満開の桜の下で

 全国的に見ても規模の大きい「鹿屋市田崎グラウンドゴルフ場」では、植栽された桜が見ごろを迎えている。

 このグラウンドゴルフ場は海上自衛隊鹿屋航空隊基地のすぐ近くにあり、騒音や安全かれこれについて防衛省から助成金がふるまわれ、その結果造成されたグラウンド度ゴルフ場だ。西日本最大規模だという。さもありなん、8コース(ダブル)が設けられており、5人一組の団体戦では最大80チーム程度が同時にゲームができる。

 グラウンドゴルフ発祥の地は鳥取県の何とかいう小さな町だが、グラウンドゴルフが日常的に盛んに行われているのは鹿屋市ではないだろうか?このグラウンドゴルフ場のほかにも民間のがあったり、各市町村の大きな公園では子供たちが遊び回るより、むしろ高齢者グループがグラウンドゴルフを楽しむ姿を多く目にする。

 朝8時頃に仕事への道すがら田崎グラウンドゴルフ場を横目に通ることがあるが、もうその時間帯に大規模な大会が行われていることがある。しかも真冬の相当に冷え込んだ朝でも、また雪の降った明くる日でも開催されていることがあってこれには驚かされる。

 15日に仲間でグラウンドゴルフをやろうということになり、下見を兼ねてプレイに行ったところ、ここら辺はグラウンドゴルフ場を含めてサッカーや少年野球のできる公園なども桜が相当数植えられていて、いま7分咲きといったところであった。

 西風が強かったため、満開を待たずに散り始めている桜もちらほらあり、それはそれで見事で、仲間と来て楽しんでいる人たちの無心な姿に花を添えているようだった。

 

 

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桜の開花(吾平山陵の桜)

 鹿児島気象台は昨日の午後、標本桜に5輪以上の開花を確認して「開花宣言」を出した。

 遅れに遅れた開花は昭和28年(1953年)に開花宣言を開始して以来最も遅い記録になったという。

 東京では昨日が満開だったそうだから、南北が反対だ。開花には休眠打破のある程度の真冬の冷え込みが必要だが、鹿児島も2月はかなり寒かった(東京より寒かった)のに、桜を揺り起こせなかったのか? いまいちよく分からない。

 しかしまあ、咲いたと聞いて行かねばならぬ場所がある。

 それは鹿屋市吾平町の山麓にある吾平山陵だ。正確には「吾平山上陵」だが、地元では「あいらさんりょう」もしくは「さんりょう」で通っている。

 我が家からちょうど10キロ東南に走ると、山紫水明の吾平川支流に洗われるような清流の奥深くに山陵はある。神武天皇の父に当たる「ウガヤフキアエズの尊」と、母である「タマヨリヒメ」が洞窟の奥津城に祀られている。

 駐車場と川べりに20本程度の桜が並び、数は至って少ないが、どの桜も枝ぶりが良いのが特徴で、とても見応えがある。見たところ、早いので2分咲きだろうか、今度の日曜日には満開に近くなるだろう。花見には最適だ。

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高隈山の雪景色

 今冬最大の寒波襲来との報道の通り、2月9日から始まった北西よりの強い寒波が南九州まで南下し、一昨日から今朝にかけて山岳地帯に冠雪をもたらした。

 1月にも一度は冠雪があったが、今回は鹿屋の中心部からでもはっきりと真っ白な稜線が望まれた。

 あと2,3日は寒い日が続くので、遠目にも雪を被った高隈山の冬景色が楽しめそうだ。

 (※このブログでは画像をアップできない。ホームページ「鴨着く島(かもどくしま)おおすみ」の「鴨着く島ブログ」リンク画面で確かめてもらいたい。)

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謹賀新年(2017)

 当ブログを見に来てくれるみなさん、明けましておめでとうございます。

 平成も29年目に入り天皇陛下の「生前退位」が日程に上りましたが、皇太子徳仁殿下がしかるべき時期に高御座に就かれ、無事に皇位を継がれることを日本国民として、また一世界市民として願いたいと思います。

 何といっても日本は少なくとも奈良時代の初めに天皇制の律令法治国家を形成してからかれこれ1300年余、全国津々浦々にわたる米作りとともに世界に名だたる文化国家としての歩みを続けてきました。


 幕末以降は欧米列強の世界分割競争の中に投げ入れられ維新運動を起こすことで世を一新し、不平等条約を結ばされたことに苦慮しながら「欧米何するものぞ」の気概を奮い立たせ、「敵を知らずんば始まらない」といわゆる脱亜入欧により欧米の文明文化をどん欲に取り入れて「富国強兵」に成功し、日清戦争勝利によって治外法権の撤廃を、日露戦争勝利によって関税自主権を勝ち取って、欧米列強と肩を並べるまでになったのです。

 しかしながら欧米の有色民族差別は根強く、日本が国際連盟設立前夜のヴェルサイユ条約制定に付随する会議において全権副使(大使は西園寺公望)の牧野伸顕が「人種差別撤廃案」を主張して会議場の採決で賛成多数であったにもかかわらずその会議の議長であったアメリカのウィルソンは「全会一致でなければ採択しない」と言い張って反故にしてしまいました。


 アメリカは当時、リンカーンの奴隷解放宣言によりアフリカ黒人の売買はしていなかったのですが、南部では特に黒人は農奴として基本的人権の枠外にあったので、すべての人種を平等にするなどもってのほかだったわけです。怒って帰ってしまったウィルソンもですが、アメリカ議会も「そんなことを主張する日本人が加盟する国際連盟には加盟しない」と、自分で立ち上げようとした国際連盟にそっぽを向いたのです。

 その後、アメリカは反日に大きく舵を切り始め、同じ年(1920年)の11月にはカリフォルニア州で「排日土地法」(カリフォルニアには日本人移民で農業者が多かった)を制定して日本人農業者への土地の売買斡旋を禁じ、実質的に日本人を締め出しました。


 国家間でもワシントン会議(1921年)では日本の軍艦の数を制限し、ロンドン軍縮会議(1930年)でも同様に日本の軍事力を規制しています。これらに通底するのは有色(黄色)人種へのあからさまな警戒感なのです。


 何しろ日本でいえば江戸時代末期頃にアジア各国には欧米列強が次々に進出して植民地とするか、または各国と不平等条約を結び、いわばやりたい放題をして来たわけですが、日本に来てそれにブレーキがかかった。日本では江戸幕府は鎖国政策と言いながらも長崎の出島で対オランダ交易をしており、欧米の文明については予備知識があったので、そう易々とは欧米に飲み込まれはしなかった。

 しかしそれでも不平等条約は結ばされてしまった。いわゆる黒船4隻による「脅し外交」の前に幕府は苦渋の選択をせざるを得なかったが、これを不満とする国論と幕府に抑圧されてきた外様大名の藩士が中心となって倒幕運動にまで発展し、ついに江戸幕府は幕を下ろしたわけです。

 明治維新とは何も幕府対志士による単なる国内的な革命劇ではなく、いかに素早く国家を衣替えさせアジアに進出してくる欧米列強に対抗できるか――が極めて大きな運動だったのです。

 そして富国強兵を維新後の30年ほどで成し遂げ、不平等条約締結後約40年で治外法権の撤廃と関税自主権の獲得に至ったことは上で述べたとおりです。

 このことから鑑みるに、戦後70年、いかに日本が敗れたからといっていまだに「日米安全保障条約」「日米地位協定」を結んで戦勝国アメリカの言いなりになっているのは全くおかしなことです。明治維新の元勲たちはじめ、多くの明治の人々は泉下で泣いているに違いありません。

 今年を日米安全保障条約を基軸とする日米同盟の撤廃元年としたいのは私だけだろうか?

 

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台風16号の上陸

 台湾と西表島の間を通過してそのまま中国大陸へ上陸かと思われた台風16号は、速度を遅くしつつ急激に東へと舵を切り、東北東に丸二日かけて東シナ海を横断し、ついに19日の真夜中に鹿児島県の大隅半島南部に上陸した。

 ちょうど上陸したかと思われる時刻の午後11時半ころ、ブログを書いている最中に突然停電し、今日(21日)の午前11時にようやく通電した。その間ちょうど一日半(約36時間)、数年前に太陽光パネルを設置しオール電化になったことで困ったことが多々あった。

 一番困ったのが通電しないと水が流れないトイレだ。
 水道だけは出ていたので風呂にいっぱい溜めておき、使用する都度バケツに汲んで来て流したが、たった一日半だったのに結構厄介なことだった。

 炊事はガスボンベ仕様の卓上コンロ、風呂は一度は貯湯タンクにあった分で済ませたが、二日目は銭湯へ行った。鹿屋市全体でまだ数万戸が停電中というわけで、銭湯の込みようは半端ではなかった。「千客万来」とはまさにこのことかと思ったくらいだ。入る方からすれば「芋を洗う込みよう」だったが・・・。

 夜中に風速40メートルは吹いたようだが、被害は瓦が2枚落ちたのと庭木が根っこから傾いてしまったのが数本、それに10日ほど前にタネを播いて本葉が出かかった大根などが風雨で完全に横倒しになったくらいで軽微なものだった。

 自分は気づかなかったが12時半ころから1時間くらい風雨が止まったそうで、その時に台風の目に入ったと思われる。ということは台風の直撃にあったことになるが、台風の直撃は実に久しぶりである。

 記憶をたどると23年前、平成5(1993)年の9月初めにやって来た台風13号が当地での直撃台風で、この台風のすさまじさは今でも語り草になっている。
 
 何しろ上陸寸前の気圧が910ミリバール以下(当時はヘクトパスカルではなかった)で、その頃肝属郡田代町大原に住んでいたのだが、上陸して数時間後の午前中に最大の風雨に見舞われた。
 十分な戸締りをして家で息をひそめていたが、猛烈な風と共に玄関わきの雨戸が吹き飛び、慌てて家族4人で裏口から出て隣家にたどり着いてほっとしたのも束の間、今度はその隣家の玄関の横のガラス戸が割れて強風が吹き込み出した。
 こりゃいかん、と、外に出て避難所になっている小学校までまさしく這う這うの体で行き着いたのだが、その頃すでに多くの人が避難していた体育館の屋根がめくれ上がったそうで、皆急いで一階の長い廊下に移って来るところだった。

 午後も3時ころになると急激に風雨が衰えたので、廊下にひしめいていた人々は三々五々家路につき、我が家と数件の家族はそのまま小学校の廊下で一夜を明かしたのだった。家族一同ずぶぬれに近かったがまだ真夏の陽気であったため幸いにも風邪をひかずに済んだ。

 翌日帰ってびっくりしたのが納屋が全壊していたことである。また借家の屋根の瓦もだいぶ飛ばされていたので、手持ちのブルーシートに寅ロープを括り付けて屋根を覆って雨をしのいだ。瓦不足のためにどの家も2~3か月はブルーシートを乗せたままだった。ひそかに「難民キャンプ村」と名付けたものである。

 電気は一週間、電話は二週間は通じなかった。

 思えばあの23年前の台風こそ「スーパー台風」の走りだったろう。最大風速は役場の屋上に取り付けた風速計では最大で70mを超えていた(そこまでは測れたが、あとは針が吹っ切れていたそうだ)。

 地球温暖化はもうその頃から深刻化していたのだろう。時間雨量が100ミリを超えたのもやはりその頃からだった。省エネは待ったなしだ。

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アイガモの活躍

 我が家から1キロ半ほど行ったところの池園の田んぼはコメの普通作地帯だが、6月に植え付けられたイネがすくすく育ち、もう間もなく開花・受精が始まろうとしている。Cimg2081_1
 広い池園田んぼの一角では何年か前から「アイガモ農法」を実践している田がある。Cimg2079_1
 コンパネで作られたアイガモの小屋は畳半分ほどの面積。
 その前庭はちょうど畳一枚くらいで、全体が天敵除けのネットでがっちりと囲まれている。Cimg2074_1
 近くに寄って覗いたらすぐに「ガァ、ガァ」と大声をあげて小屋からぞろぞろと逃げ出した。Cimg2075_1
 よく見るとまだ羽が一人前ではない。背中から10センチ程度伸び始めたに過ぎないから、鶏でいえば大雛というところだ。Cimg2077_1
 そのまま脇目もふらずにイネの間の水の中に逃げていくのもいれば、立ち止まってこっちの様子を見守るのもいる。
 アイガモは田んぼの中の餌だけでは足りないから小屋のそばに人間が麦の圧片などの飼料を置いてやる必要があり、人間から餌をもらうことで次第に人馴れしてをしてくるのが常で、見守る時に一斉に首を伸ばしたり傾けたりするのは可愛いものだ。Cimg2080_1
 もう花を開きめしべを出しているのが見える。この状態だと9月末から10月初めころが刈り入れだろう。
 田植えしたころは梅雨の真っ最中で、今年は去年ほどではないが毎日のようによく雨が降ってやや日照不足が心配されたが、梅雨明けの7月18日以降は梅雨の悪天が嘘のようによく晴れて気温も上がり、成長にプラス材料が多かったから作柄はかなり良好と思われる。
 あとは台風が来るか来ないかにかかっている。
 大迷走台風10号はどうやら関東の南に引き返していくようなので心配ないが・・・。


 

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薩摩藩敷根火薬製造所跡

 幕末の一時期、霧島市敷根に薩摩藩が洋式の火薬製造所を設けていたというので、昨日(8月20日)仲間7人で探索に出かけた。
 9時に鹿屋市の北田無料駐車場に集合し、2台の車で敷根に向かう。
 敷根は旧国鉄大隅線の敷根駅があった町で、垂水(正確には垂水駅の次の海潟温泉駅)からの鉄道延伸で昭和47年に新たに敷設された海潟温泉駅~国分駅間(11駅=33.5キロ)の途中にある。
 せっかく敷根までその鉄路沿いの道を行くのだからと、途中にある「大隅麓駅」「大隅辺田駅」「大隅二川駅」「大隅境駅」「大廻駅」「大隅福山駅」のそれぞれの跡を見て回り、敷根の火薬製造所入口に着いたのは10時15分。Cimg2021
 (小さな橋の上から川の上流を望む。火薬製造所は右手の小山のような尾根のさらに奥にある。)亀割峠から敷根に下りすぐに右折をするとその道は旧鉄路の跡で、小さな川(高橋川)に架かる橋をUターンするように渡る。Cimg2003
 きれいに舗装された田んぼ道を約500メートルで「火薬製造所跡」と彫り込まれた花崗岩製の説明板が見える。Cimg2008
 昭和53年にここを調査した国分市教育委員会の手になるもので、一読してあらましが分かる。文久3年というから1863年に薩摩藩(当時の藩主は島津忠義)がここに洋式の火薬製造所を設けたそうだ。Cimg2013
 案内板からさらに50メートルも行くと駐車スペースがあり、そこからわずかに望まれた疎水の出口らしい滝があるところまで行ってみる。
 高さは3メートルほどで水が激しく落ちているが、これは水車の動力用の滝で、ここにかなり大きな水車が仕掛けられていたのだ。
 火薬の原料である「硫黄」と「木炭」それと「硝石」が石臼で挽かれたりつかれたりして粉砕されて混合されると火薬が出来上がる。Cimg2015
 滝の上部に上がってみて疎水の引き込み口は100メートルくらい上流にあるのが分かった。かなりの谷川で灰色の平らな石がゴロゴロしている。建物の基礎部分に最適な石だ。Cimg2020
 滝口の最初の水車を経た水はいくつかの用水路に分岐させられ、木炭小屋、硫黄小屋、硝石小屋に引き込まれてそれぞれの水車を回した。写真右手奥の方にそのような作事小屋が点々と並んでいたらしい。Cimg2025
 午後から「縄文の森」の会議室で行われた説明講演では、そのような作事小屋は明治10(1877)年に官軍によって破壊される直前には全部で22棟もあったという。
 ちなみに敷根と同時の文久3(1863)年に山川の成川(鳴河)にもその水力を利用した火薬製造所が設けられたが、山川のは4年後の慶応3(1867)年には廃止されている。おそらく山川のは人目に付きやすく、したがって幕府や敵の目に留まりやすいからだろう。その点、敷根の火薬製造所は錦江湾の最奥の山峡なので秘密の製造に適していた。
 薩摩藩で最初に洋式の火薬が作られたのは「滝ノ上火薬製造所」(1849年=藩主・島津斉興)で、これも湾奥である。疎水も稲荷川の最上流部から引かれていたからここも人目には付きにくい。
 講演の資料を見ると、火薬製造関係は斉興・忠義(孫)の時代が主で、カノン砲や砲台等の国産銑鉄による製造はその間に藩主となった斉彬の時代が主である。
 先見の明はひとり斉彬の身にあったのではなく、すでに斉興にも萌してはいたが、あらゆる点で幕府の要路と良い関係にあったのは斉彬の人徳だろう。

 さてこの人目に付きにくく秘密裏に火薬の製造ができた敷根火薬製造所だが、明治維新後は藩を離れて陸軍省や海軍省に移管され、その後民間の業者によった。しかし西南戦争の時に官軍(海軍)方の指揮官であった伊東祐麿少将によって反乱軍の手中に落ちることを恐れて破却されてしまった。
 伊東少将は薩摩人であったから、敷根の山中に火薬製造所があるのを熟知していたからできたことで、薩摩藩指折りの火薬製造所が、同じ薩摩出身の指揮官の手によって壊滅させられたのは皮肉な話だ。


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息を呑む朝焼け

 今朝5時半に愛犬ウメを散歩に連れ出したところ、倉庫が無くなって東がよく見渡せる庭の一角に来て息を呑んだ。
 何とも美しい朝焼けが水平線から立ち昇っていた。Cimg1819
 立ち昇っていた――という表現しかないが、二筋のオレンジ色の短冊状の光の集合体が水平線からニョキっと上空に向かっているのだ。Cimg1817
 東の空全体が茜色に染まるのはこれまでに何度も見てきたが、こんな形の朝焼け(御来光?)は初めてである。Cimg1816
 すぐそこで強烈な光源から光が放射され、手前に何か(例えば背の高いビルのようなもの)があれば影ができて光が分断され、このような二本の短冊状の光の束になる可能性はあるだろうが、無限に近い遠方からの太陽光だからそれは有り得ないはずだ。Cimg1824
 ウメの散歩を終えて帰ってくると、太陽が出ていた。やや黄色っぽい朝焼けだが、光の分断はない。
 いや、何とも不可解な朝焼けだったな。


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星塚敬愛園夏祭り2016

 星塚敬愛園の夏祭りが昨日(7月27日)の夜、開催された。Cimg1656 7時少し前の会場の様子。

 敬愛園公会堂前の広場には焼酎や生ビールの売店が並び、その奥の広場では敬愛園職員の催し物が最後の場面を迎えていた。Cimg1666 7時ちょうどに始まったプロ歌手による歌謡ショー。今回はこの瀬口侑希と新沼謙治だ。Cimg1667 持ち歌は舞台上で唄ったが、Cimg1661 そのあとに、NHKの歌謡番組で「さすらいの歌姫」として、あのきみまろやコロッケと組んで各地の家庭を訪問しては夫婦の思い出の曲を唄うというスタイルのコーナーで活躍していたころの、言わば「思い出のメロディー」を5曲ほど唄った。舞台を降りての大サービスに観客は大喜びだった。

 この人の声は伸びとつやがあって素晴らしいし、何を歌わせてもそつなくこなすのだが、何か一曲大ヒット曲があるか――というと想い浮かばない。

 プロデビューして17年目という。舞台に立った姿は見栄えがするのでこうして各地を歌って回っていれば、いずれはヒット曲に出会うのかもしれない。

 司会者との話では、神戸育ちで父親は大分県出身の船乗りだったとか。ただ、デビューの年にお父さんが他界したそうで、そのあたりはドラマチックだ。「父を慕って」というような曲想なら受けるだろう。Cimg1669 そこへ行くと次に登場したベテランの新沼謙治は、何しろ「嫁に来ないか」という大ヒット曲に恵まれている。

 だがその後の大きなヒットには恵まれず、嫁になった人がバドミントン女子シングルスの世界大会(イギリスのユーバー杯)で日本人初のチャンピオンになった湯木博江さんだったこともあってそっちのほうに話題が向けられることが多くなった。

 事実、夫婦そろってベテランズ大会などにはよく出ていたようである。しかし数年前に博江さんは癌で亡くなっている。Cimg1672 持ち歌の「左官屋こね太郎」という歌を唄いながら客席を回っているとき、曲が余りにもリズミカルなので近くで見ていたおばさんが踊り出した。これには驚いた。

 新沼謙治は岩手県の大船渡市出身で、栃木県宇都宮市の左官業に弟子入りしていたことがあり、その時に当地ののど自慢で優勝し、さらに勢い余ってスター誕生に出て見事に優勝。以後、歌手の仲間入りをするが、神奈川県の左官業組合のテーマソング「左官屋こね太郎」が持ち歌になったのはその縁だそうである。Cimg1675 一人当たりの持ち時間が長いためか、新沼謙治はギターを弾きながら唄った。曲目は古賀メロディーで、「影を慕いて」ともう一曲(曲名はど忘れした)唄ったが、有名歌手の生の弾き語りは始めてだったのでうれしかった。Cimg1680 9時少し前に歌謡ショーが終わり、すぐに花火が打ち上げられた。Cimg1722_2 公会堂の奥の広場から打ち上げられているようだ。Cimg1690 去年も感じたが、花火が年々派手になっていくような気がする。もちろん見る方は大歓迎だ。

 町の打ち上げ花火のように「〇〇会社の協賛です」が無い分、打ち上げの間隔が短く、15分ほどの時間でどれだけの花火が打ち上げられたのか見当もつかないが、見応えは充分であった。Cimg1732 帰ろうとしているところへ知人が車いすを押して通りかかった。車椅子のおばあさんは知人の伯母さんで、何と女優・榮倉奈々の祖母であるという。

 榮倉奈々は東京育ちだが、祖父母は肝付町内之浦の岸良の在である。

 彼女は歌手ではないが、何か歌でも披露できればこの夏祭りに呼ばれることがあるかもしれない。楽しみにしておこう。

















 













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梅雨明け(海の日)

 昼のニュースで、南九州など西日本各地で梅雨明け――と報道された。Cimg1512 東海地方まで明けたというから広範囲で同時だ。これは珍しい。

 南九州が例年より4日ほど遅かった以外、すべて3日くらい早いという。

 また降雨量は南九州ではおおむね例年より5割から8割増しだったそうで、去年、梅雨の期間中に2000ミリも降った鹿屋市(観測地点:吉ケ別府)は1700ミリであった。

 去年もだが、今年も大隅地域では豪雨による目立った災害は発生しなかったのは幸いであった。

 梅雨の明けた今日は「海の日」ということで、たぶん家族連れで賑わっているだろうと、浜田・高須の海水浴場を回ってみた。Cimg1515 浜田海水浴場の500メートルほど南の海岸。

 ここは個人所有のちょっとした港で、車で来ていた夫婦がこれから泳ぐのか、海パンになっていた。

 まだカラッとした青空ではなく、靄がかかったような空だが、入道雲らしいのが西の空に上がっているのがまぶしい。Cimg1521 浜田海水浴場はやはり家族連れが多く、小さな子供たちが目についた。Cimg1519 中学生らしい一群がこれから海に入るところらしい。Cimg1524 松の並木の間にテントが張られていたが、夕方までいるつもりなのだろう。(ひょっとしてキャンプか。ただし、キャンプ場は管理棟の反対側にある。)Cimg1525 高須海水浴場。

 浜田海水浴場から北へ約2キロ、高須学習センターのすぐ裏手に広がっている。

 ここは松の並木などはなく、テント状の人工的な日除けがあるだけだ。ただし向こうに見える岩礁は磯遊びの絶好のポイントだ。Cimg1529 高須よりさらに北西に行った「荒平海岸」。

 海岸道から陸繋でつながった天神島の北側の入江はいつも波穏やかで、しかも水質がかなり良い。

 ただここは指定された海水浴場ではないため、監視員などは置かれていない。Cimg1528 すべては自己責任で水遊びをして欲しいということである。

 もう20年前になるが、子ども育成会の3,40名でやってきたことがあったが、あの時と変わらないたたずまいが懐かしい。






















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