳」のすべてを見ることができる。(川は肝属川)

 向かって左から横岳、平岳、二こぶの双子岳、小さくとんがっている妻岳、そして名峰・御岳(権現岳)。

 右手へ下ってまた登りかかる所にあるコノガラ岳、最後の右端のピークが最高峰のオオノガラ岳。

 これらはすべて千メートルを超える山々で、最高峰はオオノガラ岳の1246mだが、山岳信仰時代の盟主は御岳(権現岳=1182m)だ。

 ところで連山の名の「高隈」。

 使われれる漢字の「隈」が「くぐもった様子。屈曲のある蔭の部分」の意味であることから、王化に浴さぬ「クマソ」の「クマ」のイメージとダブらせて解釈する向きが多いのだが、どう見てもこの連山は蔭にあるようには見えず、それどころか明々白々、堂々と空に突き出ているのであるから、そうは言えまい。

 私見では「隈」は「熊」であり、「熊」は本来「火を能くする、火の盛んな」であるから、「タカクマ」は漢字を当てるならば「高熊山」が正解で、その意義は「おおいに火=日=霊の盛んな山」である。

 ついでに「熊襲」も言っておくと、「熊」は「隈」でもなんでもなく、上で述べたように「火の盛んな」の意味であり、「熊襲」とは「火の盛んな(性格を持つ、またそのような火山地帯に住む)襲人」のことであり、大カルデラ火山を4つも5つもその領域に持ち、火の洗礼を物ともせずにたくましく生きる南九州人の、むしろ尊称(自称)とも言える名称なのである。

 同じ南九州人を後世「隼人」と名称換えするが、記紀の天孫降臨説話で「隼人の祖はホスセリ(ホデリ)」と記されるのは共に「火が盛ん」の意味であるから、まさに「熊」の原義に適っている。このことをよくよく考えなければなるまい。

 

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謎の地名「中福良」考

鹿屋市吾平町を流れる「姶良川」の中流、吾平町麓地区の上手に「中福良地区」がある。今そこでは大規模な水田基盤整備事業が行われている。1228ogawanotakitonakafukura_009

水田の高低を均し、水利が得やすいようにする事業で、農閑期の冬場にはよく見られる事業である。

 写真は中福良地区のもっとも上流側(南側)から写したものだが、水田の床土からすくい上げられた土の山がたくさん見えている。

 よく見るとさらさらとした砂地のようで、昔は川がこの辺りを流れていたのかもしれない。1228ogawanotakitonakafukura_015

この写真は同じ中福良地区を、東にある「玉泉寺公園」の近くから撮ったもの。

 後ろのうっそうと茂った木立のある丘ではなく、手前のなだらかに広がった地域こそが中福良だ。1230nakafukura_004

玉泉寺公園の方から中福良に入る際には姶良川に架かる「中福良橋」を渡る。1230nakafukura_006

左手の上流側を見ると、目通しで1キロほど先まで平らで、右奥の「鶴峰小学校」と左奥の「鶴峰橋」(写真では見えない)とが、この中福良地区の南の境界を形成しているのが分かる。1230nakafukura_005

反対側の下流を眺める。

右手から突き出ているシラス台地の先端を迂回した辺りの右岸に「小鹿酒造」の本社工場があり、さらにそこから100メートル余り行くと「吾平中学校」が建つ。

 その辺りまでが広い意味の中福良地区で、南北に1,5キロ、東西0,8キロほどの緩やかな河谷にすっぽり収まっている。1228ogawanotakitonakafukura_017

中福良橋から入った中福良集落は、ほとんど起伏のない土地で、道路も家屋もゆったりしている。1228ogawanotakitonakafukura_018

集落道を抜けていくと、あと100メートルほどで西の山すそを走る県道「中央線」に出るという所の左手に「田中八幡神社」がある。

 この神社は明治4年(1871)に、麓地区の中心から当地に移されたものだ。そこには「鵜戸神社」が建立されている(もちろん今もある)。

 田中八幡の旧名は「姶良八幡宮」で、鹿児島神宮の南域を示していると言うが、その当時の建立者は島津荘を拓いた「平季基」の弟「平良宗」であった。

 姶良八幡時代に奉納された古鏡に「長元4年(1031)」の紀年銘が入っているので、間違いないとされている。したがってこの神社は創建以来かれこれ千年の古社ということになる。(これより古い創建の神社は大隅半島では串良下小原の「万八千神社」など数社あると言うが、いずれも古文書や紀年銘のあるものが残っておらず、現在のところ確証には難がある。)1228ogawanotakitonakafukura_020

拝殿奥の本殿は昭和3年に京都の宮大工に造らせたという。透かし彫りをふんだんに施した格調高いものである。

1230nakafukura_003 田中八幡の前を通り過ぎて100メートルも行くと県道に突き当たる。

 そこから見た田中八幡神社は社叢林ですぐそれと分かるが、右手に立つ看板の下の田んぼの高さ(海抜)が異様に低いのには驚かされる。

 田中八幡より5㍍ほども低くなっているのである。

 実はかってそこは河道ではなかったかという疑いが持たれてくるのだ。するとこう考えられる。

 中福良集落はこの田中八幡を含めて、集落全体が川中島ではなかったか。単なる砂州ではなく恒常的に人の住める川の中の島ではなかっただろうか。

 地形を見ると、姶良川は上流の鶴峰橋の下をくだったら数本の川に分かれ、その氾濫によっていくつかの川中島が形成された。川筋は変遷しただろうが、その中で砂州のレベルを超えて人の住める島が生まれたか、または築かれた。それが現在も続いている中福良集落だろう。

 それを踏まえて、この何とはなしにめでたい集落名「中福良」の意味を考えてみる。

 「中福良」地名は常に「中福良」単独で使われ、けっして「上福良」「下福良」を伴わないのが特徴。このことから「中」は「上中下」の意味の中(ちゅう)でないことが言えるわけである。

 大隅地区には木造では最古の駅舎として有名な肥薩線の嘉例川駅があるが、その一駅手前には「中福良駅」があり、その辺り全体を中福良というが、嘉例川がすぐそばを流れ、ここよりは狭いが似たような河谷平野の只中にある。

 また薩摩半島の旧知覧町・永里地区の中福良も、永里川が河谷平野を形成したその只中にある。

 以上の事例から見えてくるのは「(人の住める)中の川原」という原風景だ。「川原」は「川中島」と言い換えてもよいが、この「なかのかわら」は鹿児島弁では「なかんこら」と言う。

 この「なかんこら(中ン川原)」の転音・好字化が「なかんくら→なかふくら(中福良)」で、発音こそ「なかんくら」だが、戸籍地名は「中福良」となって定着したのではないだろうか。

 「お前の生まれはどこだ?」 と聞かれて 「なかんこら(中ン川原)じゃ」と言ったのでは 「何だ、お前、川原乞食かよ」などと揶揄・軽蔑されかねない。そこで「いや、中福良じゃ」と切り返す。そんな人間心理をも考えてみたい。実は好字化(佳字化とも言う)というのは律令時代の古くからあったことで、襲が「曽於(の旧字体)」になったのは良い例なのである。

 中福良地名は、土地の形成とそこに住む人の心理とがあやなした珍しいネーミングで、けっして地名学で解くような「膨らんだ地形」などではない、とおもう。

 

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幻の大滝(錦江町田代川原)

今朝、所用で田代川原地区に出かけたその帰り道。裏通りの雄川発電所取水口のある事務所の近くを通ったら、それとおぼしき水煙が上がっていた。

 しめた、と思い、取水口近くまで行くも、そこは金網があるうえ、そもそも滝の落ち口なのだから見えるわけがない。

 「今回もダメか」とあきらめかかったが、道路の一角に崩れた跡があり、そこから恐る恐る入ってみると、何とすり鉢状に土砂が滑り落ちていたため視界をさえぎる木立がなく、念願の滝を目の当たりにすることができた(良い子の皆は真似しないでね)。1228ogawanotakitonakafukura_002

いやはやうれしかった。なにしろ田代には足掛け8年住み、3度か4度はウォッチを試みたのだが、どうしても滝つぼの一部しか見ることができず、すっかり諦めていたのだった。

 農免道路という高規格の農業用産業道路があって、この雄川には、滝の1キロ余り下流にその名も「滝見大橋」が架かっているのだが、実はそこからは滝は見えない(人騒がせな名称だ)。1228ogawanotakitonakafukura_003

向かって右手の絶壁の下の方からも小滝が幾筋も落ちているのが見える。滝つぼはかなり広い。

 本滝は一番左のどうどうと落ちている一本なのだろうが、あいにく半分から上は溝が深いのと、手前に木立があるので隠れてしまっている。だが、向こうの二筋の滝とたぶん高さは同じのはず。

 それで勘案すると、雄川ノ滝は高さ40~50メートルほどで、3本の滝に分かれて落ちていることになる。

 仮に滝の全容が見えたとしても、発電に使う水量が多ければこんな勢いのある姿を現すことはなかっただろう。今この時期は発電用の取水量が少ないのだろうか。原油の大幅な値下がりで、火力発電の方がうんと安上がりになったのかもしれない。

 それにしてもラッキーと言うほかない。

 

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霜とイルミネーション

1220shimotodenshoku_001 ブロッコリーの かじかむ 今朝の寒さかな

朝7時でちょうど零度だった。今年6回目の霜で、12月1日の次に厳しい降り方である。1220shimotodenshoku_003

霜降りぬ 春まで眠れ 芋の畑

南の隣接地は芋畑である。12月に入って収穫後の整地耕運を済ませた黒土の畑が、今朝は真っ白になっていた。1220shimotodenshoku_004

寒かろう 我が家の 後期高齢犬

満14歳を超えたビータローも、ついに超高齢犬の仲間入りだ。

 ちょっと耳は遠くなったが、嗅覚も食欲も衰えを見せない。1220shimotodenshoku_006

夜、買い物と食事を兼ねて街に繰り出した。

 近頃は気の利いた個人宅でもイルミネーションを見るが、繁華街のは、やはり規模からして違う。

 リナシティかのや周辺でも電飾を行っている。

 前を流れる肝属川に架かる木製の橋には、ブルー一色のトンネルができていた。1220shimotodenshoku_007

橋の中から写すと、一箇所に「エメラルドの光」が発光していた。

 リナシティの3階からの光ではない。とすると、この橋に飾られたブルーの発光ダイオードの一球がたまたま角度を得て、こちらにこんな輝きを見せたものか?1220shimotodenshoku_008_2

同じ橋の上から繁華街の方向を写したものにも、やはりエメラルド光が見えている。

 そうなのだろう。しかしさっき通った時には、まったく気付かなかった。

 また今度行ったときに、ゆっくりと肉眼で確かめてみよう。

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吾平町麓界隈(鹿屋市吾平町麓)

吾平町の中心地が吾平麓地区で、「麓」とは「府元」とも書き、藩政時代の島津藩特有の名称である。そこには支配者である武士たちの家屋敷が並んでおり、「門」という名のこれも島津藩独特の百姓組織を従えていた。

 その中心地たる吾平麓のさらに中心だったのが「鵜戸神社」の鎮座する辺りで、町役場もその隣りにある。1214airafumoto_010

この神社は古くからあった「姶良八幡神社」を南3キロほどの中福良地区に移転させ、吾平山陵付近に祀られていたのを明治になってからここに遷宮したものだ。

 鵜戸神社の祭神「ウガヤフキアエズ・タマヨリヒメ」が天皇の祖先であることから、急遽、日の当たるこの町の中心地に移したのである。1214airafumoto_007

神社に向かって右が役場だが、反対の左手にまわると吾平小学校への長い急な坂がある。

 上った小学校の校庭には隼人の墓制と言われる「地下式横穴墓」が20基くらい見つかっている。1214airafumoto_022

校庭の一角にあるプールの工事中に見つかったもので、直刀などの鉄製品が副葬されていた。

 見晴らしの良い高台で、当時は聖地のような場所だったのだろう。

 正門を抜けて右の坂を下ると、町の中心部が見下ろせるところがある。1214airafumoto_021

右手の木の蔭に隠れた白い建物が旧吾平町役場。

 真ん中やや左寄りのレンガ色の建物は吾平農協で、金融・共済・販売を一手に引き受けている吾平町のもう一つの顔である。

 それらの間を麓地区の家々が埋めている(向こうには肝付町の国見山系の山々が見える)。1214airafumoto_018

さて、坂の左側には「あいら牧美容院」が緑豊かな住宅地の中にポツンとあるが、ここが実は直木三十五の小説『南国太平記』に登場する兵道家「牧仲太郎」の生家という。

 兵道とは一種の「加持祈祷」で、加持の力で敵を呪詛し、倒すことができるというものだ。

 鹿児島ではそういう祈祷者を「法者(ほっしゃどん)」とも言い習わしている。1214airafumoto_020

その牧家のすぐ下からは屋根の向こうに小高い丘が目に入る。

 そこを「山古城」という。「山古城」は今からほぼ千年の昔、都城の島津荘を拓いて摂政・関白家「藤原頼通」に寄進した元大宰府の大監「平季基」の弟「平良宗」が当地に下向したときに築城したとされている。

 麓のメインストリートに出て左折をすると、そこには古くからの家並みが散見される。1214airafumoto_012

築地塀の向こうに、ネズミモチの大木の真っ赤な実が、溢れんばかりに付いていた。

 手前のイヌマキの刈り込みが、うまい具合にそれに照応している。1214airafumoto_013

吾平小学校からの下り坂は吾平クリニックの所でバス通りに突き当たるが、左折して100㍍余り行った右手の家で、面白いものを見つけた。

凝灰岩製の低い石垣の中に「祥福(門)」と彫り込まれた門柱があったのだ。

 写真では分かりにくいが、左の石垣の奥に門柱が一対見える。今は真ん中をブロックでふさいでしまっているが、元はこちらが正門だったらしい(今は右手の車の出入りができる方が正門になっている)。1214airafumoto_015

そこからなおもバス通りを行くこと100㍍、道路の左手に「田の神」「仏像」「祠(水神?」それに一対の石灯籠が立っていた。

 左手への路地があり、路地を入るとすぐ左に泉が湧いている。1214airafumoto_016

湧いていると言うよりは崖下の穴からとろとろと流れ出ている。

 水面の高さまではちょうど1メートルくらい下がっており、そこへ降りる石段がある。昔はここの水を汲んだり、洗濯などをしたりしたのだろう。

 このたたずまいは奄美諸島の石灰岩の下を流れる「暗河(アンゴウ)」を連想させる。

1214airafumoto_017

路地の奥へ行くとすぐそこに「山古城」が聳えている。

 比高は15㍍ほどで、手前がだいぶ削り取られている。これが約千年前に姶良庄が開かれた時の守りの要だったとは信じられないほど小規模だ。

 もっとも1000年代の初めの頃といえば、まださほど干戈を交える荒々しい時代ではなかったから、こんなこじんまりとした城(と言うよりか砦)くらいで間に合ったのだろう。

 開発領主「平良宗」の子孫は「得丸氏」「末次氏」となって後世に繋がって行くことになる。

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白水・海道町界隈(鹿屋市白水町・海道町)

鹿屋市の白水町・海道町は中心市街地からはほぼ西にあたる高台地帯で、花岡島津家のあった花岡町に行く途中にある。

 海道町は新しい地名だが、白水町は少なくとも江戸時代からはある地名で、花岡に島津氏の分家(一所持ち格)が置かれた時に、領地として「大姶良郷のうち、木谷村・白水村の2村が与えられた」と記録にある古い土地である。

 国道220号線郷ノ原トンネルを境に西に向かうほど標高が上がり、鹿屋中心部から来る旧国道220号線との合流交差点「一里山」は、120mの高さがある。1212siromizkaidoukaiwai_001

一里山交差点からは北西に向かうようになり、道はゆっくりとした上りになる。

 やがて「白水東バス停」が見えると、上りは終り、平坦な台地に入る。

 その先の道路左側に面して「白水観音堂」がある。1212siromizkaidoukaiwai_004

観音堂といっても木造の古めかしいのを想像していたら見過ごしてしまう。

 モダンなとんがり屋根だ。歩道際に建つ「白水観音堂」碑の裏には「平成14年建立」とあり、建立主は「真言律宗」の宗派の人である。

 碑に向かって左手には「六地蔵塔」が立ち、向かって右手には「青面金剛像」がある。1212siromizkaidoukaiwai_007

観音堂の横には不思議な凝灰岩製の祠(?)状の上屋が台座の上に設えられている。

 何だろうか?四本の柱の間には、減耗し尽された頭のない人物像のような物が見える。

 説明書きはないので、憶測するだけだが、おそらく最古・最初の「石造観音像」ではないだろうか。丸っこい石は「如意宝珠」だろう。

 廃仏毀釈のなれの果てとは考えにくい姿である。1212siromizkaidoukaiwai_006

窓ガラス越しに中をうかがうと、小さいながらもあでやかな観音立像がお立ち遊ばしている。

 後ろの来迎図も絢爛の一言だ。

 真言律宗の僧(か信者)が、上の原初の観音像のあまりの姿に涙し、かくも美しく再現したのではなかろうか。

 観音堂の隣には集落の墓があり、この辺りは古くから「聖地」の扱いを受けた場所だったのだろう。1212siromizkaidoukaiwai_010

白水観音堂から道はいくらか下りになり、1キロも行かないうちに鹿屋体育大学前の交差点に出るから、そこを左折。

 100㍍余りでもう大学に着く。大学内は2度ほど取材してあるので今回は、正門の向かい側にある「開学碑」を紹介する。

 赤い車の向こうのワシントンやしの立つ丘に碑がある。1212siromizkaidoukaiwai_009

幅4m強、高さ2m余りの、記念碑としては立派なものである。(が、いつ通りかかっても、人のいたためしはない)

 碑の裏面には開校に至るまでのちょっとした歴史が刻み込まれている。

 昭和47年に文部省が教員養成大学の新設構想を打ち出したところ、早速その翌年、鹿屋市が誘致を決め、期成会を設置している。

 それが功を奏し、また地元選出の国会議員の働きもあり、53年には「新構想の新設大学」つまり「国立体育大学」設置は鹿屋市に、と文部省で決定。鹿屋市は55年に必要な用地買収に取り掛かり、その年の内にすべての交渉を終えるという手際の良さだった。

 経緯を示した刻字のしたの台座に埋め込まれた地権者の総覧によると、地権者は130人余りと分かる。中でも地元の「本白水」姓「西薗」姓が多く、それだけで3割を占めている。1212siromizkaidoukaiwai_011 総面積37万㎡(37㌶)というから甲子園の10倍は下らない広さだ。

開学碑から海道町に向かう。

 ちょうど高隈山地の西の外れの二峰「横岳」と「平岳」に向かっていくような道のりになる。1212siromizkaidoukaiwai_013

古江バイパスの開通でめっきり交通量のおおくなった花岡への道を6~700㍍で、右手に「小薄町」「鳴之尾牧場」方面への分岐を見る。

 今見える道路沿いの周辺が元からの海道町だが、ここをのぼっていくと海道町の新しい住宅地が、どんどん上にあがって来ているのが分かる。1212siromizkaidoukaiwai_015

分岐から500㍍ほどの高台に、新しい家々が立ち並ぶ。

 あそこからは北側に高隈山系、南から西は錦江湾と薩摩半島が大パノラマで見えるはずだ。

 このあたりから花岡町に向かっての高台は、こんな家々が多くなっている。けっして別荘ではなく通常の家屋なのがうらやましい。1212siromizkaidoukaiwai_016

さっきの分岐まで下り、そのままクランク状に直進すると、昔ながらの狭い町道だ。

 その道沿いの元は畑だったところには、鹿屋体育大生のためのアパートが林立する。

 農家変じてアパート経営主の大きな家も建つ。1212siromizkaidoukaiwai_022_2

あと数十㍍で花岡中学校の裏門という所で、左手に「鎮守山遺跡」という看板があったので、入ってみる。

 発掘現場だが人は誰もいない。一箇所だけきれいな掘り跡が残されていた。

 深さ3m近くあるだろうか、薄いオレンジ色から始まって、下のほうには鮮やかなオレンジ色の層(アカホヤ=6400年前の鬼界カルデラ噴出物の層)が3~40センチの厚さで挟まっているのが分かる。1212siromizkaidoukaiwai_017

もう一箇所の発掘現場(稲荷山遺跡)が、ここから300mほど花岡町側の畑地帯にある。

 行ってみたところ、発掘作業員と発掘担当責任者(県埋蔵文化センター職員)がいたので、話を聞くことができた。

それによると、この二つの遺跡は時代的には縄文中期から後期、弥生時代の前期、そしてもっとも遺物・遺構の出土数が多いのは古墳時代の前期(4世紀)と後期(6世紀)だという。1212siromizkaidoukaiwai_020 また最初に行った「鎮守山遺跡」は全面調査になる可能性が高いらしい。

そこは花岡中学校のすぐ裏手で、花岡中学校の位置からして古江坂を登った突端にあって海岸を見下ろすような所だから、鎮守山遺跡も海岸地帯の古江との関係が深いかもしれない。1212siromizkaidoukaiwai_021_2

花岡中学校の正門の前から、鹿屋中心部方向を眺める。

 かっては鹿児島・垂水方面からの車がひっきりなしだったのだが、古江バイパスが開通してからは閑古鳥が鳴くようになった。

 バイパスは左から右手の空き地を通り、中央奥に見える鹿屋体育大学の裏を迂回して最初に紹介した「一里山交差点」にたどり着くよう計画されている。

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神野地区界隈(鹿屋市吾平町神野)

モミジを見に、鹿屋で最も山奥の雰囲気のある吾平町神野へ行ってみた。

吾平山陵入り口を左に見送り約1キロ、姶良川の清流に架かる「市ノ渡橋」を渡ると急に山中深くに入ったような気分になる。

モミジは川沿いに点々とあるが、どうやら盛りは過ぎてしまったようだ。1206kaminokaiwai_001

無理もあるまい、11月下旬以来、もう霜が降るか降ろうかという朝の冷え込みが5~6回はあったのだ。

 我慢強いモミジもさすがに葉を縮ませ、赤から茶色へと変色し始めていた。1206kaminokaiwai_002

川沿いをのぼること2キロ、左カーブを回り込むと神野の中心地にある「神野小学校」と「吾平富士」が見えるが、この辺りの川の周辺はすでに晩秋を過ぎ、冬のたたずまいだ。1206kaminokaiwai_008

中心地を過ぎてさらに奥へと向かう。

 名物いのしし肉の看板の向こうの山麓では、赤茶けた木々が早くも一年の終りを告げているかのようで寂しい風景だが、山里では静謐な中にも、すでに新年の準備が始まっている頃だろう。1206kaminokaiwai_011

路線バスの最終地点「永野牧」の集落。

 ここの分岐を右手に入っていくと吾平町の最高峰「八山岳」(941m)だ。

 分岐から300mほど行った所には「大川内神社」が、小高く突き出た丘の上にある。1206kaminokaiwai_010

神社入り口にはクスの大木があり、大きな鳥居もある。

 祭神は「アイラツヒメ」(古事記では「阿比良比売」・書紀では「吾平津媛」)で、神武天皇の后に当たる。

 ヒメが神武天皇の日向(大隅)から大和への「東征」には付いて行けるはずはなく、当地で行く末を案じながら一生を終えたという。

 吾平山陵へは皇室の度々の御参拝があるが、神武天皇の最初の妻であるアイラツヒメの墓所ともいえる当神社へは足を運ばれたことはない。1206kaminokaiwai_006

永野牧から今来た道を引き返し、再び中心部へ戻る。

 学校が見えてきたら川を渡る橋があるので、左折する。そうすると左手に公民館のような建物がある。

ここは生活改善センターで、加工施設があり、豆腐を作ったり、ちょっとした食堂もある。1206kaminokaiwai_004

施設の道路を挟んだ向かいには「神の湯」という「共同風呂」がある。

 湯の沸かし方にちょっとした面白みがある。

 それはマキ炊きボイラーを使っていることだ。

 ビニールハウスのような場所で、ボイラーで湯を沸かし、向こうに見える赤いタンクにいったん湯を貯めておき、必要に応じて共同風呂へ流入するようになっている。

 マキの材料の杉の間伐材はほぼ無限にあるので、この共同湯の絶えることはないだろう。おまけに石油に依存しないので、料金の変動もゼロに違いない。1206kaminokaiwai_012

神野地区ではどこにいても、秀麗な吾平富士が目に入る。

 吾平富士は通称で、本名は「中岳」と言う。標高677mはけっして高くはないが、一度見たら忘れがたい母なる山だ。

 ところで、吾平町を流れる川は「姶良川」と書き、吾平川ではない。

 姶良と言えば、国分の西の方に「姶良郡」と「姶良町」がある。

 どちらが本家本元かと言うと、吾平町のほうが本家なのである。明治23年施行の「郡制度(郡役所・郡議会)」の始まったとき、山田村、帖佐村、重富村などの地域にどういう経緯か分からないが「姶良郡」が置かれてしまった。そのとき今の吾平の方は「姶良村」になっていたが、郡は「姶良郡」ではなく「肝属郡」だったのである。

 大正10年には郡制度は廃止されるが、戦後になって村から町へ変わった際、肝属郡姶良村は肝属郡吾平町(昭和22年)と「吾平津媛」の「吾平」を取り、姶良郡山田・帖佐・重富村の方は合併と同時にこれ幸いとばかり「姶良郡姶良町」を名乗った、という。

 『和名抄』(10世紀・源順著)に載る大隅半島の4郡(曽於・大隅・肝属・姶羅)のうちの「姶羅郡」はのちに「姶良郡」となるが、現・鹿屋市吾平町こそがこの「姶羅郡」の淵源の地に他ならず、したがって姶良郡姶良町の姶良は「登録商標」の侵害になろう。

 県内最大の町(町制)姶良町が合併するかして「市」を名乗るとき、果たしてそのまま「侵害」を続けるのか、はたまた全く新しい市名とするのか、見守りたいものだ。

 話が横道にそれたが、とにもかくにもモミジを見に来たのであった。そこで帰りに吾平山陵に寄り道をする。去年ここの入り口のモミジは見ごたえがあった。1206kaminokaiwai_013

やはり見ごたえはある。

 だがやはり葉には茶色への変色が見られる。1206kaminokaiwai_015

色あせていくのも自然なら致し方あるまい・・・・・。

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古江町界隈(鹿屋市古江町)

鹿屋市古江町は港町である。鹿屋市街地から行くには国道220号線を西に走り、一里山交差点からは北上し、鹿屋体育大学前交差点で右に古江バイパスへの道を見送り、そのまま直進して花岡中学校を右に見ながら「古江坂」を下っていく。1129furuechoukaiwai_007

 左手に港を見下ろしながら、下り切った交差点が古江町交差点で、直進すれば垂水から桜島方面へ、左折すると漁協のある港へ、さらにUターン的に左折したら大根占(錦江町)・佐多(南大隅町)へ至る海岸通りとなる。

 まずは古江港(新港)を目指して、直進する。1129furuechoukaiwai_025

古江港の入り口付近から見た町並みは赤色の凝灰岩・荒平石を塀に使った古い民家が多く残る(向こうは垂水方面)。

 古江バイパスがこの3キロ弱向こうの「まさかり海水浴場」あたりから、根木原・花岡町へ直接あがれるようになった。垂水や鹿児島から鹿屋への運輸はほとんどそちらを経由するため、ここは、めっきり通行量が減った。1129furuechoukaiwai_014

大通りから左折して広々とした港(新港)へ向かう。途中で「みなと大橋」を渡るが、川の上流側を望むと「白滝」が見える(三階建て集合住宅の上のアンテナの右手。三本の電線の下)。

 直線距離にして1キロの位置にあるこの滝は、花岡町の用水を集め、シラス崖をえぐって落ちている。例の岩子夫人の「花岡用水」の排水箇所でもある。

 港は海抜2m、崖の標高はちょうど100mだから、もし一直線に落ちていれば鹿児島でも有数の滝となったはず。1129furuechoukaiwai_020

新港から入って行くと港はずいぶん広い。いくつかの船溜まりを通り抜けて、ようやく一番奥(つまり突端)辺りまでやって来た。振り返ると漁協の荷揚げ・荷捌き場と巨大な製氷・冷凍施設のある建物が見える。

 船はクレーン付きのものが多い。カンパチの養殖漁業が主流だから、餌の積み込みや水揚げしたカンパチの荷降ろしにフル回転するのだろう。1129furuechoukaiwai_021

港の出口。二本の波止が30㍍ほどの間隔を作っている。

 今は漁船だけしか通過しないが、鹿児島港との連絡船が就航していた頃は、夢を抱き、あるいは切ない想い抱いた人々を乗せた船が、この狭い隙間を通り抜けて錦江湾に乗り出していた(後方の山並みは南大隅町の辻岳・野首岳の連山)。1129furuechoukaiwai_009

波止場から漁協の荷揚げ・荷捌き場に行ってみると、机を並べて魚を売っていた。1129furuechoukaiwai_012

一人の売り子が3、4種類の獲れたてをを売っている。

 小鯛、鯵、鯖、イカ、それに赤エビなどが量り売りだ。イカいっぱい(一尾)300円也、は高いのか安いのか、大ぶりの鯖一尾450円はどうか。分からぬまま買い求めた。1129furuechoukaiwai_010

 荷捌き場では収穫したての赤エビの選別が行われていた。

 聞くと、今朝6時ごろ出港し、10時半ごろには網上げして帰ってくるそうだ。昨日(28日)は波が荒くて漁に出られなかったという。1129furuechoukaiwai_029

漁協の荷揚げ場の隣にできた「みなと食堂」は今、結構人を呼んでいる。

 おまかせ定食 1000円  ヅケ丼 600円  から揚げ丼 600円

 の三種類しかないが、どのメニューにも「カンパチのアラ煮(アラ炊き)」が付いてくるのが売りだ。たしかに美味い。得した気分になるので、人気を得たか。

 営業は月曜から土曜の11時半~2時半(日曜・祭日は休み)。ちなみにこの食堂の建物はかって鹿児島港への定期船が通っていた頃の待合室だというから、リサイクル(リユース)である。

1129furuechoukaiwai_028

その食堂の向かい側にはちょっとした緑地帯があり、「行幸記念碑」が建つ。

 昭和10年の鹿児島・宮崎陸軍大演習の際、元帥だった昭和天皇も行幸・閲覧になり、その途次におそらく船でここ古江に上陸され、吾平山陵を御親拝になった。その時の記念碑だ。

 表面の揮毫者は時の海軍大将・山本英輔で、碑は13年に建てられている。1129furuechoukaiwai_027

行幸記念碑を左手に見ながら進むと駐車場の向こうに駅舎が見える。

 旧国鉄大隅線の古江駅の跡だ。プラットホームと駅舎が残され、線路と車輪の一部が当時を偲ばせている。

 8月のブログでも紹介したが、大隅線は古江―志布志間の開通(古江線=昭和13年)から34年後の昭和47年にようやく国分まで延長されて完成した。ところが全線開通の喜びの余韻が覚めやらぬ昭和62年には廃止となった儚い路線であった。

 昭和10年の陸軍大演習に行幸になった昭和天皇の時には、古江から串良までは開通していたはずで(ただし国有鉄道ではなかった)、天皇は吾平駅まで汽車で行かれたのだろうか、後で調べてみよう。1129furuechoukaiwai_030

古江駅跡地から佐多方面への道路を横切り、狭い路地に入ってみる。

 自転車2台がやっとすれ違えるほどの細道が、縦横に走り家々が軒を連ねている。1129furuechoukaiwai_033

櫛の歯が抜けたと言うほどではないが、処々に空き地があったり「売り地・売り家」があったりする。

 これも過疎のせいか。だが空き地に野菜を作っていたり、鶏を放し飼いにしていたりするのを見ると、そのたくましさに驚く。1129furuechoukaiwai_031

細い路地の突端れにある「古江小学校」(携帯電話用電波塔の下側には古江坂がある)。

 鹿屋市史によると古江には「国司山」があり「国司どんの墓」があるという。

 国司といえば、西暦720年の隼人の反乱で成敗された「陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)」を思い出すが、国司は何も史麻呂だけではない。その後、幾人もの大隅国国司がいた。ただ、遙任化していたのがほとんどで、現地(国分市)にまで赴任してきた国司は少なかった。その中の一人の墓なのかもしれない。

 もし伝承が本物だとすると「国司山」の位置は、いま見ている古江小学校の裏山が候補地になりそうだ。

 

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野井倉の田の神と笠祇神社(志布志市有明町野井倉)

11月23日、有明町蓬原(ふつはら)の熊野神社の神舞を見学に来たが、午前の祭典が終わった後、神舞がある午後1時まで一時間半ほど時間が空いたので、菱田川を挟んだ東側に位置する野井倉台地を訪れた。

 野井倉台地といえば、明治中期に構想され、大正から昭和も戦後になってようやく完成を見た野井倉新田開発で名高いが、その一角に県指定文化財になっている「豊原の田の神」(正式名は「有明町野井倉の田の神」)がある。

 蓬原からは菱田川にかかる「蓬原大橋」を渡り、上り坂をひとしきり、およそ1、2キロほど行くと道路右側に「豊原」バス停が見えるから、そこを左折する。しばらく行くと左側にビニールハウス(イチゴを作っている)があり、そのすぐ手前の田んぼ道を左に入って行と、100m余りの所に、驚くほど無造作に置かれ石像がある。これが「豊原の田の神」だ。1123futuharakumanojinja_007

丈は低いが、丸々としたふくよかな田の神である。1123futuharakumanojinja_008

胡坐をかいた呑気そうな田の神。建立は寛保3年(1743)と背の下の方に彫られている。

 製作年が明確で、しかもその年代は田の神としてはかなり古い方だ。だから県指定になったのだろう。

 モデルは大黒様だと思われる。それにしてもメタボだ。神様だから高血圧とも高脂血症とも無縁なのに違いない。うらやましい。1123futuharakumanojinja_010

豊原のバス亭近くで田の神の場所を聞いた老農に、時間があれば「笠祇神社」に行ってみたら、と教えられ行ってみた。

 志布志市役所(旧有明町役場)のちょうど真裏に体育館があり、体育館入り口近くの道路の向かい側から登る道があった。

 役場付近が標高80㍍、笠祇神社のある岳野丘は272mだから約200㍍の高度差を1キロほどで上がってしまう。途中から神社の参道にあたる急な石段があるが、道路は神社のすぐ下まであり、車で行ける。1123futuharakumanojinja_013

車を置いたら、20段ほどの階段を上がると笠祇神社の境内(広場)に出る。

 巨大な石の祠!と思ったのは神殿で、本当の祠はその中にちょこんと鎮座していた。

 笠祇神社の祭神は「牛馬」である。仏教で言えば「馬頭観音」に相当し、有明のみならず広く大隅一円からの信仰が厚い。(笠祇神社は旧志布志町にもあり、どちらかと言えばそちらの方が本家だ)1123futuharakumanojinja_016

この丘では驚くことが二つある。

 一つは360度の大パノラマだ。南方向では、すぐ下に今のぼって来た野井倉台地のグリーンが鮮やかに見える。遠くに見える山並みは肝属山地で、手前の下には志布志湾が広がっている。1123futuharakumanojinja_017

もう一つは誰の発案かは知らないが、十二支の動物の石像がぐるりと並んでいることだ。1123futuharakumanojinja_019

よく見ると、台座には、おそらくその生まれ年の人々で制作費を出し合った人たちだろうか、多くの名が刻まれている。 

 また、石像は「子(年)」は北に、「午(年)」は南に――という風に、ちゃんとそれぞれの方角に置かれている。よく考えてあるものだ。

 しかもこの眺めのよさは格別!今度は快晴の日に来たいものだ。

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花岡町界隈(鹿屋市花岡町)

鹿屋市花岡町は中心部から北西に6キロほど行った所にある。国道220号線の一里山交差点を過ぎ、緩やかに登る道が続くが、このあたりは白水町で、右手に鹿屋ビジネススクールを見ると、間もなく「鹿屋体育大学前」の表示のある交差点だ。

 昨日今日と体育大学では学園祭が行われているというので、左折して寄ってみた。1116hanaoka_006

入り口には体育大学らしからぬウキウキした飾り付けで、入場を誘っていた。

 入ってすぐの駐車場に単車を停め、そこからは歩いて中央部へ向かう。1116hanaoka_005

キャンパスは落ち着いたレンガ色に統一されており、回廊まであったのには驚かされた。

 緑滴る――というほどではないが結構樹木が多く、体育大学というよりは医療系の大学のように見える。1116hanaoka_003

武道体育館の前の広場に行くと、屋外ステージでは例の「髭男爵」という漫才師が公演していた。

 他にも3組の吉本系漫才が行われたというから、すごい。出演料だけでも?百万だろう。よく呼べたものだ。1116hanaoka_007

一時間余り、生の漫才を堪能したあと、再びさっきの大学前交差点へ行き、道をそのまま直進して花岡方面へ向かう。

 途中の町は海道町といい、海のそばを走るわけでもないのにこのネーミングは面白い。私の最も好きな鹿屋市の町名である。

 海道町を過ぎる頃、道がやや下り坂に入ると、左手に光華保育園の看板が建ち、そのすぐ先に墓塔の林立が見えてくる。そこが花岡島津家の墓地だ。立派な墓塔が、1116hanaoka_009廃仏毀釈の前にはあった真如院の跡地にずらりと並ぶ。

花岡島津家は、島津氏第21代吉貴の兄弟にあたる久陳(ひさのぶ=久寿ひさとも)に花岡の地が与えられて「一所持ち」家となったのが始まりである(享保九年=1724年)。

 公領800石で始まるが、のちに開田や集積により5千石まで増加している。

 七代145年の治世に当たった領主がここに眠っている。

特筆すべきは第2代久尚の夫人・岩子で、女ながら、近辺に水が乏しいのを憂い、高須川上流から用水を通した(用水については後述する)。1116hanaoka_010

花岡島津家の墓地の所から道は下り、すぐに真新しい信号に差し掛かる。

 道路標示のように、まっすぐ行けば花岡の町並みに入り、右折すれば国道220号線バイパスで、花岡の町を左に見ながら海岸通り(まさかり海水浴場近く)に到る。

 今はまっすぐの道をとる。1116hanaoka_011

町並みは閑静で、右手には明治以降に建てられた浄土真宗「浄福寺」がある。

 突き当りが「鶴羽小学校」で、門構えが由緒を偲ばせている。1116hanaoka_013

一対の門柱は古そうだが、おそらく明治以降のものだ。だが、左の凝灰岩製ブロック積みの塀は藩政時代のものに違いない。

 ここは当時、花岡島津家の現地事務所「御仮屋」があった所で、向かって右の門柱に「鶴羽城跡」というプレートを埋めてあるのはいただけない。

 鶴羽城(木谷城)は学校後方の城山の上にあった戦国期までの城なのである。1116hanaoka_014

小学校の右手を回り込むようにして、城山へ上がる。標高は155㍍、学校の辺りがすでに130㍍ほどあるから比高にして25mしかない。

 頂上部はおそらく平に均されたのだろう、往時を思わせる本丸、二の丸といった遺構は見られない。

 その代わり100㍍×50㍍はありそうな緑一面の見事な芝生の公園になっている。高隈山系の稜線がくっきりと青空に映えていた。1116hanaoka_015

城山公園の一段低くなった林の中にかの「島津岩子夫人の碑」が建てられていた。昭和31年に土地改良区の肝いりで造られたとある。

 自然石のかなり大きな物である。手前には瓢箪池のデザインが施されていたようだが、残念ながら今は水が枯れている。

 それにしてもどこから用水を引いたのかが気になる。そこで、訪ねてみることにした。1116hanaoka_017

まずは用水の出口だ。

 城山を下り、ふたたび鶴羽小学校の前の通りに出、それを左折して山手に向かう。

 途中でバイパスを横断する。写真では左から来て、乗用車の右手に登っていく(バイパスの向こうが垂水方面)。

 登りに入って100㍍余りで右に入る農道があるから従って行く。クランク状に行くと、左へ上がる道がある。かなりの坂で、100㍍ほどで最上部に行き着く。そこには鉄製の門がある。1116hanaoka_018

出口は今ではコンクリートの貯水槽式になっているが、250年前と変わらぬ水が滔々と落ちている。

さて、この取入れ口を目指すことにする。1116hanaoka_020

さっきの登り道に戻り、急坂をあえぎながら行くと、陶芸の里「あすか陶苑」などを見ながら、約1キロで「国立大隅少年自然の家」の分岐点だ。

 ここからさらに1キロ半ほどで、最奥の集落「花里町」の入り口だ。1116hanaoka_021

立派なバス停を正面に見て、左を上がれば花里集落。用水路の起点へは右を下りて行く。

 舗装道路を100㍍余りで、高須川に架かる「柊野橋」という小さな橋が見えるから、そのすぐ手前を左に入る。もちろん山道だ。ただし四輪駆動車なら通ることができる。

 そこからおよそ300㍍で目指す取水口がある。1116hanaoka_023

鮮やかなブルーの手動式開閉装置の付いた水門が、井堰の横に設えられていた。当時、このような装置がある筈はないが、ここから取り入れていたことに変わりはない。

 取水口の後ろから幅1メートルほどの用水が流れ出していた。当時は素掘りの水路だったが、今はコンクリート製である。1116hanaoka_025

井堰の上流は手付かずの清流だ。

 夏の間、子供たちの水遊び場だったのだろうか、岸に生える大木にロープを吊るしてブランコを作った名残があった。

 水遊びもさぞ冷たかったろう。

 もっと上流には体育大学のある白水町まで引かれているという上水道の取り入れ口があると聞くが、また今度行くことにしよう。

来た道を引き返して再び花岡の町に戻り、小学校の通りに出る。1116hanaoka_012

 花岡集落センターの所を左折し、浄福寺を過ぎ、信号を過ぎて花岡島津家墓地に到り、今度はその先を右折する。

 案内板にしたがって行くと「高千穂神社」に到達する。1116hanaoka_032

車で行くと境内の横から入って行くことになるが、巨木の林の中でも拝殿の向こうに見えるイチョウは圧巻だ。

 目通しの直径は1メートル、高さ30mは下らないだろう。黄色味はだいぶ強くなっているが、まだ葉が落ちるまでにはなっていない。1116hanaoka_030_2

正面に回ると、随身殿を左右に控えた鹿屋では珍しい本格派の社殿である。

 本殿の造営は天和2(1682)年というから300年以上経つ。

 花岡島津家の創設よりも古くから信仰され、創設後に島津氏の後押しで花岡郷の総鎮守となった。享保11(1726)年には、時の中御門天皇の宣旨により「正一位」を授けられたそうだ。

 祭神は天孫ニニギノミコト。創建年代不詳という。伝承によると、霧島の高千穂の峰に天下ったニニギノミコトが阿多の笠沙地方へ国まぎに行く途中、ここで休んだ所だとする。それで「当座大明神」とも言うんだそうな。

 いま、神社から海寄りの展望地に広い公園を造成しつつある。初詣の頃には完成するかもしれないので、また来てみよう。

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祓川町界隈(鹿屋市西祓川・中祓川・上祓川)

鹿屋市の中心街の顔となった北田交差点のリナ・シティから国道504号線で北上すると、1キロ余りで右手に県の合同庁舎がある。そこをさらに300㍍も行くと道が二手に分かれる。右を行けば樋渡橋を渡ってそのまま504号線、左に入ると西祓川地区となる。1108haraigawakaiwai_001

やがて正面にバイパスの高架橋が見え、橋下まで行くとそのまま左手へ上がっていくようになる。

 その途中から振り返って写したのがこれだが、いまトラックが停まっている辺りが「祓川地下式横穴墓群」(5世紀後半)が発見された場所で、その数30基になろうという一大墓群だった。

 実はこの付近では1950年に、高架橋の真下に建っている「西祓川集落センター」に付帯する道路工事中に「鉄製短甲と衝角付き冑」が出土している。同様な地下式古墳からだろう、と言われているが詳細は不明のままだ。

 また橋の行き着く向こうの丘陵では、伊勢神宮などの建築様式と同じという「棟持ち柱付き高床式建物」の跡が発見された「王子遺跡」(弥生時代中期)があり、少し下流の打馬地区と併せたこの肝属川中流部一帯は、弥生期から古墳期にかけて相当に開けていたのだろう。1108haraigawakaiwai_002

「祓川地下式横穴墓群」のすぐそばには肝属川が迫って流れており、地下式墓群の微高地は川に向かってせり出した格好になっている。確かに当時は「墓域=聖地」状の土地だったに違いない。

 路をそのまま山裾沿いに上流を目指すと、1、5キロほどで「長谷観音堂」に着く。周りは驚くほどの木立で、昼なお暗いほどである。1108haraigawakaiwai_003

都から当地へやって来た炭焼き五郎治という人が、付近の山で「青銅」を発掘し、都へ持参したところ、大金持ちになり、以前から信仰の奈良の長谷観音にちなんで、ここに観音像とお堂を建立した――(三国名勝図会)という謂れがあるそうだが、五郎治の発見した「青銅」とは何だろうか。「銅」なら銅鉱山の発見であり、後世にその鉱山跡がされるわけだがそのようなものはない。それに「青銅」は自然物ではなく「銅とスズの合金」である。

 すると何かとてつもない「青銅製のお宝」でも発見したのだろうか。南九州では考えられない埋蔵物で、歴史をひっくり返してしまうような何かを・・・・・。志布志湾岸と言っていい串間市で発見された、南九州ではあり得べからざる「穀璧(こくへき)=漢王朝時代に子爵が持つものとされた天子からの賜り品」のような何かを・・・・・。1108haraigawakaiwai_005

妄念に近い想いを切り上げ、少し川沿いを行く。「祓川公園入り口」の案内板にしたがって左折し、山合いに入る。

 200㍍ほどで左手に大きな公園を見る。祓川公園だ。山中にこんな広い所があったかと驚く広さで、2段になっており、下段は野球ができる広さがあり、気持ちよく整備されている。

 ちょうど、さっきの長谷観音の山の真裏に当たる場所だ。1108haraigawakaiwai_006

公園を離れ、さらに道を上り詰めると最奥と思われる田んぼの上手に巨大な「モクフヨウ」の木が、目の覚めるような花をたくさん着けていた。

 淡いピンク色の花が満開で、こんな山奥に誰が植えたのだろうといぶかるほどだ。多分、田んぼの持ち主のだろうが、このモクフヨウは4株からなり、右端の株が最も大きく、高さは8㍍ほど、幅は10㍍はあろうかと思われ、モクフヨウのこんな大木は珍しいのではないだろうか。1108haraigawakaiwai_008

モクフヨウのところで谷間の道をそれ以上登らずに右折して、谷沿いに下る道に入る。

 ところが30㍍も行くと人家が見え、そこで車が三台ばかり停まっている。見れば水道の蛇口から勢いよく水が落ち、男の人がたくさんの大きなペットボトルにそれを汲んでいるところだった。

「山の湧き水ですか?」

―いや、ここのポンプで汲み上げているんだよ。

 そう言えば、向こうの建物の白壁に「電力代協力金をここにお入れください」と書いた板が打ち付けられている。

「誰の所有なんですか?」

―「大谷洞」の物やっど。昔は「キラリの水」という商標で、ここの水を売っていたんだ。1108haraigawakaiwai_011_2一杯飲ませてもらう。たしかにうまい。

礼を言って別れた水汲み場からは、うねうねと続く山あいの集落道を降りて行くようになる。1キロも下ったろうか、左手に道路より高まった家があり、何と駐車場を造った上の庭からモクフヨウが顔を出しているではないか。

 しかも駐車場のすぐ右手には「木場薬師堂」の入り口がある。

 潅木に覆われ、蜘蛛の巣を払いながら登る石段は、丸っこい川原石で設えてあって滑りやすかった。1108haraigawakaiwai_010

30段ほどの石段の上には、神社の舞殿のような造りの建物があり、その奥に鍵の掛けられた小さなお堂が鎮座していた。

 ここに祀られているのは女体の薬師像で、由緒は不明だが永正五年(1508)の紀年銘入りの銅鐘が奉納してあり、少なくとも500年の歴史はある。

 元はもっと山奥にあったと言うが、今でも場所の雰囲気はひっそりとしている。1108haraigawakaiwai_012

薬師堂からさらに下ると、小さな橋が架かる。下を流れるのは柿元川で、今は側溝と化しているが、かっては木場集落を貫流する母なる川であった。農具を洗ったり、洗濯をしたりする村民憩いの流れであったろう。

 垂水島津家当主の第四代島津久信は、乱行のため27歳でここに隠居させられたそうだが、住いはこの川沿いのどこかであったに違いない。1800石をあてがわれたが、その後も乱行は止まず、村方の美貌の娘を手に入れようとして断られ、なぶり殺しにしている。娘の名は「おきん」といい、その供養碑が鹿屋市営八之尾墓地の入り口に建っている。1108haraigawakaiwai_016   

柿元川の橋から間もなく、道は国道504号線に行き当たるので左折する。

 すると100㍍ほどで祓川小学校を左手に見る。創立130年を越えたというこの小学校のシンボルは校庭の真ん中に立つ栴檀の木だ。

 高さは20㍍を超え、亭々と聳える姿は、卒業生なら誰しも心に焼き付いているに違いない。1108haraigawakaiwai_021

小学校を過ぎると国道は祓川地峡を通り抜け、上祓川地区にはいる。その山中には「祓川」の由来となった神社「瀬戸山神社」がある。

 小学校から約1.5キロで神社入り口を示す案内板があるから、それを左折し、まっすぐのおそらくかっては馬場だったと思われる参道を行くこと1キロ余り、ようやくにして神社にたどり着く。

 よく手入れされた杉木立の奥の長い石段の上に、瀬戸山神社は鎮座していた。1108haraigawakaiwai_022

拝殿に掲げられた由緒書きによると、創建は不明だが、この神社の神宮寺である五代寺の開基が永享二年(1430)であるので、少なくともそれ以前からは鎮座していたようである。

 祭神は山の神(オオヤマツミ)、水の神(ミヅハノメ)、木の神(ククノチ)と伊勢両宮という。山岳信仰の拠点であったらしく「三所権現」とも言われていた。神仏混交の典型だったと言える。だから神道風の「祓い」も行われていたのだろう。1108haraigawakaiwai_020

神社に向かって右手の山道に入った所に「祓川」の謂れとなったと思しき小河川があった。

 この川と特定する証拠はないが、とにかく祓川地区は高隈山系から流れ出る小流が豊富で、祓いミソギの行事を行うに事欠かない所である。1108haraigawakaiwai_026

神社の手前右手にはかって神宮寺「五代寺」が建っていた跡があり、いまそこには廃仏毀釈の嵐を生き延びた二体の仁王像や、歴代住職の墓などの石像物が一箇所に集められていて、往時を偲ぶよすがとなっている。1108haraigawakaiwai_029

祓川町の最奥の瀬戸山神社から、再び国道504号線に戻り、帰路を取る。

 祓川小学校のある中祓川地区を過ぎ、下祓川地区に差し掛かった所に「大園橋」がかかるが、その橋の袂にあるのが「大谷洞(温泉)」だ。あの蛇口からほとばしり出ていた湧き水の所有者である。営業はしていると思うが入ったことはない。1108haraigawakaiwai_027

実は大園橋の本家本元はこちらの石造りのめがね橋だ。

 まだ国道504号線の影も形もない明治35年ごろに、当時の鹿屋ー高隈間の幹線道路に架けられた。

 鹿児島の伊敷地区の石工がやって来て築いたという。全長30㍍の赤味がかった凝灰岩製の橋にはさしたる傷もなく、その優美な姿にはホッとさせられるものがある。

 百年を優に超えたが、これが鉄筋とコンクリートの橋だったらこう長くはもつまい。昭和13年の大隅半島を襲った未曾有のあの大水害にも耐えたのだから、あっぱれと言うほかない。いっそのこと鹿児島の橋という橋をこれに類する物に替え、鹿児島はホッとする所だ――というコンセプトに統一したらよかろうに。 

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UFOな雲

肝付町の窪田税理士http://blog.taxlawfirm.jp/の愛猫の死を悼みます。

そのこととは無関係と思われるが、昨日(29日)の夕方、奇妙な雲が我が家の東南方向に現れた。1029yuufookumo_004

 まるで巨大な「フライング・ソーサー」ではないか。

 家に帰る途中では、西日が当たって、オレンジ色に輝いていたので、まさしくUFOを連想させていたのだが、急いで家に入りカメラを向けた頃にはご覧の通り、灰色の皿に化していた。1029yuufookumo_001

割合、風が強かったのに、この雲はなかなか型崩れしないで、30分は同じ位置に留まっていた。

 西の空にやや雲は多かったが、南から東にかけてはこの雲が浮かぶだけだった。1029yuufookumo_002

東側を拡大して写す。

皿の上の部分だけだったら、そう珍しくはない形だが、下からくっついている「高台」の逆三角形は珍しい。1029yuufookumo_003

西側の半分。

三十分後の6時過ぎ、雲は東北に向かって、どんどん伸びていった。

どうも無気味だ。「雲占い」なんてあるかどうか知らないが、東北方向に、何か起こらねばいいが(金融危機はもう起きたが)・・・。

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エビ色のすすき(鹿屋市新生町)

どこを走っても道路際にはすすきが目立つ。

日当たりのよい道路ほど群生しているのだが、どれも赤味が薄く、黄ばんでいる。1015hataketosusuki_009

もう穂がはじけそうになり、白けているのもあるくらい、日の当たる場所のすすきは生育が早い。

 陰暦9月の15夜(今日は月齢15・8)にお供えするにはちょうど良いのかもしれないが、すすきの美しさはない。

 美しいというと語弊があるが、若々しさと言っておこう。

 だが、ようやく、意外にもさほど遠くない所に、その若々しい「エビ色のすすき」が生えていた。1015hataketosusuki_004

 鹿屋市の中心部に近い鹿屋海上自衛隊航空基地の外周のフェンス沿いである。

 外周道路から200メートル近く入ったフェンスへの行き止まり道路の左右にそれはあった。1015hataketosusuki_005

道に沿って切れ目なく群生しているというのではなく、ところどころにコロニー風に群生しているのだが、ブタクサの黄色よりはるかに品良く目立つ。1015hataketosusuki_007

エビ色と言っても「海老色」ではなく、エビヅル(野ブドウの仲間)の実を絞って出る汁の色、つまり赤ワイン色のことらしいが、陽だまりの中のすすきのエビ色はもう少し薄く、しかも光沢がある。実に上品な色合いだ。

 霧島連山随一の高原である「えびの高原」の「えびの」はこのすすき(萱、茅)のエビ色から名付けられたというが、一キロも二キロ四方もこれが群生していたらさぞ見事なことだろう。1015hataketosusuki_012

 物質的な成長・修復を促すのが月、すなわち月読命(ツキヨミノミコト)であるから、今夜の十五夜で秋の草花、作物などは大いに生長し、あるいはリカバリーされるに違いない。

 (ただし人工の物は無理だが)1015hataketosusuki_001

 我が家の裏の畑では、一ヶ月くらい前に収穫を終えたサツマイモ(カライモ)畑に、後作として播かれたソバや大根がすくすくと育っている。1015hataketosusuki_003

 今夜の満月で、さらに伸びて行くだろう。

 

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永野田町界隈(鹿屋市永野田町)

吾平町に所用があり、帰りに永野田を回ってみた。

 永野田は旧鹿屋市と旧吾平町との境に位置し、肝属川と支流の大姶良川に挟まれたあたりに広がる田園地帯だが、鹿屋市側からは低い丘陵がのびて来て川付近まで迫っている。

 いきおい田園が川寄りに狭く長くなっているので「長野田」と呼ばれたのだろう。